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 「コメット」さんのコメント一覧 登録数(49件)rss
 コメント題投稿者投稿日
[001]華麗なるギャツビー
 お世辞コメット2011-11-14
 
ギャツビー役にレッドフォードを配したことにより、『偉大なギャツビー』は『華麗なるギャツビー』に化け、そして映画は失敗、少なくとも原作者F・S・フィッツジェラルドの意・・・
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ギャツビー役にレッドフォードを配したことにより、『偉大なギャツビー』は『華麗なるギャツビー』に化け、そして映画は失敗、少なくとも原作者F・S・フィッツジェラルドの意図は消えてしまったと思う。  原作ではニック(フィッツジェラルドの分身)から見たギャツビーという時代の一寵児(それは、フィッツジェラルド自身をも含めた、世界大恐慌直前に資本主義のバブル的な好景気に浮かれていた胡散臭い人間たちのことなのだろう)が描かれており、ギャツビーに”Great”を冠したのは、フィッツジェラルドによる、それでもデイジーへの想いを貫いたギャツビーに対する精一杯のお世辞だったと思う。そうでなければ、原作のあんな寂しい終わり方はなかったと思う。  レッドフォードは超二枚目のせいで、損なことに、映画で演じた人間はどうしても好漢に見えてしまう。『スティング』では詐欺師を演じていたが、そこはやっぱりレッドフォードで、映画のラストでは詐欺の分け前金の受け取りを断っていた。
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[002]西部開拓史
 野望と幸福コメット2011-11-10
 
 良くも悪くもアメリカ人による19世紀についての自己総括だから、とにかく力が入っている。それは川下り、野牛の疾走、列車強盗などのアクション・シーンもそうだが、冒頭の・・・
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 良くも悪くもアメリカ人による19世紀についての自己総括だから、とにかく力が入っている。それは川下り、野牛の疾走、列車強盗などのアクション・シーンもそうだが、冒頭の、カメラが道を進んでいって川の船着場にたどり着き、そこから川を見渡すシーンにしてもそうで、わたしなどは「おおー、昔のアメリカだぁ」と感動してしまった。もちろん、むかしのアメリカなぞ見たことないが、歴史の本などで見る昔のアメリカを描いた風景画などのイメージがわたしにあって、そのイメージにピッタリだったからだ。  力が入っているのは映像(シネラマもそうだ)だけでなく、キャストが大スターのオンパレードであるのもそうだ。いったい誰が主演なのだろうと考えると、最初から最後まで出ずっぱりの人間が主演の人間だとしたら、それは我らがデビー・レイノルズということになる。西部に男たちは野望を抱き、女たちは幸福を求めた。野望の追求は気分を高揚させるようなテーマ曲に表され、幸福の追求は『グリーンスリーブス』の曲に詞をつけた『草原の家』の曲に表されていたと思う。  とにかく、西部劇に飢えている人にとって、これは満漢全席のような映画だ。公開当時に映画館でシネラマで観た人は、すごい迫力を感じたのではないだろうか。
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[003]欲望
 無題コメット2011-09-30
 
 わたしが不思議な魅力で引き込まれ、さんざん振り回された挙句、最後にはついていけなくなった映画またはテレビ番組は、この映画と『ツイン・ピークス』と『キングダム』。そ・・・
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 わたしが不思議な魅力で引き込まれ、さんざん振り回された挙句、最後にはついていけなくなった映画またはテレビ番組は、この映画と『ツイン・ピークス』と『キングダム』。そんな作品に出会うのは、幸い中の不幸としか思えない。
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[004]戦争プロフェッショナル
 エクスペンダブルズもまっつ青!コメット2011-08-29
 
 何をどこでどう間違えたのか、この映画はわたしが生まれて初めて観た洋画。こんなにタフでグロい映画を観て、よくグレなかったものだと自分に感心。しかし音楽は、いかにも映・・・
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 何をどこでどう間違えたのか、この映画はわたしが生まれて初めて観た洋画。こんなにタフでグロい映画を観て、よくグレなかったものだと自分に感心。しかし音楽は、いかにも映画音楽風によくできていて、さるFMラジオの映画音楽番組のテーマ曲としてずっと使われていた。
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[005]ゾンビランド
 人間不信コメット2011-08-23
 
 わたしたちは強い恐怖に襲われた時、不自然にもつい笑ってしまうことがある。それならば、ホラーとコメディをくっつけてしまうのもアリだろう。古くは正統派のホラーと正統派・・・
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 わたしたちは強い恐怖に襲われた時、不自然にもつい笑ってしまうことがある。それならば、ホラーとコメディをくっつけてしまうのもアリだろう。古くは正統派のホラーと正統派(?)のコメディをくっつけた『ヤングフランケンシュタイン』があったが、こちらはスプラッター的なホラーとブラックなコメディが微妙に相性が合っていた。しかし登場人物は、4人とも最初は皆人間不信になっていたが、外の脅威に対して内部で結束し信頼関係を築いていくという、とても健全で、その意味で後味の良い映画だった。  個人的にはハイウェイで、死体の骨を折って中の骨髄をうまそうにすすっていたグルメなゾンビが一番笑えた。  それにしても、今際の際に「心残りは?」と聞かれたビル・マーレイが「『ガーフィールド』かな」と答えたり、エマ・ストーンが不意に笑い出すという場面があったが、あれはどちらも素であったとしか思えない。  
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[006]ヒックとドラゴン
 (無題)コメット2011-08-06
 
出不精でたいていの映画鑑賞を安直にWOWOWで済ませてしまうわたしにとって、現時点で今年最大の収穫。 それにしても、主人公の名はHiccup=しゃっくりだから文字通りヒックであ・・・
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出不精でたいていの映画鑑賞を安直にWOWOWで済ませてしまうわたしにとって、現時点で今年最大の収穫。 それにしても、主人公の名はHiccup=しゃっくりだから文字通りヒックであり、師匠はBelch=げっぷだから文字通りゲップ、ナイト・フューリーはToothless=歯無し(映画では「トゥース」になっていた)など、ヘンな名前が多かったし、「しゃべる魚の骨」には笑ってしまった。 ラストの大ボスとの戦いは、映画館で3Dで観たら、すごい迫力だったんじゃないかと思う。 サクセス・ストーリーかつ親子の和解という、王道まっしぐらの映画。
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[007]コネクテッド
 SMAPが出てる!コメット2011-07-22
 
 『セルラー』もよかったが、この映画はもっとよい。キアヌ・リーブスの映画に『チェーン・リアクション』があったが、この映画は「チェーン・アクション」だ。  脚本だけで・・・
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 『セルラー』もよかったが、この映画はもっとよい。キアヌ・リーブスの映画に『チェーン・リアクション』があったが、この映画は「チェーン・アクション」だ。  脚本だけでなく、俳優たちの演技もひたむきな感じで、よかった。その中で、SMAPの中居に似た人が最初から、キムタクに似た人が最後にちょっとだけ出ており、「あ、○○だ」と一旦思ってしまうと、もうずっとそう見えてしまうから不思議である。
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[008]ソルト
 この映画は本作で「すみません」コメット2011-07-06
 【ネタバレ注意】
 ソルトがロシア大統領を襲撃しながらわざと暗殺しなかったその時、夫の安否はわかっていなかったのだから、その行動は、「愛する夫を殺されたので裏切った」ということにはな・・・
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 ソルトがロシア大統領を襲撃しながらわざと暗殺しなかったその時、夫の安否はわかっていなかったのだから、その行動は、「愛する夫を殺されたので裏切った」ということにはならない。夫を拉致したのはCIAでなくロシアのエージェントだろうから、夫を守るためにはエージェントの命令を実行しなければならない、しかし本当にロシア大統領を殺してしまうと、夫は今度はCIAの側から拘束されてしまうだろう――こういう計算をした上でのソルトが取った行動は、出来すぎと言いたくなるくらいに頭脳的なものだ。  ソルトのような稼業の人間なら、ふつうのロマンチックな愛はあまり抱かないのではないか。Wikipediaによれば、「恩」は「恵み」であるとも言われ、「恵み(めぐみ)」とは「芽ぐむ」の名詞形で、他の者に命を与えたり命の成長を助けることが「恵み」を与えることであり、「恩」をほどこすことであるという。この「恩」は、ついこの間までわが国で、親や教師からの「愛」と同義のものとして使われていたが、ソルトは北朝鮮で救い出された(この場面に”SALT”というタイトルが重なっていくシーンはとても象徴的で、この映画を二回目に観た時、わたしはこのタイトルのシーンだけでもう感動してしまった)ことから彼に「恩」的な愛、そして「わたしのせいでこの人を危険な目に遭わすことは絶対避けなければいけない」という母性的な愛を抱くことになったのではないか。  「恩」というのは本来、返さなくてはならないものだが、しかし、これだけやれば返せるというものではない。わが国では、「恩」を受けたことに感謝して「すみません」と答えることが多いが、それは、いくら利益を返したとしても恩返しが済むわけではないということを表明するものである(英語でも「すみません」と言うのに”I don't know how to thank you.”という似た表現がある)。ソルトは、夫を敵地で助け出せなかったばかりか眼の前で殺されてしまい、文字通りに「恩」が返済不可能になってしまった。そこで彼女がやろうとしたのは、無限の返済の一環としてのロシア・エージェントへの徹底した報復であり、この辺りからも続編の製作が予想されてしまう。  しかし、女性のアクション映画というのは難しいものだ。男を銃で片っ端から殺しまくったり、ミッシェル・ロドリゲスのような女優さんとかマッチョな女優が格闘で男をバンバン倒したり、ワイヤーやCGが多用されれば、多くの男性客は引いてしまうか眉唾ということになるのではないか。その点、この映画では銃を多用せず、格闘も関節を攻めたり女性の目いっぱいの力でやっている感じで、違和感をあまり感じなかった。  このA・ジョリーという女優さん。アクションよし、アクション以外の場面での微妙な表情の演技もよし。人気があるはずだ。
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[009]オーケストラ!
 リハーサルなしで!コメット2011-06-11
 【ネタバレ注意】
 もう何年も楽器に手を触れてないような楽団員が何人もいそうだし、ソロ・ヴァイオリニストはコンサートで当のチャイコフスキーを弾いたことがない。そんな人たちを集めてパリ・・・
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 もう何年も楽器に手を触れてないような楽団員が何人もいそうだし、ソロ・ヴァイオリニストはコンサートで当のチャイコフスキーを弾いたことがない。そんな人たちを集めてパリの大舞台でコンサートをする、それもあろうことか、リハーサルなしのぶっつけ本番で!  この筋立ては、いくら映画の観客をハラハラさせるためだといえ、あんまりでは?そして、そんなコンサートが大成功をおさめるなんて、出来すぎでは?と思ったが、後になって、この映画は「リハーサルなし」にしなければならないことに気がついた。  コンサートでジャケがヴァイオリンを弾き始めた時、楽団員たちは彼女(の音)が誰かわかったことによって自分たちのオーケストラを思い出し、自分たちの演奏を取り戻したが、ジャケのほうでも、なぜかすぐにそのオーケストラに溶け込んだことによって、自分(の音)が昔からそのオーケストラのソロ・ヴァイオリニストであったことを感得し、自分が誰であるか、気がついた。  もしもリハーサルをちゃんとやっていれば、ジャケはその時にそのことに気づいてしまい、コンサート本番でのあの感動はなかっただろう。「リハーサルなし」の埋め合わせのために、わたしたち映画の観客は、けっこう面白おかしくではあったが、楽団員たちがパリで勝手に行動するさまを延々と見せられたのである。やれやれ、まわりくどい感動作であったわい。
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[010]私の頭の中の消しゴム
 最後に残るものコメット2011-04-27
 
 人を愛するということは、前にも記したが、相手のすべてをありのまま肯定的に受容することだと思う。しかし、そこに問題が生じうる。それは、相手が不可逆的に変化してしまう・・・
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 人を愛するということは、前にも記したが、相手のすべてをありのまま肯定的に受容することだと思う。しかし、そこに問題が生じうる。それは、相手が不可逆的に変化してしまう場合だ。その時わたしたちは、次の三通りのうち、どれか一つを選択する。  一つめは、愛するのをやめること。その人を愛することが自己のパーソナリティーの一部になっていたので、愛するのをやめるということは自分が変化することにほかならず、これはこれで不安や苦しみを少なからず味わうことになる。簡単に愛するのをやめられる人は、ほんとうに愛していたとはいえない。  二つめは、短期的にはもっとも多くの人に選択され、そしてもっとも問題が多いやり方だが、愛するのをやめない一方、相手が変化したという現実を受け容れないこと。変化の現実を受け容れないということは眼前の相手を受け容れないということだから、じつは愛しているのは過去の人間、今では幻の人間ということになる。自分自身は変化しないで済むので当座は楽だが、自分が愛している人間と眼前の人間とのギャップにやがて心がかき乱され、不幸な場合には、受容できないものを直視せずにすませるために相手を無視するとか、相手に暴力を加える、つまり虐待してしまうことがある。  三つめは、変化した分も含めて、相手を愛し続けること。こう書くととても素晴らしいことのようだが、必ずしも理想的とはいえない。これだと相手がさらに変化していけばわたしも同様に変化していき、本来ならわたしは自分が変化していくことに不安や怖れを抱くはずだが、もしも愛があまりにも強いためにわたし自身はそれを意に介さなかったとしても、そこにわたしを愛する人がいた場合、今度はその人がわたしを受容できないで苦しむことになってしまう。一人に起こった変化が、たとえば家族全員を巻き込んでしまうこともある。  アルツハイマー型認知症は、(現時点では)人が不可逆的に変化することの例だ。発症した人ではふつう、まず時間が、次いで場所が、やがては人物がわからなくなっていくが、この映画の主人公のような若年性では、その進行が早い。人物がわからなくなるということは、その人を深く愛している人にとっては置いてきぼりにされるようで、とてもつらいことだろう。そこでチョルスが取ったのは彼女を追うこと、つまり三つめの行動であるが、(映画の中の精神科医の文句として、認知症で「精神がゆっくり死んでいく」)主人公がもっとも生きて輝いていた部分だった、チョルスにもっと人を愛するように言ったこと(映画の中では「許す」ようにと言っていた)、彼はそれを大切に思い、それを受け容れて彼もまた変化していくのである。  認知症で記憶が失われていくということは、いったいどういうことなのだろう。たしかに重度の認知症の人は、家族のことすらわからないようだ。ではその人は、愛する人の記憶をすべて忘れてしまったのだろうか。  コンピューターでは、ファイルを削除しても消えるのはファイルを呼び出す手がかりのほうであり、本来の基板上のメモリは上書きされない限り残存しているという。認知症の人は、家族の誰であるかがわからなくても、じつはその人を別な誰かと間違えている(たとえば孫を子と間違えたり、嫁を娘と間違えたり)とか、独り言をずっと言っているが、それは実在する、またはかつて実在した家族の誰か(ただし、誰であるかはめまぐるしく変わったりする)に向かっての話しかけの連続、ということがあり、家族の観念は残っているように思われる。すると、認知症の人では、現在の認知を手がかりにして過去の記憶を正しく想起することができないために記憶を失ったように見えるだけで、過去の記憶の一総体、観念のようなものは、脳の中にずっと残存しているのではないだろうか。  そして、認知症でない人の心は絶えず新しいことを受け容れ、雑念が混じるとか変化していく可能性があるが、認知症の人ではその観念、心の中にしまわれた想いは、雑念が混じることなく、いつまでも変わらないだろう。この映画の主人公の愛は、健常者ではありえないほど純粋で揺らぎのないものになったのだと思う。
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[011]アダムス・ファミリー2
 クリスティナ・リッチが魅力的コメット2011-04-20
 
 こういう映画は、とにかくアクが強めの俳優さん(わが国でなら、たとえば柄本明さんとか)が怪演し、観客の特殊な嗜好を大いにくすぐって成功することが多いように思う。第一・・・
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 こういう映画は、とにかくアクが強めの俳優さん(わが国でなら、たとえば柄本明さんとか)が怪演し、観客の特殊な嗜好を大いにくすぐって成功することが多いように思う。第一作目はアンジェリカ・ヒューストン、ラウル・ジュリア、クリストファー・ロイドの三人が(それとインパクトの強さという点でハンドも?)メインだったが、第二作目ではクリスティナ・リッチも活躍し、屋敷外の場面が多かった分開放的だったので、わたしはこちらのほうが気に入っている。
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[012]トータル・リコール
 夢の話コメット2011-04-16
 【ネタバレ注意】
 わたしはこの映画のストーリーを気に入っているのでちょっと残念なのだが、主人公がリコール社を訪れた後の出来事は、やはりすべて夢、正確には同社によってインプットされた・・・
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 わたしはこの映画のストーリーを気に入っているのでちょっと残念なのだが、主人公がリコール社を訪れた後の出来事は、やはりすべて夢、正確には同社によってインプットされた虚構の記憶のようだ。スタッフが主人公に記憶のインプットの準備をしている最中、ブルネットの女性などの他に、「エイリアンが残した」とされるリアクターの映像も一瞬映っていたから。  まあしかし、わたしたちが見る夢もたまには現実まがいのものもあるだろう。あまり成り行きがおかしい夢だと途中で「これはひょっとして夢なんでは?」と疑ってしまうこともあるが、現実の生活においていかにもありそうなことの夢を見てしまうと、目覚めた後もしばらく夢だったかどうか判断できず胸がドキドキしていた経験のある方もおられるだろう。ベンゼン環の構造を思いついたケクレの夢のように、夢が現実を創造してしまうことだってある。今この瞬間わたしがこうして生きていることも、じつは長い長い夢の途中かもしれず、そうではないとは断言できない。  では、夢と現実の違いとは何だろう。わたしが思うに、「自分が存在したある世界が消失したと認識できる自分が存在する」場合、その世界は夢だったといえるだろう。あまりにも幸運が続いたがある時点からふつうの状態になり、過去をあきらめた上で振り返る時、わたしたちは「あれは夢だった」と考えることが多いし、自分がもうじき死ぬことを悟った人が自分の人生という世界、その消失を客観視でき、それを夢だったと考えることもあるだろう。豊臣秀吉の辞世の句「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」はその例ではないだろうか。  それにしても、リコール社のように、自分の見たい夢が見れる機械を作れたらすばらしいだろうな。それこそ夢のある話だ。
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[013]二十四の瞳
 言葉と感情コメット2011-04-14
 
 昔、この映画を観た時はそうは感じなかったのに、最近観たら、最初から最後まで歌が散りばめられていて、まるでミュージカルみたいだなと感じた。ただし、小学校の唱歌ばかり・・・
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 昔、この映画を観た時はそうは感じなかったのに、最近観たら、最初から最後まで歌が散りばめられていて、まるでミュージカルみたいだなと感じた。ただし、小学校の唱歌ばかりで、子どもの甲高い声がずっと聞かれるが、楽しい曲はあまりない。  以前、人間にとって音楽とは何か、と考えたことがあった。わたしの結論は、音楽(特に歌声)は人の感情が発する音声を連想させ、わたしたちはそれに共鳴してしまうのかもしれない、というものだ。低いか中くらいの楽音や歌声は笑い声のようでわたしたちに安心感を与え、高い楽音や歌声はそう、泣き声なのではないだろうか。そうであればこの映画は、徹頭徹尾泣いている。しかし決して、めめしい映画などではない。  動物行動学でノーベル賞を受賞したコンラート・ローレンツは、攻撃能力の発達した動物ほどそれを抑制するシステムが発達しているという。それは、人間でも同じだろう。男が口数少ないこと、感情を表に出すことが少ないのは、女よりも攻撃の本能や腕力が大きく、他の男の前で思ったままを口にして、それが感情で勢いづけば、やがては血を見る事態にまでエスカレートすることもあるということを、無意識裡に感じているからではないか。女はそこまでなることが比較的少ないから、しゃべることや感情が男のようには抑制されていないのだと思う。  かわいい小学一年生(映画の中では「かわいい かわいいと カラスが泣くよ」と『七つの子』がよく歌われており、「七つ」とは「七羽」ではなく「七歳」を意味しているという説が有力だが、小学一年生もたいてい七歳)の時から子どもたちの人生に関わっていれば、成長して幸せになってほしいと願うのは当たり前で、戦争に送って死なせるために教え育てたのではない。大石先生は、教え子や自分の家族に戦争はいやだ、きらいだと自分の気持ちを語っているだけなのだが、原作小説や映画はその大石先生の語りを読者、観客にマス・コミュニケーションしており、作品として反戦を訴える形になっている。ただし反戦は、口先だけでは説得力がないだろう。  コンラート・ローレンツは、核ミサイルを批判した。それは、たとえば目の前の人間を包丁で殺そうとすれば、生温かい返り血、相手の猛烈な抵抗、耳をつんざくような悲鳴などを予想でき、つまりは殺される側の恐怖感を予め共感してしまうので、そうした近距離の攻撃には抑制の心理システムが働きやすいのに対し、核ミサイルのような超遠隔攻撃では相手の姿がまったく見えないからそれを抑制するシステムが存在せず、ボタン一つ押すだけで、怖さも苦しみも悲しみもたいして感じずに何万人、何十万人をたやすく殺すことができてしまうからだ。だとすれば、戦争を抑止しようとするためには共感能力が十分発達していることが必要だと考えられる。  映画の中で、大石先生がかつての教え子、家が貧乏で病に倒れて臥せっているコトエを見舞う場面がある。少女が弱い声で「先生、わたし、もう長くはないんです」と言うと、先生が「なに言うの、そんなこと言ったらだめじゃないの」と返す。少女が弱気だけで言っているのではないことをよく知っているから、先生の言葉は口先だけのものではない。続いて少女が「先生、わたし、苦労してきました」と言って泣きだすと、先生も「そうね、苦労してきたでしょうねぇ」と少女と共に泣いている。大石先生が初めて受け持った十二人の子どものうち、映画のラストの歓迎会で、男子は五人中三人が戦争に出征して死んでおり、女子も七人中三人が不幸のために死んだか来れておらず、大石先生は、そんな子どもたちのために泣くのである。女では感情が男ほど抑制されておらず、だから共感しそれを表現する能力が強いのだろうが、大石先生はまさにそのような女性である。  たしかにこの映画には反戦のための戦いはないし、空襲の場面、銃剣の一つ、硝煙の一つも描かれないが、これは壺井栄という人による、言葉と感情という女性の武器を駆使した、れっきとした反戦の物語りなのだと思う。
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[014]アルジェの戦い
 条理を求めてコメット2011-03-16
 
 若い頃、この映画を観終わった直後、軽い疲労感と輪郭がどうにもはっきりしない感動におそわれたこと覚えている。今なら土地つながりで、カミュの『ペスト』も連想してしまい・・・
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 若い頃、この映画を観終わった直後、軽い疲労感と輪郭がどうにもはっきりしない感動におそわれたこと覚えている。今なら土地つながりで、カミュの『ペスト』も連想してしまいそう。  残念ながらわたしたちも、不条理の海の中で生きている。けれども、不条理ばかりだと不安で、生き続けることも安らかに死ぬことも難しい。だからわたしたちは、社会的には条理の島、個人的にはその浜辺に小さな砂の城を絶えず打ち立てていかなければ、やってはいけない。何度波に洗われ、崩されてもだ。それはやはり、戦いといえるものだろう。
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[015]しあわせの隠れ場所
 パラレル・ワールドコメット2011-03-10
 
 映画のラストで実在のリー・アンの写真が映されるが、それでは、彼女は陽気で多弁な人であるように見えた。けれどもこの映画で、サンドラ・ブロックが(いつものラブコメ風に・・・
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 映画のラストで実在のリー・アンの写真が映されるが、それでは、彼女は陽気で多弁な人であるように見えた。けれどもこの映画で、サンドラ・ブロックが(いつものラブコメ風に)よくしゃべる人間としてリー・アンを演じていたら、わたしはそれほどのめり込めなかったと思う。  たしかに南部の裕福な共和党支持者、おまけにライフル協会にまで属しているというコテコテの白人が、はたして身元のはっきりしない黒人の少年をいきなり自分の家に引き取ったりするものだろうかという疑問は湧いて当然で、だから真実は○○だったのではないかといろんな憶測が生まれるだろう。そのため、映画の中ではちょっとでも演者に存在感が弱かったり物事の成り行きや繋がりに不自然さが見られると、そこから破綻していきやすいはずだ。  映画の中では、リー・アンが口を閉ざしてしまう場面が何度かあった。口数を少なくしている時の人間は、自分の思いや積極性やパワーをあえて隠していることが多く、それに気がついてしまうと、その人の行動や言動以上の存在感が感じられたりする。サンドラ・ブロックはリー・アン役を抑制のきいた演技でよくこなし、また家族も自然な演技で(特にSJ君は、自分の役を終始楽しみながらやっていたのではないかと思えたくらい)、さらによく練られ手抜かりのない脚本、テンポのよい編集などがあって、この映画がどこまで真実であるかなんてことは、わたしにはもうどうでもよくなった。それほど、この映画は過去の真実そのものではなかったとしてもそれのパラレル・ワールドのように完成されたものだと、わたしには納得できたから。  少しだけ文句を言わせてもらえば、キャシー・ベイツをもうちょっと押し出してもらいたかった。
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[016]ノウイング
 生きて死ぬことコメット2011-03-08
 
ほとんど同じ時期に同じようなテーマで製作された映画として、『アルマゲドン』と『ディープ・インパクト』、『ボルケーノ』と『ダンテズ・ピーク』、『2012』と『ノウイ・・・
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ほとんど同じ時期に同じようなテーマで製作された映画として、『アルマゲドン』と『ディープ・インパクト』、『ボルケーノ』と『ダンテズ・ピーク』、『2012』と『ノウイング』などがある。前者の映画ではアクションが強調され、「人間の力だって捨てたもんじゃないだろう?」的なところがあるが、後者では、人間の力は自然を前にして不十分であることが示されている。どちらの映画がよいかは好みの問題であるが、わたしのように年を食ってしまうと悲しいかな、もう大きな希望というものをあまり抱けなくなっており(その代わり、希望とは双子の兄弟である不安のほうもそれほど抱かなくなっている)、後者の映画のほうがしっくりきてしまう(『ノウイング』について、超自然的な設定を受け容れているわけではない)。生きている間は楽しいことや苦しいことがあるが、総じていえば、(それに限りがあるからこそ)生きるということは悲しいことであり、そして哀れなこと=いつくしむべきことなのだと思う。  それにしても、『コンタクト』でもそうだったが、アメリカ人には「究極の宇宙人=神」という観念があるようだ。
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[017]ロッキー
 さあ起きろコメット2011-02-25
 【ネタバレ注意】
 この映画の公開は1976年。当時の先進国はオイル・ショック後のスタグフレーションであえいでいたし、さらにアメリカは10年余にわたるベトナム戦争で疲弊し、それも前年に惨め・・・
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 この映画の公開は1976年。当時の先進国はオイル・ショック後のスタグフレーションであえいでいたし、さらにアメリカは10年余にわたるベトナム戦争で疲弊し、それも前年に惨めな形で終わっていた。  ロッキーはボクシングだけでは食べていけない万年低ランクのボクサーで、しかもイタリア移民の下層社会に沈殿していたが、彼がチャンスを得て一念発起し目指したのは、ボクシングのチャンピオンに勝利してアメリカン・ドリームを実現することではなく、最後のラウンドまで立って戦い続けることにより、「自分はけっして負け犬ではない」ということを自分にも他人にも証明することだったが、それは映画俳優としてずっと下積み生活を送っていたスタローン自身の目標でもあっただけでなく、当時のアメリカの人々に共通する願いでもあり、そのスタローンの脚本と演技、そして抒情性の混じった進軍ラッパのようなあのテーマ曲により、この映画はアメリカを鼓舞したのだろう。  というレビューは、この低予算映画が大ヒットしたという結果を知った上での後知恵によるのだから、いつもだが、我ながらずるいとは思う。でも、確信を持って言えることは、映画はたしかに人々に夢や希望を与えてくれることがあるということだ。そんな映画をつくれた人は、幸せだなぁと思う。
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[018]ペーパー・ムーン
 実の親子コメット2011-02-24
 
 『幸せのちから』はホームレスの親子が経済的に成功していく過程を描いた映画だったが、わたしは観ている途中、それが実話でしかも実の親子(ウィル・スミス親子)が演じてい・・・
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 『幸せのちから』はホームレスの親子が経済的に成功していく過程を描いた映画だったが、わたしは観ている途中、それが実話でしかも実の親子(ウィル・スミス親子)が演じているということにチラチラ思い至ると、すでに経済的に大成功を収めているというウィル・スミス親子の現実にも思い至ってしまい、せっかくの経済的成功の感動も、その分殺がれてしまった。  この『ペーパー・ムーン』も、やはり大スターであるライアン・オニールと実娘のテイタム・オニールが演じている。しかしこの映画は、二人が親子かどうかはわからないという設定だ。二人は経済的に成功するわけでもなく、その日暮らしでいがみ合いながらの(けれども互いに相手を必要としている)道中がずっと描かれる。別の子が子役をやってもよかったかもしれないが、それでもテイタム・オニールが選ばれたのは、彼女が天才子役であるということだけでなく、映画の中の彼女のある一言にもよるのだろう。うーむ、なるほどと思わせるもので、実の親子のこんな起用のしかたはうまいなぁ。
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[019]マーティ
 変な映画だコメット2011-02-21
 
 観ていて退屈なのに、無駄に思えるところがひとっつもない。
  
 
[020]地獄の黙示録
 建て前は常軌を逸しうるコメット2011-02-17
 
『プライベート・ライアン』での大尉の任務を180度転換すればこの映画になる。あの映画は映像が凄惨でもストーリーは健全だったのに対し、こちらは混沌として病んでいる。部下・・・
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『プライベート・ライアン』での大尉の任務を180度転換すればこの映画になる。あの映画は映像が凄惨でもストーリーは健全だったのに対し、こちらは混沌として病んでいる。部下に本音が吐けるのはせいぜい中隊長くらいまでで大佐級になると建て前がほとんどだろうが、建て前というのは大きくなりすぎた社会に必要な便宜的フィクションであって自然なものではないから、常軌を逸してしまう可能性がある。『キリング・フィールド』ではそれを見せつけられてもまだ客観視できていたが、この映画はこちらがずるずる引き込まれて主観的にさせられそうでこわい。映像に力があるので一定時間経つとまた観たくなるのだが、しかし、体調が良くない時には観れそうにない。
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[021]プライベート・ライアン
 Private RyanはPRか?コメット2011-02-08
 
 ライアン二等兵を探して救出せよという命令を下されたミラー大尉の地位は、彼が行く先々で遭遇したたいていの軍隊の隊長の地位より上だったし、彼は中隊長であり、中隊長とい・・・
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 ライアン二等兵を探して救出せよという命令を下されたミラー大尉の地位は、彼が行く先々で遭遇したたいていの軍隊の隊長の地位より上だったし、彼は中隊長であり、中隊長といえば古くは100人くらい、現代では200人くらいまでの兵を統率する(この150人前後という数字は、一人の人間の声が届く範囲内で活動する最大の人数とされている)、戦争局地での実質的な最高指揮官である。だからそんな人間を、特殊任務ゆえ多人数で行動できないとはいえ部下7人だけの任務につかせるというのは、よく考えれば(不適切な表現だが)もったいない話で、それだけ軍の命令は本気だったということになる。  ところで、この映画の邦題はSavingが略され、簡単に『プライベート・ライアン』となっている。そのせいか、「プライベート」という英語の意味に注意が向いてしまった。  プライベートとは、名詞としては「一等兵または二等兵」を意味する(Wikipediaでは、正確にはライアン「一等兵」だとしている)が、形容詞としては(パブリック「公的な」に対する)「私的な」という意味がある。軍隊ほど人間のプライベート面が軽視されるところはなく、正規の軍人はパブリックな人間なのだろうが、軍務を解かれればその時間はプライベートな存在になる――つまり、ライアンが軍務を解かれ、そして帰国するということは、空挺師団の上官にとってのプライベート・ライアンすなわち「ライアン二等兵」ではなくなり、ライアン夫人の子どもという「プライベートなライアン」になってしまうということである。  映画の最初と最後で、ライアンが軍人墓地でのミラー大尉の墓を訪れる重要なシーンがある。それがパブリックな軍人としてのミラー大尉ということであれば、このシーンはライアンが究極的には軍に感謝の意をささげる構図になり、この映画は軍隊のPR的なものになるだろう(そもそもPRという言葉は、パブリック・リレーションズの略である)が、実際はどうなのだろう。  ライアン二等兵がアメリカ軍参謀総長からミラー大尉を介して受けた命令に従わず、なおラメルの地に居残り続けようとしたのは、自分の上官の命令に従ってではなく、二人の仲間を激戦の地に残して自分だけ帰国するなんてことができなかったからで、それはプライベートな感情によるものだ。このライアンの決意に接し、ミラー大尉は「予想外の事態になった」と困りはするが、軍のトップからの命令だからと権柄づくでライアンを連れて帰ろうとはせず、やがて、レーダー基地を攻撃した時と同様に連合軍の任務を果たすという動機も半分あっただろうが、ライアンの安全を護りながら従軍を許し、ドイツ軍との圧倒的に不利な戦闘に全力を尽くした。彼は、ライアン二等兵を連れ帰れという軍命を措いて「プライベートなライアン」を尊重し、彼は彼で故郷の妻のところへ胸を張って帰れるようになりたいという個人的な思いを貫いたわけで、結局は彼も100%パブリックな人間ではなく、「プライベートなミラー」大尉でもあったといえる。ライアンが生き残ったため、この映画にはたしかに軍の、とりわけ徴兵に関するPR効果があるだろう。しかし、ライアンが軍人墓地で「プライベートなミラー」大尉に感謝していたのだとすれば、この映画の軍隊PR的な側面はそれほど大きくないのではないだろうか。
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[022]アバター
 SFは映画が小説に勝るかコメット2011-02-01
 
 『猿の惑星』の原作小説を読んだことがあるが、その内容についての記憶はたいしてない。ところが、映画のほうはとんでもなく印象深いものだった。この違いの理由は、映画は原・・・
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 『猿の惑星』の原作小説を読んだことがあるが、その内容についての記憶はたいしてない。ところが、映画のほうはとんでもなく印象深いものだった。この違いの理由は、映画は原作小説のラストを変えていたこと、もう一つは、活字と映像の情報量の圧倒的な違いによると思う。  小説を読む人は、たかだか何百バイトの情報から物語の一場面について心の中でイメージを構築しなければならず、それは読む人にいくらか任される分だけ自由であるというメリットがあるが、しかし、SFのように視覚的イメージが湧きにくいもののイメージを構築していかねばならない読者は、ちょっとつらい。映画なら映像をただ見るだけなので、こちらはとてもありがたい。逆にSF映画を製作するほうは、被写体の造形のみならず動きまで創造しなければならないから、アイデア、手間、時間、お金など、きわめて大変だろう。  この『アバター』はたしかに映像がとても斬新だが、それに比べ、ストーリーはあまり新しくなかった。でも、それでよかったように思う。  惑星パンドラの植物はどれも魅力的なのに、動物はおしなべて爬虫類的だったり六本足だったりで、どうもいただけない。あんなものが味方になるなんてという後半からラストにかけて意外性から感動を導くためのものだったのだろうか(驚きに肯定的感情が続けば喜びや感動になる)。ナヴィにしたって同様で、体は青く細長く縞模様があってどうしても蛇みたいで、顔は猫みたいだった。映画の途中からネイティリに感情移入しだした頃もまだ、ナヴィの造形に対する違和感がちらちらと気になっていた。こうした違和感は、ディズニー・アニメの『レミーのおいしいレストラン』でも感じていた(ドブネズミが厨房で極端に嫌われている動物であることは映画でもしつこく描かれているのに、そのドブネズミをなんでシェフにしたのだろう?)。この辺りの感覚は、欧米人と日本人で文化的に異なるのだろうか。  いずれにせよ、キャメロン監督がこうした冒険的なキャラクターを創作・設定した時点で、この超大作がコケてしまうリスクがあったはずだが、そうならなかったのは、ストーリーの点では映像と逆に冒険せず、違和感どころかデジャブでジャブジャブになるくらいに既知の多くの題材を、そしてサクセス・ストーリーという王道を採用して、多くの人々の感情移入を効果的に誘ったからだと思う。  思い浮かぶ題材としてはやはり、ネイティブ・アメリカンの歴史(ジョン・ウェインがこの映画を観たら、怒り狂ったのではないだろうか)やベトナム戦争、映画では『ダンス・ウィズ・ウルブス』や『エイリアン2』だが、他に決定的に重要なものとして『風の谷のナウシカ』が、さらに『天空の城ラピュタ』、『もののけ姫』、『となりのトトロ』や『ザ・フライ』、『ファィアーー・フォックス』、キングギドラなども部分的に、それになんだか、『モスラ』も少し入っていたような。  映像とストーリーがともに斬新という映画は、当たると大きいどころか、名作扱いされるようだ。『2001年 宇宙の旅』や『マトリックス』がそうだろう。しかし、斬新×斬新はリスクも大きい。キャメロン監督はリスクを取らなかったが、それは2014年公開予定の『アバター2』が成功するための布石になるかもしれない。つまり、わたしたちは既にあの映像に慣れてしまったが、今度はストーリーを斬新にすることで、『アバター』と同じかそれ以上の人気を得る可能性があるわけだ。それはやはり、大変なことではあるけれど。  最後に、SFは常に映画が小説に勝るとはいえないだろう。たとえば、D・キイスの『アルジャーノンに花束を』があるもの(映画版は『まごころを君に』で、これはこれで味があった)。
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[023]あなたは私の婿になる
 「甘い汁」という言葉が頭から離れないコメット2011-01-05
 【ネタバレ注意】
ヒロインについてのシチュエーションやプロットは『あなたが寝てる間に…』と基本的に同じで、地位の高いキャリア・ウーマンであること、重要な舞台がアラスカの片田舎であるこ・・・
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ヒロインについてのシチュエーションやプロットは『あなたが寝てる間に…』と基本的に同じで、地位の高いキャリア・ウーマンであること、重要な舞台がアラスカの片田舎であること、コメディ度がずんとアップしていることなどが違う。  映画が進行するにつれ、キャリア・ウーマンの官製カラスみたいなスーツから最後にはパフ・スリーブ様の明色のブラウスに変化していくところなど、マイ・フェア・レディっぽくて楽しい。  アラスカの田舎の自然風景はきわめて美しく、それを背景にしたアンドリューの家は豪邸で、ほんとうにおとぎ話の城みたいだった。しかしこのアンドリューの設定は、ちょっとずるいのではないか。それまでカエルくらいにしかみなしていなかった部下が、じつは王子様級にリッチな人間だったというのは。  この映画がはっきりコメディだといえるのは、本編中のエピソードのおかしさもさることながら、ラストのエンディング・クレジットの画面でオマケ映像が流されるから。どこまでシナリオ通りかアドリブなのかがわからず(全部アドリブだったような気がする)、それを詮索していると変におかしい。  一般にオマケ映像といっても、本編の正統な延長であったり、本編の副産物つまりNGシーン(ジャッキー・チェンの『プロジェクトA』のオマケ映像は凄いので、オマケと表現するのは失礼)だったりといろいろあるが、わたしがもっとも好きなのは、『メリーに首ったけ』のそれ。各撮影場所で出演者たちが役を離れて仲良くダンスをしているのだが、そんな中に一人だけ、殺人者役の俳優さんがなおも険しい表情のまま袋に入れた死体の首を締めていたのが、妙におかしかった。
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[024]素晴らしき哉、人生!
 IT’S A WONDERFUL CINEMAコメット2010-12-24
 【ネタバレ注意】
 神と天使が登場してクリスマスが舞台とくればキリスト教くさい映画かというとそうでなく、これは、他人に善いことをすればいつか報われるという世界共通の教え(わが国では「・・・
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 神と天使が登場してクリスマスが舞台とくればキリスト教くさい映画かというとそうでなく、これは、他人に善いことをすればいつか報われるという世界共通の教え(わが国では「情けは人のためならず」と言う)を寓話化したもの。  まず、主人公が他人に善いことをすると同時に貧乏くじを引くというエピソードが、最初から後半まで、これでもかと描かれる。少年時代に薬局の主人からぶたれる時、「耳だけは叩かないで」と懇願するシーンは、こちらも一瞬泣きそうになった。子どもが大人から暴力を受ける光景は、いつ見てもつらい。  映画後半の、破滅を意識した主人公がわが子に当たってしまうシリアスなシーンについては、子どもの気持ちになれば恐怖を感じてしまうが、主人公の気持ちになれば、意識の暗い底で子ども時代からたまりにたまっていたものがとうとう表面に出てきてしまったのだと共感できる。ここでの主人公のシリアスさ、場の重苦しい雰囲気はラストの、主人公が元の世界に戻ったとわかって喜んだ時のはっちゃけぶり、ハッピーさと好対照となしており、そのために演出されたのだろう。  解説の方が述べておられるように安易なハッピーエンドで終えていないので、この映画には説得力があるように思う。天使の「天国に金はない」という言葉には思わず笑ってしまったが(よく考えれば天国にはお金など必要ないわけだ)、天使は、主人公に物質的な介入は一切せず、しかし「気づき」を与え、その生きる姿勢を反転させた。この映画そのものがその「気づき」を与え説得してくれるので、もしも自殺を考えている人がいるならば、この映画を少なくとも1回は観てほしいと願う。  そういえば、今日はクリスマス・イブの日。あなたがキリスト教信者であろうとなかろうと、心の「ハイ、チーズ」として、メリー・クリスマス!!!
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[025]カッコーの巣の上で
 アメリカン・ニューシネマ有終の美コメット2010-12-04
 
 この映画では、1960年代のアメリカの精神病院における、精神障害患者に対する非人間的な対応が取り上げられている。アメリカは身体障害患者に対するリハビリテーションの先進・・・
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 この映画では、1960年代のアメリカの精神病院における、精神障害患者に対する非人間的な対応が取り上げられている。アメリカは身体障害患者に対するリハビリテーションの先進国で、社会が障害者を差別することなく、各種の装具や自助具を開発して盛んに社会復帰させてきたのに、かつて精神障害者に対する対応は差別的だった。このギャップの原因は、キリスト教にあると思う。  欧米で身体障害患者の社会復帰を促す動因の大きなものは、キリスト教由来の個人主義や自助精神である。そして、アメリカでは戦争が正義に基づくもの、異教徒や悪(魔)に対する聖戦的なものとみなされ、現役や退役の軍人が大切にされてきた(だから『プライベート・ライアン』などのような映画が作られたし、退役軍人省なんてものが存在する)と考えられるが、身体障害患者が多数生まれるのはその戦争においてであり、アメリカのリハビリテーションは第一次世界大戦後から発達した。対して奇形や精神障害など、当時は原因がよくわからなかった障害については、それは神の罰であるとか悪魔がとりついたものと考えられがちであったから、この映画で描かれているように、精神障害患者に対する非人間的な管理や電気けいれん療法、ロボトミー手術が半ば懲罰的にも行われていたのだと思う。  もちろんこの映画は、キリスト教を批判するものではない。精神病院が患者に対して行っていた非人格的な管理は(やはりアメリカン・ニューシネマの、たとえば『バニシング・ポイント』で主人公をあくまでも制止しようとした警察官達の態度も同様に)、国民にとって、当時の徴兵制と結びついたベトナム戦争のイメージと無意識的につながり、泥沼化していた戦争によって鬱屈したり中には心が病んでいた人々の、その状況から個人として解放されたいという思い、それに支持された映画だといえるのではないだろうか。  ジャック・ニコルソンは当然として、他の俳優たちも演技が素晴らしく、とりわけ病棟婦長を演じたルイーズ・フレッチャーは、この人は自分の自律神経を自由に操れるのか?と勘ぐってしまうほどに凄かった。
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[026]靴をなくした天使
 現代のジャン・バルジャンコメット2010-11-08
 【ネタバレ注意】
 命がけで他人を救出したその男の顔立ちは、泥に被われてよくわからない。彼は元犯罪者でもあり、名乗り出ようとしない。そしてラストになって、救出された人はその男が誰かを・・・
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 命がけで他人を救出したその男の顔立ちは、泥に被われてよくわからない。彼は元犯罪者でもあり、名乗り出ようとしない。そしてラストになって、救出された人はその男が誰かを知って驚く。この筋立ては、レ・ミゼラブルと同じだ。しかし、現代の物語なので皮肉たっぷりであり、レ・ミゼラブルが感動の大団円を迎えるのに対し、この映画はひねりがきいていて、素直に感動できない。それでも、ダスティン・ホフマンがジーナ・デイビスに対して"You are welcome"と答えて一瞬微笑んだ場面は、とても良かった。
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[027]ボーン・スプレマシー
 観客も救われるコメット2010-10-29
 【ネタバレ注意】
 スプレマシ−とは優位とか主権という意味だから、「ボーン・スプレマシー」を直訳すれば「ボーンの優位」となり、『スター・ウォーズ』風に意訳すれば「ボーンの逆襲」とでも・・・
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 スプレマシ−とは優位とか主権という意味だから、「ボーン・スプレマシー」を直訳すれば「ボーンの優位」となり、『スター・ウォーズ』風に意訳すれば「ボーンの逆襲」とでもなろうか。たしかに中盤ではボーンがCIAに対してちょっと優位に立つが、ラストで満身創痍になるのは他のニ作品と変わらない。  ボーン三部作はどれも、ボーンが記憶を取り戻して自己のアイデンティティを回復させるという、要するに自分探し、言い換えれば自分救いの旅が描かれるが、もしもボーンに感情移入できない人がいれば、どうぞ勝手に自分探ししてくださいと、後はただアクション映画を楽しむだけになってしまう。ところがこの『ボーン・スプレマシー』では、自分のみならず他人――ロシアの、両親と死別した不幸な娘も救っている。彼女は、父親が妻を射殺してから自殺したと聞いていたから、母親を殺し自分を捨てた父親に対し、つらい憎悪を抱いていただろうが、ボーンが命令と状況によって二人を暗殺したと打ち明けたことによって、彼女の父親に対する終生の想いを救い出したはずだ。それは一種の自己犠牲といえる行為だが、娘にただ真相を話すだけでは自己「犠牲」とは感じられにくいから、その直前に壮絶なカー・チェイスが用意され、彼女に会いに行くためにボーンが瀕死の傷を負う場面が描かれている。  そういう点で、この映画はわたしにとって他のニ作品よりもスプレマシーがある。
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[028]ナイト&デイ
 期待していなかったのが成功コメット2010-10-19
 
 トム・クルーズが、高橋留美子の漫画『めぞん一刻』に登場する三鷹瞬みたいなキャラだったので、あれこれツッコミを入れたくなる映画だったけど、もういいや、という気になっ・・・
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 トム・クルーズが、高橋留美子の漫画『めぞん一刻』に登場する三鷹瞬みたいなキャラだったので、あれこれツッコミを入れたくなる映画だったけど、もういいや、という気になった。それに、観終わった後に何も残らない映画ではなく、注文した記憶のない商品がなぜ届くのか最後にわかった時は、嬉しくなった。たとえば『エイリアンvsモンスター』のように、トンデモナイ設定であっても、映画というのは人間の基本を描き忘れていなければやはり支持されるんだろうな、と思った次第。
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[029]ビューティフル・マインド
 「くだらん、不動点定理の応用ではないか」コメット2010-10-08
 
 若い頃にわたしは半分冗談で、アリストテレスやゲーテはじつは宇宙人だったのでは?と考えていた。それほど、人知を超えた知性の持ち主であるように思えたからだが、今では、・・・
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 若い頃にわたしは半分冗談で、アリストテレスやゲーテはじつは宇宙人だったのでは?と考えていた。それほど、人知を超えた知性の持ち主であるように思えたからだが、今では、ジョン・フォン・ノイマンこそ宇宙人だったのではないかと思っている。いわゆる天才にさらに輪をかけたような人物で、気違いじみているほどの才能(キューブリックの映画『博士の異常な愛情』におけるDr.ストレンジラブのモデルは、ノイマンだとされている)を示す多くのエピソードが残っており、もしも20世紀の全世界に絶大な影響を及ぼした人間を三人挙げよと言われたら、わたしならカール・マルクスの他に、(歴史的影響としてはケインズのほうがもちろん上だったが)ミルトン・フリードマンとノイマンを選ぶ。マルクスはもちろん、フリードマンも有名な経済学者でノーベル賞も受賞しているのに対し、ノイマンは一般にはそれほど知られていないが、あきれるほどいろんな分野で業績を残し、コンピューターや核爆弾など、今日にも重大すぎる影響を与えている。経済学者モルゲンシュテルンと協同で行ったゲーム理論の確立も、大きな業績の一つだ。  そのゲーム理論における脚光は後の学者が浴びることになったが、その代表的人物がジョン・ナッシュだろう。ナッシュといえば「ナッシュ均衡」が有名だが、それが教えてくれる面白い点は、誰もが(戦略を変えようとしない)安定した状態にあっても、それが必ずしも全体として最善(パレート最適、パレート効率的)の状態ではない場合があるということだ。誰もが地球上からすべての核兵器を廃絶すべきだと思っていてもなかなかそれが実現しないとか、夫婦がともに心の中で相手と離婚したいと思っているがそれぞれ事情があってずっと踏み切れないでいることなどは、その例だと考えられる。  ナッシュの奥さんがナッシュと離婚したのは、彼が愛人(男性!)と浮気したからだという。ほんとうにそうなら、彼女の感情が直截にナッシュ均衡の呪縛を打破したことになろう。ところが彼女は、その後も統合失調症の彼を支え続けた。それは理性(彼女はMIT出身)だけでなく、彼に対する愛であろうと憐れみが混じったものであろうと、とにかく感情にも裏打ちされた行為だったはずだ。彼の精神状態が改善し、ノーベル賞を受賞し、二人がパレート最適の状態になったのはその後のことで、彼女はその未来を知らなかったのだから、彼を支えていた彼女の感情と理性はやはり、ビューティフル・マインド(すばらしい心)だったように思う。
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[030]プレシャス
 救われない?コメット2010-08-17
 
 欧米のキリスト教プロテスタントたちは、自分の救済が来世で予定されていることを確信したいのだが、現世で何らかの社会的成功があれば、それによって救済の内々定をもらった・・・
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 欧米のキリスト教プロテスタントたちは、自分の救済が来世で予定されていることを確信したいのだが、現世で何らかの社会的成功があれば、それによって救済の内々定をもらったような感じになるという。要するに、実質上はこの現世において救われたいわけで、同時に、その信仰が厳然とした個人主義の上に成り立っているため、とても孤独なのである(現世において救われたいのはわたしたち日本人でも同様だが、日本では個人主義が発達していない分、孤独感が緩和されている)。このことは、プロテスタントがもっとも多いアメリカにおいて顕著なのだろうが、女性教師の「子どもはあなたを愛してる」という言葉は、その個人主義による孤独からプレシャスを開放し、自分の子どもの未来にかけての勇気を導くものになったのだろう。人は努力をすれば、その人自身は残念ながら現世で救われないとか報われないことがあっても、親としての努力の成果が目に見えなくても何らかの形で(自分の遺伝子の来世にあたる)自分の子どもに結実するということは、あるのだから。
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