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マダムと女房(1931)

メディア映画
上映時間57分
製作国日本
初公開年月1931/08/01
ジャンルコメディ/音楽
あの頃映画 マダムと女房/春琴抄 お琴と佐助 [DVD]
価格:¥ 1,982
USED価格:¥ 1,837
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【クレジット】
監督:五所平之助
原作:北村小松
脚色:北村小松
撮影:水谷至広
星野斉
山田吉男
作詞:サトウ・ハチロー
作曲:高階哲夫
島田晴誉
助監督:富岡敦夫
蛭川伊勢夫
出演:渡辺篤劇作家・芝野新作
田中絹代その女房
市村美津子娘テル子
伊達里子隣のマダム
横尾泥海男画家
吉谷久雄新作の友人
月田一郎新作の友人
日守新一見知らぬ男
小林十九二音楽家
関時男音楽家
坂本武運転手
井上雪子隣の少女
帝国ジャズバンド
宮田ハーモニカバンド
【解説】
 北村小松の原作・脚本を五所平之助が監督したコメディで、日本初の本格的トーキー作品として知られる。トーキーを意識した、全編「音」が鳴りっぱなしの賑やかな作品。同時録音だったこともあり、撮影現場はありとあらゆる防音対策が取られたという。
 劇作家の芝野新作は、脚本を書くため静かな郊外の住宅地へ引っ越した。様々な邪魔が入り執筆が進まない上、隣の家から大音量のジャズが聞こえてきて仕事が手につかない。新作は隣家に怒鳴り込むが、その家のマダムにメロメロになってしまい、ジャズを口ずさみながら帰宅する始末。新作は順調に脚本を書き進めるのだが、妻は隣のマダムに嫉妬していた。
<allcinema>
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【ユーザーコメント】
投稿者:黒津 明二郎投稿日:2013-02-17 15:03:01
内容自体は特にどうということのない松竹蒲田調の小市民喜劇だが、本格的トーキー第一号として歴史的意義があろう一品。
実際には、1925年にトーキーが日本上陸してからフィルム式とレコード式問わず色んな試作映画が作られていたわけだが、本作が最初の‘金字塔‘とされている。日常のドラマ構成にして殊更に音楽を強調しなかったのは、地方館での無声興行も考慮してのことらしい。またプロデューサー城戸四郎のあくまでも映像主体でやっていくという方針にもよるようだ。
開発者の土橋武夫は、もともと大阪松竹座の楽士でかねてより鉱石ラジオが趣味だった。1929年に松竹座が洋画でトーキー興行を開始すると、その研究に励み、会社側でも一室をあてがって応援した。そうして愛用のバイクを手放してまで私財を注ぎ込んで完成したのが、フィルム録音方式の‘土橋フォン‘であった。
演技陣。渡辺のコミカル演技は健闘している。
投稿者:いまそのとき投稿日:2013-02-16 11:13:36
一時間足らず。トーキー第1作という気負いは、ほとんど感じられない。ファッとした軽さでいろんな音が楽しく響く。銭湯から着流しの女性。モダンなマダムに変身。スピード時代の音色も軽快だ。1931年。昭和6年。この時代って意外にもこんな庶民文化が香っていたんだ。日本髪の女房と郊外の暮らし。これがあの頃の田園調布ですかぁ。あなた私にも洋服を買ってね。もちろんあなたと一緒よ。会話も新鮮だ。変な男、日守新一も面白い。今見ても快作といえる。
投稿者:Katsumi_Egi投稿日:2010-07-03 16:26:14
【ネタバレ注意】

 これも今見ても傑作。教科書的知識の取得だけで見るべき映画では全くない。まずこんなトーキー最初期から音の使い方が実に洗練されていて吃驚した。本作のシノプスは「劇作家の渡辺篤が仕事中(執筆活動中)に周りの騒音とどう付き合うか」というまとめ方もできると思うが、猫の声、子供の泣き声、妻・田中絹代の怒鳴り声、隣家のジャズ演奏など画面内外に音が満ちており、特に画面外の音の機能のさせ方は実に成熟している。そしてラストのラストは渡辺が田中絹代に耳打ちし台詞を隠蔽してしまうという皮肉と洒落っ気。愛すべき稚気だ。
 そしてさらに感心したのが縦横無尽に画角を操る画面造型だ。もう冒頭から目を瞠ってしまう。ファーストカットはロングの田園風景とチンドン屋。かすかにチンドン屋の笛の音が聞こえる。次に画家の後ろ姿へ2カットのディゾルブでの寄りの繋ぎ(移動撮影)があり、画家の正面に切り返すとカメラは後退移動するのだ。格好いい!そしてこの後の画家のカットは望遠レンズじゃないか。或いは田中絹代が布団に寝ころがったまま渡辺に向って怒鳴るカットはアップで切り取られる。こゝなんかは見事に音の演出に呼応させた構図の選択だが、このアップカットは室内シーンだが望遠レンズのように見える。また、隣家にジャズ演奏の音がうるさいと文句を言いに行く前の渡辺と田中とのやりとりは、これも望遠レンズが使われているように見える。さらに云うと望遠と標準の2台のカメラで同時に撮影されたマルチ撮影演出に見える。本当だろうか?マルチ撮影に匹敵するアクション繋ぎをやってのけているのだろうか。いずれにしても私は本作の画面造型の洗練にも実に興奮させられたのだ。

 さて。先に書いた全編に亘る騒音・ノイズの演出と、ラストの耳打ちによる観客に対する音(台詞)の隠蔽について再び触れておきたい。五所平之助は後年の『煙突の見える場所』(1953年)でもシチュエーションは全く違うが、これらの音の演出をそっくり反復している。つまり『煙突の見える場所』も主人公−上原謙と田中絹代の周囲で発生する騒音の映画であり、ラストは上原から田中への耳打ちで終わる映画だ。エンディングの幸福感も近しいものがある。ただ、上原から田中への囁きは、観客にとってはその状況からある一つの提案であることが明白に理解できるように演出されているのだが、対して本作『マダムと女房』で渡辺から田中へ囁かれる台詞は一見いかようにも類推することができるものだ。1931年当時の観客は「何が囁かれたのか」の議論を楽しんだことだろう。だが『煙突の見える場所』も既に見てしまった観客である私は、本作のラストの渡辺の台詞も上原の台詞と一言一句同じ台詞であると確信する。時系列で云うならば、五所平之助は少し曖昧に受け取れた渡辺の耳打ち台詞を上原を使って種明かししたのだと思う。そう確信しながらエンディングの「私の青空」の幸せを味わった。ついでに云うとジョン・フォードの『静かなる男』(1952年)の大団円でジョン・ウェインからモーリン・オハラへ耳打ちされる台詞も同じものだと確信する。私は遅れてきた観客で、好き勝手に思い込んでいるだけかも知れないが、だからこそ感得できる幸福というものがある。この耳打ちの演出の連関は間違いなく映画の至福である。

#以下備忘
・タイトルバックのマーチは「双頭の鷲の旗のもとに」
・渡辺篤は『巴里の屋根の下』の音楽を口笛で吹きながら登場する。
・風呂屋から伊達里子が登場。この後シーンの車の男が坂本武か。
・薬の押し売りは日守新一。顔にあざのあるメイク。
・隣家の奥さんは伊達里子だった。ジャズ演奏仲間に井上雪子がいる。
・隣家の壁に『MadameX』Ruth Chattertonと読めるポスターが見える。
・隣家をあとにする際の音楽は「ブロードウェイ・メロディ」
・やきもちを焼く田中の台詞「近頃のエロでしょ。エロ100パーセントでしょ」

投稿者:はこまる投稿日:2010-01-16 01:30:50
(「双葉十三郎」のコメントより続く)

1・最初画家が現れる迄の、チンドン屋を使用しての田園風景描写の成功。田舎道を行くチンドン屋の音が田園を示すカメラに加わって近郊らしい気分を強調している。

2・『巴里の屋根の下』を口笛で吹かせながら、主人公の文士を画面に入り込ませた紹介法の成功。これは主人公の性格を説明すると共に、近郊気分を増々引き立てている。「屋根の下」を使ったことは又頗る微笑し得るではないか。

3・マダム登場の技巧。これは全巻中でも際立っている。舞台技巧の変形であるが誠にうまい。文士が女風呂の入り口から入って行き慌てて飛び出してくる。その後から「失礼じゃありませんか」という女の声。そしてマダムの媚かしい姿の登場。

4・女房の「あなァたァ」の台詞の効果。これは反復的用法により喜劇的効果を甚だしくあげているが、これは字幕では非常に目障りとなって使用できない手段であり、その限りでトーキー的効果独自の成功と言える。

5・一般に雑音に悩まされる文士の描写。此処は完全に従来の蒲田小唄ナンセンス映画のギャグの色彩に覆われており、映画としての親しみを増加せしめる。北村小松の取材に際しての頭脳のよさを発見するのはこの部分で甚だしい。是が非でも音を出してみたいトーキーで、この映画は音が多ければ多いだけ面白くなるシチュエーションを持っているのである。
この部分では、音響は全く自由に使用されている。画面外の音声の効果は充分あがっている。殊に隣のマダムの指揮するバンドの場面を一箇も挿入せず後の効果を計ったのは仲々侮り難い。劇の構成上当然なことと言えば言えるが、ここいらにも米国音画で勉強した効果はあらわれていると見られよう。

以上の諸場面に見る如くこの映画は甚だトーキー的である。此処に示された演出方法は正しい。音に克服され奴隷となった米国初期音画に対し、この映画は音を支配し利用している。僕はかくて態度に関する限り、意企に関する限り、製作者達を賞賛する。
しかし、僕は今一歩根本的な問題に立ち入らなければならぬ。それは邦画発声化にあたって本源の必要である録音器機のことである。この映画の興味の一つである土橋式松竹フォンなるものは所詮国産品でしかなかった。我々は以上にあげた様な場面が録音不備のために充分効果をあげていないのを知っている。画家と文士の口論、押し売りの口上、隣の少女(井上)の言葉、の各々一部もしくは大部は理解できぬものであった。その他全編に亘ってWE機等の外国品の名を出すのさえ無意味な、問題にならない程、辿々しく心細く、逆説的に、声や音楽がそれらしく明瞭に聞かれる事実自体が夢中になる程嬉しくなるという程度である。けれど国産品という限りに於いては、鳥渡意外な程見事に発声される。(WE式再生音装置の偉力?)それは假名屋小梅当時のミナトーキーと比較にならぬ位、否、「もの言わぬ花」すら瞠目たらしめる前進である。あらゆる音があらゆる声が、明瞭に区別して聞かれるいう横のニュアンスの収録可能な点だけでも・・・・・。
アメリカトーキーにあっては音が出るのは我々が会話すると同じく自然的な現象になってしまっている。そこではもう演出の問題のみがある。ところが、日本トーキーは、音が出ることに脅威を感じている。一人前に語り得るようになろうと苦心している。そして演出の問題はと云うと、これは一歩お先に前進している。それを「マダムと女房」が証明している。つまり、「マダムと女房」に就いて結論すれば、

1・日本トーキーは前進した。機械技術の上からも演出技術の上からも。

2・この両技術の釣り合いがとれていない。意余って力足らず。演出技術の優秀に比して、機械技術が遅れている。

我々はかくして安心して日本のトーキー時代を迎え得る。若し此の「マダムと女房」の態度が維持されたなら。何故と言うに、我々は総ての教育を終わっている。あとは只機械だけだ。
だが一方、特に松竹に対して戦慄すべき想像がある。それはあの呪わしいインチキ小唄が物凄い跋扈を始めるに違いないことだ。それは既にこの「マダムと女房」に芽を出しているのである!(キネマ旬報1931年(昭和6年)8月下旬号より採録)

双葉十三郎氏のご冥福をお祈りいたします。合掌。
【ソフト】
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