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 「スティン・グレー」さんのコメント一覧 登録数(88件)rss
 コメント題投稿者投稿日
[001]スワンの恋
 退屈な秀作スティン・グレー2018-06-15
 
映画が観客に「退屈」を強要したとして何が悪いのだろう? とは常々思ってきたこと。 この作品が退屈だったわけではないが、そう感じる人もいることは想像できる。だが、どう・・・
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映画が観客に「退屈」を強要したとして何が悪いのだろう? とは常々思ってきたこと。 この作品が退屈だったわけではないが、そう感じる人もいることは想像できる。だが、どういうわけかシュレンドルフは、画面から目を逸らせない才能を持っている。ジェレミー・アイアンズ演ずるシャルルが、手袋を床に脱ぎ捨てるタイミングで侍従から預けたステッキを受け取る。こういう挙措が素晴らしく優雅に演じられる。ジェレミーは相当に練習を重ねたはずだ。 舞踏会用の正装でオデットが招かれた会から退散するとき、白の蝶ネクタイ、燕尾服姿の上に、当時、欠かせなかった白の長いマフラーをする。そのマフラーを召し使いから受け取り何気なく細身に巻き、流れるように頸に二重に巻く。こうした挙措の信じられないほどの優雅に気づかなければ、この110分の映画のためにどれほどの労力があったかを想像できないかもしれない。 バガデル庭園での散歩、乗馬服姿の連れ。散歩のときの無蓋の馬車、オペラ座には有蓋の馬車といった使い分け。細部がまるで映画全体を支配するほどのチカラを持っている。 時代考証の見事さで引けを取らないジャック・リヴェットの『ランジェ公爵夫人』が凡庸だったのは、役者の魅力のなさと、こういう挙措の細部がまったく足りなかったからだ。衣裳と室内装飾と台詞だけ、それが『ランジェ公爵夫人』だった。ふたりの木偶の坊がそこにいた。 ジェレミー・アイアンズがともかく素晴らしい。オルネラ・ムーティは、ちょっと現代的過ぎたかもしれない。アラン・ドロンはいささかシャルリュス男爵には似合ってない。 だが、挙措と映像がすべてを凌駕している。オデットの家でシャルルが話し込むシーン。サンルームのような部屋が背景に見える。これは19世紀にブルジョワの邸宅で温室が流行ったことを反映している。その陽光燦々としたサンルームが、話しているうちに黄昏れていく。まるで世紀末の黄昏感をそのまま体験している気分になる。映画的とはこういうことなのである。 だから、だいたいの解説がひどいここで >よりによってシュレンドルフが監督では、ダイジェストを最も恐れるはずの原作のエッセンスを器用に纏めてしまい、文学的閃きは無残に“物語”の下敷きになった感じだ。にしても、才能のないヤツに限って、大古典に簡単に手をつけ、それを愚弄するのはいかなるワケか。 と書く人間ほど、シュレンドルフを愚弄しているものはいないだろう。
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[002]ミネソタの娘
 (無題)スティン・グレー2017-08-27
 
ロレッタ・ヤング主演で強く印象に残ったものはあまりないが、本作は、まさに彼女のために作られたような作品。原題の「農家の娘」が看護学校に通うために都会に出る道中、男に・・・
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ロレッタ・ヤング主演で強く印象に残ったものはあまりないが、本作は、まさに彼女のために作られたような作品。原題の「農家の娘」が看護学校に通うために都会に出る道中、男にだまされ無一文に。そこで政治家一家の家政婦となるが、そのきびきびとなんでもこなしてゆくさまが、じつに軽快に描かれている。 執事のチャールズ・クランシーの威厳ある振る舞い、母親のエセル・バリモアも他の映画でもよくそうだったように保守的なようでじつは弱い相手に対する理解ある態度など、それぞれの人物造型がよくできているから、もうロレッタ・ヤングは何をやっても映えるのだ。 ジョセフ・コットン演じるモーリーが欧州から帰ってくるというので、ドアを開けに行くシーンのきびきびとした歩調(じつは別の来客等で、これが三回繰り返される)。彼女の進歩的な政治的発言。当時の農家の娘とは思えない教養と美貌だが、1947年のアメリカは、まだマッカーシズムが吹き荒れてなかった幸福な時代だった。結局、彼女はモーリーの所属する政党から選挙に出る議員の過去のふさわしくない行動を演説会で指摘することによって、対立政党から選挙に立候補するハメになる。最後はメデタシで、ここは議員と家政婦のカップルはさすがに当時のアメリカでは現実的ではないから、彼女を選挙に勝たせる必要があったように感じる。ともあれ、ロレッタ・ヤングのすらりとした美しさがいくつもの家政婦衣裳に映えて、それを観ているだけでも楽しい。
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[003]雨ぞ降る
 愛とカタストロフィースティン・グレー2017-08-24
 
グレタ・ガルボの評伝映画で、80歳近いクラレンス・ブラウン監督が試写室で『肉体と悪魔』のラブシーンを観て涙ぐむところがあった。自分の若き日の作品の美しさに自ら感動した・・・
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グレタ・ガルボの評伝映画で、80歳近いクラレンス・ブラウン監督が試写室で『肉体と悪魔』のラブシーンを観て涙ぐむところがあった。自分の若き日の作品の美しさに自ら感動したのだろうと思う。この映画もクラレンス・ブラウンならではのメロドラマ。 主役のマーナ・ロイはすでに30代半ばの金持ちの人妻。彼女がタイロン・パワー扮するインド人医師に恋する。彼女がいる街ランチプールが地震と大洪水に襲われるシーンの圧巻さはちょっと喩えようがないくらいの迫力だ。 疫病が発生するなかでタイロン・パワーを慕い、ボランティアとして病院で過酷な労働をするマーナ・ロイ。そんな彼女の本心を聞こうとするタイロン。彼はマスクをはずしてマーナに近づく。彼女のマスクをはずそうとするがタイロンを見るマーナの目だけで彼女の想いを悟る。そしてマスクをはずしたシーンのマーナの切なそうな恋する女の美しさ。 クラレンス・ブラウンの演出の見事さとは、こういうところをほんとうに情感豊かに美しく撮ることだ。ガルボの何作もの映画でも。 マーナがふとした看護のミスから疫病に伝染したのちに、タイロンがマーナに会いに来てキスしようとするがマーナはそれを避けて「このままずっと抱き合っていたい」という。すでに自分の感染に気づいていたからだ。そして頬を寄せているときにタイロンは彼女に熱があることを感じ取る。心配するタイロン。なんでもないわ、と言うマーナ。そこにカメラはズームアップしてゆく。そしてマーナの瞳から溢れる涙。メロドラマの最良の作品とはこういうものであり、また女優を美しく撮る技においてクラレンス・ブラウンに匹敵する監督は、ほんの数人しかいないだろう。愛とカタストロフィーの映画だ。
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[004]ハンナ・アーレント
 思索なき凡庸さについてスティン・グレー2017-05-19
 
ハンナ・アレントは、自分が若かった頃から影響を受けてきた思想家だ。『暗い時代の人々』が最初に読んだ本だと記憶する。これはもちろん『イェルサレムのアイヒマン』をテーマ・・・
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ハンナ・アレントは、自分が若かった頃から影響を受けてきた思想家だ。『暗い時代の人々』が最初に読んだ本だと記憶する。これはもちろん『イェルサレムのアイヒマン』をテーマにした映画だが、まさに凡庸な映画である。 アイヒマン裁判のドキュメンタリー映像が挿入されるが、その迫力は凄まじい。この映画で良いのは、そこだけである。まず、ハンナ役の女優バルバラ・スコヴァがまったく「思索的」な人物にみえない。ふつうのおばさんでしかない。彼女が何かを考えているときは煙草を吹かしているシーンで象徴される、という具合だ。では、彼女の「思索」ならびにその表明はどう表現されるか? というともっぱら周りの人物によってである。パーティがあったり家族と友人との会話があったり、雑誌社の人間がアレントの新しい連載について話したり、、、そうやって、彼女のあの「悪の凡庸さ」についての思索がどう形成され、どう発表されたかが浮き彫りになってゆく。かなり表面的に。ま、それは入門的にはかまわないと思う。 でも、アレントが思索し、話さずに周りがその形成を表現してゆく手法は、安易だし幼稚だし凡庸だ。たとえば彼女がただ庭を歩いているだけを延々と映し、そこにアレントの思索をヴォイスオーバーで流すといったような手法だってありえたはずだ。ところがこの映画は、そうした「退屈」に陥りそうな危険を避けるためにやたらと人物やさまざまな設定を配置して凡庸な演出を繰り返す。最後の講義でのクライマックスの内容は、まあ良いだろう。でも、煙草を吸う演出は必要なかった。ハンナ・アレントに対して一種の幻想を抱いていた人間には幻滅だけしか感じられない映画だった。
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[005]ヒルデガルド・ネフ
 ヒルデガルト・クネフスティン・グレー2014-10-22
 
このサイトでがきる以前、映画雑誌でのほとんどの表記はヒルデガルト・クネフだった。以下のwikiの解説でも、このように書いているのだから、「ヒルデガルト・クネフ」も取り入・・・
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このサイトでがきる以前、映画雑誌でのほとんどの表記はヒルデガルト・クネフだった。以下のwikiの解説でも、このように書いているのだから、「ヒルデガルト・クネフ」も取り入れ検索にかかるようにすべきだろう。 (以下wikiより)ヒルデガルト・クネーフ(Hildegard Knef, 1925年12月28日 - 2002年2月1日)は、ドイツ出身の女優、シャンソン歌手、作家。ヒルデガード・ネーフ(Hildegard Neff)とクレジットされていることもある。1948年から1968年までドイツ語圏外でそう名乗っていた。本名はヒルデガルト・フリーダ・アルベルティーネ・クネーフ(Hildegard Frieda Albertine Knef)。
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[006]インスピレーション
 あまりに甘美で切ない恋愛スティン・グレー2014-09-11
 
パリで画家のモデルをしているイヴォンヌ(ガルボ)は、とあるパーティで青年がしきりに自分を見ていることに気づく。ガルボは彼に近づき煙草をくわえる。気になりつつも咄嗟に・・・
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パリで画家のモデルをしているイヴォンヌ(ガルボ)は、とあるパーティで青年がしきりに自分を見ていることに気づく。ガルボは彼に近づき煙草をくわえる。気になりつつも咄嗟に火をつけられない、この外交官を目指す学生のうぶさが浮き彫りになる。彼が慌てて火をつけ、イヴォンヌはあなたいくつ?と訊く。24歳と答える青年アンドレ(ロバート・モンゴメリー)。このとき恋愛の主導権を握っているのは明らかに、イヴォンヌだ。 パーティを抜け出す二人、馬車に乗り込み、イヴォンヌにどこに住んでいるの?と訊くアンドレ。彼女を送ってゆく気だ。ところがイヴォンヌは、あなたはどこに?と訊く。こうしてふたりはアンドレのアパルトマンに行く。部屋へ行く階段の窓から夜明けを見る二人。もう疲れたという彼女を、じゃあ、僕が運んであげると抱きかかえて階段を上るアンドレ。クラレス・ブラウンならではのロマンティックな愛の始まりのシーン。 イヴォンヌが彼を家に招かなかったのは、彼女が男の援助で豪華なアパルトマンに暮らしているからだったが、アンドレが訪ねたときに、その事情が知れてしまう。アンドレは急速にイヴォンヌから離れてゆくが、イヴォンヌの一途なアンドレへの愛は変わらない。このあたりの立場の逆転をガルボが演じるとじつによくはまる。それにこういうテーマがクラレンス・ブラウンは得意なのだ。 男の援助を捨てアンドレへの愛に生きようとするイヴォンヌは、ある夜、カフェでアンドレをみかける。が、彼女はアンドレに話しかけられない。ちょっと離れたテーブルに座ってコーヒーを頼む。そこでお金を払おうとするが、コーヒー代程度の現金も持ち合わせていないことに気づく。ギャルソンがイヴォンヌを盗人扱いするこのシーンのガルボの困惑の表情の切なさたるや・・・。その騒動に気づいたアンドレはお金を払いイヴォンヌを家まで送る。 部屋に入って、というイヴォンヌの誘いを断固として断るアンドレ。それでもイヴォンヌは彼とほんの少しの時間を過ごしたいと願う。アンドレをドアの前で待たせて部屋を片づけるイヴォンヌだが、そこはもう最貧層のアパルトマンで、アンドレもこのイヴォンヌの生活の変わりように驚く。彼女はアンドレへの愛のために過酷な道を選んだのだ。彼のはからいでアンドレのカントリー・ハウスに引っ越したイヴォンヌだが、結局はこの恋愛は成就しない。 こうしたストーリーの合間合間に入るロマンティックな音楽がとても素晴らしく、ガルボの恋愛の頂点での喜びの表情や、奈落に落ち込む時の苦悩の表情のどれもがあまりに美しく、こんな甘美な映画がなぜ、日本でソフト化されず、アメリカでも中古のビデオしか入手できないのか?と不思議に思う。 エイドリアンがデザインしたガルボの衣裳がどれも素晴らしい。最初のちょっとエジプト風の夜会服。昼間にアンドレを訪ねたときのモダンな服(階段を下りるだけのガルボがとてつもなく美しい)。ベレー帽に白いスカーフのスタイル。ゴージャスな毛皮のコート。どれもこれもエイドリアンがガルボのために精魂込めてデザインしたことが覗える。 ガルボの伝記映画のなかで、試写室でもう90歳近いクラレンス・ブラウンに『肉体と悪魔』を見てもらうシーンがあった。老いたブラウンは、自分が若かりし日に撮った、この映画でのガルボとジョン・ギルバートの恋愛のシーンを見て涙を流す。若き日への郷愁と、そしてあまりに美しいガルボに涙したのか・・・。ともあれブラウンはガルボにしか演じられないロマンティックで悲劇的な恋愛の名作をいくつか残した。現代から見てそれを陳腐と思う人もいるかもしれないが、映画の歴史が始まって30年ちょっとの頃、それはとても幻想的で至福で、でも思うに任せない人生というものを描ききってくれていたのだと思う。
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[007]禁じられた抱擁
 奔放と倦怠と錯誤の関係性スティン・グレー2014-08-13
 
カトリーヌ・スパーク主演なら必見だろう。ずっと昔、10代の頃から好きな女優だった。タイトルも知っていたけれど、これはテレビでも観なかった。画家崩れの青年と奔放なモデル・・・
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カトリーヌ・スパーク主演なら必見だろう。ずっと昔、10代の頃から好きな女優だった。タイトルも知っていたけれど、これはテレビでも観なかった。画家崩れの青年と奔放なモデルの恋。原作はモラヴィアの『倦怠』。モラヴィアの小説って、どの作品にも倦怠が漂っているけれどね。じつは青年はブルジョワの息子で母とはお金でしか繋がっていないのでお金が必要なときしか家に帰らない。当初、クールだった青年は次第にスパークにのめり込んでゆく。しかし奔放なスパークは、この青年以外もうひとりの愛人をつくってそれをあけすけにする。どんどん関係は転倒していって青年は自分のブルジョワの出自を嫌いながらも、結局、スパークを金で自分のもとに引き留めるようになってゆく。クライマックスでかつてスパークをモデルに使っていて死んでしまった老画家が描いたマゾヒスティックな絵を見せられることになる。まるで谷崎潤一郎の「ナオミ」のようだ。 そのあとの話はネタばれになるので書かないけれど、この映画がただものではないのは、青年がスパークの家に招待され、彼女の父親が喉を癌でやられて発声できない状態での、青年との会話のシーン。口だけ動かしているその無音の会話に、この父が癌でもう直しようがないというナレーションが被さる。この演出には驚いた。ただのファム・ファタールものではない。そもそも主人公の青年から見た恋愛相手という視点でもないし、これは関係性を視点にした映画だなと気づかされる。見終わったあとに監督を調べたら、なんとダミアノ・ダミアーニではないか!『禁じられた恋の島』あれは良かった。『痴情の森』もスパーク主演でダミアーニ監督だった。これ昔TVの深夜に放映したときはポルノかと思って観たよ、タイトルが。オルネラ・ムーティの『シシリアの恋人』も。いまはもうダミアーニ作品なんて滅多に観られる機会がないなあ。
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[008]忍びの者 続・霧隠才蔵
 南国薩摩の異国情緒スティン・グレー2014-08-13
 
『忍びの者 霧隠才蔵』の話もまさに続編。大阪城・夏の陣に徳川方に敗れて真田幸村とともに薩摩の島津藩に逃げ延びたところから始まる。このセットが絶妙。江戸時代の南国(つ・・・
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『忍びの者 霧隠才蔵』の話もまさに続編。大阪城・夏の陣に徳川方に敗れて真田幸村とともに薩摩の島津藩に逃げ延びたところから始まる。このセットが絶妙。江戸時代の南国(つまり薩摩)風情とはこういう感じだったのかと思わせる。女くの一の藤由紀子のシャキっとした顔も良い。衣装もセットもどちらかというと本土よりも琉球を思わせるところがある。そのあたりの時代考証はよくわからないのだが、モノクロの映像は素晴らしい。前作での武田千吉郎のキャメラも、世闇にまぎれて才蔵が江戸城の石垣を上るシーンなど強く印象に残ったが、映画としてはちょっと散漫なところがあった。本作は監督も田中徳三から池広一夫に代わり、キャメラも牧浦地志に代わったが、モノトーンの色調や構図の見事さは、相変わらず素晴らしい。この頃のスタジオはほんとうに職人さん揃いだった。いまではこうした古いプログラム・ピクチャーはB級っぽくみられるのかもしれないけれど、たとえばハリウッド50年代のフィルム・ノワール諸作品を評価するように、これらも同じくらいに高みにある作品のように思える。
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[009]桃太郎侍
 キャラの立ち方がいい。スティン・グレー2014-08-13
 
10代の頃からTVで木暮実千代が出る古い日本映画を観るたびに、色っぽいなあ、艶やかだなあ、と思っていたものだが、本作ではすでに39歳。それでも見事に色っぽい。そういう仕草・・・
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10代の頃からTVで木暮実千代が出る古い日本映画を観るたびに、色っぽいなあ、艶やかだなあ、と思っていたものだが、本作ではすでに39歳。それでも見事に色っぽい。そういう仕草がかっちり身についているから、着物の裾をちょっとめくっての座り方だって、絶妙に色っぽい。悪女でありながら根は純情みたいな役がうまくはまっている。堺駿二もキャラがたっていて、このあたり三隅研次はうまいなあ。『編笠権八』での脇役のキャラ設定とも似ている。市川雷蔵、まだこの頃は殺陣があまりお上手ではないですね。雷蔵は眠狂四郎のニヒルなキャラ。霧隠才蔵の滅私のキャラ、そして本作のような真っ直ぐなキャラ、どれやっても見事にはまっています。
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[010]カストラート
 天上の声スティン・グレー2014-06-28
 
映画は、監督が提示した(と思われる)ものだけを主題として観るものだろうか? クラシック音楽に興味のない人間には退屈だろう、などとこの映画のことは思わないし、そう思う・・・
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映画は、監督が提示した(と思われる)ものだけを主題として観るものだろうか? クラシック音楽に興味のない人間には退屈だろう、などとこの映画のことは思わないし、そう思う方は、自分に何の“優位性”(クラシックの知識?)を持っているのだろう。同時代の作曲家の存在が感じられない、などと思うなら歴史本でも読めばよいのであって、この映画を観る必要はなかろうし、黙すべし。 この映画は歴史考証をきちんとしたものとは言い難い。そんなこといえばカストラートのファリネッリが正装もせずにシャツだけで馬車に乗って貴族たちに会いに行くシーンなんてあり得ないだろう。そんな不作法(服装において)は当時、あり得ないのだから。楽譜を捨てるシーンは凡庸な演出だが、そこで当時の紙が貴重だったからとか、ケチをつけたところで、では、そういう見方ばかりして映画的カタルシスは得られるのだろうか。 ヘンデルのフィーチャーは映画的求心性を持たせるためだということは、誰でも簡単にわかる話だ。ヘンデルはイギリスに帰化していたし、反ヘンデル派に招かれて渡英していたファリネッリの師ポルポラの要請でファリネッリもイギリスに渡っている。ヘンデルは独身だった。ファリネッリは去勢されている。お互いに子孫を残せない境遇にありながら二人はポジとネガのような存在なのだ。そこからからくる心理的な葛藤と対決がこの映画には必要だったのだ。 もしバロック音楽界のお歴々を登場させたとしたらこの映画に何を期待したんですか? 音楽史? そんなことよりもファリネッリの声(もちろん吹き替え)に驚嘆すべきでしょう。本物のファリネッリがレパートリーとしていた曲は、現在のカウンターテノールには声の高さと声質の問題で歌えない。そこで高音域は女声のソプラノ歌手、低音域は男声のカウンターテノールが担当して、それぞれ録音。フランスの電子音楽研究機関「IRCAM」が音声変換を担当して、女声ソプラノの部分の音声フォルマントを男声歌手の声質に近づけ、映画の画面と合成した。映画を観ればこれが男性の声とも女性の声ともつかぬ、ある人工性に気づき驚嘆するはずです! 終盤でのヘンデルの「Lascia Ch\'io Pianga」での、神の領域のような一度も聴いたことのない声! この声(たとえ人工的に生成されたとしても)に圧倒されるようでないなら、歴史コスチューム劇に緻密なストーリーでも期待しながら凡庸な映画を観てればいいんです。制作費と興行収入でも調べながら。
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[011]ボーイフレンド
 アール・デコ美学の再現!スティン・グレー2014-06-20
 
 60年代のサイケデリック・ムーヴメントが終わって、世界的にノスタルジックな、つまり過去の時代への郷愁が盛り上がった時期のそのハシリのような作品。まず20年代のファッシ・・・
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 60年代のサイケデリック・ムーヴメントが終わって、世界的にノスタルジックな、つまり過去の時代への郷愁が盛り上がった時期のそのハシリのような作品。まず20年代のファッション・スタイルが楽しい。内容はミュージカルの舞台のバック・ステージものだが、笑えるほどのパクリ(というかオマージュというべきか)のシーンもある。基本的には1933年に製作されたロイド・ベーコンの『四十二番街』で、『ボーイフレンド』のミュージカルシーンでのカーテンから顔だけ出すところや回転するレコード盤上でのダンス、女性ダンサーの何人もの脚の間をカメラがぬってゆき、その向こうに恋人同士の笑顔が、なんてシーンは全部『四十二番街』からいただいたものだ。  しかもこちらは凝りに凝ったアール・デコのセット。ケン・ラッセルは本気でアール・デコ時代の美学様式を再現したかったのだ。そもそも70年代のアール・デコ再評価はイギリスが最も早かったクチだからケン・ラッセルもめざとかった。歌も20年代のトーチ・ソングのようなものからブロードウェイ風まで揃って、じつに良くできているし、ツィッギーのか細い声は20年代風に良く合っている。ミュージカル舞台は20年代のリゾートの聖地、リヴィエラをテーマに大円団を迎えるあたりも洒落ている。その昔、この映画のサントラ・レコードを買ったが、レコード・ラベルに書かれた曲名がミス・プリントで「リヴィエラが「リベリア」になっていた・笑。アフリカじゃないって。  数年前にイギリスでDVD化されて購入したけれど、日本では出そうもないなあ。
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[012]コニャックの男
 ベルモンド特有の身体性スティン・グレー2014-06-02
 
 ジャン=ポール・ベルモンドの映画は、邦題『リオの男』がヒットしてから『カトマンズの男』、『タヒチの男』と原題に関係なく、ようはベルモンドの冒険シリーズのようなタイ・・・
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 ジャン=ポール・ベルモンドの映画は、邦題『リオの男』がヒットしてから『カトマンズの男』、『タヒチの男』と原題に関係なく、ようはベルモンドの冒険シリーズのようなタイトルがつけられたが、『リオの男』と『カトマンズの男』はフィリップ・ド・ブロカ監督作品。『タヒチの男』はジャン・ベッケル監督。『コニャックの男』はジャン=ポール・ラプノー監督作品。ただし、このラプノーは『リオの男』では脚本を担当しているし、本作のあとではフィリップ・ド・ブロカ監督作品のコメディ『おかしなおかしな大冒険』でも脚本を担当している。 だからベルモンドの立ち居振る舞いは、ブロカ作品のように荒唐無稽で、スタント無しの肉体アクションでで、不死身で楽しい。ベルモンドがどうアクション/コメディを演じるか、すでに十分わかったうえで、書かれたシナリオだ。  ブロカ作品の場合、ベルモンドの無意味な肉体性がものすごく良いのだけれど、こちらは何かがちょっと欠けた感じ。細かなところで良いシーンはたくさんあるのだけれど。観る側がラウラ・アントネッリの登場とともにベルモンドとアントネッリの恋を期待してしまうからかもしれない。ブロカ作品ではアクション/コメディであっても恋愛はひとすじで寄り道がない。こちらは寄り道を想像させてしまったことで、映画の求心力を損じてしまったのかもしれない。でも、70年代までは、こういった楽しいフランス映画がたくさんあった。今はもうこのような作品をフランス映画に期待できなくなってしまったと思うと感慨深い。ドパルデューとリュック・ベンソンがフランス映画から軽快さを奪ってしまった。
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[013]コンスタンス・ベネット
 Sin Takes a Holidayスティン・グレー2014-03-30
 
ポール・L・スタイン監督、コンスタンス・ベネット主演の1930年の作品「Sin Takes a Holiday」がこのデータベースの一覧に洩れているのはどうかと思う。2014/03/30現在。
  
 
[014]フレンチ・ドレッシング
 祝祭的ドタバタコメディスティン・グレー2013-09-05
 
ケン・ラッセルが影響を受けたであろう映画の数々が、見て取れる作品。allcinemaの解説には「プロデューサーの“ジャック・タチ風の作品を”との要請を受けたラッセルはタチの作・・・
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ケン・ラッセルが影響を受けたであろう映画の数々が、見て取れる作品。allcinemaの解説には「プロデューサーの“ジャック・タチ風の作品を”との要請を受けたラッセルはタチの作品を繰り返し観て」とあるが、実際の映画は、あまりタチ風な感じはしない。たとえば主人公のガール・フレンドは、セーラー服を着たりで、どうみてもゴダール映画のアンナ・カリーナ風だ。FFことフランシスをめぐる祝祭的ドタバタは、フェリーニ映画の祝祭性から影響を受けたものだと思う。トリュフォー的な演出も随所にある。映画の挿入やそのなかでのコミカルともいえる演出など。それにドタバタ度やアイロニーでは、どちらかというとリチャード・レスターに近い気もした。この映画よりあとに製作された「ナック」なんかと共通するもの、ようするに時代感覚というものなのかもしれないけれど。 ともかくこの処女作からして、ケン・ラッセルが「セット好き」なのが、よくわかる。山車のパレードからホテル内でのスラップスティックシーンでのセットなど、のちに「ボーイ・フレンド」でみせるとてつもないセットへの萌芽が、すでにみてとれる。ケン・ラッセルは手法が一貫しない監督なので、好きなものとそうでないもにわかれるが、基本的に「愛すべき駄作」が多いと思う。これもそのひとつ。でも、それでいいんだと思う。この映画も1964年頃の、ようするにユース・ジェネレーションの台頭による文化の変動がもろに出ていて、全編、若々しさで溢れている。こんな若さ溢れる映画は、その後のケン・ラッセルは一本も撮っていないと思う。デカダンスやノスタルジーに向かっていってしまうから。
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[015]賭はなされた
 ミシュリーヌ・プレールの美しさ!スティン・グレー2013-08-31
 
ジャン・ドラノワの恋愛ものは、いつもロマネスクな「闘争」だが、サルトル脚本のこの作品ではより明快な階級闘争が持ち込まれる。労働者階級の闘志とブルジョワ夫人が死後の世・・・
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ジャン・ドラノワの恋愛ものは、いつもロマネスクな「闘争」だが、サルトル脚本のこの作品ではより明快な階級闘争が持ち込まれる。労働者階級の闘志とブルジョワ夫人が死後の世界で出会い恋愛となる。ナチス支配下でのフランスを思わせる、というかもろだけれど、そこでのレジスタンス闘争と恋愛感情の葛藤。 こういうことは女が強いに決まっている。愛する男に向けるミシュリーヌ・プレールの言葉はつねに真に迫り、マルチェロ・バリエーロの対応は曖昧となる。ミシュリーヌ・プレールの衣装が最初から暗色で、服が代わっても黒いドレスだったり、バリエーロの服もダーク。他の登場人物、とくにカフェでの若いカップルの華やかそうな服に対比させたような、この衣装デザインは秀逸。 死後の住人に頼まれて現世で虐待されている少女を助けにいくプレールとバリエーロ。そんな小さなエピソードが、このふたりの真の姿を語るところもまた秀逸。 アデューと言って別れるふたりは、悲劇なのにある種の諦念を感じさせて、暗い話とも思えなくなる。ジャン・コクトー脚本の「悲恋」でのギリシャ古典のような光と影の対比的な映像美と、死後の世界を想起させるぼんやりとした暗さが支配するこの映画の映像はかなり違うが、映像のもつロマネスクさがすごく近しく、やはりドラノワの初期作品の悲恋ものは、すごいと思う。
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[016]田園交響楽
 プロテスタントの庇護の下にスティン・グレー2013-08-31
 
 ジャン・ドザイーはトリュフォーの『柔らかい肌』での中年紳士の印象が強いが、それよりも18歳も若い、26歳のときに出演したこの作品では輝くばかりの美男ぶりだ。  冒頭、・・・
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 ジャン・ドザイーはトリュフォーの『柔らかい肌』での中年紳士の印象が強いが、それよりも18歳も若い、26歳のときに出演したこの作品では輝くばかりの美男ぶりだ。  冒頭、雪深い村の一軒家で男とその妻が登場する。二人とも黒の衣服で、いかにも謹厳実直そう。この男がプロテスタントの牧師であることはジイドの原作を読んでないとしてもわかるだろう。大昔の10代のときに読んだ原作はほとんど忘れてしまっていたけれど、見ていくうちに「プロテスタント」ということが物語の主軸にあると、わかってゆく。この歪んだ愛情ってプロテスタントが抱える倫理性そのものが誘発するものでしょう。  オルガンを弾く指、触れあう手、肩に寄せる顔、そしてなによりもミシェル・モルガンの目。そうしたパーツというか部分がものすごく存在感をもって、映画を素晴らしいものにしている。盲目というわかりやすく大きな主題に対してバランスを取るかのように、手の表現が随所に出てくる。クライマックスは、モルガンがドザイーの手を握ったときに感じる驚きのシーン。  ドザイーもモルガンも美の絶頂だ。それでも悲恋にしてしまうのが、フランス人。ラストのモルガンの表情は、目に焼きついて消えないほどの強烈な印象を残す。
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[017]奇蹟は一度しか起こらない
 愛あればこそ・・・ただ愛が・・・スティン・グレー2013-04-25
 
冒頭、24歳、輝かしき青春!のモノローグの背景には大空を翔る軍機の大勢。すでに暗雲たちこめる未来を暗示させる。 ジャン・マレーが薹が立ちすぎていると思ってもしょうがない・・・
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冒頭、24歳、輝かしき青春!のモノローグの背景には大空を翔る軍機の大勢。すでに暗雲たちこめる未来を暗示させる。 ジャン・マレーが薹が立ちすぎていると思ってもしょうがない。物語はいずれ彼の年齢に合ったところに落ち着くだろうと想い馳せればよいのだ。 アリダ・ヴァリも同様。垢抜けない風情は、やがてもっと大人になることを想像させる。 イタリアで二人はまさに輝かんばかりの恋に落ちる。マレーは古代ギリシャの彫像のような美しさだ。傲慢さは彼の側にあり勝利し、ヴァリを勝ち得たかに見えるが戦争が二人を引き裂く。 駅構内での別れ、ヴァリが人混みの中を遠ざかり消えてゆくシーンは圧巻だ。イヴ・アレグレは「美しい小さな浜辺」でも、ラストでカメラが浜辺に何の痕跡も残さずにジェラール・フィリップから遠ざかる名シーンを生んだ。去ってゆく映像に関しては天才的ともいえる。 戦後の再会。すでにあの輝かしさは消えたマレー。艱難辛苦して過去には戻れないと悩む気丈なヴァリ。立場はいわば戦前とは逆になる。レストランで花が話題になり、二人が恋に落ちる直前の花の挿話をマレーが語るのかと思いきや、観光案内の声に殺がれてしまうシーンは胸がつまる演出。 結局、人生とは彷徨なのだ、とイヴ・アレグレは言うのだろう。「美しい小さな浜辺」も「狂熱の孤独」もそうだった。それはフランス映画特有の文体なのだとも思う。
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[018]愛の終焉/カフェ・フレッシュ
 ポルノ映画のニューウェイヴ的金字塔スティン・グレー2013-03-28
 
核戦争による第三次世界大戦後を舞台にした一種のSFポルノ。放射能で汚染されて、性欲はありながらも異性と接触すると嘔吐など肉体的拒否反応の示す人が99%を占め、かれらは「・・・
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核戦争による第三次世界大戦後を舞台にした一種のSFポルノ。放射能で汚染されて、性欲はありながらも異性と接触すると嘔吐など肉体的拒否反応の示す人が99%を占め、かれらは「ナガティヴ」と呼ばれる。残りの1%の「ポジティヴ」と呼ばれる人はふつうにSEXができるが希少であり、国家によって管理された「CAFE FLESH」という一種のキャバレーで、ネガに見せるためのステージでのSEXしか許されない。 全編を「CAFE FLESH」という閉じた空間でセット撮影し、音楽はサンプリング・ミュージック。そしてニューウェイヴ的なポップな色使いの映像や登場人物の機械的動作・・・ポルノという点ではおよそ興奮するのは難しいかもしれない。カルト的な作品に分類されるだろうが、日本でよくいわれるようなカルト作品とも一線を画す。まさに80年代初頭のニューウェイヴ・カルチャーの産物。ちなみに日本で映倫検閲後に出回ったものはカット、ボカシ、その穴埋めのための同映像の繰り返しが多く、オリジナルの良さはかなりそぎ落とされてしまっている。 監督のリンス・ドリームはその後「Night Dreams」や「Party Doll A Go-Go」で、表現主義的ともいえるセットや、レコード盤をスクラッチするような短い反復映像を交える特異な手法を用い続けたが、「CAFE FLESH」以上の出来のものはなく、また興行的にも「CAFE FLESH」以上に成功したものはなかった。監督として活動したのは10年程度である。
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[019]孤独な場所で
 夜とクルマと・・・スティン・グレー2013-03-24
 
グロリア・グレアムがすごく良い。良すぎてなんと言ったらよいのか表現できないくらい。 フリッツ・ラングの「仕組まれた罠」「復讐は俺に任せろ」などでも強く印象に残ったけ・・・
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グロリア・グレアムがすごく良い。良すぎてなんと言ったらよいのか表現できないくらい。 フリッツ・ラングの「仕組まれた罠」「復讐は俺に任せろ」などでも強く印象に残ったけれど、本作のほうが凄かった。不安な心理を露わにするときに片方の眉がつり上がるのがとくに魅力的。 最初のほうで肩から腕までボタンの一杯ついたカジュアルなトップスがお洒落だったが、ナイトガウンも黒のドレスもどれもすごくデザインが良くて、これはもうジャン・ルイのデザインだろう、と思ったらやはりそう。 映画は冒頭の夜の都会を走るクルマのシーンから、モノトーンの美しさとリアリティで唸らせる。ニコラス・レイは「夜の人々」もそうだったが、クルマのシーンはものすごく斬新。とくにそれを夜、撮ると最高だ。
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[020]黄金の腕
 いったいカメラはどこに置かれてたのか?スティン・グレー2013-03-19
 
室内シーンの撮影がほんとうに素晴らしい作品。シナトラがエリノア・パーカーと棲むアパート。まず前半はこの室内でのカメラの縦横無尽さに驚く。カメラがドアの外まで人物を追・・・
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室内シーンの撮影がほんとうに素晴らしい作品。シナトラがエリノア・パーカーと棲むアパート。まず前半はこの室内でのカメラの縦横無尽さに驚く。カメラがドアの外まで人物を追う、あるいは追わない、こうしたショットのすべてに絶妙なリズムがある。登場人物の接点の役目を果たす酒場の撮影もいい。シナトラとマクギャヴィンがこの酒場を出て一緒にアパートに入るまでのロングショットについて他の方も書かれていたが、ほんとうに素晴らしいショット。シナトラがヤクに再び手を出したときのクローズアップに至るまでのピントのボカシ具合も、もう神業的なカメラワーク。 そしてキム・ノヴァクの最初の狭いアパートでのいくつもの長めのカット。いったいカメラはどこに設置したの?的な。そしてノヴァクの次のアパートでのシナトラのヤク切れ禁断症状治療。どういう間取りでセットの部屋を作ったのか?と考え込ませるほどにこの室内撮影もまた縦横無尽で素晴らしい。 ようするにカメラは全編たいへん素晴らしい。 シナトラは好みではないけれど、良い演技。エリノア・パーカーは『探偵物語』が品の良い美女役で良かったが、こちらはしょうもない女を演じて鬼気迫るものがある。 オーディション・シーンでシェリー・マンやショーティ・ロジャーズがチョイ出てくるのがどうという話もあるけれど、レコードで聴けば充分だし、映画で不必要に多く時間を割く必要もなかろうし、と思う。自分もジャズ好きながら。 オットー・プレミンジャーは『ローラ殺人事件』や『永遠のアムバア』のようなハリウッド古典的な映画作法からモダニズム的作法に移行し始めた感じで、それはタイトル・ロールのデザインにソウル・バスを起用している点でも象徴的。数年後にはもっとモダンな『悲しみよこんにちは』を撮るのだから。 キム・ノヴァクは健気だけれどエロかった!
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[021]ラヴレター
 英国の田舎を舞台にした恋愛サスペンススティン・グレー2013-03-19
 
好みにもよると思いますが、ふられてしまうヘレン(アニタ・ルイーズ)のほうが、この映画の舞台である英国の女子のように見えます(ニューヨーク生まれですが)。ふられてしま・・・
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好みにもよると思いますが、ふられてしまうヘレン(アニタ・ルイーズ)のほうが、この映画の舞台である英国の女子のように見えます(ニューヨーク生まれですが)。ふられてしまうのが惜しい美しさ。デイリー(アン・リチャーズ)も英国的な雰囲気を良く出しています(オーストラリア生まれですが)。ジェニファー・ジョーンズが一番、英国娘っぽくないです。ただ、映画が進行するにつれどんどん引きこんでいく強いキャラクターですね。戦時中に書かれた手紙の上に成り立ってしまった恋愛とそのすれ違い、そして殺人事件まで絡むサスペンスへと、よくまとめられています。いままで観たディターレ作品のなかでもかなり良いほうで、カメラもいいし演出のテンポもいい。デイリーの服がいかにも1940年代半ばのスタイルって感じで、ジャケットも、その上に白のブラウスの襟を出したスタイルも良いです。で、このブラウスとダークなタイト・スカート姿がいい(笑) ブラウスの肩などに入った細かなプリーツがすごく美しい! これだけでデザイナーの良さを感じさせます。あるいはアレンとヴィクトリア(ジェニファー・ジョーンズ)の婚約前夜のデートでヴィクトリアの着るコート。すごくいい作りです。その他、女性のファッションは派手ではなくとも素晴らしいセンスで感嘆して、観たあとに調べるとイーディス・ヘッド! ま、パラマウントですからある程度の予算をかけた作品にイーディスが絡むのは当然ですが。 英国出身のクラディス・クーパーがいかにも英国女性的な味を出して、ほかジェニファー以外、それなりに英国的雰囲気を醸し出しているんですが、彼女だけはそれがなく、出身がカナダの孤児院という設定もまあそのあたりを考慮したのか?という気もします。ジュリー・ロンドンもこの主題曲『Love Letter』をのちに歌ってますね。
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[022]快楽
 「快楽」という名の映像の快楽!スティン・グレー2013-02-25
 
第一話冒頭からオフュルスの魔術のような映像世界に引き込まれてしまう。ダンスホールでのカメラの移動が、まるでカメラそのものがダンスしているかのように人々の間を移動し、・・・
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第一話冒頭からオフュルスの魔術のような映像世界に引き込まれてしまう。ダンスホールでのカメラの移動が、まるでカメラそのものがダンスしているかのように人々の間を移動し、少しの間、人物にとどまりまた動き出す。この計算され尽くしたシーンだけで1本の映画を観た興奮を覚えたが、テーマである「仮面の男」の正体がわかるときのクローズ・アップ以降の映像はダンスとは対極の静かさをもってこれまた唸らせる。 ただしあまりに映像に幻惑されてほとんど字幕を読まずに「映像で物語を理解していた」ことに気づく。 第二話の「メゾン・テリエ」は娼館を外から窓越しに移動撮影するところが、覗くような視線で統一されている。しかも人物の動きや鏡への映り方など、すべて計算されつくしていて、まるでワンシーン・ワンショットで映画を作ろうと試みているかのようにさえ感じさせる。 その娼婦たちが休暇で農村に行くシーンの美しさは、まるでジャン・ルノワールの「ピクニック」のよう。モノクロなのに色彩に溢れかえっている!ちなみに閉店している娼館に集まってくる紳士たちの挿話の部分もとても面白いし、ちょっとたわいのない艶笑的なところでもカメラの計算され具合の完璧さは比類ない。 第三話「モデル」でも海岸での男のモノローグがやけにカッコイイと思うと、彼の言葉から語られる画家とモデルの出会うシーンへ。ここもすごい。画家が大階段で女性と知り合い階段を上りきる。ここでカットされるはずだ。ところがカメラは回り続け建物の反対側の階段を降りてくる二人を待つのだ。しかもその間に二人の恋愛が示唆される。同じような映像は第二話の休暇の家でジャン・ギャバンがダニエル・ダリューを部屋に追いかけてゆくところでもカット無しの驚異的なシーンがある。 郊外の散歩のシーンでの木々の間を移動するカメラ。あるいは二人が喧嘩を始めて部屋を横断していろいろ壊してゆくシーンの移動カメラのスペクタクル!でもそれ以上のスペクタクルは女(シモーン・シモン!)が階段を駆け上り窓から・・・カメラも階段を駆け上りつつ、ちらちらと女の影も映すことによってまるでドキュメンタルなシーンででもあるかのようなスピードと緊迫感を与える。 そんなこんなをいくら書き連ねてもきりがない映画である。あまりの映像美に幻惑され、ほとんど字幕がアタマに入ってこなかった。映画の物語よりも映画そのものについて考えさせてしまうという点ではゴダール作品と同じような作用を持っている、というか、良い映画ってそういうものだと思うのだけれど。 オフュルスの他の作品もカメラの流麗さは素晴らしいが、これはちょっと濃すぎた。 しばらくはどんな映画を観ても退屈に思えてしまうのでないかと思えて怖い。もう誰もこんな映画は撮ってくれないだろう。
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[023]夜の人々
 斬新な映像美とストイシズムスティン・グレー2013-02-17
 
1974年の「ボウイ&キーチ」は公開時に観て大好きな作品だったが、ニコラス・レイの本作がオリジナルにあたるものだと知ったのはつい最近。ムショから脱走してきたボウイ、田舎・・・
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1974年の「ボウイ&キーチ」は公開時に観て大好きな作品だったが、ニコラス・レイの本作がオリジナルにあたるものだと知ったのはつい最近。ムショから脱走してきたボウイ、田舎町で飲んだくれの父と暮らす少女キーチー。その世界からの脱出を願う心理は1930年代のアメリカの田舎町の貧しさという歴史的事実を知っていれば、無理なく理解できるものだ。 キーチー役のキャシー・オドネルが素晴らしい。当時のハリウッド映画では主役にならなそうなところを起用したのがすごく新鮮。そもそも冒頭のクルマが疾走するシーンを空撮したところでグッとくるのだが、あとあとまでクルマが走るところは空撮。夜道を走るクルマの内部からの撮影なども素晴らしく、その映像センスだけでも1960年代に入るころに作られた映画?と錯覚させる。48年製作とは思えない新しさなのだ。 ボウイとキーチーが出会ったときキーチーのクルマに映じるのは網状のフェンスの陰。いかにも殺伐とした閉じた世界の様相。ふたりがハネムーンに行き、郊外のペンションを借り、玄関にキーチーが立ったとき家の壁面に映じるのは森の葉陰。こうした映像対比が計算されつくしている。ラストシーンのストイックな映像もまたしかり。地味だったキャシー・オドネルがどんどん洗練されて美しくなってゆく姿を見ていると、結末はすでにわかっていても、そうあって欲しくないという感情ばかりがいやましてゆく。クローズアップの映像のどれもがまた美しい。
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[024]奥様は魔女
 77分間、笑った!スティン・グレー2013-02-17
 
冒頭、大昔の魔女の火あぶりの挿話から始まるが、魔女を火刑台に送った男がいかにもピューリタンな帽子を被っていて、しかも魔女の金髪の魅力を語るところから笑わせる。その冴・・・
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冒頭、大昔の魔女の火あぶりの挿話から始まるが、魔女を火刑台に送った男がいかにもピューリタンな帽子を被っていて、しかも魔女の金髪の魅力を語るところから笑わせる。その冴えない許嫁の名がピュリティ。ピューリタンと純潔をもう笑い飛ばしている。魔女と父が20世紀に復活してそのピューリタン男の子孫に復讐するのが話の骨子だけれど、復活しても煙状態の魔女(レイク)は身体が欲しいと言う。肉体を持つには火事を起こす、という魔法によって燃やしてしまうのが「Pilgrim Hotel」という名のホテル。フランス人クレールは、相当にピルグリムファーザーズの末裔=アメリカ人を笑い飛ばしている感じ。でも、アメリカの映画館でもこれはみんな腹をかかえて笑ったことだろう。 ヴェロニカ・レイクの美しさは絶品なのだが、クレールはハリウッド的なズームアップを嫌ったのか、案外にアップのシーンは少ない。もともとスタンダード・サイズで撮られたようだが、登場人物の頭が微妙に画面から切れているところはずっと気になった。元のフィルムは違ったのだろうか? でも、ずーと笑いっぱなしだったからそんなこともどうでもいいのだ。のちのTV化のほうが有名でそっちの印象がインプットされていて今まで観なかったけれど、これは大傑作!衣裳はパラマウント専属のイーディス・ヘッド。別にフランス人監督だから衣裳がいいわけじゃないです(笑) ヴェロニカ・レイクの最も有名なブロマイドの1枚にブラックのトランスペアレンシーなドレスを着たものがあるけれど、それってこの映画に登場したものでした。さすがのイーディス。レイクのパジャマ姿も可愛い。80分弱で終わってしまうのがとても悲しく思えてくるほど、観るものを幸福な気分にさせてくれる愉快な映画。
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[025]乙女の湖
 青春の彷徨スティン・グレー2013-01-20
 
1930年代半ばの保養地でのファッションがよく描かれていておもしろい。同じ時期に写真家のSeeberger兄弟がリゾート地で撮ったファッション・スナップ写真集にも通ずるところが・・・
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1930年代半ばの保養地でのファッションがよく描かれていておもしろい。同じ時期に写真家のSeeberger兄弟がリゾート地で撮ったファッション・スナップ写真集にも通ずるところがある。貧しいジャン・ピエール・オーモンもお洒落に見えるし、シモーヌ・シモンの可愛らしさは絶品だ。 美男のオーモンがかつての彼女を部屋にかくまうシーンでは、この時期にこれほどヌードを出してよかったのかと驚くくらい。まだあどけないシモンにもかなりエロティックに感じさせるシーンがある。一番退屈に見えたのは本命のロジーヌ・ドレアンだったかもしれない。 ちなみに監督のマルク・アレグレはゲイでもあったから美男J・P・オーモンの撮り方はかなりのもので、その映像を観ているだけで監督のセクシャルな気分が伝わってきそうだ。 オーモンとドレアンの水着シーンは、ファッション・オトグラファーのジョージ・ホイニンゲン・フューンが撮った有名な写真とそっくりだが、関係あったのだろうか? 映像には良いところがたくさんあるが、演出やカットや繋ぎが粗い。まるで新米監督作品という風情。イヴ・アレグレの「狂熱の孤独」に近いものを感じたけれど、時代的には20年も隔たりがある。フランス映画は貧しく彷徨する青年像というのが、昔から好きだなあと良くも悪くも感じさせてくれる。
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[026]七月のクリスマス
 消費への欲望と広告とオフィスの時代スティン・グレー2013-01-16
 
フリッツ・ラングの「真人間」に2年遅れて製作されたようだが、どちらもアメリカ大衆の「消費」へ熱狂の片鱗が伺え、1950年代の大量消費以前にすでにそれが「欲望」としては十・・・
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フリッツ・ラングの「真人間」に2年遅れて製作されたようだが、どちらもアメリカ大衆の「消費」へ熱狂の片鱗が伺え、1950年代の大量消費以前にすでにそれが「欲望」としては十分に顕現していたのだと納得する。 お金と消費の夢物語がどんどんテンポを上げてあらぬ方向に行ってしまう描写の小気味よさ。それが一転、シリアスな話に変わるうまさ。そしてラスト近くで黒猫が出てきてからのいくつかのシークェンス。カメラがパンすると窓から出ていきなり遠くのビル内に展観されてゆく映像の驚くべきスピード感やエレベーターが下がるときその内部からカメラが床の黒猫の目にフォーカスしてゆくところなど、スタージェスの映像感覚にも驚かされるのだ。 冒頭の屋上での恋人同士のシーンも遠景にはニューヨークの夜景をスクリーン・プロセスで映し出し、二人が階下の住人を見下ろすと歩道の人々の行き交う姿、というあたりの映像の交差も凝っている。スタージェス作品は話術の巧みさばかりに目がいってしまいがちだけれど、映像もまた一流だ。
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[027]サリヴァンの旅
 映画にこれ以上の何を?スティン・グレー2012-12-17
 
主人公の映画監督が放浪の旅に出てすぐに始まるクルマでのスラップスティック・コメディ的なシーン。その極端に短いカットの積み重ねだけでも感嘆に値するし、ポリスのバイクが・・・
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主人公の映画監督が放浪の旅に出てすぐに始まるクルマでのスラップスティック・コメディ的なシーン。その極端に短いカットの積み重ねだけでも感嘆に値するし、ポリスのバイクが通り過ぎるシーンはゴダールが「勝手にしやがれ」で引用しただろう。 このシーンと対をなすのが、終盤でサリヴァンの死亡記事新聞を持ってヴェロニカ・レイクが撮影所内を猛スピードで走るシーン! イーディス・ヘッドの衣裳デザインも相まって、こちらもかなりのスペクタクルだ。 「後半がシリアスで」という意見もあるが、そのシリアスな話を深めるために前後のスラップスティックなシーンがあり、スタージェスがコメディを愛した名手だとしても、彼にはシリアスな問題を扱う手腕があったということでしかない。 ヴェロニカ・レイクのとてつもなくクールな美しさ。それが一変してハンチングを被って浮浪者のようになるシーンのとてつもない驚きとチャーミングさ。二人の放浪者の湖畔の宵での絵画的シーン。鉄道事故シーンの明暗の対比。黒人宣教師が出てくる教会・・・当時、こうした黒人教会を描く映画がどれほどあったことか!・・・そしてディズニー映画に笑う顔・顔・顔。くだらない即物主義を遵奉する者はリアリティに欠けるというが、あのシーンはどうみても「象徴」として撮ったのであり、最初からリアリティなんて考えてないでしょ。 まあ、こういうシーンを「映画的」として見れない人たちは、何を映画に望むのだろう? 無際限のリアリティか、最後までバカ騒ぎだけのコメディか? いずれにしてもプレストン・スタージェスは、その「器」には収まらなかったということだ。
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[028]風と共に散る
 すれ違う愛の悲劇スティン・グレー2012-10-28
 
冒頭、猛スピードで走りながら豪邸の前に止まったクルマ。男が乱暴に邸内に入り、開け放たれたままの玄関からは、木枯らしによる枯れ葉が豪邸の床を埋めるかのごとくこの邸に似・・・
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冒頭、猛スピードで走りながら豪邸の前に止まったクルマ。男が乱暴に邸内に入り、開け放たれたままの玄関からは、木枯らしによる枯れ葉が豪邸の床を埋めるかのごとくこの邸に似合わない室内シーンを作り上げる。 もうこれだけでもいいだろう。素晴らしいシーンだし、出だしはヒッチコックばりのサスペンステイスト。 サークはメロドラマ、っていう印象が強い、それは植え付けられた面もあるけれど、本作はメロドラマの本流からは逸脱している。サスペンス的な部分や家族の確執と崩壊が恋愛とは別の大きな主題になっているからだ。 あとサークの映画のなかでもこの作品は、「あ〜このクライマックスで終わりだろう」と思っても続きがある。冗長なのではなく、クライマックスのあとにまた最後の円団をもってくるような技法で、そこが見事に成功している。 浮薄なドロシー・マローンはラスト近くの裁判のシーンでの名演技で、なんとあのバコールを喰ってしまった感じ。サークは他の作品ではあまりパッとしなかった女優を光らせるのがうまい。 最後、マローンが石油王の父の企業を嗣ぐかたちで、掘削やぐらの模型を背後の父の肖像画の通りに愛玩するするシーンは「男根象徴」にみえた。マローンは父の死から矢継ぎ早に兄を失い、さらには幼少時から愛する主人公ミッチ(ロック・ハドソン)を失うのだから。孤独な身となって事業を引き継いだマローンにとっての愛は、掘削やぐらとなり、それは彼女にとって男根象徴となるわけ。 もちろん保守的な50年代アメリカで、そう考えて作られたわけではないだろうけれど、自然に出てしまった感じ。 美術は最高。バコールのデスクにはプードル人形が置かれていたり、50年代の流行の細部がこの映画から学ぶことができる。サークも職人的でありながら芸域が広い。
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[029]姦婦の生き埋葬
 ビデオのタイトルは「早すぎた埋葬」。スティン・グレー2012-09-28
 
ロジャー・コーマンによるエドガー・アラン・ポー原作シリーズのひとつで陰鬱な館、その邸内での少人数の配役によるサスペンス・スリラーと、このシリーズではおなじみの作風。 ・・・
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ロジャー・コーマンによるエドガー・アラン・ポー原作シリーズのひとつで陰鬱な館、その邸内での少人数の配役によるサスペンス・スリラーと、このシリーズではおなじみの作風。 コーマンは「アッシャー家の惨劇」でのクライマックス・シーン、火事による邸宅の崩落映像を「忍者と悪女」のラストでも使い回ししていたけれど、本作での邸内も他の映画のセットとしても使ったかのような感じ。どこか見覚えがある。 まあ、そういう低予算映画作りにかけては天才ですから。 「恐怖の振子」や「赤死病の仮面」、「黒猫の棲む館」なんかと設定は近いけれど、出来はこれらの作品よちょっと落ちる感じでした。ラストの種明かしに至るまでが思わせぶり過ぎたというか、歯切れがいまひとつ。 登場人物(この映画ではレイ・ミランド)が棺桶に入った内部を撮るというお得意のシーンは、他の作品と同様、青や赤の照明と煙が錯綜しミステリアス。この手法にハマってしまったがために、のちにどサイケな「白昼の幻想」で、トリップ映像を作ってしまったのではないでしょうか。
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[030]ヘンリー・キング
 マリー・ギャラントスティン・グレー2012-09-28
 
このデータベースでは、1934年に制作された「Marie Galante」が抜け落ちている。 http://www.imdb.com/title/tt0025472/ スペンサー・トレイシー主演だし、日本でDVDが流通して・・・
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このデータベースでは、1934年に制作された「Marie Galante」が抜け落ちている。 http://www.imdb.com/title/tt0025472/ スペンサー・トレイシー主演だし、日本でDVDが流通しているのに。
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