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 「カロンタンのエサ係」さんのコメント一覧 登録数(22件)rss
 コメント題投稿者投稿日
[001]題名のない子守唄
 “映画”「グローバリズム」の問題カロンタンのエサ係 (Mail)2007-11-08
 
道中給油がたたり、7分ほど遅れて入場。最初は遅れて入ったからわからないのかなと思いましたが、すぐにこれは最初からみてもわからない話なのだと理解しました。プロット自体・・・
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道中給油がたたり、7分ほど遅れて入場。最初は遅れて入ったからわからないのかなと思いましたが、すぐにこれは最初からみてもわからない話なのだと理解しました。プロット自体がミステリーとして提示される作品は、欧州の国家間格差、犯罪組織、母親の愛情など多くの問題を絡めながら展開します。 個人的には、あまりイタリアらしくない作家だと思っているトルナトーレ。それはこの国の作家らしい気ままさがなく、オーソドックスな、ハリウッドの映画職人的な器用さが特徴だからと思うからで、『海の上のピアニスト』などはまったくのアメリカ映画でしたが、それはいわば「グローバルで現代的なイタリアの映画作家」ということかも知れません。その点でいえば本作は、より完成に近づいたと思わせるもの。ミステリーとして、愛憎劇として、社会派作として完璧なのです。 しかし、これも個人的な印象をいえば、こういった意味でのグローバルな映画づくりにはやや食傷気味。プロットはひねりにひねったようで意外にありふれていて、全体の印象を曖昧にしかしない印象でした。 同じような若手グローバル職人的な映画人ではスティーヴン・ダルドリーなどを思い出しますが、やはり野心作だった『めぐりあう時間たち』がオーソドックスな中にも驚きの連続だったのに較べて、そういうものは残念ながら見つからず。けれどもそれは監督自身の問題なのではなく、“グローバルな映画”全体の問題なのでしょう。 職人的な映画という観点では、演技陣、キャスティング、演出、編集などいずれも高水準なのはいうまでもありません。 11月1日 伊勢崎MOVIX
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[002]麦の穂をゆらす風
 しようがないことへの憤りと慈しみ、希望カロンタンのエサ係 (Mail)2007-04-28
 
もちろん本作の白眉が、うねり続ける物語であり、政治・思想・歴史にあることは承知しているが、ここでもいつもそうしているように、「映画を映画としてみる」ことを主眼を置い・・・
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もちろん本作の白眉が、うねり続ける物語であり、政治・思想・歴史にあることは承知しているが、ここでもいつもそうしているように、「映画を映画としてみる」ことを主眼を置いて書きたい。 ケン・ローチは現在、私にとってもっとも気になる映画人の一人である。何本かみた作品でその魅力は何かと考えると、「社会派」と形容される多くの作家と違って思想的には実に中立で、哀しい存在でしかない登場人物の誰もを温かい視線で見守りながら、職人的な映画づくりで実に“社会的”な問題を叩きつけることでみる者の世界に対する愛を再構築させる、そういう映画体験こそその真髄なのだという、ひとまずの結論に達する。たとえば、娘の洗礼の衣装代を稼ぐため愚かな罪に手を染めていく『レイニング・ストーン』、だめな母親の奇妙な愛を描くことで「親権」について考えさせられる『レディバード・レディバード』。 演出的にはいつも、独特のタイム感にうならされる。例をあげれば、前向きに今後の方針を話し合っていたはずの集会が、いつしかとんでもない事態に発展する『大地と自由』、思ってもみない事件から主人公の哀れな姿が見える『マイ・ネーム・イズ・ジョー』といったところで、個人的にはこのタイム感はまったく作風の違った小津のそれを思い起こすのだ。 そんなケン・ローチが描くアイルランド独立運動は、中心人物たちの政治思想と身近な人たちへの思いが複雑な物語の糸を構成し、その美しさ、愚かさをこの上ない切実さをもってみる者に味わわせる。その切実さは、兄弟、幼なじみ、恋人、友人の親という、たとえば『日本の無思想』で加藤典洋が「エコノス」と呼んだ感情的な愛と、国家、社会主義への思想的なようでも実はエモーショナルな愛の間で引き裂かれる主人公たちの、悲しみとそして愚かさへの共感と驚きなのだ。だからみる者は、兄弟のいずれをとがめることはできないし、ダミアンの恋人がこぶしを振り上げるのをわがことのように感じられる。 つまり本作は、「しようがないことへの憤りと慈しみ、そしてそこからしか出発し得ない、状況をよくしようとするための問題提起」という、ケン・ローチが一貫して描いてきた作品の一にほかならない。キリアン・マーフィはじめ俳優陣はいずれもすばらしいが、ローチ作品ではあまりきっちりしてない印象の作風に関わらず役者はどうしても駒という感じが強く、またそれは悪いことではないだろう。緑の、そして荒れた大地、石づくりの民家、ツイードのジャケット、パブやホッケーといったアイルランド文化もまた重要なキャストだ。 ただ、本作でパルム・ドールを受賞というのは、『戦場のピアニスト』のポランスキー、アカデミー『ディパーテッド』のスコセッシと同じく、自身のキャリアとしてはどうか。テーマがテーマだけにしかたないとはいえ、この作品はローチらしいユーモアがなく、これだけで彼の作品が語られるのはもったいない。 個人的には初めてのケン・ローチなら、『レイニング・ストーン』や『マイ・ネーム・イズ・ジョー』をおすすめします。 4月27日 シネマテークたかさき
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[003]武士の一分(いちぶん)
 個人的な感想・映画の不思議カロンタンのエサ係 (Mail)2007-04-28
 【ネタバレ注意】
……最初に断っておきますと、このレビューはまったく個人的な山田洋次監督作品論に始まっていますので、あまり他の人の参考にはならないと思いますのでご容赦のほどを…… そうい・・・
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……最初に断っておきますと、このレビューはまったく個人的な山田洋次監督作品論に始まっていますので、あまり他の人の参考にはならないと思いますのでご容赦のほどを…… そういう映画ファンが少なくないように、申し訳ないけれどこれまで山田洋次監督作品をそんなにおもしろいと思ったことはなかった。そんな人々の多くがそうであるように私が映画をみるのは、何らかの発見で自分の映画観、ひいては世界観を揺さぶってほしいからであり、何かに安心したいからではない。そんな種類の映画ファンにとって山田作はただ退屈なだけで、夜9時からのテレビで放送されているそのことだけが何かであるような、たとえていえば中島みゆき『蕎麦屋』の中の「大相撲中継」のような“風景”、そんな映画でしかなかった。 『寅さん』にしても『幸福の黄色いハンカチ』にしても『たそがれ清兵衛』にしても、「下町情緒」とか「ひとを想う心」とか「家族と仕事」とかの、「定型」に寄りかかり過ぎている。そう思っていたのだ。 そんなわけだから稀代の人気タレント、木村拓哉を得て話題だったこの作品に期待することは多くなかった。それなのに、み終わって感想をきかれると誰もに、「いや、おもしろかった、よかったよ」と語っていた自分がいる。これはいったいどうしたことか。 何か新しい面があるのだろうか。 あえて探せすなら、黒澤明ばりの大げさな雨や風の演出、十分とはいえないまでもイーストウッド『許されざる者』を思わせる報復劇のプロットも悪くない。 しかしそれは山田作として、今までみたことがなかっただけのこと。主演キムタクはテレビのCMでみている彼がちょんまげと無精ひげで出ていただけのことだし、全然知らなかった壇れいも笹野高史もこの上ない演技を見せているが、それは彼らの素材を引き出したに過ぎないだろう。 そうしてみると、本作はこれまでとまったく変わらない山田作品に思える。では、なぜこの作品にこれほどまでにひかれたのか。 思いつくのは、映画観賞者としての自分自身の小ささ。映画は何も特別なことをしなければならないということはなく、おもしろければそれはそれでいいのだ。そういうことを忘れて、映画についてあれこれ考えていた自分のおろかさに気づく。映画は不思議なものであり、そのおもしろさはわかりようもないものなのだ。 それでいながら、三部作が終わった山田作を楽しみにするということは今後もないだろうし、山田作にない“発見”をこそ探して私は映画の前に座るだろう。それがまた“映画の不思議”なのである。 最後に繰り返すが、10年前から時代劇を演じていたような佇まいの壇れい、作中人物にしか思えない笹野高史はすばらしい好演。 1月1日 伊勢崎MOVIX
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[004]硫黄島からの手紙
 突撃、黙示録、TRL、Uボート、ダンケルクカロンタンのエサ係 (Mail)2007-01-03
 【ネタバレ注意】
そう多く戦争映画をみてきたわけではないが、個人的には戦争の「恐怖」ならキューブリック『突撃』、「狂気」ならコッポラ『地獄の黙示録』、「無常」ならマリック『シン・レッ・・・
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そう多く戦争映画をみてきたわけではないが、個人的には戦争の「恐怖」ならキューブリック『突撃』、「狂気」ならコッポラ『地獄の黙示録』、「無常」ならマリック『シン・レッド・ライン』、「緊張」ならペーターゼン『Uボート』、「不条理」ならヴェルヌイユ『ダンケルク』が印象に残っている。しかしイーストウッドが満を持して放った日本軍からみた太平洋戦争映画は、そのいずれの点においてもこれら先行作に負けていない。 例えば映画において恐怖は、どんな風に喚起されるのだろうか。多くの日本人が西洋恐怖映画より邦画の方に恐ろしさを感じるとすれば、それは実は文化や言語に関係があるのではないか。だとすれば、本作のあの洞窟内のシーンは、軍内部の規律のために処刑される『突撃』より恐ろしいだろう。 なるほど『地獄の黙示録』は、戦争という異常事態で西洋的な神を持つ人間が陥るだろう狂気をこの上なく見事に表現している。しかし本作での一部上官たちの狂気は、「神国」という幻想よりより日本世間的な「面子」に立っているものではないか。岸田秀氏が「対人恐怖症」とした日本人のメンタリティには、本作の狂気の方がより身近に感じられるはずだ。 過激な戦闘シーンに美しい自然や故国の幸福な場面を隣接させた『シン・レッド・ライン』は、戦争のばからしさを感じさせるのにある意味最も有効な手法を使っていた。しかし本作の手紙や千人針という小道具はそれが愛する人の手によるものだけに痛切で、しかも同じ文化を持つ日本人にはこれほど訴えかけるものはない。 確かに『Uボート』のリアルな海底シーンは、「手に汗握る」ということにかけては映画史上有数のものだった。だがイーストウッドによるストレートでメリハリのきいたな人物描写で作中人物は観客に近い存在になっているだけに、その戦闘シーンは自分のことのように苦しく逃げ出したい様相を現出させている。 防戦の手段をほとんど持たず、相手の攻撃にさらされたままの『ダンケルク』は、どうしようもない戦争の「他者性」を極端なかたちで描いていた。しかし2部作の第1弾として米軍側からの『父親たちの星条旗』をみた観客は、あの恐ろしい米兵たちがそれぞれに故郷を持ちジャズシンガーの美しい歌声に涙を流す「人間」であることを知っている。その「神の視点」は、両軍の様子を並列に語るのでなく一方を語った後でもう一方を語るという画期的な手法でさらに際立ったものになった。 これらのことからしても、本作は史上に残る戦争映画といえる。文化が違うという日本人以外の観客とってのハンディも、捕虜になった米兵の手紙のエピソードが語るようにその価値観は普遍的なだけに問題にはならないだろう。 といってこれはただ私の個人的な「映画」観に基づく判断で本作の重要さを損なうものではないのだが、本作が「戦争映画」として先にあげた5作より忘れられないものになるかといえばそうも言い切れないでいる。すべてにおいてこれ以上なくまっとなイーストウッド作には、「映画的」な驚きが少ない。たとえば冒頭以降はほとんど戦闘シーンがない『突撃』、作品内のみならず製作者側が狂気に陥った『地獄の黙示録』、荒くれた戦闘シーンに唐突に絶世の美女が出現する『ダンケルク』のような、「映画」という形式の「謎」について考えさせる「驚き」こそが私が映画に求めているものだからだ。 とはいえ本作は映画史上にも、戦争映画史上にも、映画人イーストウッド史上にも、日本の歴史認識史上にも重要な作品だろう。そういったまったくぶれのないプロフェッショナルな完成度の高さこそが、映画人イーストウッドの魅力なのだ。 たとえば西郷・二宮和也が妻・裕木奈江と卓袱台をはさむシーン。いつものアメリカを舞台にしたイーストウッド作でテーブルをはさんだ会話とまったく同じように絶妙のタイミングでカットがつながれてた後で、西郷が妻の横にそっと座る。渡辺謙・栗林中将や伊原剛志・西中佐は、外国人ということもあってかこれまでのイーストウッド作ではなかったほど典型的に完璧で高潔な軍人として描かれた。中村獅童・伊藤中尉は、例えば『許されざる者』のジーン・ハックマンとか『ミリオンダラー・ベイビー』の非道家族のように観客の感情を逆撫でする。この思い切りステレオタイプな人物造形があるからこそ、観客にとってドラマは切実さをもって立ち上がる。出演陣はイーストウッドのかっちりした演出のもと自信たっぷりに演じていてすばらしい。 74歳にしてとんでもない地点にたどり着いたイーストウッド。それでも個人的に今後もっとみたい彼の作品は、やはり『ホワイトハンター ブラックハート』、『ブロンコ・ビリー』のような珠玉の映画なのだけれど。 ※本レビューは1月4日に一部修正しました
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[005]トランスアメリカ
 「新しいテーマは古いスタイル」でカロンタンのエサ係 (Mail)2006-12-17
 【ネタバレ注意】
「ロードムービー」とはすごい発明だと思う。 性同一障害、親子関係、少数民族、ワーキングプアなど実に多様な、しかも今日的なテーマを詰め込みながら、それを難なくまとめて・・・
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「ロードムービー」とはすごい発明だと思う。 性同一障害、親子関係、少数民族、ワーキングプアなど実に多様な、しかも今日的なテーマを詰め込みながら、それを難なくまとめてしまえたのは、ロードムービーというすばらしい“道路”があってこそ。もちろんそれをかたちにした監督・脚本の新鋭、ダンカン・タッカーの手腕も大きいだろう。「新しい酒は新しい袋」にというが、映画のような表現では案外、「新しいテーマは古いスタイル」にが正しいのかもしれない。と思って公式サイトをみると監督自身、「古風な映画」と発言していた。 確かに「女性になりたい男」にしか見えないフェリシティ・ハフマンは好演。そしてそれ以上に、「リバー・フェニックスの再来」だというケヴィン・ゼガーズという若手がすばらしい。このところの日本では元気のいい10代少女に押されて映画のテーマになりにくいが、現実世界でも10代後半少年というのも他者性において際立つ存在だとよく思う。そのざらざら、ぎざぎざとした感触をうまく描いた作品は、トリュフォーなどフランス・ヌーヴェルヴァーグ勢などを除きそう多くはないが、本作のゼガーズはその数少ない例の一つといえる。脚本が先にあったかキャストが先かはわからないが、あの年代の少年特有の倦怠や幼児性との二面性が見事に描かれていた。 ストーリーはその息子ゼガーズが、彼にとってまったくの他者である少数民族のオヤジやいかにも南部的な奥様である祖母、性的に解放されたみなさんとの出会いを通して他者を受け入れ、社会性を身につけることを学んでいく。そしてそんな息子を受け入れることを通して主人公たる父は、自分を開きつつ完成させていくという構造をとる。これもロードムービーの傑作といえる『気狂いピエロ』で、やはり何かの引用かベルモンド、フェルディナンは「旅は若さをつくる」というが、「旅は大人もつくる」のだ。 それにしても、大陸を疾走するおんぼろステーションワゴンのかっこいいこと。これがもしヤッピーたちの乗る最新の欧州車なら、この作品の魅力は半減していたろう。こうした作品にこんな古めの小道具が必要になってしまうということは、『パリ・テキサス』でヴェンダースが「最後のアメリカ映画」を撮ろうとしたというのも本当なのかも知れない。 なお、今年みてよかった映画は『ぼくを葬る(おくる)』『ブロークバック・マウンテン』など少数派セクシュアリティがテーマの作品が多い。社会との軋轢があるから実に映画向きの素材だとは思うが、それを『ブロークバック』のように切なさと美しさでなく力強さで描いた点に作家のメッセージがあるのだろう。テーマに関わらず、みた後の印象は実にさわやか。
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[006]父親たちの星条旗
 第一部だけでも戦争映画の新たな傑作カロンタンのエサ係 (Mail)2006-12-09
 【ネタバレ注意】
『硫黄島』をみた後ではきっと印象が変わってしまうから今日のうちに。この第一部だけでも十分な傑作だと思う。 まず監督イーストウッドの、76歳にして新たなジャンルに挑戦し・・・
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『硫黄島』をみた後ではきっと印象が変わってしまうから今日のうちに。この第一部だけでも十分な傑作だと思う。 まず監督イーストウッドの、76歳にして新たなジャンルに挑戦し、しかも相性のよくないCG、記憶の中では一度もやったことのないバラバラの時間軸といった冒険を余計なこだわりなく導入した素晴らしいアティテュードに敬意を表したい。きっと方法より、描きたいことの方が先に出る人なのだろう。何よりも映画を知り尽くした職人であり、どんなにしても娯楽性が失われないところがすごい。 たとえばCGでいえば、スピルバーグ色が強い戦闘シーンより、物語的にも大きな意味を持つスタジアムのシーンだ。あの観客と花火に、縦方向のカメラの移動を使って実に効果的な映像にすることに成功している。 そして、さっき立ち読みで確かめようと市内の24時間書店に行っても見つからなかった原作ではおそらくそうではなく、脚本P・ハギスの手によると思われる自在の時間軸。この映画ならではの手法を物語がわかりにくくなるとする向きもあるだろうが、それより登場人物たちの心情を表すのにあげていた効果を重くみたい。このカットバックがなければ、イギーのエピソードは伝えられないだろう。映画に必要以上の説明はいらないのだ。ハギス脚本も、個人的にはいまいちだった『ミリオン』より『クラッシュ』より数段よかった。 そして、印象的な二つのシーン。硫黄島に向かう船でラジオに聴き入るところと、涙を誘う浜辺の海水浴シーン。たとえば、ドクが遅れてゆっくりとズボンを脱ぐシーンを後ろから撮るような、当たり前過ぎてしかもこれ以上には考えらず揺るぎない演出は、イーストウッドの真骨頂といえ、しかもこのシーンのような印象はかつて彼の監督作で味わったことがない。つまりは76歳にして彼の映画力は進化しているのだ。 難点をあげれば、確かに3人以外のエピソードはわかりにくかった。かといって、これらを切って捨てるのがよかったとは思えないのだが。監督の話ばかりになったが、アダム・ビーチはじめ俳優陣もすばらしい。 本作のエピソードが、『硫黄島』でどのように展開するのかも楽しみだ。それにしても、『ピアノ・ブルース』のような珠玉の作品をつくったすぐ後にこういった作品ができるのだからおそれいる。そういえば終映後モノクロのドリームワークスは、淀川氏が『タイタニック』の時に強調していた追悼の意なのか。 戦争映画の新たな傑作の誕生を賞賛しよう。けれどもこの後もイーストウッドで好きな作品といわれれば、『ホワイトハンター ブラックハート』や『ブロンコ・ビリー』と応えてしまうんだろうな。そしてそれはイーストウッドの世界の、とめどもない広さを物語っている。
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[007]ヒストリー・オブ・バイオレンス
 現実感から遠いところでしか描き得ないものカロンタンのエサ係 (Mail)2006-11-30
 【ネタバレ注意】
ほとんど作品をみたことがなくても知っている、多くの映画人に影響を与えた、ドサッ、ドサッと倒れ、目いっぱいに鮮血が吹き出る人。幸運にもリアルライフでそうやって人が殺さ・・・
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ほとんど作品をみたことがなくても知っている、多くの映画人に影響を与えた、ドサッ、ドサッと倒れ、目いっぱいに鮮血が吹き出る人。幸運にもリアルライフでそうやって人が殺されて倒れる場面に出くわしたことはないが、やっぱりあの倒れ方は現実的ではないだろう。そしてあの倒れ方は、作品がリアリティよりむしろ寓話として、しかも現実を映す寓話として成り立っていることの宣言ではないかと思われる。 冒頭の殺戮シーンは見るからに異常としても、店主妻のチアガールコスプレ、息子のさえない学校生活、母子が行くへんてこなショッピングモールといった日常のシーンが、何とも現実味を欠いているところがすごい。映画は、例えばケン・ローチのようなリアリティ重視の社会派でも作家のスタイルから離れることはできないが、それにしてもこの現実感のねじれ方は見事だ。それがミュージカル映画のように、リアリティを飛び越えることなく離れているのがおもしろい。途中、妻に銃を用意しろというあたりの暴走感を経て、店主の正体が明かされていく過程にはあっけにとられた。特に妻に性衝動をぶつけるあの階段シーンは、「暴力の来歴」が濃縮されているようで見応えがある。 それは現実感から少しだけずれた土台を並べた上に広がっていた、やはり現実感のない穏やかさを、主人公の店主自らが崩そうとする、現実的な衝動という風に思えた。しかも、それが奇妙に現実感から遠い映像で描かれるから不気味さは増す。現実感から遠いところでしか描き得ないものが、粗っぽい丁寧さで描かれていて絶妙だ。 それだけに、敵のアジトに行ってからのアクションシーンはつまらなかった。
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[008]ブラック・ダリア
 たまたまみたメタリカのようなカロンタンのエサ係 (Mail)2006-11-05
 【ネタバレ注意】
そんなに多くみているわけでもないブライアン・デ・パルマについては、特に思い入れがない代わりに別に嫌いなわけでもなく、『ブラック・ダリア』は知らなかったJ・エルロイは・・・
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そんなに多くみているわけでもないブライアン・デ・パルマについては、特に思い入れがない代わりに別に嫌いなわけでもなく、『ブラック・ダリア』は知らなかったJ・エルロイは馳星周氏絶賛の『ホワイト・ジャズ』を読み、ツイストが過ぎて途中からもう何も信じられない状態に入り辟易とした記憶があり、ただスカーレット・ヨハンソンは、若くてまだ硬い感じだった『モンタナの風に吹かれて』や『ゴースト・ワールド』、それから見事に輪郭がぼやけてとろけそうになった『ロスト・イン・トランスレーション』とみて、まあ米国若手女優では注目していて、劇場でみるだけの価値ありと車で出かけた。 何だかんだいって、観客を飽きさせないのはさすが。ただその印象はどちらのファンも納得しないだろうが、たとえばそう、名前を挙げればメタリカとかオフスプリングとか、そんなに興味がなくてラジオできいたことくらいはあってもCDは持っていないバンドのライブをたまたまテレビか何かでみて、ああ、うまいしエンターテインメントとしてはよくできてるし、好きな人は好きなんだろうなといった感じなのだ個人的には。ハッタリ満点で適度におどろおどろしく、高度にパターンナイズされている点が似ている。 『アンタッチャブル』を思い出すフィルム・ノワール風味や得意の階段を使った演出、そのシーンでは初期にヒッチコックの後継者といわれた影の使い方も見事だった。いつもながらのよくできたセット、ボクシングシーンのリングや観客席、女優の配置やお手本通りの撮影、もったいつけたカット割りなどなど。それらはメタリカやオフスプリングの完璧なリフや構成、文句のつけようもないステージングと同じように、熱狂的なファンや反対に苦笑の対象にしたがる映画ファンにとっては、これ以上ないデ・パルマ作を堪能できるのだろう。 しかしそのどちらでもない観客にとっては、やはりいつものデ・パルマ作。入場料を損したと思わない代わりに、次のデ・パルマが楽しみとも思わない。変ないい方だが、もはや安心してみられる“コージー”サスペンスホラー。たとえばほぼ同時代が舞台の『ロード・トゥ・パーディション』みたいに、文句のいいようがあればその方がいいようにも思えるが。 といってきっと次のデ・パルマ作も、時間があればみにいってしまうのだろうな。おそらくキャストとか題材とか、こっちの気を引くのを見つけてくるに違いないから。 唯一の謎は、ブラック・ダリアの映像を粒子の粗くないモノクロで撮ったのはなぜかということ。あの片目だけの涙のシーンは、確かにオールドフィルムタッチでは表せなかったろうが。 ヨハンヨンはよかった。大根っぽい演出もデ・パルマの得意とするところだと思う。
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[009]ホテル・ルワンダ
 「本当であること」が重要な映画カロンタンのエサ係 (Mail)2006-11-02
 
高校生の頃、当時よくそうしていたように中学の同級生と麻雀をしていて、たまたまその晩のゴールデン洋画劇場で放送される『ローマの休日』の話になった。この名作をみたことが・・・
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高校生の頃、当時よくそうしていたように中学の同級生と麻雀をしていて、たまたまその晩のゴールデン洋画劇場で放送される『ローマの休日』の話になった。この名作をみたことがあったメンバーが私とJ君がその素晴らしさを語っていた時にT君が放った次の質問は当時「映画」というものを信じようとしていた私に、何だか異国の言葉のように響いたのを不思議と忘れない。 「それ、本当にあった話なん?」。もちろん私はこの、今は2人の10代のよき父親で当時から実に性格のいい友人に対し、何ておろかなことをいうやつだという思いを抱いた。当時もそして今も私にとって、映画の世界が「本当」かどうかはたいして重要でない。それが現実であってもなくても、映画が産み出す「ほんとう」の方がずっと尊いものだと思い続けている。 だがこの作品をみる時、「本当」ということはこれまでにない意味を持つ。この作品にとっては、「本当」であることが何より重要なのだ。 今は「ルワンダ内戦」と呼ばれる1994年という最近のこの事実について、果たしてどれだけのことを知っていただろう。ツチ族とフツ族、宗主国の差別的統治、サッカーW杯休戦があったことなどの断片的な知識があり、すでに衛星放送を見ていたことだしいくらかのニュース映像も目にしていたかも知れない。 しかしそうした「事実」は、あの国の人々が味わっただろう恐怖をまったく説明していなかったか、または私の方がそれを受け入れる態勢を欠いていた。この映画で観客が追体験する恐怖は、それほど強烈なものである。 それまで身近にいて何のこだわりもなく関係していた人々が、突如として変貌していく。この有様はドン・シーゲル『ボディ・スナッチャー』などの恐怖SFの世界で描かれてきたものであり、それが現実のある程度平和だった街で起こるとは到底思えない。怖いのはまた、それがだんだんと起こっていくことである。 例えば『ユナイテッド93』で乗客や航空関係者が徐々に真相を知っていくことでこの上なく恐怖が増幅されていくのと同じように、信じるに足ると思っていた人物が彼らにもどうしようもない道筋で自分の反対側に変わっていくのがリアルだ。さらにいえばドン・チードル演じる主人公が、大きなヒューマニズムは崩さないながらも、自分の家族とそれ以外のボランティアなどと大きな線を引いているのも苦しいほどリアルといえる。 さらには同じ虐殺を扱った『キリングフィールド』にあった感動的といってもいい“奇蹟”のカタルシスはここにはなく、ただこうした状況では、こうやって命を信じて、どんなことでもやって手を尽くして、それでよほど運がよかった人だけ生き残れるんだなという、当たり前の事実を知るだけなのだ。『キリングフィールド』では、あの絶望的な状況の中、ああこういう奇蹟もあるんだという希望も感じられたのに。 屋上のシーン、浴室のシーンなどまるで娯楽作品のようなハラハラドキドキがあり、感動作品のように涙を誘う再会があり、悲しい別れもある。けれどそれは、あの9・11のWTCをみて「まるで映画だ」と多くの人が思ったように、こうした場面では決してめずらしくはない現実なのに映画のようなシーンで、それを再現したのがこの作品なのだろう。 とくに湾岸戦争の頃から発達してきた中途半端にリアルに感じられるニュース映像は、おそらくこうした出来事を知らせるのに向いていない。そこにあるのは衝撃や刺激だけで、人の心に迫る物語が欠けているからだ。 本作をみて「つくりもの」などという者がいたら言語道断だろう。こんな「つくりもの」をつくらせた「ほんもの」の方が貴重なのであり、そんな「つくりもの」が語るものの方が「本当」に見える「ニュース」よりよほど「ほんもの」なのだ。 T君の発言から25年。私は初めて「本当であること」が重要な映画に出会ったように思う。
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[010]ニュー・ワールド
 画面に残されたうねるようなワイルドネスカロンタンのエサ係 (Mail)2006-10-19
 
寡作で知られるテレンス・マリック監督作品といえば、ストリートはまったく関係なくはさみ込まれる静かな自然描写。その特異な編集感覚は、戦争映画『シン・レッド・ライン』で・・・
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寡作で知られるテレンス・マリック監督作品といえば、ストリートはまったく関係なくはさみ込まれる静かな自然描写。その特異な編集感覚は、戦争映画『シン・レッド・ライン』で血なまぐさい戦いのすぐそばにそういう生き物たちの営みが行われているという当たり前の事実を知らせてくれて新鮮だった。他の作品も、シシー・スペイセクのくるくるスクリーンを動き回るアーパー美発散、ちょっと困った邦題の『地獄の逃避行』、何だかんだいってもサム・シェパードがかっこよくてたまらない『天国の日々』と、どれも忘れられない魅力にあふれている。 そんなマリック監督の新作は、ポカホンタス伝説を映画化したこの作品。実は伝説自体よく知らなかったのだが、アメリカ建国の矛盾を突く監督渾身の一作らしいのだが、半年近く経って記憶に残っているのはストーリーより繊細この上ない映像ばかりだ。 すべて自然光という撮影といえばかつて『木靴の樹』などもあったが、現代のすぐれたフィルムの特性がうまく活かされている印象で、今までにない深みのある映像となっている。そしてそこに来る時間を待っていたであろう、計算し尽くされた太陽の位置にいちいち唸らされた。いつもながらサウンドの綿密さにも驚かされるばかりだ。 そして、こういうところはさすがアメリカ映画といえる時代考証。17世紀のネイティヴや欧州人の生活にたいした知識はなくても、きっとこうだったんだろうなと思わせるリアリティは迫力すら感じさせる。 さらにアメリカという国の奥深さを感じたのは、あの17世紀そのままのようなロケ地。東海岸にあんな場所がまだ残っているというのだからすごい国だ。 というわけでストーリーにはあまり触れられなかったが、まだ10代だというクオリアンカ・キルヒャー嬢はさすが本物といえる荒々しい魅力にあふれていたし、よくは知らないコリン・ファレル、クリスチャン・ベールも十分な存在感だった。文化衝突の問題の普遍性や、主人公のドラマのダイナミズムは十分伝わる。 また最近読んだ山下柚実著『給食の味はなぜ懐かしいのか』でこの作品で「匂いつき上映」が試みられたと知ったが、画面に残されたうねるようなワイルドネスはそうした試みにはぴったりかも知れない。試みの是非は別にして。 そうはいっても、一般ウケする作品ではないよう。一緒に行った同級生と、史上初の2人独占上映を体験。
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[011]スーパーマン リターンズ
 踏みとどまる技術の矜持カロンタンのエサ係 (Mail)2006-10-12
 
CGは苦手だ、今のハリウッドに興味はない、そんな私でも十分に楽しめた快作。 観客15名ほどの月曜晩、地方都市の劇場、Xメンだったかワイルドスピードだか、1000円もらって・・・
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CGは苦手だ、今のハリウッドに興味はない、そんな私でも十分に楽しめた快作。 観客15名ほどの月曜晩、地方都市の劇場、Xメンだったかワイルドスピードだか、1000円もらってもみたくない作品の恥知らずのディストーションがうるさい予告編で、「シンプルじゃなきゃ」などという字幕にまず辟易。そんなことをいう輩に本当にシンプルなやつはいないと思ってうんざりしながら、それから少し経ってスクリーンに繰り広げられた、リアルにシンプルなエンターテインメントに感心する。 スーパーマンというキャラクターの優れたところは、活躍ぶりがシンプルなことだ。止める、支える、持ち上げる、飛ぶ、間に合う、見下ろす。こうした映像的快感は、例えばNHKで何度かみた『世界最強の男』GPのようで、ただ単に「すげえなー」と思うことのよさを感じさせて潔い。つくりものだけど、それでなければ現出させられないリアル。 そういうリアルがあるから、普通ならみてられないロイスとのありきたりな葛藤劇も、あり得ないからこそ心に迫る。最高級ホテルの最上階で大富豪が町娘に言い寄るというのは興ざめだが、腕を組んで屋上に浮いた青い服の赤マントならしかたなし。お決まりの空のランデブーに、CGの力はうまく活きていた。 そして私たち世代の映画ファンに嬉しかったのは、素のシーンの1980年当時を思わせる柔らかなライティング。特に娯楽作のハリウッドは技術の進歩でうそっぽく思わせるきらきらパチッの映像ばかりの中、影をうまく使ったこの撮影は今でもやり方によってはこういう映像がつくれるのだなと、踏みとどまる技術の矜持を感じさせてくれた。 ストーリーのことはいうまい。やけに00年代的な悪役だったケヴィン・スペイシーは個人的にいただけないが、他キャストは80年代頃の雰囲気で十分。 別に若者にうけなくてもよく、つくりたい作品をつくってそれがハリウッドの奥深さになればいい。
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[012]隠された記憶
 初心者がみる上級者の碁のようなカロンタンのエサ係 (Mail)2006-10-05
 【ネタバレ注意】
上級者の対戦する囲碁を初心者が見ているような感じ。こういう譬えでわかってもらえるだろうか。実はそれが定石通りだったとしても初心者にはその石が何を意味するかわからず、・・・
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上級者の対戦する囲碁を初心者が見ているような感じ。こういう譬えでわかってもらえるだろうか。実はそれが定石通りだったとしても初心者にはその石が何を意味するかわからず、しかしやがて、なるほどここにこの石を置いたのはそういうわけだったのかとわかり、だけどどうしても初心者にはわからない秘密がもやもやしたまま残るというような。 映画の文法から大きく外れたぶっきらぼうなファーストシーンから、観客は映画の中の現実と登場人物たちの想像、そして観客自身の想像の3つの間をさまようことを余儀なくされる。その不安定なたゆたう感じは、「本当?」と繰り返されながら語られる友人の老婆と犬のエピソードに先取りされていたのだろう。ビデオをほかと結びつけようとする想像力、物語化の力が、登場人物たちと観客とを恐れと不安に追い込んでいく。 効果的なビデオの使い方、想像力が産み出す不安というテーマは10年以上前にカンヌを席巻したソダーバーグ『セックスと嘘とビデオテープ』を彷彿させるが、芸術性の高さとともに娯楽性を備えている点は共通している。私にとって映画にとっての娯楽性とは目を離せないということとほぼ同義で、わかりやすいかどうかということはそんなに大きな問題ではない。 やはり何だかわからないまま引きつけられていた『ピアニスト』のどこがすごいのか、本作をみて初めて理解したように思う。例えば意味性を最大にまで引き出すカット割りや、絶妙のタイミングの編集。本作でも緊張感が最大限に高まった後に決まって接続される、プールや農家の庭、学校の出入り口などの引きの絵が見事な効果をあげていた。 このような犯罪を扱った映画をみる時、犯人は誰かとか事件の意味は何かというのは、そんなに重要なことだろうか。それより映画の時間中、画面にどれだけ引きつけられたかを重いと思いたい。「わかる」と「おもしろい」、それと「作品のよさ」の関係はよく考えるが、この点についてはさらにまた考えよう。 『八日目』や『橋の上の娘』などと違った、シリアスなだけのオートゥイユもさすが。丸くなる一方のビノシュは、洟のかみ方がかっこよかった。
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[013]ユナイテッド93
 映画的な、あまりに映画的なカロンタンのエサ係 (Mail)2006-09-22
 
こんなに怖い映画をみたのは、初めてだったかも知れない。 「表現」とは“業”だと思う。自分の企みにかたちを与えることでこころよく思わない人がいるとしても描かずにはいられ・・・
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こんなに怖い映画をみたのは、初めてだったかも知れない。 「表現」とは“業”だと思う。自分の企みにかたちを与えることでこころよく思わない人がいるとしても描かずにはいられない、どうしようもなく切実なかたち。その切実さこそが、表現に力を与えるのだ。 誤解を恐れずにいえば、私は「忘れた方がいいことは、世の中にひとつもない」と信じることにしている。「忘れないために」この作品をつくった監督は入念な取材をしたというが、それがどんなに誠実だったかは「as oneself」で出演した関係者が何人もいることで明らかだ。 そして観客に事件の記憶がまだ新しいからこその、圧倒的な映画的効果。おそらく百年後の人間が本作をみても、今私たちが感じている怖さは味わえまい。現在の観客一人ひとりに残っている事件の個人的な記憶。例えばCNNの映像が管制タワーの巨大なモニターに映し出された瞬間、自分があの映像を初めて目にした時の不可解さを、作中人物の数だけ増幅されて再体験することになる。 映像作家はこの悲劇を描くのに、現時点における映像的、物語的な常識を忠実に踏襲する方法を採用した。今やドキュメンタルな映像の定番となった揺れの大きい手持ちカメラ、抑え目の音楽、一見ラフであるがゆえニュース的に見える編集、効果的なタイミングで何度も映し出される操縦桿のモスクやなすすべなく抱き合う老夫婦。こうした手法の多くはここ20年ほどの映画界で深化されたものであり、衝撃的な『地獄の黙示録』を評した蓮実重彦氏にならっていえば「凡庸」な手法なのだ。 だが、凡庸は衝撃を呼ぶ。そしておそらく、こういった衝撃は凡庸な手法でしか表現できない。 物語を排して対象をストイックに描いた点でロベール・ブレッソン、事件との距離の取り方なら『エレファント』、ラストの衝撃なら『ダンサー・イン・ザ・ダーク』などが私が思い出した先行作だが、これは人によって違うだろうしその多様さこそ本作が伝統的な映画であることの証しとなるだろう。 もっとも印象に残るのは、やはり乗客たちの "I love you."。事件当時新聞でも読んで記憶に残っていたし、本作封切時にも新聞ではこの点に言及していたので私はこのシーンのを待ち構えていたといっていい。だが文字で読んだよりはるかに説得力をもって迫るのが、映画で繰り返される "I love you." だった。こんな状況で選ぶ行動が、祈るより身近な人への "I love you." だということ。何人もの人々が自らが生きた証しにこの言葉を選択したことが、アメリカがコミュニケーションに重きを置いた国であることを証明していて興味深い。映像作家が本作を撮らずにはいられなかったように、彼らは誰かに "I love you." といわずにはいられなかったのだ。 「愛」という言葉が日本に伝わって400年が経ったが、まだまだ私たちは彼らと同じように「愛している」なんていえない。それはそれで悪いことではないけれど。 さらにいえば、とくにメガネの男を通して描かれるテロという行為の不条理。宗教から遠い私なら感じるであろうどうせ死ぬんだという思いがないであろう彼らの行動から感じられたのは、5年前にこの事件の情報に触れれれば触れるほど沸き起こってきたのと同じ種類の虚無感だった。
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[014]ブロークン・フラワーズ
 思いがけないほど“普通”カロンタンのエサ係 (Mail)2006-09-04
 
ジム・ジャームッシュのキャリアの中で、数年後、本作はどのような位置を占めることになるのだろう。 『ダウン・バイ・ロー』から後のジャームッシュは、いつも物語を描くこと・・・
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ジム・ジャームッシュのキャリアの中で、数年後、本作はどのような位置を占めることになるのだろう。 『ダウン・バイ・ロー』から後のジャームッシュは、いつも物語を描くことを回避しているように思っていた。繰り返し撮ってきたオムニバス、ドキュメンタリー。いずれもスタイリッシュで独特のユーモアにあふれていて彼を熱狂的に受け入れた多くのファンを飽きさせるものではなかったが、『ダウン・バイ・ロー』のようなハラハラさせる映画ではなくなっていて、ジャームッシュ作品にはそういうものは期待しないといった態勢をみる者につくらせていた。 本作にしても、一人ひとりの女性を訪ねるエピソードが重ねられているからオムニバスの一種といえなくはないにしても、主人公の自分探しという大きなテーマがある点が近作と異なっている。しかもいつものようにぶっきらぼうな感じを見せるでなく、ウェルメイドととられることを恐れないかのような凝った脚本。よく話題になるシャロン・ストーンの娘のヌードはじめ意味深長に思わせる数々のカットも、これまでの彼の作品ならもっと意味から切り離されたかたちでそこにあったはずだ。 つまり本作は、ジム・ジャームッシュの映画としては、決して悪い意味ではなく“普通”なのである。 一時の気まぐれでないなら、これから彼の新たな作品群がみられそうだ。
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[015]ふたりの5つの分かれ路
 映画的に甘美な共犯の“裏切り”カロンタンのエサ係 (Mail)2006-08-25
 
フランソワ・オゾンに惹きつけられるのは、その精神の怪物のごとき強引人工性とそれで現出される映画的リアル、だからこそ身につまされる奇妙な肉体的な感覚ゆえのこと。私の中・・・
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フランソワ・オゾンに惹きつけられるのは、その精神の怪物のごとき強引人工性とそれで現出される映画的リアル、だからこそ身につまされる奇妙な肉体的な感覚ゆえのこと。私の中で、前者は『クリミナル・ラヴァーズ』の車が去るシーンの物語から隔絶した2人の登場人物の見詰め合い、後者は『海をみる』の歯ブラシのシーンがその典型だ。 映画の世界で「変態」から始まって「感動」を描くに至るという流れは伝統的で、最近知る中ではアルモドバルがそのもっとも正統な継承者だが、オゾンの場合は洗練と素地の奇妙な使い分けがみる者の興味を離さない。私には本作は、彼にあって『8人の女たち』と同じくらいかっちりした“作品”に思えた。 時系列の逆転など本作にとって、ベースでありながらほんのちょっとしたいたずらに過ぎない。その一見変わった形式はオゾンにとって2ストライクノーボールから外に大きく外す遊び球のようなもので、その語り口にこそ本領が発揮される。 私にとって本作一番の驚きは、観客との間の見事な一種のシンコペーション。“カラフル・オゾン”全開の本作でチャプターの終りは、『8人の女たち』のようにパロディでありながらも完璧で夢見るようなミュージカルシーンで宣言されるから、何回かのルフランに観客の側は心地よい身構えを始める。 けれども……。 映画的にもっとも甘美な共犯としての“裏切り”こそ、本作のハイライト。 物語は当然のようにうじうじしたものだから、目耳をふさぐ人は多いだろう。だが私にとってオゾン映画は物語などどうでもいいことで、もうほとんどは忘れてしまっている。憶えているのは、ラストシーンの見事さくらい。 テイストは大違いでも、同じフランス100年前のリアリズム作家の小説群を「人生喜劇」と訳したことは議論の的だ。100年後に生まれたこの映像作家の一連の作品は、喜劇とも悲劇ともいい難い不思議な時間をみる者に味わわせてくれる。 そしてほぼ1年に1本のペースで発表し続けるオゾンにあって、この作品が『ぼくを葬る(おくる)』の前にあったということについて、考えることは少なくない。みる側としては、06年度No.1候補のこの作品についても早く書かねば。
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[016]リリア 4-ever
 ドキュメントでは語れないリアルカロンタンのエサ係 (Mail)2006-06-13
 【ネタバレ注意】
どうしても、『ショー・ミー・ラヴ』の話から。 「おお、スウェーデンの若者もこんなにつまらながってるのか」と思われる、ぎざぎざの前半から始まってみるものの共感をつのり、・・・
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どうしても、『ショー・ミー・ラヴ』の話から。 「おお、スウェーデンの若者もこんなにつまらながってるのか」と思われる、ぎざぎざの前半から始まってみるものの共感をつのり、それを終盤の大盛り上がりにつなぐ手腕には、監督第一作とはいえ、大いに感心したものです。 前情報のないまますすめた私周辺の反応も上々で、これが大ヒットするスウェーデン恐るべし、との印象を強くしました。 そして、機会なく2作目は未見ですが、本作をみることで、『ショー・ミー・ラヴ』の驚きが何だったのかがわかった気がします。 退屈はリアルだけど、すべてではない。 現実がどんなに過酷でも夢を見ることはできるから、本作での羽根は『ショー・ミー・ラヴ』の恋慕であり、ただ本作については、ストーリーが救いようもない方向に向った、ということなのでしょう。 管理人さんのジャガイモを拾うシーンが、モラルやなんやかなで、正しさやいい加減さをうつろう十代の姿を描き出していて見事。 表現としては、「羽根」によって幻想を区別する“わかりやすい”手法が、好みは分かれるでしょうが、本作をみてほしい層に訴えかける手段として好感が持てました。 痛い映画、しんどい映画を避ける人は多いし、もちろん、それはわからないでもありません。ですが、映画にある種のリアリティを求める人がこういった表現に引きつけられるのはそれ以上によくわかります。 今、そういった表現で見逃せないのは、知る限りでは国内で塩田明彦、海外ではこの監督でしょうか。 次作も目が離せません。
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[017]歓びを歌にのせて
 丁寧な人間関係といい表情と音楽があればカロンタンのエサ係 (Mail)2006-06-13
 
思えばスウェーデン映画には、好きな作品が多い。 世界映画史の至宝ベルイマンの他では真似できない奇妙な作品群をはじめ、アメリカでも成功している『マイ・ライフ・アズ・ア・・・
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思えばスウェーデン映画には、好きな作品が多い。 世界映画史の至宝ベルイマンの他では真似できない奇妙な作品群をはじめ、アメリカでも成功している『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』『ギルバート・グレイプ』のハルストレム、そして『ショー・ミー・ラヴ』『リリア・4-ever』の若手注目株ルーカス・ムーディソンがいる。ベルイマンのまったく普通に思える人々が抱く狂気とそれが展開する奇跡は別格としても、美しい田舎の風景にどうしようもない影を落とすハルストレム作、そして地方にいるからこそ見る夢が連れてきてしまう悲劇とそれを突き抜ける喜びが浮き沈むムーディソン作。いずれもめずらしくない人々の暮らしを丹念に描いて、映画でしか味わえない珠玉の世界を創造してすばらしい。 本作にしても、都市の生活に疲れ果てた有名人が純朴だが現代的な問題を抱える人々との交流を通して自分を取り戻していくというプロットはめずらしいものではない。 本作が人々の心を打つのは、やはりその音楽があってこそだろう。 『スウィング・ガール』は未観だが、“つたない音楽”を武器にした名作は古今少なくない。バンド映画の最高作と信じるA・パーカー『コミットメンツ』や、つたないとはいえないが味のある素人演奏が見事な効果を産んでいたマーク・ハーマン『ブラス!』などが思い出される。多分『スウィング・ガール』の元ネタと思うが、テレビでも数年前にみた小曽根真が高校生のジャズバンドを指導する日本テレビのドキュメントもそんな感じだった。一方、上質なエンターテインメントが売り物のアメリカ映画では、つたなさが魅力にはなりにくいのだろう。 本作にしても、DVや子どもの頃の人間関係といったエピソードはどちらかというと映画からきこえてくる音楽のために語られているといっていい。ちょうどひとりひとりの歌声を重ねていくように。 ダンス映画やスポーツ映画が肉体がついてしまう嘘を覆い隠すためにCGに走るのに比べ、つたなさも味になる音楽は映画向きに思える。ダンス映画も、例えば『ベルリンフィルと子どもたち』のようなドキュメントではリアリティがあるから、理由はほかにあるのかも知れないけれども。 そして本作のラストシーン。丁寧に人間関係が描かれた後でいい表情と音楽があれば、それだけでいい映画になるということが、登場人物の歌声と同様見事に歌われる。
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[018]ブロークバック・マウンテン
 わかりようのなさとわからないようのなさカロンタンのエサ係 (Mail)2006-06-06
 【ネタバレ注意】
一体この映画は10年経つと、どんな風に語られるのだろう。 作品賞の『クラッシュ』が時間とともにつまらない映画に思えてきたのに対して、本作は思い出すほどに美しくなってい・・・
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一体この映画は10年経つと、どんな風に語られるのだろう。 作品賞の『クラッシュ』が時間とともにつまらない映画に思えてきたのに対して、本作は思い出すほどに美しくなっていく。いい映画とはつまり、そういう作品なのだと思う。 もともと隅々にまで気を行き渡るアン・リー作品は好きだった。 やはり同性愛もので、カルチャーギャップを仄かな笑いで包み心温まる家族ものに変化させる過程が見事な『チャイニーズ・バンケット』、やはりカルチャーギャップが老いらくの恋の複線として効果的で,活劇にまで広がった構成がおもしろい『推主』、なんか事情の違う『グリーン・ディスティにー』さえ、もののけ姫が実写になったようなチャン・ツィイーの扱い方はチャン・イーモウのアクションよりずっとよかった。 アン・リーの視点には微妙な対象に向かいながら近づき過ぎず批評眼がぶれないでいる、抱きかかえ突き放すというすぐれた映画監督の資質そのものといえる。 そうした手法で描かれる1960年代アメリカ片田舎の同性愛。60年代生まれの日本人には時代背景にわからない部分はあっても、テーマそのものが普遍的だからわからないようがない。 多くの観客は性別に関わらず、主人公らの妻たちの立場で本作をみるのではないか。 そこで良識からは外れつつこの世でもっとも美しい世界を生きる主人公たちのブロークバックバック・マウンテンに嫉妬しながら、イニスの釣り道具に思いをぶつけるアルマの苛立ち、暮らしがすさむとともに見かけだけ華やかになっていくジャックの妻ラリーのさみしさを体験する。 そしてそんな風にリアルな彼女たちの良識のシーンが消えると、ズーチャッチャ、チャーン、チャーン、チャラチャーン、とワルツに乗って画面上に広がるブロークバック・マウンテン。「ウィスキーの川が流れていて……」というラリーのセリフはパラダイスに決して行くことのなかった悲しみに満ちていて、同時に見守る観客には画面の上でそれを目にはできるという映画というスタイルの奇妙をまざまざとみせてくれて見事だ。 そしてブロークバック・マウンテンの二人の、観客にはどうしてもわかりようがない気持ちのぶつけ合いの数々。それは観客の単純な共感を遠ざけ、映画的な謎を謎として残したまま、ズーチャッチャ、チャーン……と美しい稜線だけを心に刻むことになる。 “わかりようのなさ”と“わからないようのなさ”。その間で揺れ、心にブロークバック・マウンテンがほしくなる、実に映画的な2時間ちょっとの夢。
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[019]クラッシュ
 “定型”の効果と限界カロンタンのエサ係 (Mail)2006-05-13
 【ネタバレ注意】
表現には、時間とともに思いが深まるものと反対に薄まってしまうものがありますが、私にとって本作は後者。当日の日記には「アカデミー作品賞は十分」と書いてありました。けれ・・・
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表現には、時間とともに思いが深まるものと反対に薄まってしまうものがありますが、私にとって本作は後者。当日の日記には「アカデミー作品賞は十分」と書いてありました。けれどもそれは今、アイロニーにさえ読めます。 ひとつひとつのエピソードは申し分ありません。意外な展開があって、どうしようもない何かを抱える登場人物たちがそのドラマの中で変わっていき、それを突き放さずに眺める“映画の視点”が存在する。J・デュヴィヴィエの『巴里の空の下セーヌは流れる』を思い出し、51年のパリと50年以上後のLAの違いということも考えました。 といってもデュヴィヴィエはいささか古過ぎるので、本作でよく引き合いに出される『マグノリア』と『トラフィック』、それから構成はちょっと違いますが複数のストーリーが交錯する『アモーレス・ペロス』と比べてみましょう。 このうち『トラフィック』と『アモーレス・ペロス』は最近みた中でももっとも好きな映画で何度も誰かに語るうちに思いが深まり、一方の『マグノリア』や本作『クラッシュ』は最初の印象は次第に薄れています。 その違いを考えて、“定型”の扱い方ということに思い当たりました。 例えば『トラフィック』での刑事の静かな怒りや絶望、『アモーレス・ペロス』の元革命家の罪悪感や後悔は、もちろん“定型”としての刑事や友人、革命家や父として描かれていますが、それはストーリーが進むとともに意外なかたちに深まり、ついには思いも寄らない方向に動いて、それが他にはない感動につながっています。 これらに対して、本作での父の介護を続ける悪徳警官、母と彼女が大事にする不良の弟との葛藤に悩む優秀な刑事の兄、『マグノリア』の自己啓発マッチョやクイズ少年は、“意外な人物像の定型”に寄りかかり過ぎていて、深まることがなかったように思われてしかたありません。物語には欠かせない“定型”の効果と限界。そんなことを考えさせられました。『ミリオンダラー・ベイビー』をみた時に感じた物足りなさの正体は、これだったのでしょうか。 ドン・チードル他豪華俳優陣は見事。
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[020]愛より強い旅
 劇場でこそ興奮の音の旅カロンタンのエサ係2006-03-22
 
意外にもストーリーがはっきりしていた『僕のスウィング』の後だけに、今回はどうなるのかと思っていたところ、若い男女がルーツを求めて旅をするロードムービーという素材は、・・・
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意外にもストーリーがはっきりしていた『僕のスウィング』の後だけに、今回はどうなるのかと思っていたところ、若い男女がルーツを求めて旅をするロードムービーという素材は、いかにもガトリフらしい。小さいドラマもあるにはあるが、各地で出会う音の洪水に身を浸らせているとあっという間に上映時間という旅は終わる。 本作の舞台というか道程は、パリからアンダルシア、地中海を渡りモロッコ、そしてアルジェリアへ。これらの音楽を正しく語る知識は私にはないが、サントラのライナーをみるとキーワードはイスラム教神秘主義スーフィーで、私もアルバムは持っているパキスタンのヌスラット・ファテ・アリ・ハーンもスーフィー音楽なのだという。よくはわからんが、なるほど。 圧巻はサントラの最後に収められている「transe」。アルジェのスーフィー音楽をベースにガトリフが独自にアレンジしたというこの曲はすさまじかった。複雑なリズムの嵐に次第に高まり、やがてトランス状態に上りつめる人々。オーオー、オーオーという掛け声は、日本の屋台囃子で提灯を持った人々の出す声にも似ている。お盆のような太鼓を持っているのに叩かず、ずっとくるくる回してしたオヤジはそうやれといわれてのパフォーマンスだろうか。 オープニングの主人公の局部アップ、サッカー場で踊り狂う恋人など、インパクト十分で首をひねざるを得ない映像はいつものこと。それより砂漠の隊列を捕えた大きなショットに、これまでのガトリフ作になかったスケールを感じた。やはりこれも劇場の大画面ならでは。
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[021]キング・コング
 ビューティフォー、ビューティフォーカロンタンのエサ係2006-01-26
 【ネタバレ注意】
3時間の上映時間でしたが、終わって出る時近くにいた20代前半女性2人連れも、「すっごい迫力〜。全然長く感じなかったね」とのこと。長さに怖気づかなければ、古典的な美女と・・・
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3時間の上映時間でしたが、終わって出る時近くにいた20代前半女性2人連れも、「すっごい迫力〜。全然長く感じなかったね」とのこと。長さに怖気づかなければ、古典的な美女と野獣物語をスリル満点のシーンが彩る、誰もが満足のいく映画なのかも知れません。 大変よくできた映画という印象。導入部、島に行くまでものセリフの流れもいいし、現実的とはいえなくても映画らしさの極致といえそうなライティングなども十分楽しみました。 私にはちょっとしつこい恐竜シーン。何でああいうのがいるんだというと、前2作ともみている一緒に行った友人が「オリジナルにも出てくるんだ」。以前『ターザン砂漠へ行く』に巨大クモが出てくるのをみて、「誰も行ったことないと思ってずいぶん大胆だな」と思いましたが、当時の映画的常識はそういうものかも知れません。 ただ、『ジュラシック・パーク』以来、変温動物の恐竜も、実は速く動けたということになったようですが、私にはどうにもうそ臭く思えてだめです。CGに関しては、ほとんどみないので語る資格はありません。 ジャック・ブラックもエイドリアン・ブロディもそれなりにいいですが、やはりここはナオミ・ワッツ。実に楽しそうに演じています。思うに、恐怖に慄き、からだいっぱいで愛を表現し、怪物にこの世の誰よりも愛されるというこの役は、美人女優なら一度は演じてみたい役なのではないでしょうか。とはいえ、タイトルロールまでナオミ・ワッツとはわからなかったのですが。 しかし情報をみるとこの映画、だいたい今週いっぱいで終わるよう。帰りに寄った飲み屋で友人と傑作だったと話し合いましたが、残念ながら若い人に敬遠されるのもしかたないような気もします。 ひとまず、翌日だったか夕方部屋にいたので、窓から夕陽を見ながら、近くにいたねこの顔を外に向け、ビューティフォー、ビューティフォーといってみました。そうした人も多いのではないでしょうか。友人とあっちよりよかったという『タイタニック』をみて、船の舳先で手を広げた人にはかないそうもありませんが。
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[022]ある子供
 人の手の温もりカロンタンのエサ係2006-01-20
 【ネタバレ注意】
ビデオ観賞の『ロゼッタ』に続くダルデンヌ兄弟体験。これもまた驚かされた。 スタイルは一貫している。よく話題になる、音楽がないとか手持ちカメラでアップが多いとかはいい・・・
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ビデオ観賞の『ロゼッタ』に続くダルデンヌ兄弟体験。これもまた驚かされた。 スタイルは一貫している。よく話題になる、音楽がないとか手持ちカメラでアップが多いとかはいいにしても、やはりその極端なキャラクター造型に唸らせられてしまう。ロゼッタをみていて「何でそんなに仕事がほしいんだ」とあっけに取られたように、本作の主人公ブリュノにはその超越的なダメぶりに圧倒させられるのだ。 映画好きとたまに話題にする、映画史上最悪のキャラクターは誰かというテーマがある。私としては、人でなし王として最近の偽装建築騒ぎで再注目の『タワーリング・インフェルノ』リチャード・チェンバレンのバカ婿、ろくでなし王として俳優名は知らないパゾリーニ『アッカトゥーネ(乞食)』のごくつぶし亭主などをあげることが多い。だが、ブリュノはまた新たなタイプだ。 例えば終盤、小学生とバイクで企んだ引ったくり。映画の犯罪シーンというのは大体がスリリングな昂揚感に満ちたものになるが、そういう感覚からははるかに遠いところが恐れ入る。それまでのあまりのダメぶりに、おいおい、やめろよ、どうせうまくいかないよと、感情移入とはいえない奇妙な気分で画面を見つめるしかなく、川に入る場面に至っては、おめえ何やってんだよと、開いた口がふさがらない。 ドキュメントのようにリアルにみえて、ダルデンヌ兄弟の映画はリアリティという以上に極端だ。つまりそれは、周到に、この上なく意図的につくり込まれた劇映画なのだと思う。 象徴的なのは、HPによれば「犬のようにじゃれ合う」二人のシーン。延々と、ベルギーの若者事情に不案内なこっちにしても、いくら何でもそんなことはないだろうと思うような“楽しそうな”じゃれ合い。それが『ロゼッタ』の長靴と同様の、乳母車の、人間のプリミティブな所業のリフレインに隣接することで、経験したことのない映画時間を創出している。ロベール・ブレッソンとの類似も指摘されるが、この奇妙な連なりはブレッソンにはなかった効果だ。 観客がそんな不思議な映画時間に翻弄させられた後で訪れる、あのラストシーン。こんな場所にもM&Mの広告があるのかなどと感じさせられるのも、この映画世界に入り込まされているからだろう。食い入るようにスクリーンをみつめる肩のあたりに、懐かしいような、それでいて味わったことがないような人の手の温もりを感じたことは、本作がめったにない良質の映画表現であることを示している。
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