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 「エプロン」さんのコメント一覧 登録数(6件)rss
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[001]お茶漬の味
 どうでもいいことエプロン2008-08-09
 【ネタバレ注意】
蓮實重彦は、『監督 小津安二郎』で、次のように書く。 「長距離列車の向かい合わせのシートに身を落ちつけるのは、『東京物語』の最後で尾道を離れる原節子や、『彼岸花』の・・・
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蓮實重彦は、『監督 小津安二郎』で、次のように書く。 「長距離列車の向かい合わせのシートに身を落ちつけるのは、『東京物語』の最後で尾道を離れる原節子や、『彼岸花』の最後で広島へと向かう佐分利信のように、同伴者のいない旅人に限られている。数すくない例外は、『東京暮色』の中村伸朗と山田五十鈴であろうが、この場合は外部は夜だし、しかも停車中のことなので、運動感覚はゼロに等しい。『浮草』のラストの京と雁治朗の場合もほぼ同様である」。 蓮實は、『晩春』の横須賀線の車内で、初め向いあうかたちになっていた笠智衆と原節子による人物の位置関係が、いくつかのショットの後に、唐突に並置関係に変わっている点を指摘し、「これこそ小津にふさわしい配置だ」と言う。また、この傾向は、後期の小津作品に顕著だとも、蓮實は言うが、初期の小津の映画、例えば、『秋日和』の屋上のシーンが直接反映している、『青春の夢いまいづこ』の最後の場面のように、初め向かい合わせに座っていた、新婚旅行に出かける斎藤達雄と田中絹代が、屋上から手を振る江川宇礼雄達に応えて、立ち上がり、並んで手を振る位置関係に変わってしまうことなどにも見られることだ。 しかし、『お茶漬の味』で出てくる二度の列車のシーンにこれらのことは、あてはまらない。なぜなら、一度目は、淡島千景、上原葉子(旧姓 小桜葉子)、小暮實千代、津島恵子が、修善寺に出かけるシーンで、明るい時分に、走行している列車に乗っているが、向いあわせのシートに身を落ち着けたままである。二度目は、「同伴者のいない旅人」として小暮實千代が列車で須磨に向かっているが、彼女は、向いあわせのシートには座っていない。 この映画に出てくる人物は、誰も驚かない。実際、「鈍感さん」と呼ばれる佐分利信が、夜中に自分の書斎に、津島恵子が突然立っていても、驚く様子がないのは、不思議なことではないかもしれない。しかし、小暮實千代も、その家の女中も、飛行機で、海外赴任した佐分利信が、出発した日に、家に戻ってきたというのに、「旦那様がお帰りになりました」、「お帰りなさい」と平然として言うだけであり、佐分利信もそのことに不満な様子はない。この映画では、『麦秋』と同じように、茶の間のシーンを中心とした奇妙な移動撮影が見られるが、『お茶漬の味』で、移動撮影が入るシーンは、最終的に必ず佐分利信に関連づけられている。佐分利信が、海外赴任から帰ってきて、再び家に戻る直前にも、移動撮影が入るので、ああ、佐分利信は戻ってくるのだな、と我々も驚くことはない。
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[002]晩春
 最良のハリウッド映画エプロン2008-01-13
 
『晩春』は、『秋日和』のように小津の主題が凶暴なまでに直接的に関係しあ う希有な作品とはいえません。私にとって、この映画は、さりげなく、そして 無駄なく語る、最良のハ・・・
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『晩春』は、『秋日和』のように小津の主題が凶暴なまでに直接的に関係しあ う希有な作品とはいえません。私にとって、この映画は、さりげなく、そして 無駄なく語る、最良のハリウッド映画を見る感覚に近いです。例えば、「杜 若」が謡われる能の場面。最小限の「視線送り」によって、最大のサスペンス を盛り上げてしまうこの場面は、表現はかなり違うものの、ヒッチコックの 『暗殺者の家』(英国時代)を想い出させます。  一番好きなのは、子供達の草野球からはじまり、子供部屋には、エナメルを 塗ったバットが置かれ、壁には誰でしょう、野球選手の写真が飾られ、日本で は戦後に公開されたらしい『打撃王』の話が、杉村春子の口から出てくるシー ンです。この場面の、子供と原節子、杉村春子のアクションの呼吸は、本当に 素晴らしく、見る者を幸福にさせます。原節子の紐をくるくる巻き付ける、特 徴的な仕草もあります。  尚、某書には、『晩春』には、結婚式の記念撮影のシーンがないとあります が、「さりげなく」、高橋豊子が結婚式の記念写真を取り出し、提示する場面 があります。このシーン以降、あの能の場面が続き、娘と父親は別々に歩き始 め、月丘夢路の家で、「柱時計のショット」を介して、原節子が一人で涙を ポツリと浮かべる、あの胸がしめつけられるような、一瞬のショットに続く のですから、他作品の記念撮影シーン同様、機能していると思います。  蛇足ですが、某書の価値は、小津作品に無数にあるはずの、微妙で潜在的 な情報を、自分で一つ一つ触れ、探り当てる努力 --それは新しい価値をつく ることと同じですが--を中途半端に放棄してしまい、「小津的な」非常に貧 しく、杜撰にまとめられた情報にたいして、自分なりの評価も検証もなく 抽象的でお決まりの思考を口にしてしまう態度を批判することにあります。
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[003]戸田家の兄妹
 結婚を迫られる男エプロン2008-01-06
 【ネタバレ注意】
 笠智衆は、後期小津作品にあっては、『父ありき』以来、『お早う』や『麦 秋』といった作品を除けば『晩春』で代表されるように、一貫して、妻を亡く した男やもめの役をやっ・・・
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 笠智衆は、後期小津作品にあっては、『父ありき』以来、『お早う』や『麦 秋』といった作品を除けば『晩春』で代表されるように、一貫して、妻を亡く した男やもめの役をやっています。『東京物語』でもこの役柄に忠実に最後に 東山千栄子と死に別れることになります。  一方、佐分利信は、『父ありき』、『お茶漬けの味』、『彼岸花』、『秋日 和』といった作品を思い出してみるまでもなく、小津作品では、結婚して妻が いることがはっきりとわかる存在です(ただし『父ありき』では、同窓会の シーンで間接的にそうとわかるだけです)。このことは、『秋日和』で例の 三人組を構成する北竜二が、男やもめであることや、中村伸朗は『東京暮色』 では山田五十鈴とどうみても正式に結婚している風ではないことから比較して も徹底しています。  この『戸田家の兄妹』の佐分利信は独身ですが、物語の最後に、妹の高峰三 枝子から結婚を迫られ、相手がいきなり現れるあたりを見れば、『東京物語』 と深い関係があることがわかります。映画の最後で、一人で海辺に出かけるあ たりも徹底しています。  尚、映画の中で、佐分利信は、遅刻の常習犯として描かれ、父の一周忌に も、遅れてやってくるところは、再び『秋日和』の冒頭でも使われています。 小津映画では、戦争が終わって海外から戻ってくる人物はいますが、佐分利信 が『お茶漬けの味』とこの作品で海外に出かける準備をしているのを見るの は、小津作品ではきわめて異例です。『その夜の妻』と同じく、佐分利信が 喪服の高峰三枝子の頭に帽子をかぶせるシーンもあります。  まったくの余談ですが、佐分利信ついでに言わせてもらえば、私が小津作品 のガイドブックとして重宝している蓮實重彦の『監督 小津安二郎』の増補決 定版の「憤ること」の章には、タオルやてぬぐいを「男性にふさわしい」小道 具として腰などにたらす戦後作品の例として、「ゴルフに興じる佐分利信まで が、腰のあたりにそれをたらしている」と引かれていますが、その作品は、本 書にあるような『お茶漬けの味』ではありません。『お茶漬けの味』でもタオ ルを腰にぶらさげている例は出てきますが「佐分利信がゴルフに興じる」こと は、『お茶漬けの味』における佐分利信の「プリミティブ」で「インティメッ ト」な嗜好から考えてもありえません。また類似作品ともいえる『淑女は何を 忘れたか』では「雨が降る」ことで斎藤達雄がゴルフにいかなかった事実が妻 の栗島すみ子に露見することも指摘しておくべきかもしれません。戦前の『戸 田家の兄妹』は当然除くとして、「興じる」という表現から、あの、店でゴル フボールを買うシーンを思い出し、『秋日和』に誘導されそうですが、正しく は、『彼岸花』です。そこで佐分利信はゴルフに「興じて」いる訳ではなく、 むしろ娘の有馬稲子の結婚を控えて、ゴルフに身が入らなかったように描かれ ています。尚、『秋日和』のゴルフ場でのユーモラスなシーンとあわせて考え ると、どうやら小津作品でのゴルフ場は、男同士で結婚の相談をする場所のよ うです。『彼岸花』のゴルフ場のシーンは、娘の結婚を渋る夫である佐分利信 に対して、妻の田中絹代が夫の上着を下に投げ、夫に対して憤りをぶつける、 あの感動的なシーンに続きます。  佐分利信のことばかりになってしまいましたが、『戸田家の兄妹』は戦前 の小津映画であり、小津のスタイルを戦前と戦後に安易に分けることが間違い であることを納得させる不思議な作品です。
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[004]秋日和
 「ねえ、そろそろよ」エプロン2008-01-05
 【ネタバレ注意】
ごく平凡なエピソードが描かれている小津作品は、それを見るものに深い 驚きをあたえる。 なぜなら、その作品は、それ自体は凡庸である出来事同士が、時空を 越えて共鳴し合う・・・
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ごく平凡なエピソードが描かれている小津作品は、それを見るものに深い 驚きをあたえる。 なぜなら、その作品は、それ自体は凡庸である出来事同士が、時空を 越えて共鳴し合う場であるからだ。 母の原節子と結婚することを決めた娘の司葉子が、旅先でゆで小豆を食べる 『秋日和』のシーンで、二人が窓から山の見える景色を一緒に見つめる 充実したひとときに、画面の左から、右へすーっと一艘の船が湖の上を 滑走していく。 この船の滑走は、前のシーンで司葉子がビルの屋上から見た列車の走行と 反映しあっていると思う。 問題の屋上シーンとは次のようなものだ。 丸の内のオフィスで、司葉子が腕時計を覗いて、隣で並んで仕事をしている 岡田茉莉子に「ねえ、そろそろよ」とささやくように声をかける。 同僚だった女友達が新婚旅行にでかける列車を待合わせるために、 二人は、秋日和の屋上にあがり、やがて走ってきた列車に手を振るが、 女友達が約束していたように列車の窓から花束を振ってくれないので、 「女の友情ってこんなものかしら」と寂しそうに職場に戻る。 列車の走行が女友達との友情の終わりを導くように、「ゆで小豆」の シーンで、船の滑走が母娘の別れを導くと考えることが不思議でないのは、 『秋日和』では、司葉子をとりまく周辺の事象が、不自然なまでに シンクロナイズしているせいだ。 実際、屋上のシーンでは、司葉子と岡田茉莉子の動作が、美しくシンクロ ナイズしている。 屋上の手前には、二つ向かいあわせに空のベンチが据えられている。 空には二つ、赤いアドバルーンが浮かんでいる。 列車と都電が並行して走っていく。 さらに、上記を含め全部で三つある屋上のシーンを比較すると、外界を シンクロナイズさせているのは、司葉子が不思議な力を及ぼしているからと 考えたくなる。 昼休みでたくさんの人がいる二番目の屋上のシーンでは、司葉子は独りで 立っている。 そこでは、相変わらず、列車と都電の走行が示され、アドバルーンも 二つあがっている。 手前のベンチは、今度は空ではないが、左に女二人、右に女二人が 座っている。 おまけに、このシーンの直後に司葉子と佐田啓二がラーメンを食べる アクションは、第一のシーンの司葉子と岡田茉莉子のアクションと 同じようにシンクロナイズしている。 司葉子がいない最後の屋上のシーンでは、渡辺文雄と並んで岡田茉莉子が 立っている。 このとき、列車の走行は示されないし、アドバルーンも一つしか浮かんで いない。 ベンチにも、左に男が二人、右に男が一人である。 バトミントンのシャトルを渡辺文雄が投げ返し、次にボールを岡田茉莉子が 投げ返すという交互の動作は、最初のシーンの同時の動作とあきらかに 違っている。 以上三つのシーンの比較から、シンクロナイゼーションを引き起こして いるのは、司葉子と結論せざるを得ない。 なお、『麦秋』には、『秋日和』の「屋上」と「ゆで小豆」のシーンの 関係と同じような画面構成がある。 まず、戦争に行ってそのまま帰ってこない息子の話題に菅井一郎と 東山千栄子が触れるとき、画面に鯉のぼりが挿入される。 この場面は、「屋上」のシーンに対応する。 次に、パンのようなものを二人が一緒に食べながら、「今が一番いいとき かもしれないよ」と、その後の家族の別離を菅井一郎が予告するとき、 空に風船が飛ぶ画面が挿入される。 この場面は、「ゆで小豆」のシーンに対応する。 以上は、充実した別離の前のひとときを示すために、外界の事象までが 参加してしまう小津の演出例を示したに過ぎないが、このように、 ごく日常的事象が描かれているときでも、事象同士が共鳴することにより、 その画面を見るものに、深い感動を小津作品はあたえることができる。
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[005]大人の見る絵本 生れてはみたけれど
 わからないことエプロン2008-01-05
 
小津のローアングルが可能にすることの一つとして、特に後期の小津作品で誰 もが覚えているように、卓袱台の下の空間を通して、向こう側が見えるという ことがあります。卓袱台・・・
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小津のローアングルが可能にすることの一つとして、特に後期の小津作品で誰 もが覚えているように、卓袱台の下の空間を通して、向こう側が見えるという ことがあります。卓袱台の下の空間を通して、出演者には見えないが、観客に は見えるということが可能になります。そういったカメラアングルにとどまら ず、卓袱台の下の空間は『麦秋』のケーキのエピソードを思い出すまでもな く、小津作品にとっては、特別な秘密の空間を作っています。  『生まれてはみたけれど』も最後にさしかかるころ、子供達と父親の斎藤達 雄がおにぎりを庭で並んで食べる名高いシーンがありますが、そのシーンのす ぐ後に、卓袱台に座っているエプロンをした吉川満子が、にこにこと笑い、朝 ご飯の盛りつけを初めると、伏せてあったお茶碗の中から卵が出てくる細やか な演出があります。わからないのは、その直後、後期の小津のような撮り方で はありませんが、吉川満子が、卓袱台の下でエプロンのポケットの中からなに か取り出し、カードのようにシャッフルします。あれ一体なにをしているので しょうか。
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[006]彼岸花
 田中絹代と有馬稲子エプロン2008-01-05
 
 小津の『非常線の女』と『東京暮色』は公開が24年も隔たった作品ですが 『非常線の女』の田中絹代と『東京暮色』の有馬稲子は、ともに、作品の中 で「ズベ公」と呼ばれる役柄・・・
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 小津の『非常線の女』と『東京暮色』は公開が24年も隔たった作品ですが 『非常線の女』の田中絹代と『東京暮色』の有馬稲子は、ともに、作品の中 で「ズベ公」と呼ばれる役柄を演じています。それだけではなく、両作品は 小津には珍しい冬の映画で、暗い画調をもった作品です。『東京暮色』では、 有馬稲子が頭からかけていたマフラーを脱ぎ捨て、実の母である山田五十鈴 と対峙し、憤りと哀しみをあらわにするシーンがあります。一方、サイレン ト映画である『非常線の女』の田中絹代も、コートを脱ぎとばし、マフラー を振りはらって、水久保澄子に心移りした岡譲治に対して、憤りと哀しみを あらわすシーンがあります。  田中絹代は横から全身を捉えたショット、有馬稲子の場合は、正面から捉 えたバストショットという違いはあるものの、小津作品でも珍しいといえる 暗さを強調した二つの作品で、女性らしい憤りの身振りを共有していたこの 二人が、母と娘として初のカラー作品である『彼岸花』で晴れがましく演じ ているのを見るのは、映画の奇跡だとすら思います。  『彼岸花』を有馬稲子が演ずる娘の結婚に対する、父親の佐分利信の視点 から見ることは、『晩春』や、『秋刀魚の味』といった他の作品同様、もち ろん可能ですが、佐分利信の理不尽さに対して憤る母親と娘の視点から見る ほうが、この作品ははるかに面白いと思います。特に娘の代弁者たる母親、 田中絹代は、小津の作品ではいつも目にする夫に尽くす従順な妻を演じてい たのに、帰宅した夫の上着を抱えあげ片付ける動作の途中で、急に上着を畳 の上に投げ出し、まるで『東京暮色』の有馬稲子がのりうつったかのように、 バストショットで夫の佐分利信に憤りをぶつけます。その表情は田中絹代の 普段の穏やかに微笑んだ顔と比較して非常に印象的です。彼女は、小津映画 にあっては『落第はしたけれど』などの初期の作品でベーカリーの娘なども 演じています。「非常線の女」と「ベーカリーの娘」が共存しているのが、 田中絹代の魅力ですね。
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