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ラストタンゴ・イン・パリ(1972)

LAST TANGO IN PARIS
ULTIMO TANGO A PARIGI

メディア映画
上映時間129分
製作国フランス/イタリア
公開情報劇場公開(UA)
初公開年月1973/06/23
リバイバル→ヘラルド-2000.1
ジャンルエロティック
《愛》のきびしさ哀しさを 衝撃の表現で貫いた 今世紀最高の問題作
ラストタンゴ・イン・パリ オリジナル無修正版 [Blu-ray]
参考価格:¥ 2,571
価格:¥ 1,850
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【解説】
 アパートの一室で出会った中年の男と若い女。男は突然の衝動にかられ、女を凌辱する。そしてその行為は、女の心に深い印象を残す……。現実から離れた世界で、情欲に身をまかせる男女を描いた問題作。
 ある日、パリのアパートの空室で出会った中年の男ポールと若い女ジャンヌ。この時ポールは突然の衝動に駆られ、ジャンヌを凌辱する。そして2人は行為が終わったあと、何事もなかったように別れていった。ジャンヌには婚約者がいたが、この行為は彼女の心に深い印象を残し、またしてもその部屋を訪れることに。すると、そこにはやはりポールも姿を現わした。こうして互いに名も過去も明かさず、セックスだけの関係に浸っていく2人だが…。
<allcinema>
評価
【ユーザー評価】
投票数合計平均点
16120 7.50
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【ユーザーコメント】
投稿者:sachi823投稿日:2014-08-02 10:59:49
マーロン・ブランドの「上手いだろう」といいたげな
アクターズスタジオの授業風景のような演技に
つき合わされ、中年の哀愁を感じる作品です。
当時ブランドがよがった顔を見て思わず泣けてきたと言う
評論家がいましたが、内容はつまらないです。
ストラーロの撮影は相変わらず
非常に美しく重厚な場面をつくっていて、
そのせいで余計に人間の浅ましさを感じてしまいます。
公開当時は性描写が評判になっていたように思いますが、
今では何が問題なのかという理由もわからず
時代の流れを感じます。
投稿者:こじか投稿日:2010-04-14 01:18:12
皆さまのレビュー読んでても伝わってくるわ…。
わたしも純粋無垢な学生の頃に見たのに
これはほんとキツかった印象しかない…。
ぃゃ〜長かったわ。
投稿者:tea room投稿日:2010-01-29 09:30:07
【ネタバレ注意】

マーロン・ブランド扮する中年男が後半突如現実的になり自分のことを語り始めるのが唐突。まあそうしないと話がラストの死につながらないのではあるが(苦笑)。

マリア・シュナイダーのブサイクで品のない顔と2時間以上付き合わされるのはさながら拷問(笑)。

彼女の若い恋人役ジャン=ピエール・レオが映画づくりをしている青年という設定も鬱陶しい。彼の映画づくりが主役二人のストーリーにどうつながるのか必然性が感じられない。監督のベルトルッチ自身はヌーヴェルバーグへの揶揄であるという見方には反対しているが、一方で「レオはゴダールやトリフォーであり、10年前の私である」とも言っている。いずれにしてもうまく料理されていない感じがする。

ベルトルッチはまた「この映画は一つのカップルについての一つの関係についての映画」であり、「単に動物性の中に彼らの孤独感を溶かしこんでしまうことは不可能だということを説明したかった」と述べているようだが、その為にアナル・セックスやら何やらを詰め込む必然性があるのかどうかもわからない(^^;)。(日本では初公開当時そちらのポルノ的な話題が先行してした)。そのセックス描写については、行為は大胆でもその描写は時に不自然でもあり、やや鼻白む(具体的に書くのは控える)。

絵として時に美しい場面もあったが、総じて退屈、つまらなかった。1970年代と今(2010年)との時代の差もありましょうか...

投稿者:民謡から演歌まで投稿日:2009-07-25 12:27:04
【ネタバレ注意】

勿論、素晴らしい構図〜映像…迷路の様な部屋…鏡への映り込み…これは熟慮に熟慮を重ねたのでしょう(でなくば天才)。〜そしてギリギリな感情を曝け出すリアルな演技。

シュナイダーにとっての非現実空間はアトラクションかもだが、ブランドにとっては現実を夢にしてしまえる虚構空間ですね。(虚構が?)完成したら観ない〜次を考えるなどと言うレオは部屋を拒絶する現実世界の住人…但し彼女とじゃれ合い、映画を制作する彼はブランドの知る「現実」は知らないかも。

つまりがドラマ自体はブランドの感情と行動を描くドラマ。
そこに若い肢体を無造作に晒すシュナイダーが絡んでラストは…彼女の「現実」も若干の影を帯びる事になったのかも?はっきり言って解らない事(=様々な人間の感情)は多い…が、結果、その行動によって周りの人間の感情も(たとえ一瞬であっても)変わる事もあり、自分の耐えられない何かが緩和される事もある。

そんな現実逃避の空間として存在する暖かい明かりに包まれる部屋でゲームの様に繰り広げられる虚構生活。
彼女にとってそれは自分が必要なときに一時的に存在してくれれば良い空間なのだが、彼にとっては命続く限り永遠に必要な空間…な筈なのだが、何処かへ消えてしまい……ところが、また彼は突然に現れる。そして自分の現実を虚構現実だった筈の生活にすり替えようとする〜その計画の失敗は彼にとっては避け難い運命として受け容れざるを得ないものであったかもです。ラストカットは自分の行為(後ろめたい部分がある)を如何に正当化して罪に問われないように証言するかに必死な彼女の現実。

タイトルはラストタンゴ〜だが、タンゴらしいタンゴが全編流れてる訳じゃない。初めに2人であのアパートを出てきた後の曲は格好良い…そしてコンペティションでしょうか。あのホールでもブランドが言っていたが、現在じゃない「ある時代」を表現する為のメタファーってか、何らかの象徴なのではないかと思うのだが…

ガトーバルビエリは余り聴いた事がない(アルゼンチンのジャズサックス奏者)。いや昔、好きだって人がいたのだが、結局は聴かなかった…http://www.allmusic.com/cg/amg.dll?p=amg&sql=11:wiftxqt5ld6e~T2

投稿者:バフ投稿日:2006-01-08 03:12:28
とくにオープニングシーンから前半の映像はとても美しい。 
絵画的な光と影を織り込んだ映像には、大いに期待してしまった。
しかし後半になって 自殺した妻との経過をクダクダと説明するが、わかりにくくて、ついていけなくなったし 興味も半減。
解りにくい映画が芸術的だと錯覚しているのか? 
映画はあくまで大衆芸術であってほしい。 
投稿者:さち投稿日:2005-12-06 04:04:53
よかった
投稿者:bond投稿日:2005-10-10 18:24:12
だらだらと意味ない場面が続き退屈だった。映画というより、前衛劇か。
投稿者:irony投稿日:2005-10-09 17:59:52
 タイトルから想像すると何やら綺麗なイメージが想像されるが、主人公マ−ロンが冒頭から「チキショウ−」と雄叫びをあげるシーンから始まるこの映画、彼の怒りは何処から来るものだとのっけから疑問を感じる展開だ。
 彼の怒りは自殺した妻が決して彼を寄せつけなかった事から来るものだと理解しました。なればこそ彼は自分自身を語らず相手にもそれを望む事を強要するが、自分自身を語り始めた事で滑稽な自分自身を曝け出し、ある意味人間臭い怪演を披露した。自身を語り始めた事で結果的に妻と同じ死を迎える事になるとは、皮肉な結末である。映画原理主義なるこむずかしい事はわかりませんが、素直な感想です。猥褻な描写や二人の突拍子な出会いや男の都合の良い展開も映画の主題と秤にかけたらそれほど気にならなかったです。
投稿者:ぶくろう投稿日:2005-04-07 21:37:05
初めて買ったビデオです。
投稿者:堕落者投稿日:2005-02-12 01:26:54
本作『ラストタンゴ・イン・パリ』は無論映画だか,「ラストタンゴ・イン・パリ」の劇中で繰り広げられる(特に二人の男女が密会する部屋に於いて!)様々な行為・・・そしてジャン=ピエール・レオ演じるトムが映画を製作しているという極めて直裁的な事柄は言うまでもなく.この作品それ自体がそもそも「映画」の隠喩と言える事は分かり易い程明白と言えるだろう。劇中,至る所がその様な示唆に満ちている。この事を踏まえて観ればこの作品が極めて,映画に対して,そしてベルトルッチ本人(=シネフィル)自らに対して重要な自己批評(アイロニー)に富んでいる事が理解出来る。


特に見事なのは終盤,主人公二人が入ったダンスホールで大勢のコンテストの出場者によって繰り広げられるタンゴ(途中から主人公達も乱入?する)を俯瞰ショットとローアングルを実に効果的に使い,的確かつ端正に演出した場面の心地良い陶酔感であり,(聊かトーンダウンする感はあるものの)その流れを維持したままで次の二人の追跡劇に雪崩れ込み,最後のブランドの死で完結するまでの怒涛如く圧倒的なベルトルッチの演出力とストラーロの撮影である。正に映画の醍醐味であろう。全体的に映像や技巧に耽溺せずにここぞという場面でその種の手法を使っている事に好感が持てる。


では何故,ブランドは死ななければならなかったのだろうか?簡単だ。
それは彼が(密会)映画の終わりを次の映画(密会)の始まりと勘違いしていた事であり,映画が終わった事を認識せずに或いは意図的に現実に背を向け,グズグスと映画(幻想)に未練を残した事にある。ブランドが言ってる事は完全に間違っている。そう,映画の終わりは決して映画の始まりなんかじゃない。映画の終わりは現実の始まりなのだ。
本来それを認識せずして映画を作る事は許されないし,そんな輩の作る映画は誰も(シネフィル以外は)観たくもない。だが,それが出来ない人々が居る。それがシネフィルという存在である。笑
彼らには映画を巡る諸問題を自分の生きる現実とは比較・対比せず,映画を巡る問題そのものを生きる事が映画=(現実との相克で生み出される物)だと勘違いしている人が居る。時に映画は反映としての現実である事はあるし,反映としての現実でない事もある。しかし言うまでもなく,現実の反映ではない映画はこの世に存在しない。
こう考えればブランドが絶対に死ななければならなかった理由は最早明白だろう。何故なら彼は明確に映画原理主義者だからだ。

ベルトルッチによる本作『ラストタンゴ・イン・パリ』は男女の刹那的な物語を描きつつ,映画自体そのものを巡る根源的な問題に深く切り込んでいった,映画原理主義者=シネフィルとの決別として実に見事な作品である。
投稿者:gaspardetlisa投稿日:2005-01-03 02:51:17
5年程前、リバイバル上映の際に見て以来、久し振りにDVDで見ました。それで思ったのですが、やはり映画は劇場で見た方が良いですね。
というのも、この映画の魅力は、あのアパルトマンの一室の黄昏のような明るさにある気がしてならなかったからです。または、マーロン・ブランドの妻の不倫相手と語らうシーンでの、これもまた黄昏のような光線。セックスにしろ、ニヒリスティックな独白にしろ、あの光が無かったら、どれ程味気なく、夢幻的な物語から程遠いものになっていたろうかと思います。
劇場のスクリーンいっぱいに、あの不思議に無時間的でもある光が映っていたのを思い出すと、自宅でのDVD鑑賞には無理があるのだと思ってしまいました。

それにしてもこの映画、タイトルからフランシス・ベーコンの自画像が出て来る辺り、かなり洒落てますね。ジャン=ピエール・レオーの「走りっぷり」も。
投稿者:karr投稿日:2004-12-04 05:37:04
どぎつい性的表現はあくまでも手段の一つにすぎない。
人は、どういう状況で人に(異性に)魅かれるのか。
他人と一つの空間を共有し、且つ幸福感を得る為には、相手に何を求め、己の何を相手に与えようとするのか。
お互いを知ろうとする欲求は愛を深める為に必要か否か?
確かに、最初は新鮮でラブラブだったのが、お互いを知るにつれ冷めてゆく。ならば最初から最後まで知らないでいたらずっとラブラブでいられるのか?また、そんな関係を維持する事は可能だろうか?
初っ端から私はベルトルッチの手中にはまり込んでしまい、この独特な人間関係の行く末に興味を持たざるを得なかった。案の定、その興味を持続させる為の話の展開も秀逸。徐々に登場人物の心の中をさらけ出し変容させてゆく。また、笑いの要素も忘れていないのには驚かされた。これまた愉快な場面が散りばめられている。
さて、マーロンブランドである。人生を達観しているようでいて、且つもてあそばれているような複雑な人物を、実に小気味良く演じ切っている。彼にこびりついたイメージを払拭させるのは難しいが、それでもこれだけの印象を残してくれる彼の演技力には脱帽せざるを得ない。
様々な性表現も行為も自然で、作り物的ではない。
極端な話、ビトーコルレオーネよりこの役の方が、彼の地に近いんじゃないかと感じさせられたぐらいである。それほど生々しい。
人間の様々な特徴を描き出した、実に内容の濃い映画。
投稿者:黒美君彦投稿日:2003-08-21 15:59:49
イタリアで公開時、「猥褻だ」として僅か4日間で上映禁止になったとか。30年以上経つと、いったいこの映画の何処が「猥褻」なのだ??と思ってしまう。それだけ、30年前は性愛に対してまだまだ保守的・禁欲的(建前は)な時代・社会だったということ。そんな時代にベルトルッチが描こうとしたのは結局、究極の愛の形の追求だった。言葉も意識も少しずつずれあう男と女が、拒絶したコミュニケーションの中で、性愛だけを唯一の言葉となし得るのか。男と女の過去と現在が交錯する中、記憶のかかわらない肉体のつながりだけがもたらしたのは、何だったのか…。不毛な愛のコミュニケーション。記憶の欠落は結局「擦れ違う」ことにしかつながらない。必然的に愛の形はいびつなものにしかなり得なかった、といえる。性愛が安い消費対象の快楽としてしか捉えられない現代にあって、この作品は最早古典的とさえ言えるかもしれない。しかし、例えそうであっても、作品の示した命題が解決したことにはならない、というのもまた自明の理だろう。
投稿者:パタママ投稿日:2002-01-18 12:42:25
【ネタバレ注意】

前に見た時の印象と随分違った。危ういバランスの上に破綻なく仕上がってる事に、改めてベルトルッチさんの力量とマーロン・ブランドの信じられない怪演ぶりに感服した。
最初に見た時の拒絶感から内容を余り覚えてなかった。今回もマリア・シュナイダ−が画面に登場した瞬間「あれ?こりゃアカンやん」と。タヌキ顔に30年の年月を感じる衣装。こんなミスキャストするの?と。しかし、中盤以降ブランドの自殺したらしい奥さんが死化粧で花一杯のベッドに横たわっている姿で登場するや、納得した。安宿の女主人とは思えぬほどの美貌。これはブランドと死んだ奥さんの話なんだと。既に破綻していたと思われるブランドの人生。囚われの愛。愛に方向があるとしたら地獄の底までの負の愛。彼は妻を死ぬほど愛していたのだ。
シュナイダ−の代わりはいるが、ブランドと妻の代わりはいない。ブランドは妻を失った強烈な喪失感ゆえに肉欲に走ったと思う。走ったと言うより必然かもしれません。ブランドはただただ驚嘆するばかりの演技です。演技か地か?う〜〜ん・・・よくぞあそこまで。いいんでしょうか・・
愛とは何か、SEXとは何か・・・性の衝動は生きる源であるけど愛はそうではないかもしれない。
名前も全て捨てて一個の裸で向き合う関わり方は、最もプライベートであり刺激的であるが一瞬のものであり冷たく利己的で封印するのが妥当です。
ブランドが洋服も変え、タヌキちゃんにべらべらと名を語り過去を語り始めた瞬間からラストまで観客の予想通り転がり落ちていきます。「愛してる」「一緒に暮らそう」みんな嘘です。どうしようもない絶望・・・ラストのブランドの撃たれた後のバルコニーでのアップは印象的です。こんな大スターがこんな表情ができるのが不思議だ。
この映画で私は絶望を受け取りながらもなお底の底にベルトルッチの人肌恋しさ暖かさを感じるのです。
しかし自分の感じ方がこんなに変わるのも不思議だ・・自分もあてにならないものですね。

投稿者:ゆきぼー投稿日:2001-10-31 18:01:28
大分前に観た時は、何かで凄く誉められている記事を読んで
凄く期待していたので きれいだった としか思わなかった。
又観たい。
投稿者:うらら投稿日:2001-10-21 13:55:32
うーん。いま見ると古臭い。公開当時は、こういうシチュエーションって、衝撃的だったんだろうけど、いま見ると使い古され過ぎてお話にもならない。
(しかも、いまの日本といったら、フツーの高校生がお小遣い稼ぎにオジサンに売春する世の中だったりする)
女性の私から観ると、この映画って、世の腹が出て髪も薄くなった中年男の抱く理想図を映画にしたという感じ。昨今の渡辺淳一の小説みたい。精力は衰えたけど、若造には負けないはずの経験で若い女をメロメロにしたいってね。
終盤、いきなり滑稽な展開になるところが、まだ救い。結局、中年男の滑稽な理想なのよ。
それと、メロドラマ風の音楽が安っぽいな。
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