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 「マーク・レスター」さんのコメント一覧 登録数(37件)rss
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[001]ディア・ドクター
 ポータブルDVDによる車内鑑賞レビューマーク・レスター2013-09-21
 
失踪した 医者・鶴瓶を巡って、      【 現在という時制 】 においては、第3者による評価を元にして             【 間接的人物像 】  ・・・
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失踪した 医者・鶴瓶を巡って、      【 現在という時制 】 においては、第3者による評価を元にして             【 間接的人物像 】  を。           【 少し前の時制 】 では、医療に従事する姿を直接目撃することで                                              【 主観的人物像 】  を。 それぞれ、2つの時制 によって提示される、この 2つの人物像 を 足掛かりにして、今作に発生していく             【 失踪の謎 】 と 【 診断の謎 】 。       この 2つの 「謎」 を 推理する楽しさに満ちた鑑賞となりました。 また、 「問題提起」 は、する。            ↓              でも、「暗い」 まま終わらせない。                           ↓                           しかし、「問題解決」 は、しない。        というユルイ立ち居地が、何故かしら心地良く感じた。                                                そんな不思議な映画でした。 無医村に赴任していた医者が姿を消し、彼に医療を支えられていた村人達や、行方を捜索する刑事、そして、共にこの村の医療に携わっていた看護士と研修医が彼を探すところから物語は始まります。 姿を消すことになる医者を 笑福亭鶴瓶 が           “人間味溢れる” 部分を基調にして、 姿を消すことになる          “謎” の部分を醸し出しながら                              演じていきます。 ベテランの看護士は余貴美子。 アカデミー外国語映画賞を受賞した 「おくりびと」 で演じた役柄を思い出しました。 「おくりびと」 では、主人公の モックン と、葬儀社の社長 山崎務 の2世代間を繋いでいく役どころでしたが、今作においても、 鶴瓶 演じる姿を消す医者と、都会的な匂いを発散させながら登場する若き研修医との、     2世代間の隙間を埋めていく役どころ                      になるのか注意していきたいと思ったのです。        で、研修医は赤いスポーツカーに乗って 瑛太 がやって来たのです。   この医療スタッフに、村人達。そして、行方を捜索する刑事達を織り交ぜながらストーリーは展開していきます。 映画が進んでいく中で鑑賞者は、 【 現在の時制 】  において、 失踪した 医者・鶴瓶 に対する、                 第3者からの証言を元に、医者・鶴瓶 という人間の                   【 間接的人物像 】 を形作り、 【 少し前の時制 】  では、 看護士、研修医と共に農村医療に                  従事していく姿を直接目撃しながら、医者・鶴瓶 の                 【 主観的人物像 】 を創出していくのです。 そして、 【 2つの時制 】 の行き来で生成した、この 【 2つの人物像 】 を手掛かりにして、今作に発生していく 【 2つの謎 】 を追いかけることになるのです。 まずは、第1の謎   ”なぜ 医者・鶴瓶 は失踪してしまったのか?”   という 【 失踪の謎 】 に取り掛かる訳ですが、  【 少し前の時制 】  において、興味深いシークエンスがあったので、言及してみたいと思います。 老人の臨終の席において、延命機器を装着しようと提案する 医者・鶴瓶 に対して、          その措置を家人が辞退。 その後、明らかに、その老人の介護を押し付けられていたと思われる、地味で薄幸そうなお嫁さんの          怯えたような複雑な表情                               を今作は捉えたきたのです。 完成版はこちら    ↓
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[002]ハート・ロッカー
 ポータブルDVDによる車内鑑賞レビューマーク・レスター2013-03-23
 【ネタバレ注意】
今作は、冒頭に掲げた言葉、  「戦争は麻薬である」  を     セミマクロな  “ヴィジュアル・インパクト”  や     おぞましい   “ストーリー・インパクト・・・
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今作は、冒頭に掲げた言葉、  「戦争は麻薬である」  を     セミマクロな  “ヴィジュアル・インパクト”  や     おぞましい   “ストーリー・インパクト”   を駆使して                                     多重的に訴えてきました。 そして、苛立ちを覚えた     「 “無駄な時間” を 時間を掛けて描く 」   ことや       ヌルイ と感じてしまった展開         こそが 【 ( 「戦争は麻薬である」 ことを訴求する ) 今作自体が、                           観る者のモラルを壊していく 劇薬 】                                                 であったことを、                 深く、 にぶく、 訴えてきたのです。 このように、戦争の異常さを 「体感的」 に鑑賞者の精神に植込むという側面においては、         比類のない映像作品だった。                                と、評価を致します。 映画史における 戦争モノ をステロタイプに言ってしまうと ■ 第二次世界大戦は、        “華やかな勝利”  に沸き立って 「史上最大の作戦」 「ナバロンの要塞」 「バルジ大作戦」 などの、戦争スペクタクル というジャンルを創出。 愛国心を煽って、高揚感をもたらしました。   ( しかし、 1953年 の段階で  第2次世界大戦の戦勝国でありながら、     軍隊内のモラル崩壊を訴求してきた 「地上より永遠に」 という先駆的な    作品があったことを追記しておきます。 ) ■ ベトナム戦争は        “泥沼の末の撤退”  の汚辱を受けて 「ディアハンター」 や 「地獄の黙示録」 「プラトーン」 等のビッグネームによって 阿鼻叫喚の中での “精神崩壊” が盛んに訴求されました。 ■ この流れを汲んで今作が捉えた、イラク戦争映画というものは       “戦争後の、自爆をも視野に入れたテロ攻撃”                               を受けての              “自我の変質” や “性格の急変”                               という               「 人格変容 」                                                              が訴求された。                                        と受け取ったのです。 ここには、第2次世界大戦における輝かしき “勝利の興奮” の 華々しさ や、 ベトナム戦争における エキセントリックな   “精神崩壊”  という毒々しさもありません。 直接的な戦いが比較的短期間に終結。 しかし、その後の          “自爆をも視野に入れたテロ攻撃”                                     に晒された結果の、          “自我の変質” や “性格の急変”                                     という    地味な、               「 人格変容 」                                      に見舞われただけ                                      だったのです。 しかし、今作において一番興味深く感じたのは、 この              「 人格変容 」  は “映画の中の人間” のみならず、それを見ている             “映画の外の人間” をも、                            蝕んでいったことだったのです。 制限文字数では語り切れず。完成版はこちら http://ouiaojg8.blog56.fc2.com/blog-entry-104.html
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[003]ゴッドファーザーPART II
 ポータブルDVDによる車内鑑賞レビューマーク・レスター2013-03-23
 【ネタバレ注意】
2代目・マイケル の “その後” と、 父親・ヴィトー の “若かりし日” が 交錯し、 この二つの時代を横断する        「感情の相似 ― 似ている点」  と ・・・
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2代目・マイケル の “その後” と、 父親・ヴィトー の “若かりし日” が 交錯し、 この二つの時代を横断する        「感情の相似 ― 似ている点」  と         「環境の相違 ― 違う点」     が絡み合いながら、“成長と成功” を堪能できるもの、 と期待していました。 しかし、      「感情の相似 ― 似ている点」    は跡形も無く消え去り、      「環境の相違 ― 違う点」      のみが強調され、      “憐れなほどの格差”         に苛まされることになります。 第一作目からの感情を断ち切るような 「2代目・マイケルを襲う過酷さ」 と、       2つの世代を縦横無尽に行き来する見事な 「2つの時制のラビリンス」 が、       今作が第一作目とともにアカデミー作品賞に輝いた要因だ、と断言します。                  実に、残酷で芳醇な逸品だったのです。 前作 第1作目の 「ゴッドファーザー」 において、2代目を継いだ          マイケル の “その後の物語” と、 一代で ”ファミリー” を立ち上げた マイケルの父親         ヴィトー の “若かりし日の物語” がリンクする、           非常に意欲的な構造を今作は成しています。 そんな今作のファーストカットは、トランペットの哀愁を帯びたメロディと共に、ゴッドファーザーとしての役割を “物憂い” 表情で行っている 二代目・マイケル を映し出してきたのです。 この時点で、ボクは           今作の性向を察知                        するべきだったのです。 ファーストカットからして、 マイケル は           “物憂い” 表情  という、                         判りやすい態度でいてくれたわけですから。 【 父親・ヴィトー の大帝国を引き継いだ 三男・マイケルの “その後の物語”            と   父親・ヴィトー の “若かりし日々” がリンクしてくる。 】  そんな今作のプロットから推測して、ボクは、二つの時代に展開していく “成長と成功” を体感できるものと、            大きな勘違い                        をしてしまったのです。   一方は、“成長と成功” を獲得していくが                       他方は真逆の悲惨な状況に陥っていく。                                                 今作はそんな、過酷な展開をしていったのです。 この皮肉なストーリーを今作は、ある “象徴的なモノ” に託してタイトルバックに 結実させていたのです。              “象徴的なモノ”   それは、 マイケル が座っていた               書斎の 重厚な椅子。 その年季の入り具合から、先代・ヴィトー の時代から使われ続けている物だと推察することができます。 先代・ヴィトー の様々な局面を身近に見守ってきて、これからの 2代目・マイケル の諸行を目撃していくこの椅子こそが、           2世代の物語を俯瞰していく                 今作のタイトルバックに、最適な被写体であったのです。 しかも、椅子というモノが暗示する事柄を考えると、その想いはひときわ重くなるのです。    椅子が暗示するもの                それは、 「地位」 。    若かりし ヴィトー  が如何にしてこの 「地位」 を築き、   若き   マイケル が如何にしてその 「地位」 を保つために、悲惨な人生に               堕ちていくのか。 そんな今作の世界観を象徴するこのタイトルバックに、                   ボク は早々に映画的興味を駆き立てられたのです。
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[004]サマーウォーズ
 ポータブルDVDによる車内鑑賞レビューマーク・レスター2011-02-06
 【ネタバレ注意】
今作は     「重力から解放された、静謐なる横移動」 と     「1カット内で共鳴する、2つの時空間」 のように            アニメならではの表現・・・
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今作は     「重力から解放された、静謐なる横移動」 と     「1カット内で共鳴する、2つの時空間」 のように            アニメならではの表現手法を駆使した           “神がかり” 的な映像世界を提示してきました。    しかし、 「山奥」 での 「血族による 【情】的コミュニケーション」 と  「ハイパー世界」 での 「匿名性による無関心・無責任コミュニケーション」      の対位律をしっかりと強調することができず、      登場人物の 【情】 的 なメロディ をも                        歌い上げることができなかった 結果、      構造的に、そして感【情 】的にも、                       マスターピースに成り得なかった                                    残念な作品。                                                                                と結論付けさせていただきます 「オズ」 という 巨大なインターネット世界から今作は始まっていきました。  そこは企業や自治体までもがインターネット支店を出すほどの、想像を遥かに超えた規模の 「サイバー社会」 であったのです。 しかし、そこにはカラフルで可愛いらしい 夢の世界 が展開されていました。 ハイパーな世界でありながら、ちょっとチープな可愛らしさが同居する。 そんな      ジャパニメーション の世界観が提示され、                           今後の期待が膨らんでいったのです。 このオープニングを経て、現実社会の高校へと舞台は移っていきます。 数学オリンピックの日本代表 に成り損ねた今作の主人公 ケンジくん が、憧れの ナツキ先輩 のフィアンセ役を演じるために、長野の山奥 に里帰りするという、少年サンデー の青春マンガを彷彿とさせるようなストーリー展開を見せていきました。 それは   “男の子と女の子がちょっと特別な環境の中で、共通の体験を通して、    特別な感情を分かち合う”                                   みたいな。       思春期の男の子にとっては眩し過ぎる世界観と言えるでしょう。 このような、青春マンガ のちょっと ヌルイ時間を経て、やがて今作は本題に突入していきます。 「オズ」 の世界に 「ラブマシーン」 という Ai (人工知能) が不正侵入し、「オズ」 内に移設された様々な制御を混乱に陥れてきたのです。 ここにおいて、今作の世界観を貫く絶対法規とも言える “映画のルール” が提示されてきたのです。  それは、  “「オズ」 の世界はバーチャルでありながらも、実社会の様々なインターフェー   スとなっており、混乱はインターネット上のことに留まらず実社会に直接的な   ダメージを与えていくのだ。”                                  というモノなのです。 この、“実社会へのダメージ” は、交通、水道、救急車両要請 という 「社会インフラの混乱」 というカタチで具現化されていったのです。 この事態を、コンピュータ社会特有の “アカウント” という考え方で捉えると、今作の 題名 「サマーウォーズ」 の  “ウォーズ = 戦争”  に直結する説明がなされたのです。 それは、大統領の アカウント を不正使用した場合、 「核爆弾の発射さえもできる」  というものでした。 (まさか、そんな重大事案のスイッチがこんなオープンな場にあるとは考えられませんが) 制限文字数で語りきれず、完成版はこちら     ↓
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[005]洲崎パラダイス 赤信号
 ポータブルDVDによる車内鑑賞レビューマーク・レスター2010-11-04
 【ネタバレ注意】
今作は      「 予見 の 提示 」  →  「 予見 の 裏切り (トラップ) 」                                ↓    ・・・
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今作は      「 予見 の 提示 」  →  「 予見 の 裏切り (トラップ) 」                                ↓      「 予見 の 具現化 」   ←   「 トラップ の 途中放棄 」                    というプロセスを推移していく、2つの事例を織り交ぜながら                表面的なストーリー展開と並行する、この      「制作者の文脈」 を推理する楽しさ   に満ちた鑑賞となりました。 そして、川島雄三 という天才が、      日陰者の視線から      日本の近代化と経済成長の 「予見」 を                     語っていたことに対して 、         社会学的な価値を見い出せた作品。  と、評価します。 序盤早々、今作の主人公が登場するファーストカットに        ボクの映画的興味は                     強く惹き寄せられていきました。 それは、  “一人の女がタバコ屋で一箱のタバコを買う”   という、 ありきたりなカットなのですが、 そのタバコは自分の為ではなく、男の為に買った物であり、 無けなしのお金で買ったことがわかってくるのです。 この後に続く隅田川の橋の上での会話から、この男は        生活力の無い ダメな 男                             であることがわかり、 タバコを買った女は、器量と度量を持ち合わせていながらも、        この ダメな男 と離れられることができない 女                             であることもわかってきます。 このズルズルとした関係性が、先の、 「無けなしのお金を使って、男の為にタバコを買ってあげてしまう女」 の姿に         見事に集約されていた                           と、感心してしまったのです。 一文無しとなった二人は、洲崎に流れて来ます、 「洲崎」 とは、かつて深川にあった 赤線地帯 で、そのエリアに入って行く門が     「 洲  パラダイス  崎 」  という                     電飾看板となっており、                     その看板コピーが今作の題名となっているのです。 しかし、二人は  「 洲  パラダイス  崎 」  の門をくぐる直前に、その手前にある 一杯飲み屋 の厄介となることになります。 ここでも、先の 「タバコを買い与える」 シーンのように、      「関係性」 や 「今後の展開」 を 暗示する                           シークエンスが用意されていたのです。 女はその 一杯飲み屋 で働けることになったが、男の働くあてがない、という状況下で、 所在無く 一杯飲み屋 の居間で、お店が引けるのを待っている男ですが、 お店の二人の息子達にメンコ遊びの邪魔だと邪険にされ、布団を敷く作業によって、追い出されるように居間から出て行く、というシークエンスがありました。 これによって、ダメな男 の居場所のない状況が       ここ、洲崎直前のエリアにおいても展開 していくことが、                                    推測できるのです。 「タバコを買い与える」 ショットや、この 「男の居場所が無い」 シークエンスにおいて、 「関係性」 や 「今後の展開」 をインプットしてきたことに対して、ボクは今作の構造の確かさを認識したのです。 制限文字数では語りきれず 完成版はこちらまで     ↓ http://ouiaojg8.blog56.fc2.com/blog-entry-98.html
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[006]スラムドッグ$ミリオネア
 ポータブルDVDによる車内鑑賞レビューマーク・レスター2010-06-13
 【ネタバレ注意】
今作は  ■ 「生命力に満ちたインドの民衆」    VS   「前近代的で陰鬱なインドの現実 」                             という 凄・・・
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今作は  ■ 「生命力に満ちたインドの民衆」    VS   「前近代的で陰鬱なインドの現実 」                             という 凄まじいほどの陰影の差に瞠目し、  ■ 「取り調べ室」    ⇔    「クイズ$ミリオネア」   ⇔    「ジャマールの半生」      (現在)            (ちょっと前の現実)            (過去)                             という 3つの時空間を縦横無尽に                             行き来していく構造に狂喜しながらも、  ■ ジャマール   →   「クイズ$ミリオネア」   ←   ラティカ                             という 終盤の盛り上がりを捻出できた構図                             までもを            活かすことができなかった、残念な映画。                             と、勇気を振り絞って発言させて頂きます。 主人公である ジャマール へのインド警察の尋問から今作は始まっていきました。 「クイズ$ミリオネア」 での連続正解が不正では? との疑いでの取り調べなのですが、 これが酷い。   確証もないのに、暴力で自白を強要してくるのです。 これがインドという国の実体なのか!  という疑念を開始早々、持ってしまったのです。 今作は冒頭からして      「生命力に満ちたインドの民衆」  VS  「前近代的で陰鬱なインドの現実」                                           の対比のうちの、 まず、  「前近代的で陰鬱なインドの現実」  という              否定的な側面から                                 映像世界を語り始めてきました。 そしてこの横暴なる尋問に対して、意図的にカットバックを当ててきたのが、 必要以上にデコラティブな  「クイズ$ミリオネア」 の収録スタジオ の場面。                                               だったのです。         「殺風景な拷問部屋」  と  「煌びやかなTVスタジオ」            この趣きを異にする場所において、  一方は 「尋問」。  片や 「クイズ解答者の紹介」    という、同様の質問を全く違うニュアンスで連動させてきたことに、ボクは強く興味を持ったのです。 そして、この拷問部屋での出来事と、 「クイズ$ミリオネア」 司会者の不遜な態度がカットバックされる険悪な中に          救いの一瞬を                            目撃することになったのです。 それは、 「黄色い洋服に身を包んだ若い女性」 が微笑みながらこちらを見上げている、 というカットでした。 拷問部屋での重い時間と、番組司会者の小バカにした態度に気分を悪くしたところに、この鮮やかなカットが挿入されてたのです。 冷酷で冷淡な時間帯にこのような鮮明なショットが挿入されたことで、鑑賞者はこの  「黄色い服に身を包んだ女性」 が          大きな意味を持つ、ことを                         直感的に理解するのです。 そして、すぐに 「黄色い服を着た女性」 で感じた同じ高揚感に再会することになるのです。 感電拷問の陰鬱な雰囲気を打ち破るように、今作のオープニングタイトルが、溢れんばかりの生命力を発散させながら始まったのです。         この躍動感が実に、素晴らしい 打楽器を利かせたエスニックな音楽に乗せてスラム街を疾走していく子供達と監視員とのチェイスは、子供達の生きる力がみなぎっていて、ただ、それだけで心を揺さぶられ、意味もなく、涙ぐんでしまうほどでした。 それが、今作の主人公 ジャマール の子供時代の姿であったのです。 制限文字数では語り切れず、完成版はこちらまで    ↓
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[007]ベンジャミン・バトン 数奇な人生
 ポータブルDVDによる車内鑑賞レビューマーク・レスター2010-03-28
 【ネタバレ注意】
序盤で察知した3っつのマイナス要件、       1.ブラッド・ピットが 「ブラピ」 でなかった。       2.監督の不可解な自制       3.非連続的な・・・
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序盤で察知した3っつのマイナス要件、       1.ブラッド・ピットが 「ブラピ」 でなかった。       2.監督の不可解な自制       3.非連続的なキャラクター付けの予感                          を今作が改善していくのか否かが、                          ボクの鑑賞テーマとなりました。 そして、序盤早々に激しく心を動かされた        「逆行する大時計」 による          芳醇なる映像世界が ラストの8分において、         怒涛のように押し寄せてくる快感に                         身をまかせる鑑賞となったのです。 今作のレビューを始めるにあたって、まずは序盤早々に心を揺さぶられた         「逆行する大時計」                                           について語る必要があるようです。 今作の主人公であるブラッド・ピットは、老人の身体で産まれきて、歳を取るごとに若返っていく役どころなのですが、そのコンセプトを         前奏曲のように奏でる                        珠玉のシークエンスが、                       「逆行する大時計」 であったのです。 このシークエンスは、戦争で一人息子を亡くした時計職人が市の依頼によって 「大時計」 を製作する内容となっているのですが、その時計職人が完成させたのが         通常の 時計廻り ではなく、         反時計廻り に動く時計                        であったのです。 その完成披露式典において、反対に向かって動き出した 「大時計」 に驚く人々に向かって、演説台の彼は         「時を戻せば...  戦死した若者が帰って来る。」                               と静かに語るのです。 この演説のシーンに挿入されてきた映像こそがボクの映画的興奮をかき立てていったのですが、その映像は 「戦死した若者」 が戦場において敵陣に突入をしているスローモーションカットだったのです。 これだけでは、ありきたりな展開なのでしょうが、その映像が、まるで時を戻す 「大時計」 に従うかのような        巻き戻し  ― 逆回転映像 ―                           となって提示されていたのです。 本来ならば       “「左」から「右」にかけて兵士達が銃弾を避けて敵地に突入する”                               映像となっているのでしょうが、 それが逆回転映像となっているので、        移動の方向は 「右」 から 「左」 へと、        兵士達の向きは 「後ろ向き」 へに変更され、         “「右」 から 「左」 へ敵地から離れて行くように、                       何故か 「後ろ向き」 に兵士達が逃げている”                                  不思議な映像となっているのです。                       大きな違和感を抱えながら観ていくと、すぐに               「そうだったのか」                                と息を飲んでしまったのです。      “「右」 から 「左」 へ敵陣から 「後ろ向き」 で逃げて行く”                         彼らですが、気が付くと                         敵陣から逃げて行く兵士が増えていくのです。 制限文字数で語りきれず、完成版はこちらまで    ↓ http://ouiaojg8.blog56.fc2.com/blog-entry-95.html
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[008]おくりびと
 ポータブルDVDによる車内鑑賞レビューマーク・レスター2010-02-13
 【ネタバレ注意】
今作を 「フラガール」  や  「スウィングガール」 、 そして 「 ウォーターボーイズ 」 に 「 Shall We ダンス? 」 。 同じ モックン 作品では  「シコ・・・
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今作を 「フラガール」  や  「スウィングガール」 、 そして 「 ウォーターボーイズ 」 に 「 Shall We ダンス? 」 。 同じ モックン 作品では  「シコふんじゃった。」  のように  「納棺師」 という未知なる種目にチャレンジしていく      「パフォーマンス系映画」 の一種                        のようなものだと早合点していました。 実際は、 「納棺師」 となったことによって父親という大きなトラウマを克服していく、       「魂を救済する」 物語                                  であったのです。 でも、導入部は「パフォーマンス系映画」 の香りを強く漂わせていたのでした。 最初は軽いユーモアを挟み込みながら、しかし、モックン が初めて納棺を取り仕切る際には、      儀式の厳かさがあり、                   連綿と続いている伝統技能を                   鑑賞している感覚となりました。 要所ではキリッとした表情を見せつつも、ユーモアを交えながら 「死」 というシビアなものを処理していくのかな? と気を許した瞬間に       手厳しいシッペ返し                                               が用意されていたのです。 そのシッペ返しとは、 “老婆の腐乱遺体を納棺する” という、「キレイゴト」 では済まされないグロテスクな側面だったのです。 そして、この強烈な出来事の直後に挿入されたエピソードが、ボクの映画的好奇心を大いに刺激していったのです。     “腐乱死体処理をしたその日の夕食は鍋料理で、今朝締めたばかりの      「おかしら付き 鶏肉」 が食卓に並びました。      その皺くちゃの顔とむき出しの肉 を見たモックンは      老婆の遺体を思い出し 胸を悪くしてもどしてしまうのです。      驚いて介抱をする 妻役の広末涼子女史ですが、その流れの中で、      突然にモックン は奥さんに性的交渉にかかっていきました。” というシークエンスとなっているのですが、今作に対する受賞のニュースが契機となって、家族連れ立っての鑑賞となった方々には、先の腐乱遺体のくだりと同様に、このシークエンスは居心地の悪い時間帯であったろうなと思いながらも、以下のようにボクはこの展開を大いに楽しんでいったのです。   傷(いた)んだ遺体          を処理させられたことによって、肉体と精神に大きなダメージを被り、   新鮮な、でも死んだ肉体         が食卓に上り、傷(いた)んだ遺体を思い出したことによって、        「死」 の虚無感に襲われ、   新鮮で、生きた肉体          である、妻の広末涼子女史に、存在の 「確かさ」 を求め、        肉体的な衝動の中に埋没していく                          そんな モックン の赤裸々な心を感じたのです。    傷(いた)んだ遺体     と     新鮮な、でも死んだ肉体             という 2つの肉体によって 精神的な不均衡に陥り、    新鮮で、生きた肉体            という確かな存在に、すがりついてしまう。   その究極的な境地として、本能的で官能的な側面に身を沈めていったモックン に、ボクは同調していったのです。 そして、ふと気付くと        人間って切ないな.........。                       と溜息をもらしていたのです。 制限文字数では語り切れず。完成版はこちらまで      ↓ http://ouiaojg8.blog56.fc2.com/blog-entry-97.html
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[009]緋牡丹博徒 花札勝負
 ポータブルDVDによる車内鑑賞レビューマーク・レスター2010-01-09
 【ネタバレ注意】
今作の鑑賞は      冒頭から 【 ローアングルの深遠なる世界 】   に 狂喜し、      やがて  【 奥床しさが漂う任侠映画であること 】 に 驚嘆し、 ・・・
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今作の鑑賞は      冒頭から 【 ローアングルの深遠なる世界 】   に 狂喜し、      やがて  【 奥床しさが漂う任侠映画であること 】 に 驚嘆し、      後半は  【 加藤泰作品の共通項探し 】     に 興じた                                                                           充実の映画体験となりました。 今作はしょっぱなの1カット目から、容赦のない 「ローアングル」攻撃が炸裂し、 その2カット後の、映画開始早々の3カット目には     【 ローアングルによる 「3D」 効果 】  そして、     【 ローアングルによる 「斜め上」 の構図 】                                  とも言うべき表現訴求のエッセンスを                                  感じ取ることができたのです。 線路内、2本のレールの真ん中を 緋牡丹のお竜さん が白い着物姿でこちらに歩いて来ます。 そして、その手前の踏み切りを横切りながら 盲目の少女 がフレームインしてきました。 カメラは地面に埋めたような極端なローアングルであるために、遠くにいる お竜さん の全景を捉えても、カメラ近くを横切る 盲目の少女 の姿は腰から下の足の部分しかフォローしていないのです。        全景の お竜さん  と、        顔が隠された 盲目の少女。 この非日常的な構図が非常におもしろく、 また、お竜さん が奥から手前に向かって線路に沿ってやって来る        縦の運動 と、 盲目の少女 が踏み切りを右から左へと横断する        横の運動  との重なり具合がとっても興味深く、映画開始3カット目にして、ボクは早くも 映画的興奮 を得たのでした。 この映画的興奮を考察してみると 遠くに全景で捉えた お竜さん に対し、カメラ近くを歩く 盲目の少女 は画面上では大きな面積を占めてはいるものの、肝心の顔は写っていないのです。 どんな女の子なのかな? と疑問を生じさせる表現によって、 盲目の少女 の存在感を増幅させているこの演出に対して、ボクは        「遠近法」 の 誇張                          を感じることができたのです。 「遠近法」 とは  近くにあるものを大きく描き、遠くのものを小さく描いて、 遠くのものと近くのものとの間にある 奥行きを表し、 立体感を表現する絵画の手法である。                                  と理解しておりますが、 普通のカメラ位置で撮影されたありきたりな 「縦の構図」 よりも、 今作のようにローアングルによって身体の一部を画面上に大胆に配置し、 非日常的な切り取り方をされた 「縦の構図」 の方が、       近くにいる少女の存在感が より強調され、       「遠近感」 がより一層    誇張された                                        と感じられたのです。 要するに、お竜さん と 盲目の少女 の客観的な実際の大きさの対比よりも、 ローアングル映像が作り出す       精神的に与える存在感の違いの方が、大きい。                                        と感じられたのです。 その為、二人の距離感が、実際のものよりも強調され、       より立体的な3D映像                               としてボクの右脳に飛び込んできた                                        というわけなのです。 この表現手法をボクは       【 ローアングルによる 「3D」 効果 】                          と名付け、大いに評価をしたいと思ったのです。 制限文字数で語りきれず、完成版はこちらまで ↓ http://ouiaojg8.blog56.fc2.com/blog-entry-93.html
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[010]フラガール
 ポータブルDVDによる 車内鑑賞レビューマーク・レスター2009-09-28
 【ネタバレ注意】
まず、映画自体の感想を述べる前に、東北の寒村に ハワイ を作ってしまった当時の経営陣に心から敬意を表したいと思う。 炭鉱の閉山によって突きつけられた事業の変革に対し・・・
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まず、映画自体の感想を述べる前に、東北の寒村に ハワイ を作ってしまった当時の経営陣に心から敬意を表したいと思う。 炭鉱の閉山によって突きつけられた事業の変革に対して、豊富な温泉資源を活用しての 「常磐温泉センター」 という発想ならたやすくつくだろう。しかし、彼らは常人では思いもつかない付加価値を創出して、恐らく、日本で始めてのテーマパークを作り上げてしまったのです。      それが 「常磐ハワイアンセンター」 。  「東京デイズニーランド」 や 「志摩スペイン村」 「ハウステンボス」 なんてものは存在するはずもなく、テーマパークという言葉すらなかった昭和40年に、ハワイを創り上げてしまった彼らのプロデュース能力に大いに感心をしたのです。 ボクはこの一大事業のたったの一側面でしかない 「フラガール」 という限定された世界よりも、事業全体を経営的な観点から語っていく 「プロジェクトX」 にこそ興味を引かれていったのです。 正直に言うと、今作の題名ともなっている 「フラガール」 という一部分から、 「常磐ハワイアンセンター」 の事業全体を感じ取れる瞬間が少しでもあれば良いなと、いわば不純な気持ちで鑑賞を始めていたのです。 しかし、今作を鑑賞していく中で   【    「内」    ⇔    「外」     の対比 と、       「第1次産業」 ⇔ 「第3次産業」  という生き方の相違 】   【 ダンスの振り付けが雄弁に語る、物語進行上における法則性 】                   という2つの側面がボクの興味を刺激していきました。 しょっぱなから、カワイイ女の子たちが福島弁丸出しで自分達のことを 「オレ」 と言うあたりにこの映画の狙いが見えてきました。福島の寒村に住む地元の少女たちと、彼女らをハワイアンダンサーに仕立てるために東京からやって来るダンス教師との ギャップ を、どうやら際立たせたい意向のようです。 「東京」 という記号に対して正反対の存在である、純朴で飾り気のない彼女達の存在が必要だったのでしょう。 ここから顕在化していった 「対比」 という予感は、松雪泰子演じるダンス教師が登場するシーンに象徴的に提示されていきました。 彼女は酒酔いと乗り物酔いによって 「橋」 の上で停滞を演じていくのですが、その場所が境界線を彷彿とさせる川の上であったのです。  「内 ⇔ 外」 という 「対比」 の関係性で考えると、川の向こう側である 「外」 から ダンス教師はやって来て、川のこちら側の 「内」 で生まれ育った 「オレ」 達 と出会うわけです。  このように 「内」 なるものと 「外」 なるものの 「対比」 の構図が、 「川」 という記号を軸にして提示されており、以降もこの表現方法は活用されていくことになります。 やがて、この 「内」 と 「外」 とのちょっとしたお約束的な軋轢があり、しかしながら、ダンス教師の踊りを目撃したことで、双方はあっと言う間に一つの方向に向かっていきました。    “激しい動きの後に、膝を折り仰向けに倒れるように沈み込む。     長い静寂の後、引き上げられるように膝を支点にして上半身をおこす” この軋轢を沈静化させた振り付けを、監督がバランスを崩さんばかりのクドさで描いてきたことに対して、ボクは大いに反応をしていきました。 きっと、この振り付けに託された 「思い」 が、物語を推進させる重要な要因となっていくのだろうと直感したのです。 制限文字数で語りきれず ↓ 完成版はこちらまで
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[011]バタフライ・エフェクト
 ポータブルDVDによる 車内鑑賞レビューマーク・レスター2009-08-29
 【ネタバレ注意】
惜しい、実に惜しい 。 これが今作を鑑賞し終えたボクの率直な感想でした。 ■ 「 小さな蝶の羽ばたきが、地球の裏では台風を引き起こすこともある 」        ・・・
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惜しい、実に惜しい 。 これが今作を鑑賞し終えたボクの率直な感想でした。 ■ 「 小さな蝶の羽ばたきが、地球の裏では台風を引き起こすこともある 」                     このカオス理論にインスパイヤーされた今作のプロットは良い。 ■ オープニング・タイトルもイマジネーション豊かで秀逸な出来だ。 ■ エンディングも情感に訴える素晴らしいものであった。 が、しかしだ、この素晴らしい要素を結びつけるべきディティールの数々が、残念ながらボクの期待をことごとく裏切っていったのです。 今作の出だしは非常に素晴らしく、今後の展開を大いに期待させるものではあったのです。 主人公である エヴァン が追っ手から逃れる緊迫感あふれるシーンから始まり、オープニング・タイトルに至っては    「 小さな蝶の羽ばたきが、地球の裏側では台風を起こすこともある 」                というカオス理論から発想を得た秀逸な内容となっていたのです。 「蝶の羽ばたき」 が、やがて 「右脳と左脳」 の非対称のいびつな収縮運動にリンクしてきたことによって    「脳の機能に大きな関係が生じてくる」                       ことを予感させる秀逸なタイトルでありました。 そして矢継ぎ早に今作は、このオープニング・タイトルから一転して、カラッとしたアメリカの典型的な住宅街に場面が急展開をしていったのです。 追っ手から逃れる緊迫のオープニング・ショットから始まって、 「蝶」 と 「脳」 をフューチャーした秀逸のオープニング・タイトルにかけて、 「渋い色彩」 が続いたところに突然、ヌケの良い景色が登場したワケですから、ボクの心の中は     ハッとするような開放感に                      溢れていったのです。 向こうからスーッと伸びてきている坂道がこちら側に迫ってきて、その坂の上からMTBに乗った2人の少年が疾走してきました。 どちらかと言えば 「陰」 な映像が続いていたところに、一転しての晴れやかで心躍る映像が提示されてきたことに、 対比の妙 を感じ、今作に対する期待はますます高まっていったのです。 2台のMTBがドンドン近づいてきます。爽やかなスピード感に乗って、しばらくは 「夢の世界」 が提示されるんだ、 と確信した瞬間、MTBはあっと言う間にボクの視界を通り過ぎ、フレームの外へフッ飛んで行ってしまったのです。     んっ !!   どうしたんだ ?    信じられないことに、カメラは勝手にMTBへのパンニングを止めてしまったのです。 残念ながら、今作の興味はパンニングの途中にいる今作の主人公、7歳時のエヴァン が庭先で愛犬と戯れているシーンに移っていってしまったようなのです.........。 惜しい。 実に、惜しい。 心の底からそう思いました。 緊迫のオープニング、抽象的なタイトル・バックと続き、それらを 軽やかなスピード が引き継いで本編が開始されていくはずと、期待が大きく膨らんだ矢先に、 MTBを放棄し、 スピード という高揚感をあっさりと捨ててしまった今作の制作陣の選択に疑念を持ってしまったのです。 庭で愛犬と停滞している主人公の映画なんかではなく、MTBで疾走していく二人の少年の映画を観てみたい衝動に駆られたのです。  「停滞」 と 「疾走」 どちらかをチョイスできるとしたら、ボクは迷わず      晴れやかなスピード                    を選んだことでしょう。 今作は、序盤においては非常に素晴らしい印象をボクに与えていきました。しかし、本題が始まると、 いや、このように本題が始まる一瞬前から、ボクの期待と大きなズレを生じていったのです。 そして、このズレを脳内で修正していくことが、今作を鑑賞する上での一番大きな作業となっていったのです。 気を取り直して鑑賞を続けていくと        「記憶喪失」 というキーワード                        が登場してきました。  「バタフライ・エフェクト」 というカオス理論からの題名と 「蝶」 の羽ばたき、そして 「脳」 の収縮 というパーツが本格的に連携し始めてきたのです。 「記憶」 をめぐる映画 ですから、「記憶喪失」 というキーポイントを時間軸に沿ってしっかりと理解していかなければ、       制作者のメッセージ                    を受け止めることができない、と直感したのです。
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[012]天然コケッコー
 ポータブルDVDによる 車内鑑賞レビューマーク・レスター2009-07-18
 【ネタバレ注意】
今作を鑑賞して            【 終わりがある 儚さ 】            【 終わりがある 愛おしさ 】            【 終わりがある 美・・・
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今作を鑑賞して            【 終わりがある 儚さ 】            【 終わりがある 愛おしさ 】            【 終わりがある 美しさ  】                              をしみじみと感じていきました。 終わってしまうから、そして、変容してしまうからこそ、この一瞬一瞬が愛おしい。そんな           小津安二郎映画にみる美学                        を思春期の彼らの物語の中に見つけたのでした。 序盤から、小中学校の全生徒6人による家族のような空気が        非常に心地よく                   感じられていきました。 女の子なのに 島根方言の 「わし」 を連発する意外性のある言葉使いと、音楽のような柔らかいイントネーションの世界に心地よく浸っていったのです。 そんなところに東京から 大沢広海クン が登場して今作の本題が始まるわけですが、主人公の 右田そよちゃん と 大沢広海クン の二人だけの場面になると、今までテンポの良かったリズム感が、突然ギクシャクとし、心地よかった空気感も損なわれていきました。   今作のキャッチコピー            「初めての同級生、初めての恋」  が鑑賞動機であったのに、序盤早々からこのメインテーマにボクは乗り遅れてしまったようなのです。 しかしその直後に、 そよちゃん が小学1年生の さっちゃん の家にお見舞いに行くシークエンスにおいて、人間という生き物の愛おしい部分に触れて思わずホロッとしてしまったのです。 このように小中学生6人の人間関係と、キャッチコピーでの主人公である二人。この二つの関係性において生じた          自分の温度差  に、                      今作の鑑賞方針なるものが見えてきたようでした。 なんてことをつらつらと思っていたら、そよちゃん の父親役である佐藤浩一氏が本格的に今作に関与し始めていきました。 そうしたら案の定、そよちゃん と 広海クン のシークエンスで感じた以上の違和感を彼の存在の中に見てしまったのです。 小中校生6人が醸し出す特別な空気感を疎外するものが、たとえ今作の主題である そよちゃん と 広海クン の関係性であっても、許しがたい気持ちになっていたところですから、佐藤浩一氏という俳優人の場違いな自己主張によって、この純粋でゆったりとした映画世界が壊されてしまうのではないかと、         強い警戒心  を、                   持ってしまったのです。 今作のメインテーマを遂行するために 広海クン と そよちゃん が二人きりの時間を欲っすることにも反発の気持ちを持ってしまったわけですから、そもそも、プロの俳優人の出る幕などあるはずもなかったのです。 そんな雰囲気の中に 広海クン の母親が登場していきましたが、予測通りに彼女のひねた態度を誇張する職業俳優のテクニックが鼻についていきました。 穏やかな 「行って帰ります」 の世界と、そこにアクセントを付加しようとするプロ俳優人の強気な演技が不協和音を奏で、ボクの気持ちを最後まで逆立てていったのでした。     今作においては              「行って帰ります」                        という一般的ではない言葉が、 このコミュニティの住民であることを互いに確認するための暗号のように飛び交っています。 バレンタインのチョコを軸にした 「行って帰ります」 の優しい世界を再確認した時、ボクは自分の中に感じたことのない気持ちを発見したのです。 それは、映画という創作物を鑑賞しているにもかかわらず、       ドラマチックなことなど一切望まないので、       このまま皆が無事でいられますように、                            と願っている自分であったのです。 制限文字数で語りきれず ↓完成版はこちらまで http://ouiaojg8.blog56.fc2.com/blog-entry-77.html
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[013]アラビアのロレンス
 ポータブルDVDによる 車内鑑賞レビューマーク・レスター2009-05-05
 【ネタバレ注意】
今作が放つ、     【 開始30分における、空前絶後のパワー 】 と、       【 ヒーローが狂い腐っていく、負のパワー 】                ・・・
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今作が放つ、     【 開始30分における、空前絶後のパワー 】 と、       【 ヒーローが狂い腐っていく、負のパワー 】                 この相反する2つの力に、ボクは完璧に捻じ伏せられていきました。 今作は、真っ黒な画面に壮麗でエキゾチックなテーマ音楽が流れる 漆黒の4分間 から始まっていきました。 そして、この漆黒の闇から開放された直後に、主人公はあっけなくも死んでいき、次の葬儀の席においては、主人公の人生が早々と総括されていったのです。  葬儀の際の 「賛」 と 「否」 の評価から一筋縄ではいかない 「二面性」 が主人公であるロレンスなのだ、と腹をくくって鑑賞を始めた直後に    【 開始30分における、空前絶後のパワー 】                             にボクは完全に呑み込まれていったのです。   全ては、極上の 「ジャンプカット」 から始まっていきました。 アラビア派遣が決まったカイロ軍司令部。上官のタバコに火を付けたマッチをロレンスが 「フッ」 と吹き消した刹那、映像は砂漠の日の出へと瞬間移動をしていきました。 この 「ジャンプカット」 は、今作の主人公であるロレンスがイギリス支配のカイロから離れ、全く違う価値観に支配されているアラビアの地に到達した事を、直感的に訴えてきた素晴らしいカット繋ぎでした。 わかりやすく説明すると、イギリスという産業革命を成した国の管理下にいたロレンスが、      その成果物の工業生産品たるマッチの           「 火 (ひ)」      を自ら吹き消けすことで           「文明的な生活」 に終わりを告げ、      荒大な砂漠に灼熱をもたらす           「 陽 (ひ)」      が昇っていくことで、ロレンスの全く違う人生が           アラビアの地で始まった  ことを観る者に訴求してきた、「大胆にして繊細なる ジャンプカット」 だったのです。  そのダイナミックな転調に、ボクは大いなる 映画的興奮 を味わったのです。  「文明」 から 「砂漠」 への、この素晴らしい瞬間移動に感動した直後、実は、続く3カット目にもボクの心は大きく動かされていったのです。  「 陽 (ひ) 」 によってアラビアへの移動を示唆した2カット目の次には、アラビアに来たロレンスの表情をストレートに訴求してくるはずと、見切った直後に提示されたのが、予想だにしなかった     「超ロングショットによる極小サイズのロレンス」                                 だったのです。 砂漠の造形美の遥か向こうにラクダに乗った豆粒のように小さい2つの影が現れるのですが、驚くことに、こんなにも小さい存在である彼らの姿をしっかりと視認することができたのです。 恐らく、砂漠という極端に単純化された舞台であったからこそ、人物を極端なロングショットの微小なサイズで捉えてもその存在感を十分に訴求することができたのでしょう。そして、デビッド・リーン監督がこの     砂漠特有の表現手法 に行き着き、砂漠の悠久美とそこに飲み込まれそうにいる人物の存在感を同一カット上で提示してきたことに、またまた感動してしまったというわけなのです。 (約10分後にもこの手法は再度登場し、とてつもなく大きな 映画的興奮 を創出してくることになります。) そして この 「大胆にして繊細なる ジャンプカット」(1カット目と2カット目) と、 「超ロングショットによる極小サイズのロレンス」(3カット目)を多面的に輝かせたのが     壮麗にしてエキゾチックなテーマ音楽                             だったのです。 「大胆にして繊細なる ジャンプカット」 の2カット目、「 陽 (ひ) 」 のシーンから準備を始め、3カット目 「超ロングショットによる極小サイズのロレンス」 が砂漠に初登場した瞬間をピークに、壮麗にしてエキゾチックなテーマ音楽がボクをドップリと包み込んでいきました。 完成版はこちらまで ↓ http://ouiaojg8.blog56.fc2.com/blog-entry-72.html
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[014]ディパーテッド
 ポータブルDVDによる車内鑑賞レビューマーク・レスター2009-04-28
 【ネタバレ注意】
       「いやぁ、 してやられました.....。」 これが今作を鑑賞し終えたボクの率直な感想でした。 全ての期待と全ての矛盾。 そんなものを       続けざ・・・
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       「いやぁ、 してやられました.....。」 これが今作を鑑賞し終えたボクの率直な感想でした。 全ての期待と全ての矛盾。 そんなものを       続けざまに鳴り響いた3発の銃声と、最後に響いた1発の銃声で 刹那的に清算してしまったマーティン・スコセッシ監督の豪腕に、完璧にねじ伏せられてしまったのです。 全てはラストのこの 「乾き切ったバイオレンス」 を提示するためのお膳立てに過ぎなかったのか? ラストまで観客の興味を引っ張っておくために、解決するつもりなどなかった ビリーの心の動き や カウンセラー医 という彼女の存在を意味ありげにちらつかせていただけだったのか?         多分、 そうなのだろう.......。 通常なら、こんな有様に対しては断固として拒否反応を示すところなのですが、今作においては、意外にもボクはこの事態を容認してしまったのです。なぜなら、様々な糸口や疑問を投げ掛けなげかけながらも、      「でも、そんなの関係ねー!  オパピー!! 」                           (もう古いか.....) とばかりに 「3つの銃声と、最後の1つの銃声」 で、凄まじい 手のひら返し を見せたわけで、その並外れたパワーと予想だにしなかった展開を、結局は楽しんでしまったからなのです。 そもそもは今作を鑑賞する際に、 「インファナル・アフェア」 という映画が既に存在していた事実をしっかりと再認識するべきだったのかもしれません。 なぜなら、この豪腕監督は、今作の骨子が既に周知されていることを前提にして、エンタメ映画史に残る壮大な実験を行ったのだと思えたからなのです。 壮大な実験。 それが、       「物語を語らない」 という 大いなる野望。 ローリング・ストーンズの名曲 「ギミーシェルター」 に乗った導入部は、アイリッシュ・マフィアのボスである ジャック・ニコルソン の顔を意図的に暗くして、底知れない “凄み” を演出していました。 と、開始 2分までは大いなる期待を持ったのですが、今作は既にこのオープニングからして、少しづつボクのイメージから乖離し始めていったのです。 (結局は 通常のエンタメ映画からも乖離していくことになるのですが.....。) ジャック・ニコルソン 演じる コステロ はアイリッシュ・マフィアのボスであるはずなのに、“みじかめ料” を じきじきのご集金。そんな姿に、「なんだこいつは “ちょい悪” か」 との思いがもたげてしまい、彼の顔をあえて隠す演出と、“ちょい悪” とのギャップに違和感を持ってしまったのです。 残念ながら今作は、この嫌な予感を最後まで引きづり続け、期待と疑問のハザマに漂いながらも、最後はある程度の納得に漂着するものと思い込んでいた観客をまんまと裏切ることになっていくのです。 序盤、アイリッシュ・マフィアに潜入することになる ディカプリオ 演じる ビリー と、警察に潜入した マット・デイモン 演じる コリン の上司 が登場し、        ボクの警戒心を大いに刺激                     をしていきました。 なぜなら、昨今の警察モノで横行している      「黒幕は捜査当局にいた!  驚くなかれ幹部だった!!」 という終結方法に、ウンザリしていたからなのです。 老齢なボスと、口汚いサブリーダー。 どちらかが黒幕的な役割を演じやしないかと、身構えてしまったわけなのです。  しかし、今作のオリジナルである 「インファナル・アフェア」 にはこのネタは使われていないようなので、まずは一安心。予め安っぽいオチが使われていない事がわかったところに、今作のリメイク作であるメリットがあるのかもしれません ↓ 完成版はこちらまで http://ouiaojg8.blog56.fc2.com/blog-entry-57.html
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[015]近松物語
 ポータブルDVDによる 車内鑑賞レビューマーク・レスター2009-02-08
 【ネタバレ注意】
今作に触れて、近松門左衛門作品を鑑賞してゆく上での新たな2つの側面に気づくことができました。 1つ目は、       【 「肉欲」 という、即物的で衝動的な側面 ・・・
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今作に触れて、近松門左衛門作品を鑑賞してゆく上での新たな2つの側面に気づくことができました。 1つ目は、       【 「肉欲」 という、即物的で衝動的な側面 】                                       で、 近松の世界観を今まで認識していた 「悲恋」 という情緒的な面に加えて 「肉体が溺れてしまう快楽」 という切り口で見ていこうと思ったのです。                      そしてもう1つは、他の近松作品で感じた、 「 封建社会による性的統制 」 を出発点にして、        【 「支配体制」 に統制される 「個」 】                                 についても注目することにしました。 いきなりの、序盤、ボクの心をわし掴んで、激しく揺さぶったカットが、開始17分に展開されていきました。 それはたかだか 10秒ほどのものでしたが、今作をレビューする上での、そして近松作品全般を鑑賞する上でのボクの方針を決定付けるほどの、大きな影響を残していったのです。 そのカットに映し出されていたのは、不義密通の罪で市中引回しの上、処刑されて、磔台にくくり付けられたままの男女の遺体でした。 正直に話すと、衝撃を受けた本当の理由は、         「なんて官能的な死体なのだろうか」  と、そのカットに触れて、思いがけない言葉がボクの口をついて出たことだったのです。 肉体の機能を果たさない “骸 (むくろ)” にされて、晒 (さら) されている男女の遺体に性的な意味を感じ、しかもその奪われた肉体の機能とは、 「性交」 に違いない。 と早々に信じて疑わない自分自身に驚いてしまったのです。 どうやらボクの気持ちは、不義密通という極刑によって 「性交」 を取り上げられてしまった肉体が、正々堂々と展示されていたことに動揺し、平静さを保っていられなかったようなのです。 それ故、その物体を不吉で、どこかしら滑稽で、そして圧倒的にエロティックな存在として捉えずにはいられなかったのです。       【 「性」 ゆえに 「生」 を奪われた肉体 】                                  そんな凄まじい存在感に完璧にねじ伏せられてしまったのです。 が、しかし、よくよく考えてみると、そこには、とてつもなく大きな矛盾が存在していたことに気付きました。 そもそも 「性」 というものは 「生」 を次代に繋いでいくための 自然の摂理 であるはずなのに、 ここでは 「性」 がなせる 「性交」 のために、根源的な 「生」 自体が 「国家」 によって奪われてしてまう、そんな摩訶不思議なことが実行されていたのです。        「性交」 という  “手段”  のために、             究極の  “目的”  である 「種の保存」 を                               遂行することができなくなる。 そんな、自然界においては考えられないことが、江戸時代の人間界では行われていたのです。 それは 「性交」 を純然たる 「生殖行為」 と単純に割り切ることができない、社会的な「意味」 や 魑魅魍魎的な 「関係」を見い出してしまう、          人間という、極度に複雑化してしまった動物の                         「性 (サガ) 」 なのでしょうか........。 しかし、 「性」 ゆえに 「生」 を奪われることになった原因は、こんな社会学的な考察や生物学的なものではなく、ただ単純に 支配統制 という 政治的な手法 に起因していたのです。 江戸幕府が他者を支配するための 精神的な縛り として採用した、儒教の 「主従関係」 という思想。 これこそが、「性」 ゆえに 「生」 を奪われることになった原因 であったと思うのです。 幕府と大名の間での 上下関係。 大名と藩士の間での 服従関係。 そして 商家では主人と奉公人の間でと、様々なレベルでの 「主従関係」 を 江戸幕府は死守させてきたのです。  ↓完成版はこちらまで http://ouiaojg8.blog56.fc2.com/blog-entry-51.html
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[016]ホテル・ルワンダ
 ポータブルDVDによる 車内鑑賞レビューマーク・レスター2008-11-26
 【ネタバレ注意】
2つの相違する存在が、1つの場所に混在することによって生じる、        「区別」   「差別」   「葛藤」                      と・・・
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2つの相違する存在が、1つの場所に混在することによって生じる、        「区別」   「差別」   「葛藤」                      という 3つの現象にボクの興味は集約されていきました。 序盤、1つの 「区別」 に関するセリフがボクの客観性を奪い去っていきました。 それが       A 「フツ族 と ツチ族 はどう違うんだい?」       B 「定義では ツチ族 の方が長身で上品、         ベルギ−の入植者が決めた」         A 「どうやって?」         B 「鼻の細さや皮膚の色の薄さでね。          鼻の幅を測ったんだ。          ツチ族 に統治させたが、          退却後、権力は フツ族 へ、          フツ族 は長年の恨みで ツチ族 に復讐した。」 何と、ルワンダの内線における フツ族、ツチ族 のおぞましき対立の根源は、植民地を統治することを目的にした         人為的な 「区別」 であったことがこのセリフで見えてきたのです。 しかも、“鼻の幅” という脆弱な基準によって         捏造された外見上の 「区別」 であった。と、今作は訴えてきました。 この対立関係には、歴史的な、文化的な、血縁的な、地縁的な要因は基本的には介在せず、 1920年頃からベルギーが統治し始めたことによって作られた、 単なる         「支配のツール」                  でしかなかったのです。 これは、被支配者層の中に相反する2つのグループを創出し、お互いに反目させることによって、宗主国への “やいば” を無力化させる。 そんな、西側諸国が常套としていた 「支配手法」 を取り入れたものだったのです。 この揺るぎない統治構造をルワンダの地に根付かせるために、 ベルギ−人は 「フツ」 「ツチ」 という対立要素を捻出したのです。 そして、彼らが 「ツチ」 を優遇し、「フツ」 を冷遇し、言われ無き 「差別」 と拭い難き 「怨恨」 を人為的に作り、大いに利用したことが、上記のセリフから うかがい知ることができたのです。 時が移り変わって、1962年。 独立国になった後も、ルワンダは 「フツ」 「ツチ」の区別をやめようとはしなかったのです。何故なら、独立後の覇権は、 「ツチ」 の手から離れ、多数派の 「フツ」 の元に移って行ったからなのです。 40年間にわたる 「差別」 がもたらした 「怨念」 は、きっと凄まじいものがあったのでしょう。  「フツ」 は恨みを晴らすために、ベルギー人によって押し付けられていた 「区別」 をそのまま踏襲して、今度は 「ツチ」 を 「差別」 し、 「虐待」 をする席に、ドッカと腰をおろしたようなのです。 それは、身分証明書にしっかりと 「フツ」 「ツチ」 の刻印を押し、その 「区別」 を明確にしていたところからも推察することができます。きっと、必要に応じて 「差別」 を加える エビデンスにしていたのでしょう。 序盤、今作の鑑賞テーマたる        「区別」   「差別」   「葛藤」   の中の、第1番目に見えてきた        【 ルワンダにおける 「ツチ」 「フツ」 の悪意に満ちた 「区別」 】  にこだわりを持ったわけですが、中盤、 またしてもある1つのシ−ンにとらわれていったのです。  それが 「雨の別離」 のシ−ンでした。  「フツ」 民兵による 「虐殺」 が横行し、危機的状況に陥ったルワンダから  「外国人」 達が避難するシ−ンが展開していきました。 降りしきる雨の中、 「外国人」 達が ミル・コリン・ホテル を脱出すべく 大型バスに乗り込むのですが、そこにも様々な 「区別」 、否 「差別」 が生じていたことを今作はしっかりと訴えてきたのです。  「虐殺」 から逃れる唯一の方法となる大型バスに乗り込めるのは、よりによって 「虐殺」 対象者であるはずもない 「外国人」 だったのです。 いくら哀れであろうとも 「ルワンダ人」 である孤児達は保護されるはずもなく、 逆にその孤児達を守っていた 「外国人」 神父は保護され、その神父をアシストした修道女達も、白人は救われ、黒人は置き去りにあうのです。 これは 「奴隷制度」 というおぞましき歴史を持つ、「黒」 だ 「白」 だの封建的な 「差別」 が、この期に及んで再現されてしまったことを示していました。 限文字数で語りきれず。完成版はこちらまで→
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[017]ALWAYS 三丁目の夕日
 ポータブルDVDによる 車内鑑賞レビューマーク・レスター2008-09-15
 【ネタバレ注意】
今作の鑑賞ポイントを      【 「テレビ」 の家庭進出 】 と     【 「東京タワー」 の完成 】という 昭和30年代を象徴する現象としました。 こ・・・
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今作の鑑賞ポイントを      【 「テレビ」 の家庭進出 】 と     【 「東京タワー」 の完成 】という 昭和30年代を象徴する現象としました。 この2つの動きは日本社会が発展し、豊かになっていくことへのシンボルではあるのですが、ボクはこの2つの現象が集約する、1つの社会学的な結果にこだわることにしました。この説明は後で行うことにします。 今作は、しょっぱなに昭和30年代の街を模型飛行機が飛翔していくCGを提示してきたのですが、この映像からして 「貧しかったが、夢のある時代であった」 という演出意図が見え透いてしまい、早速、拒否反応を起こしてしまったのです。 しかし、そんな矢先の 「建設中の東京タワー」 や 「現役バリバリの都電」 の映像には、「おっと、いーじゃん」 と早くも軌道修正の兆し。 しかも、またまた、その直後に提示された 「天井にへばり付いたヤモリが羽虫を捕食する」 映像が、吉岡秀隆演じるところの 「文学」 の、鬱屈している心情を雄弁に語っており、大きな映画的興奮を得ることができました。 おもしろいことに、冒頭の6分で今作におけるボクの印象は、このように目まぐるしく変化していったのです。そして、それにともなって早くも冒頭の6分にして、今作をレビューする基本姿勢が決定されたのです。 「模型飛行機、飛翔! 」  のような表層的な印象しか残せない映像に対しては毅然と         「NO!」。 「建設中の東京タワー」 のような、時代性を際立たせた冷静なる演出には             「OK 」。 「ヤモリ捕食」 にみる、独自の視点からの深層部にスポットを当てる映像には、ブートキャンプのビリー隊長のごとく          「VICTORY!!」。 で対応をしようと思ったのでした。 序盤は、冷静に再現していた「蒸気機関車」や「上野駅」の描写は 「OK」。 「鈴木オート」の大激怒におけるお遊びは 「NO!」。 淳之介少年が描いた空想科学小説へのワープは 「VICTORY !!」 でした。 中盤以降になってやっと、ボクがこだわりを持った2つの現象が展開していきます。 「鈴木オート」 を舞台とした 【 「テレビ」 の家庭進出 】 のお祭り騒ぎはやり過ぎだとしても、昭和30年代の人々にとっての      “テレビ様” 降臨 という事態は、戦後初めて訪れた 「人類の進化」 ほどの衝撃的な出来事であったのだろうと推測することができます。 なぜならテレビというものは、雲の上の存在であった 「映像情報」 を茶の間に 引き連れて来た最初の利器であったわけで、この偉業によって、現代にみる       「情報化社会」 を始動させた 巨大な存在となっていくからなのです。 その神々しさは 「2001年宇宙の旅」 の類人猿における 「モノリス」 のように、昭和30年代の人にとっては、21世紀人に進化するための崇めるべき存在であったのです。 そんな “テレビ様” がもたらした驚きや喜びを表現するために、監督が繰り出した幾多の 「NO!」 の洪水にうんざりした後に 「VICTORY !!」 なカットを見つけることができました。 それは、皆でプロレスを鑑賞しているうちに、その小さな画面が突如として映画のような大画面となるカット。 この処理は、「映像情報」 が家庭にやって来たことの強烈なインパクトの直感的なビジュアル表現であることは一目瞭然なのですが、巨大な画面に即応し、一喜一憂する彼らの姿を見ていると、これ以降、テレビの持つ巨大な影響力に踊らされることになる、       我々、人類の愚かさ を描いているように思えてなりませんでした。 一方的に提供される 「映像情報」 に釘付けにされ、独占され、操作され、最後には支配されていく未来を予見させる映像だったのです。 しかし、この 「映像情報」 にたやすく接触できるようになったことが、現代に見る 「情報化社会」 を始動させ、急激に拡大させていったのだと思うのですが、この 「情報化社会」 の拡充こそが、     “効率性” や “合理性”  という概念を様々な局面にもたらし、昭和43年にGNP世界第2位の物質的豊かさを、手に入れる原動力になったのだろうと思い、その効能についても思いを巡らせたのです。 制限文字数で語りきれず。完成版はこちらまで↓
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[018]フレンチ・コネクション
 ポータブルDVDによる 車内鑑賞レビューマーク・レスター2008-08-04
 【ネタバレ注意】
序盤から、映画的興奮を見つけられないでいたボクの最大の関心事は   【  〆作における 「アカデミー作品賞」 受賞の理由 】   【 ◆ 屐氾狙發痢疋ーチェイス・・・
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序盤から、映画的興奮を見つけられないでいたボクの最大の関心事は   【  〆作における 「アカデミー作品賞」 受賞の理由 】   【 ◆ 屐氾狙發痢疋ーチェイス」 が今作に及ぼした貢献度 】 の2点に、いやがおう上にも集中していきました。 で、観終わったボクのストレートな感想は   【 ラスト1分30秒までは実に “リアリズム” を追求した映画 】 というものでした。この説明は終盤に譲るとして、 ウィリアム・フリードキン監督は、今作において非常に珍しい手法を取り入れたようなのです。 その手法とは、役者の演技をつけた後に初めてカメラマンを現場入りをさせ、監督と役者が作り上げた “現実” を初見の状況でカメラマンに捉えさせたようなのです。 演出部と役者によって再現された “事実” を撮影部が研ぎ澄ませた感性で 探し出す。そんな緊張感を導入したようなのです。 今作はそんな製作者サイドのドキュメンタリー性や緊迫感を孕んだ映画ではあったようなのです。 しかし、そんな     手法的な崇高さとは裏腹に、 序盤から、待機状態が続いたボクではあったのですが、中盤、 何の前触れもなく非常に興味深いシーンが展開してくれたのです。 それは、尾行対象者が豪華なフルコースを食している最中、屋外のポパイも厳寒に震えながら、立ちながらのピザとコヒーの簡単な食事をすませるシーン。 同一カットで犯罪者がぬくぬくと豪華な食事を楽しみ、その犯罪者を追う刑事が味気ない食事を流し込む姿が提示されていたのです。 そう言えば、この映画のファーストシーンで登場するマルセイユの刑事も、尾行のさなかでピザを立食しているカットでしたっけ、しかも、その刑事が射殺されるシーンはバケットを買っての帰宅時であり、しかも射撃をした殺し屋はそのバケットを摘んで口にするではありませんか!  生きていくために食べることとなり、食べることをするために、一方は犯罪者を追い詰め、一方はその人間を殺し、命を繋いでいくのだ。 一方は違法行為を行うことで法外な利益を得て、ランクの高い食事にありつき、それらを検挙する刑事は仕事のために最低の食事を喉に流し込む。 こんな関係が提示されていたことに、    ついつい、うれしがって しまったのです。 しかしこの    【  〆作における 「アカデミー作品賞」 受賞の理由 】 に成りうると思われた側面は、犯罪者が愛妻家で美食家の紳士である一方で、刑事が独善的で熾烈な面を持つがさつな男であった。という表面上の差異に留まってしまうのです。残念です。 中盤以降に繰り広げられる    【 ◆ 屐氾狙發痢疋ーチェイス」 が今作に及ぼす貢献度 】 は予測どおり、非常に高かったことを実感しました。 “張り込み”、“尾行” という映画的には全く地味な捜査側面を見せられ、    【  〆作における 「アカデミー作品賞」 受賞の理由 】 のしっぽも捕まえ損ねた矢先に、この 「 “伝説” のカーチェイス」 が始まってくれたわけなのです。 まさにグッド・タイミング。 否、我慢の限界だったのです。 今作は語り口が巧みなわけではなく、展開がスピーディでもないので、製作者サイドの手法的な斬新さに永らく付き合わせられてしまった、鑑賞者の鬱憤(うっぷん)が爆発するギリギリのタイミングで、ガス抜きの     デトックスの役割 として、この感情の発露は行われたのでした。 で、その「 “伝説”のカーチェイス 」を観終わった直後のボクの印象というものは、 「まるで、今作の主人公であるところのポパイというキャラクターそのものじゃない!?」 だったのです。 執念深く、タフで、法規を無視してまでも自分の目的の為に、全てをひれ伏させる。 そんな強引さがこのカーチェイスにもあったのです。 スマートなスピード感や、ともすると流麗さを標榜する昨今のカーチェイスにはありようもない    無作法で、無遠慮、不器用、にして不躾な カーチェイスであったのです。 それはまるで、ポパイというタフで無軌道な弾丸が、犯人を射止めるために時速130kmものスピードで車線無視、信号無視の社会不適合者の強引さで、市民生活を脅かしながら疾走していく。そんな感覚に囚われてしまったのです。 ↓ 制限文字数で語りきれず、完成版はこちらまで
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[019]酔いどれ天使
 ポートブルDVDによる車内鑑賞レビューマーク・レスター2008-07-12
 【ネタバレ注意】
今作の鑑賞ポイントとして、以下の2点に注目をしました。    【  〇崑雫と三船敏郎のキャラクター付け 】    【 ◆ 屮疋崗臓廚梁減澎嫐 】 序盤では ・・・
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今作の鑑賞ポイントとして、以下の2点に注目をしました。    【  〇崑雫と三船敏郎のキャラクター付け 】    【 ◆ 屮疋崗臓廚梁減澎嫐 】 序盤では     【  〇崑雫と三船敏郎のキャラクター付け 】                        に興味を覚えました。 カッコよかったのですよ。   誰がって? 志村喬がとってもカッコよかったのです。 今作を鑑賞して、志村喬がギラギラしていることにとても大きな驚きを感じたのでした。実によく怒鳴って、よくケンカをする。まさに     「現役」バリバリ のお姿を拝見することができるのです。 一方の三船敏郎も役者人生の中でこれが一番のはまり役だ!。と断言をしてしまうほどに素晴らしく、危険な香りを発散させて強烈な存在感を突きつけてくるのです。 往年の、ヒーローとしての安定感ではなく、アウトローとしての凄みにボクは魅了されてしまいました。 話を志村喬に戻します。 彼は永い間、ご隠居や、院長先生、ベテラン刑事、老侍、はたまた博士 という老成した役柄で、     「善」や「知」、「経験」と「人望」 というキーワードの上に確固たる世界を構築し、たとえ悪であっても、社会的地位の高い役どころを演じてきました。しかしそんな既存概念に反して、今作における志村喬演じる真田医師は、貧乏でアルコール中毒 (身を持ち崩した医者はあまねく アル中 になる運命なのでしょうか? 西部劇の金字塔「駅馬車」にもブーンというアル中医師がいましたっけ)  いつもガミガミとやかましいカミナリ親父であったのです。 慣れ親しんだ「老成」のキャラクターであれば、例えば、攻撃的な言葉を浴びさせられた時には、穏やかな微笑みで返すか、腹黒い策略で陥いれるかになるのでしょうが、今作では、売られた喧嘩にはストレートに口汚く罵り返す、という      「即時・対等」 反応 を見せてくれるのです。 そのコミュニケショーン様式がそれまでの志村喬の既成概念を打ち破るものだったので、大いに驚き、そして      喜んでしまった わけなのです。 既成概念を覆すと言ったら、志村喬と三船敏郎の関係性も、また然り。二人の関係となると、黒澤明監督の次回作となる「野良犬」で決定づけられた「師弟」というラインが印象深いのですが、今作はそんな上下関係など無く、1対1の対等な人間同士が、怒鳴りあい、なじり合い、ドツキ合いを経て、      魂と魂のぶつかり合いが 成されていることに、今までにない新鮮味を感じたのです。 黒澤作品において、今後、様々な関係性を築いていく二人ですが、最初の一歩が、こんなにも、なりふりかまわない体当たりの演技をぶつけ合っていたことに、大いに好感を持った次第でした。 しかし、中盤以降、ボクの興味の対象はもっぱら     【 ◆ 屮疋崗臓廖,梁減澎嫐 】                                 の1点に集約されていたのです。  「ドブ沼」 とはこの街にある、不衛生極まりない下水溜りのことで、今作の訴求点をヴィジュアル化した重要な場所であると思い、ボクが勝手に固有名詞化したものです。 その 「ドブ沼」 に、三船敏郎演じる新興ヤクザの松永が、むなしく佇むシーンが用意されていたのですが、彼の対岸で大量のゴミが 「ドブ沼」 に捨てられる映像が挿入されていたのです。 このカットは5秒ほどのものでしかないのですが、今作を読み進めていく上でのボクの大きな推進力となってくれました。 なぜならこの映像によって、この 「ドブ沼」 が市民生活や消費活動で生じる 「ゴミ」 や 「カス」 を日常的に捨てる遺棄場所であることを理解し、       「ドブ沼」 と 「遺棄」 の関係性 に気づくことができたからなのです。 そんな象徴的な場所に、結核を病み、女に厄介払いされ、兄貴分の岡田に利権を脅かされて四面楚歌の松永をわざわざ配置しているところから、松永の縄張りであるこの南新町マーケットという社会が、こんなにも凋落してしまった松永を今後、「見捨てる」方向に動くことを予感させていたのです。   終戦直後の 「裏の力」 による、支配的で強圧的な秩序の中で経済活動を営み、ささやかな利潤を得る商店主にとって、こんな有様の松永は牙を持たない狼であり、今度は、より強力な 「裏の力」 に成りうる岡田になびき、ひれ伏していくで あろうとの予感に満ちたシーンだったのです。 ↓ 完成版はこちらまで
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[020]チャーリーとチョコレート工場
 ポータブルDVDによる 車内鑑賞レビューマーク・レスター2008-07-06
 【ネタバレ注意】
鮮やかな色とユニークな形状に溢れた楽しい映画でした。 しかし、それだけでは終わらない、実に奥深い映画であったと思いました。その説明はおいおい行うとして、 今作では・・・
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鮮やかな色とユニークな形状に溢れた楽しい映画でした。 しかし、それだけでは終わらない、実に奥深い映画であったと思いました。その説明はおいおい行うとして、 今作では以下の3点に強く興味を引かれました。     [ チョコレート工場とチャーリーの家の配置と形状 ]      [ 歓迎の人形劇の大炎上 ]    [ チャーリーの「DO NOT」の姿勢 ] これらの側面に注目してレビューを進めたいと思います。序盤では [  .船腑灰譟璽塙場とチャーリーの家の配置と形状 ]  にまず興味を持ちました。 緩やかな丘のテッペンに巨大なチョコレート工場が鎮座ましまして、その丘を一気に降り切ったところにチャーリーの家がポツンとあるわけなのですが、チョコレート工場の煙突が尖塔にも思えて、まるでイスラム寺院たる “モスク” のような威厳を放つ一方で、貧乏人チャーリーの家は水平と垂直とが全て狂った究極のあばら家として表現されており、そんな漫画的な対比に興味を覚えたのです。 そう言えば、どこかでこんな光景見たような気がするのですが.....。そうそう、「東京ディズニーランド」 ででした。 高く縦にそびえるシンポルが「シンデレラ城」で、デフォルメされたチャーリーの家が「トゥーン・タウン」に思えてきたのです。チャーリーの家は非常に貧しいが、まるで「トゥーン・タウン」のような “遊び心” に満ちた見え方をしているため、悲壮感に打ちひしがれていないのが救いとなっています。 そして、両家の爺さん、婆さん4人が勢揃いする大きなベッドの存在も、貧しいながらも気持ちを寄せ合う家族がそこに生きていることを端的に表現していました。 この超近代的で立派な「シンデレラ城」と貧しいながらも強い絆で結ばれた「トゥーン・タウン」の対比がどのようにこの映画に関わってくるのかを楽しみながら鑑賞をしたのでした。 今作で最も好きなシークエンスが、工場主であるウィリー・ウォンカの登場の際に発生した [ 人形劇の大炎上 ] でした。5組の“幸運な”工場見学者をお迎えするカラクリ人形による歌と踊りが展開されるのですが、演出に使われた花火が出火元となって、可愛らしく歌い踊っていた夢の住人たる人形たちが、次々と醜く焼き爛れていく様が展開されていったのです。歓迎の微笑みをたたえた人形の顔が惨たらしく火で溶ける阿鼻叫喚図には、ただただ、圧倒され、渾身の拍手を送りたいと思ってしまいました。何故なら、そこには「楽しさ」とは表裏一体にある「不幸」が表現されており、笑顔のすぐ隣にあるグロテスクな側面を突然つきつけられたことに、大きな映画的興奮を感じてしまったからなのです。 この楽しげな表層を持つ映画の裏にはどんなグロテスクなものが隠されているのであろうか?  そんな謎を追いかけることを楽しみに、この映画を観続けたのでした。 しかし、そんな2項目の行方を楽しんでいたところに、大人げなくも [ チャーリーの 「DO NOT」 の姿勢 ] に苛立ってしまったのです。何故なら、工場を訪れてからのチャーリーは呆れるくらいに何もしないで、傍観者の立場を貫き通すからで、しかもそんな状態でありながら予測通りにチャーリーが特別賞を獲得してしまうからなのです。 自らは何ら努力することなく、ライバル達の自滅という形で賞にありつく有様に、この映画の大きな鑑賞目的となっていた “受賞” というプロセスが、ないがしろにされたように思えて大きな不満を感じてしまったのです。チャーリーは家政婦ならぬ、(ただ)見ていた(だけ)だったのですから。 工場主のウィリー・ウォンカがこの存在感の薄いチャーリーを評して発した 「キミはただ運が良くてここ(工場)に来れただけ」 という発言を思い出しました。そうなのです。特別賞も 「運良くて獲れただけ」 のチャーリーの無気力さなのです。 他の子供達が 「DO」(行う) という積極性を発揮する中、チャーリーは率先してウィリー・ウォンカに挨拶をするワケでもなく、様々な局面において自己主張ができるはずもなく、ただ、流れに追随して漂っているだけのように見えてしまうのです。 しかし、ご都合のよろしいことに賞獲りレースのライバル達が、貪欲な食欲のためにチョコレート池に溺れたり、開発途中品に勝手に手を出して差し障り状態に陥ったり、また、あろうことか “クルミ割りリス” を誘拐しようとしてダストシュートに遺棄されたりと、常軌を逸した身勝手さを発揮して賞獲得レースから勝手に脱落していってくれたのです。そんなトホホな展開の中、チャーリーは相変わらずの非積極的な 「DO NOT」 のベクトルで皮肉にも生き残っているだけだったのです。 ↓制限字数で語り切れず。完成版はこちらまで
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[021]駅馬車
 ポータブルDVDによる 車内鑑賞レビューマーク・レスター2008-06-01
 【ネタバレ注意】
「ネイティブ・アメリカンの人権」 なんか眼中になかった、 1939年の “モラル” を今さら非難する気は僕には ない。 それ故、“インディアン” を 「悪」 や 「恐怖」、・・・
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「ネイティブ・アメリカンの人権」 なんか眼中になかった、 1939年の “モラル” を今さら非難する気は僕には ない。 それ故、“インディアン” を 「悪」 や 「恐怖」、そして迫り来る 「殺戮」 という         「単なる “記号”」 として割り切って観ようと念じたのです。 それは、まるでSF映画における “エイリアン” や 戦争映画での “ドイツ兵” のように 「人格」 や 「歴史背景」 のない、ただの 差し障り要因という “記号” として割り切って観たのです。  (あれ? ドイツ兵にも 「人格」 や 「歴史背景」 というものがありましたっけね) 今作で感心したのは  “インディアン” という “ジョーズ” や “ベロキラプトル” のような 「恐怖の存在」 を決して安売りすることなく、しかし、映画の隅々までその存在感を反映させながら、訴求タイミングにイッキに総動員してくる、そんなバランス感覚に溢れた演出でした。 メリハリを充分に利かせたこの映画のジョン・フォードという監督は、スピルバーグやリドリー・スコット、はたまた、ホラー映画をさぞかし研究したことでしょうね(笑) また、“駅馬車” による疾走感を敢えて自重し、停車場である “駅” という落ち着いた環境でじっくりと登場人物のキャラクターを語り、物語を進行させ、夫々の人生を浮き彫りにさせていく手法を大いに支持したいと思います。 丁寧にドラマを紡ぎ上げたからこそ、然るべき時間帯に一気に爆発する疾走感にリアリティを与え、観る者の感情を揺さぶって、大きな映画的興奮を創出していたのです。 このバランス感覚に富んだ演出を観ただけで、この映画の監督はさぞかし..... (もうやめておきますね)。 昨今のアクション偏重の薄っぺらな映画を作ってしまった全ての製作者には、教科書のページを捲って、 「1939年のおさらい」 を是非とも行ってもらいたいものだなと思いました。 1939年公開のこの映画が単なるアクション映画に留まってはいなかったことに驚きを隠せなかったわけですが、いきなりの "出産” という展開に対しては正直言って、戸惑いを感じてしまいました。しかし、出産という出来事によってこの映画が加速度的に興味深くなっていったのは事実ではあり、この新しい生命の誕生が契機となって、それぞれのキャラクターに 「回復」 や 「復活」、はたまた 「再生」 というものが成されていったことに非常に大きな興味を持ったのでした。 しかも、それらの救いの数々が “インディアン” という 「受難」 を克服して成就していたことにおいて、僕は         “宗教的 な 寓話” をも連想してしまったのでした。 マロリー大尉夫人の出産を通して 酔いどれ医師ブーンに医者としての、そして人間としての 「回復」 がなされ、 酒場女として蔑視されていたダラスにも、出産に際しての貢献が認められて “人間性” の再評価が行われ、 存在感の薄かった酒商人ピーコックも家庭人としての立場から、赤ちゃんや母親を気遣う強い側面を発揮していくことになるのです。 しかし、この流れに乗り切れない異端者2人がいることも事実であり、自分はヒーローであるところのジョン・ウエイン演じるリンゴ・キッドより、この2人の存在にこそ強く興味を引かれ、         妄想 を 増大 させてしまったのです。それが賭博師ハットフィールドと銀行頭取のゲートウッドという存在。 駅馬車に乗り込んでいる人々の中で、唯一、命を落とすハットフィールドは、この映画で赤ちゃんを産むことになるマロリー大尉夫人の護衛的立場を買ってでるのです。どうやら彼は彼女の父親が指揮した軍に所属していたらしく、志が高い騎兵隊の士であったが、何ゆえか転落してギャンブラーという俗悪なものになってしまったようなのです。 そんな人生を送ってしまった故の贖罪の気持ちからなのだろうか、ハットフィールドはまるで聖なるものとしてマロリー大尉夫人に献身的に接していくのです。そんな究極的な行動が “インディアン” による、“頭の生皮はがし” という蹂躙地獄からマロリー大尉夫人を守ることを目的とした、「彼女に向けられた銃口」 という “気遣い” にあらわれていたのでした。 ↓制限字数で語り切れず。完成版はこちらまで
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[022]誰も知らない
 ポータブルDVDによる 車内鑑賞レビューマーク・レスター2008-04-23
 【ネタバレ注意】
「 事実 と 映画 は 違って いたのだ。」 このことを念頭にこの映画のレビューを書きたいと思った。 なぜなら、他の方のレビューを俯瞰すると、この映画の題材・・・
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「 事実 と 映画 は 違って いたのだ。」 このことを念頭にこの映画のレビューを書きたいと思った。 なぜなら、他の方のレビューを俯瞰すると、この映画の題材となった 「巣鴨子供置き去り事件」 に対する感想に終始しているように思えてしまったからです。 もし、この映画ではなく、「巣鴨子供置き去り事件」についてのコメントをするのであれば、映画とこの事件との相違を認識した上で論じるべきだと感じたのです。    その 違い とは、 長男14歳 長女7歳 次女3歳 三女が2歳。 男の子は長男だけという孤立した子供の構成で、その中に2歳と3歳の幼児が2人もいたこと。しかも長女はまだたったの7才で、長男の相談相手にもならない存在あった、という事実。 母親40歳は売春や窃盗での逮捕歴もあった人間で、子供を捨てて56歳愛人のマンションで生活をしていたという事実。 そして、子供たちの発見現場には 白骨化した乳児の死体 (自宅で死亡した子供ー生きていれば4歳としている)  もスーツケースに隠されていたという猟奇的な事実。 そして映画では5歳の末娘の死因が椅子から転落した事故死とされていたのに反し、実際は2歳の末娘を 長男14歳と長男の友人2人がなぶり殺しにした上に、そいつらと秩父の雑木林に捨てた、という驚愕の事実。 (長男の友人によって押入れから何回も落とされたことが死因とされている。) そう。事実は映画なんかよりも重く、辛く、陰惨なものであったのだ。だから事実よりも不当に、軽減されてしまった母親の罪や、美化されてしまった長男の行いについて、この映画で得られる情報だけで語ろうなんてことは僕は思わない。 何故なら、事実は映画なんかよりも、比較にならないほど酷かったのですから。 だから、純粋にこの映画についてのレビューを書きたいと強く思った。事件についてではなく、この事件に触発されて監督が表現したいと思った世界に目を向けようと思ったのです。  第一条 母親は紳士売り場で働いて、お金を家族の口座に振り込むこと  第二条 母親は 1ヶ月ぐらいは外泊しても良いが、最終的には家庭 に戻ってくること  第三条 住居の契約は 母親と長男の二人住まいとし、他の者は存在していないこと           にすること  第四条 存在しないとされた者は、決して外に出ないこと  第五条 なんびとも 学校へは通わないこと 以上のような憲法があの家庭には存在し、永い間、遵守されていたようなのです。 憲法の制定者にしてカリスマ元首たる母親が失踪するという一方的な憲法違反によって “国家”  否、あの家庭が変容していくさまに大いに興味を覚えました。 “国王の亡命” を期に次男が禁じられていたバルコニーに降り立ち、次女の末娘が、帰ってきやしない母親を迎えに行くために駅まで外出していく。 頑なに守り通してきた 「決して外に出ないこと」 を、いとも簡単に破り始め                           (第一次 鎖国の解除) その後、長男が同年代の友人を作り、あろうことか家に呼び込む                            (黒船来航による鎖国政策の崩壊) 未納による電気、水道等のインフラの遮断   (国内資源の涸欠) それによる公園への侵略行為へと、国土は荒れ、人心も荒廃していくのです。 そして映画には描かれてはいなかったが、最終的には“国連” の介入を許すことになるわけです。 このような “憲法違反” によってこの家庭のありようが変わることは明らかではあるのですが、映画が進行していくうちに上記のような“国王の亡命”はこの映画にとっての進行上の発端でしかなく、あのコミュニティを変えることになるもう一つの要因こそが、この映画が語りたいとしている本当のテーマなのではないかと思えてきたのです。 それが     “ 成長 ” 。 子供たちの “成長” というものがこの歪んだ国家を瓦解させる、    「緩慢 な 時限爆弾」 であったと感じました。 それは“母親の失踪”という劇的なことが無くとも、あのコミュニティは変容するべくして変容していったのだと思ったのです。 ↓ 制限文字数で語り切れず。完成版はこちらまで。 http://ouiaojg8.blog56.fc2.com/blog-entry-16.html
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[023]シン・シティ
 ポータブルDVDによる 車内鑑賞レビューマーク・レスター2008-04-16
 【ネタバレ注意】
今作はコントラストの強いモノクロ画像を基調とした全6話から成るオムニバス映画であるのですが、冒頭の1話目と2話目を観ただけで、この映画をスタイリッシュで都会的なハー・・・
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今作はコントラストの強いモノクロ画像を基調とした全6話から成るオムニバス映画であるのですが、冒頭の1話目と2話目を観ただけで、この映画をスタイリッシュで都会的なハードボイルド映画であると早合点、不覚にも狂喜乱舞をしてしまいました。しかし3話目、4話目と映画が進行していくうちに、この映画は本来持っている邪悪? な姿を見せ始め、ダーティーでバイオレンスに満ちたグロテスクなシーンの連続攻撃が炸裂!したのです。それでも1・2話目で見せた都会的なセンスを信じてこの映画はきっと        「グロかっこいい」 映画となってくれるものと、一縷の希望を託してしまったのです。 ( 「エロかっこいい」でも「キモかわいい」でもありません。「グロかっこいい」です。 ) しかし、その後の「グロ」さ加減と “パート・カラー” というスパイスの不調和のせいで期待していた「グロかっこいい」などという絶妙なバランスの美味にあり付くことはなかったのです。   モノクロにこだわりの色を加えて強調する “パート・カラー” という技法は、1963年の黒澤明監督作品「天国と地獄」において、捜査陣の仕掛けた罠に犯人が堕ちたことを知らせる“赤い煙”に代表されます。 この手書き着色によってもたらされた視覚的・構造的な興奮を経験してしまった身としては、今作の、色を廃したモノクロームの世界に “血” の赤だけを入れて、ことさら流血を強調する “パート・カラーー”技法は、非常に刺激的ではありますが、中盤以降の口当たりの悪さを助長するだけの、その場しのぎの薄っぺらい行為であったと感じざるを得ませんでした。「天国と地獄」におけるこのスパイスは大きな映画的興奮を導き出す1級品の「演出」 であったのに対し、今作のそれは “生理的嫌悪” を引き起こす本能的な 「刺激」 でしかなっかのです。それは勿論、       大脳皮質によってもたらされる 「演出」                      というクリエイティビティであるはずもなく、       脳幹や脊髄レベルでの生理学的で単純な 「反応」                                             でしかなかったのです。 ただ、生理的な “赤” に対しての生体反応を起こさせられただけであり、決して創意工夫によって心を動かされたわけでは無いのです。 少々、横道にそれますが、“血” に対する表現方法が今作には2通り存在し、そのうちの1つが今、批判の的にしている赤だけをカラーで着色する配慮に欠けた方法であるのですが、残りのもう1つの表現方法には賞賛に値する創意工夫があったと評価をしているのです。それは “血” というものを、        “眩いくらいに白く輝く液体”   としている表現で、“血” というものは今作のようなモノクロ映像においては、黒か濃いグレーとして映るわけですが、そこを敢えて蛍光塗料のようにギトギトと輝く液体として扱っているのです。これによってショッキングなシーンに多用される          “ネガ反転画像” の効果が “血” というピンポイントに集約され、その結果、流血という異常事態を印象深くすることに成功していたのでした。この表現の奥深さに心惹かれ、このハイセンスな映像世界のまま、この映画を貫いて欲しいなと熱望したものでした。 (本題に戻ります)しかしベタでこれ見よがしな “パート・カラー” の活用にも上記の “ネガ反転画像” のように1つだけ賞賛に値する創意工夫を見つけることができたのです。それは、切迫しながら車を走らせる主人公の姿を、         RGB原色の外光 が めまぐるしく照らし、彼を様々な色で照らす場面。照明によって対象物に色を加えることで、立体的な陰影を濃くし、主人公の抑えがたい焦りや動揺した心情をしっかりと伝えてきたのです。ベタな色使いでは無く、照明によって加色していく表現の可能性に心惹かれ、このハイセンスな映像世界のままこの映画を貫いて欲しいなと思いましたが、やっぱりそれも叶うことはなかったのです。 後でわかったことですが(本当ですよ)この賞賛を与えた “パート・カラー” を含む一連の映像はスペシャルゲスト監督なるタランティーノによるものだったそうです。偶然にしても、演出の違いに気づくことができたのは、うれしく思いました。 ↓完成版はこちらまで http://ouiaojg8.blog56.fc2.com/blog-entry-15.html
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[024]帰ってきたヨッパライ
 ポータブルDVDによる 車内鑑賞レビューマーク・レスター2008-03-29
 【ネタバレ注意】
今作を鑑賞して驚愕したことは、    “ 1968年当時の 「日本」 と 「韓国」 の間にある凄まじいまでの落差 ”                           ・・・
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今作を鑑賞して驚愕したことは、    “ 1968年当時の 「日本」 と 「韓国」 の間にある凄まじいまでの落差 ”                              でした。 「ニッポン」は1950年代の朝鮮戦争による戦争特需を踏み台にして「無責任男」のノリに象徴される       “ 罪無き高度経済成長 ” を無邪気に謳歌している真っ最中。団塊世代の“ヤング達”はグループサウンズの軽快で軽薄な風潮の元、“ミリタリー・ルック”に身を包み、「自由」と「個性」を声高に叫んでおりました。 一方の「韓国」は日本帝国主義の支配と南北分断の朝鮮戦争によって疲弊の一途を辿り、“北”の脅威に備えながら、徴兵制のもと軍備を増強。アメリカのベトナム戦争に狩り出される形で、約31万人もの若者が無理やりに“軍服”を着せられ、        地獄のベトナム に移送されていたのです。自国の戦争ではなく、アメリカとの“お付き合い”の中でたった一つの命を落とす。しかも、たまたま巡りきた徴兵期間で死んでいった若者が相当数いたであろうことを偲び、心が痛みました。 1968年現在、私達の隣国は「自分らしさ」の追求どころではない、己の命の維持さえもままならない、そんな過酷な状況にあったのです。  「ニッポン」と「韓国」を分かつ玄界灘には、このように絶対的な「社会的乖離」という深く長い海溝が、確かに存在していたのです。 今作はフォーククルセダーズという3人組を1968年「ニッポン」の若者の象徴的サンプルとして抽出し、玄界灘を目前とする北九州の海岸をスタートの地として、ベトナム戦争から逃れるために密航して来た「韓国」脱走軍人との        生死をめぐる“鬼ゴッコ” を演じさせることによって、二つの国に横たわるこの大きな乖離を浮き彫りにしてくるのです。しかも「ミリタリー・ルック」と「軍服」に対比される “服” という記号を奪い合うことによって、時として「日本人」の称号を得て自由を獲得し、時として脱走「韓国人」として追われる身となる、こんな        記号論的な属性の混濁 を創出して、両国民を外見だけで識別することの困難さを今さらながらに再確認させています。そのことによって、「ニッポン」ノンポリ学生と「韓国」脱走軍人の間には、生物学的に識別・区分けするものは一切無く、両者のこの極端な人生の相違は、人為的に作られた“国家”という概念に支配されていることを訴えてくるのです。 二つの国家におけるこの大きな人生の相違は、“命の格差”の問題へ直結して語られていきます。韓国脱走軍人の自虐的な発言、「べトナムで即死したら343,200ウォンが支給される。しかし3回即死しても日本の乗用車1台さえ買うことができない」 に加えて、“即死” や “傷がもとでじわじわ死ぬ” 場合などの料金ランクがあることも暴露。どうせ死ぬのなら遺族のために “即死” を選んで、少しでも金額を残してあげたいという気持ちだったのでしょうか、ベトナムでの極限状態における韓国軍人の “武勇伝” はこんな哀しい構造によって成されていたのかもしれません。 そんな時代背景に触れて、    “日本人であることとは? そして韓国人であることとは?”                              という大きな問題提起を前に途方に暮れ、 “人為的に作られた「国家」という概念によって差別・翻弄されてしまう人生"                          や、  “生物学的には同一でありながら、命の尊さに違いが生じることのやるせなさ”                           について考え込んでしまった。 終盤、この映画は現実の世界を離脱し、イメージの世界に突入していきます。 制限文字数で映画を語れるはずもなく.....。 完成版はこちらまで↓
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[025]海の上のピアニスト
 ポータブルDVDによる 車内鑑賞レビューマーク・レスター2008-03-15
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今作の鑑賞ポイントを     「 “1900”にとって、あの “乗客船” とはどんな存在であったのだろうか? 」     という1点に絞ってみました。 生まれて間もなく豪・・・
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今作の鑑賞ポイントを     「 “1900”にとって、あの “乗客船” とはどんな存在であったのだろうか? 」     という1点に絞ってみました。 生まれて間もなく豪華客船の一等社交場にあるグランドピアノ上に置き去りにされて以来、一歩も地上に降り立つことなく船の中で成長した彼は、27歳の時にこの映画の語り部 “ コーン ” と出会います。 成人した時点で、彼にとってのあの乗客船は寝起きをする “生活” の場であり、文字やピアノを覚えた  “学校”  であり、唯一の  “故郷”  でもあり、そしてピアニストとして従事する  “ 職場 ”  でもあったのです。 やがて、異性の存在を認識したことをキッカケに下船の意思を表明。しかし、異常なまでの反応を示しながら、彼は下船の意思を一転して翻すのです。被っていた帽子を海に投げ捨てて、地上に一歩も足を踏み入れる事も無く、船のタラッブを再び上っていく彼の姿を見て、彼にとってのこの乗客船とは  “生活の場”  “ 学校 ”  “ 故郷 ”  “ 職場 ”  とは違う存在となっていることを確信しました。 「 下船をしない 」という意志を、外出時のたしなみとして必要となる “ 帽子 ” を投げ捨てることで表現したことから、「 今後はいっさい、外出 (下船) せずに “ 内 ” (船)にこもる 」 ことを宣言していると感じたのです。  あの巨大な船を “ 内 ” として認識し、それ以外を “ 外 ” とした関係性は巨大船全体を、社会の最小単位で、最も緊密な         “ 家族 ” というコミュニティ として認識した結果ではないかと思ったのです。(後ほど、この考え方は行き詰まりますが.... ) 一時の下船の意志は、思春期における反抗期と家族からの巣立ち・独立が重なり、しかし、未知なるものへの恐れと、家族への過度な依存の為に下船を諦めたと、たかをくくっていたのです。しかし、何年もの月日が経ち、この船の管理者が変わり、旅客船から病院船という形態を変えても、彼はどこかの隙間に潜り込み、永き時間に渡り船内で生き続けていたのです。 そのことを知るに至って、あの巨大船は彼にとっての  “ 家族 ”  程度のものであっては、この行動を理解することは不可能だと思い始めてしまったのです。 終盤、彼は “ コーン ” に下船断念の理由を         「 理解を超えた “ 広がり ” に対する恐怖 」 であったと告白しますが、そこで、また、新たな考えに行き着きました。 あの巨大船は彼にとって、 “ 故郷 ” や、 “ 学校 ” 、 “ 職場 ” 、ましてや  “ 家族 ”  なんかの第三者的な存在では無く、彼と全く同一な存在となっていたのでないだろうか? と。 あの巨大船が、彼の知識や技術をコントロールすることができる唯一の  “ 広がり ”  であり、それ以上の  “ 広がり ”  を決して容認することができないとすれば、あの巨大船は彼の認知できうる世界そのものであり、彼の知識・経験の全てを余すこと無く1点に集約した器官となる、          “ 彼の脳 ”  であったのだ! という突飛な考えが浮かび上がりました。 船と彼が別の存在であれば、下船は不可能ではなかったのでしょう。しかし、あの船が [ 彼が理解できる全ての範囲 = 知的世界 ] となっている点から、他にその代用品を求めることができない  “ 脳細胞 ”  を破棄することなどできなかったわけで、それだからこそ、あの船に留まらざるを得なかったのだと納得したのです。          しかし、物議を醸し出す あのラストだ......。 彼があの船に殉じる理性的な理由は、一体どこにあるのだろうか!?  前述の “ 脳器官 ” という理由づけも、彼自身の生命を超える重さがあるとは思えない。 はぁ〜、また、卓袱台がひっくり返されてしまいました。 様々に逡巡したあげく、ここにきて、ギブアップ直前にまで追い込まれてしまった。 しばし、クールダウンしながら、他の方のレビューを俯瞰していたら、 ↓ 文字数オーバーで全文掲載は不可。続きはこちらまでおいで下さい。 http://ouiaojg8.blog56.fc2.com/blog-entry-13.html
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[026]そろばんずく
 ポータブルDVDによる 車内鑑賞レビューマーク・レスター2008-02-17
 【ネタバレ注意】
ポータブルDVDを使って、通勤時間中での車内鑑賞レビューを実行中。 コメディアンによる痛快サラリーマン映画、という期待感から、植木等の60年代に制作された「無責任男・・・
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ポータブルDVDを使って、通勤時間中での車内鑑賞レビューを実行中。 コメディアンによる痛快サラリーマン映画、という期待感から、植木等の60年代に制作された「無責任男シリーズ」が連想されました。そんなキッカケで、同じ傾向にあると思われる、この「そろばんずく」という映画は 《1980年代の「無責任男シリーズ」だった》 のか?  をテーマにして車内鑑賞を始めることにしてみました。結論から言うと、   “是”であり“否” でもあったのです。 では、説明しやすい“否”の理由から述べてみたいと思います。でも、その前に何故、「無責任男」と今作を比べようと思い立ったかを詳しく説明すると、「そろばんずく」という語感とタイトル画像からの印象がその理由となっているのです。「そろばんずく」とは、     “損得勘定に長けた” という意味で、卓越した営業センスで、そして主人公がコディアンであるため、口八丁、手八丁の調子の良さも手伝って、まるで「無責任男」のような爽快な出世モノが展開されるものと期待してしまったわけなのです。 そして旗を振り回して、挑発的にカメラに迫るタイトル画像を見れば、誰しも、外に向かって拡大していく瞬発力を期待してしまうのではないでしょうか? 僕は 《80年代に舞台を移した、「無責任男」》を見ることができるものと思っていたのに、結局はまんまと騙されてしまったわけで、今作は爽快な出世モノとは程遠い映画であったのです。 「無責任男」と「そろばんずく」を決定的に分けるものを考察すると、    ‐緇沙峺の欠如    ⊆詑寮の欠如 という2つの欠如が挙げられました。  半緇沙峺”は、「無責任男シリーズ」が持つパワーの源 であり、無責任男はより良い環境を飽くなき探究心とチャレンジ精神で獲得していきますが、 (と断言していますが、そもそもは20年前の記憶を元にした印象ですので、悪しからず。)残念ながら「そろばんずく」には、上を狙ってのバイタリティは無く、現状維持の中での、突然の凋落。そして懸命の現状への復活があったのであり、個の拡大という図式はなく、物語上の会社組織の拡大があるという程度だったのです。しかも貪欲なまでの上昇志向は ライバルのラ社を牛耳る“天神さま”が振りかざす、“血縁による業務拡大”というアブノーマルなものとして、笑い飛ばされているのです。 そう、「そろばんずく」において、明確な“上昇志向”は、どこか控えるべきものとして避けられしまっているのです。この映画は、世渡り上手な成功モノという傾向を持ち得なかった点で「無責任男」とは距離を置く映画なのです。 ⊆詑寮の欠如  「そろばんずく」において、会社組織が森田芳光監督流のあそび感覚を導入しての、学校組織にイメージを重複させた象徴的な表し方となってしまっているのですが、その為に、会社活動がリアリティに欠けた、バーチャルで実体を成さない社会活動との印象になっている点に代表されます。 (「無責任男」もリアリティの欠如は見受けられますが、バーチャルな虚無感は回避できていたと思うのです。) 「無責任男」が、その行動基盤を、あくまでも会社活動というリアリティの中における上昇志向に根ざしていたのに対し、「そろばんずく」は早々と会社組織からの離脱を余儀なくされ、“そば屋”や“清掃業”という仮の姿でライバル社の探りを入れることに終始してしまうのですが、その為、その行動の基盤となる会社組織自体の存在感が希薄となり、彼らの行動自体が、いや、この映画の存在自体が薄っぺらい、リアリティに欠けたものとなっているのです。 この、絵空事で塗り潰された、悪い意味での“映画のフィクション性”に引きこもってしまった点が「無責任男」と「そろばんずく」を深く隔てるものとなっているのです。 今作は《1980年代の「無責任男」だった》のか? の鑑賞テーマに対しては、以上の2点によって、“否”との結論に達しました。が、次回は この2つの映画が制作された時代背景を考慮し、再考した結果、今作は《1980年代の「無責任男」だった》のかも! という視点でレビューを続けてまいります。 ↓ 文字数オーバーで全文掲載は不可。続きはこちらまでおいで下さい。
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[027]ラスト・ショー
 ポータブルDVDによる 車内鑑賞レビューマーク・レスター2008-02-03
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8月23日(水) Vol.1 「アイ・ラブ・ルーシー」や「じゃじゃ馬 億万長者」「名犬ラッシー」に見る、健康的でモラルに富み、希望に満ちた50年代黄金期のアメリカ・・・
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8月23日(水) Vol.1 「アイ・ラブ・ルーシー」や「じゃじゃ馬 億万長者」「名犬ラッシー」に見る、健康的でモラルに富み、希望に満ちた50年代黄金期のアメリカは ここには           ない。 テキサスの裏ぶれた町で、スポーツも恋愛も うだつの上がらない高校生と、どこか疲れちゃった感じの大人しか出てこない映画。古き良き時代のアメリカを語りながら、ブラウン管から流れていたそんな作られた日なたには目を背け、日陰の部分に敢えてフォーカスした映画。 と思いつつ観ていたら、うだつのあがらない高校生と、この高校生の体育コーチの奥さん。いわゆる、どこか疲れちゃった大人が不倫を始めまてしまいました。まーこれぞ、「日陰の恋」ってやつかな。 渋みのあるモノクロ画面が “滅びの美学” を今後、示していくであろうこの映画の雰囲気を如実に語ってくれています。また、バックミュージックも当時揺籃期であっただろうロックを排除して、カントリーミュージック! で構成。時代の先端ではない、後方に停滞しているもどかしさを表現していきます。明日以降、「ラスト・ショー」という題名やこの世界観から勝手に  “滅びの美学”  なんて断言してしまいましたが、このキーワードに接近するのか、遠ざかってしまうのか、こわごわ、傍観です   8月27日(日) Vol.2 最終回の1/2 全部観終わりましたが、書きたいことが長くなってしまいましたので、2回にわけて記したいと思います。まずは1回目。 残念ながら 「滅びの美学」 を見つけられることはできませんでした。 しかしここには、度重なる「喪失感」 とあやふやで不確かな 「救い」 があったのでした。 父親のように慕ったサムの突然死、 親友の元カノに翻弄されてしまった恋、 この恋が原因で壊れてしまった親友との友情、翻弄されてしまった恋 それ自体の消滅、弟のように可愛がっていた精神薄弱の少年の交通事故死、と、ことごとく彼の人間関係が削がれていくのです。まるで、高校時代という、人生における輝かしいくも保護された時代が終わった瞬間に直面する “社会の現実” を、「喪失感」 という言葉で代弁しているかのようでした。 古き良き時代を背景に、高校卒業によって、仲間が離れ離れとなる物語、といえば、「アメリカン・グラフィティ」 を思い出しますが、この「アメ・グラ」 が60年代のアメリカンPOPに乗って、軽快に18歳の希望溢れる青春が語られるのに対し、この映画は、カントリーミュージックにまとわりつかれながら、閉塞的で変わりばえの無い人間関係を引きずりつつ、決して軽快ではないエピソードが綴られていく物語なのです。 作家性、作品コンセプトの違いによってこのような相違点が見受けられるのは当然とは思いますが、 「ラスト・ショー」 が1971年の公開。 そして 「アメ・グラ」 が2年後の1973年の公開 であることを鑑みて、そんな個別の問題だけではない、アメリカ映画史という大きなうねりの中にその解を求めてみました。この問いを解くキーワードが        “アメリカン・ニューシネマ”。 “アメリカン・ニューシネマ” とは1967年の 「俺たちに明日はない」 を皮切りにそれまでの煌びやかで、楽天的なハッピーエンドのハリウッド的世界感に対抗して、若手映画作家達が “孤独” “挫折” “性” “死” という、今までは積極的に語られなかった題材を活用して1970年代初頭までに制作された作品群を指し、「イージーライダー」 や 「スケアクロウ」 「真夜中のカーボーイ」 などが代表例としてあげられるアメリカ映画史上の重要なムーブメントなのです。 「ラスト・ショー」 はこれらのトレンドが支配していた時期の1971年の公開であり、しかもその系譜に位置づけられる作品だったのです。このような既存の価値観に一石を投じた監督達は       「第7期ハリウッド世代」 と呼ばれており、一方の「アメ・グラ」 は再びハリウッド本来のエンタテインメント性を蘇らせた       「第8期ハリウッド世代」 のジョージ・ルーカスの手によるものだったのです。 たかが2年という差ではありますが、そこには、時代を仕切る隔壁が大きく存在していたわけです。 ↓ 文字数オーバーで全文掲載は不可。続きはこちらまでおいで下さい。 http://ouiaojg8.blog56.fc2.com/blog-entry-11.html
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[028]血と骨
 ポータブルDVDによる 車内鑑賞レビューマーク・レスター (Mail)2006-08-20
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ポータブルDVDによる 車内鑑賞レビュー 通勤電車の中で、ポータブルDVDプレイヤーを使っての映画鑑賞にいそしんでいます。その日その日の、ストレートな印象を綴ってレ・・・
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ポータブルDVDによる 車内鑑賞レビュー 通勤電車の中で、ポータブルDVDプレイヤーを使っての映画鑑賞にいそしんでいます。その日その日の、ストレートな印象を綴ってレビューとしています。 8月15日(火)  第1回目 「真っ黒な画面に韓国庶民の歌声が聞こえ始めると、さっと早いフェイドインで移民ひしめく船の甲板を俯瞰で捉えた画面が映し出される」 これがこの映画の導入部である。 大正末期の、韓国から日本への移民船の甲板上に青年時代の主人公がいる。やがて、移民たちは目的地の大阪が遠くに姿を現したことに歓声をあげ始める。しかし、希望を胸に日本へとやって来た彼らの前に広がる大阪の風景は、風光明媚な光景なんかではなく、もくもくと黒煙を吐き出す工場群の遠景だったのだ。」 このファーストシーンだけで、この映画は傑作に間違いない。と確信したのでした。時はまさしく「富国強兵」の時代。ヒステリックなほどの工業化重視、効率重視、生産性重視 の国策の元、"よそもの”の彼らは「安い労働力」としかみられない時代で、先行き多難な彼らの未来を的確に予見した秀逸のファーストシーンだったのです。 この素晴らしいファーストシーンから、この映画はどのように展開するのかなと楽しみにしていたのですが、横暴、横柄、不埒なあのオヤジの傍若無人なる振る舞いの数々を見せられる一方なのですよ、これが.......。 しかも移民船に乗っていた青年が、どのようにして、あのオヤジになっていったかの明確な説明がないので、ファーストシーンを手放しで賛同した身としては早くも戸惑いを感じてしまっております。 ファーストシーンに登場するあの青年に「大日本帝国・富国強兵」というファクターが作用してあのオヤジが出来上がるわけですから、大正、昭和にかけて、韓国・朝鮮の移民の人たちを「大日本帝国」はいかに扱ったのかは予測をすることができます。しかし、あくまでもマクロ的?な理解なので個人的レベルでのオヤジの生成要因をこの映画が語ってくれないことに、納得のいかない思いでいるのです。 北野 武 のオヤジぶりは 凄まじく、激昂する異常さは格別、ドロ臭い格闘は最高!でした。しかしこのオヤジの存在が強烈すぎて、題名の「血と骨」を受け継いでしまう子供達の悲劇やジレンマの表し方が中途半端な感じがしてしまった。 8月19日(土)  第2回目 あのオヤジに“生”を与えられた血族の中で、最もその人生を翻弄さてしまった者は、夫の家庭内暴力で死を選ぶ花子ではなく、ヤクザに命を奪われるオダギリ・ジョーでもなく、勿論、温泉街に逃げ込むこの映画の語り部であるはずもなく、 終盤において、3号さんに生ませた幼くも哀れな男の子だったのです。 オヤジが体の自由を失ってからは別居していたこの男の子を、姉と無邪気に遊んでいたところを、力ずくで誘拐。北朝鮮に無理矢理連れていくのです。目的は、奴隷としてオヤジの老後の世話をさせる為....。 男の子の首根っこを掴まえて、まるで子犬を押さえつけ、引きずりまわすかのように、あの男の子を母親から、愛から、日本から、豊かさから、自分の老後の為だけに、引き離し強奪するカットは、そのあまりの身勝手さにヘドが出そうなほどの嫌悪感を覚えた。 老後の世話をさせる為に、国籍を放棄させ、日本で暮らせる権利を剥奪し、彼を守っている全ての加護を断ち切った上で、奴隷として支配し、酷使し、虐待する(これらの行為は直接表現はされていないが、オヤジが男の子をどのように扱うかは十分に推察することができる。)  このような“いのち”を徹底的に愚弄する行為に対し、ただただ、強烈なおぞましさと強固な憎悪だけを感じた。 それから何年たったのだろうか、北朝鮮の寒村で、成長したあの男の子がオヤジの墓を掘る。いつも通りメシを食っていると、死の床でオヤジが初めて大阪を目の当たりにした時の夢を見ながら息を引き取る。しかし何の感慨も無く、メシを続ける男の子。そこには何の感情もなく、日常の“メシを食う”という行為が淡々と行われるだけなのだ。 これがこの映画のラストシーン。 死を目前に横たわるオヤジに向かって、あの男の子は恨みを叫ぶわけでもなく、ただ墓を掘り、メシを食う。そこにあるのは様々な感情が出尽くした後の静寂なのか、無為に過ぎ去ってしまった膨大な時間に対する諦観なのか、この圧倒的な静寂の前に、煮えたぎっていた僕の憎悪が静かにそして完璧に制圧をされてしまった。 秀逸なファースト・シーンと 圧倒的に静寂なラスト・シーン。 その間にある傍若無人な行為で構成された映画だった。
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[029]ミリオンダラー・ベイビー
 ポータブルDVDによる 車内鑑賞レビューマーク・レスター (Mail)2006-08-13
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ポータブルDVDプレイヤーによる 車内鑑賞レビュー 8月2日(水)  第1回目 地味です.....。 主役が二人の爺さんと、アスリート系の30過ぎの女性なのですから..・・・
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ポータブルDVDプレイヤーによる 車内鑑賞レビュー 8月2日(水)  第1回目 地味です.....。 主役が二人の爺さんと、アスリート系の30過ぎの女性なのですから.......。でも選手とマネージャーの関係とか、“女性ボクシング”という知らない世界を目撃できて、楽しいです。また、          プチ・ロッキー的 な高揚感も期待通り用意されており、まずまずの出だしと言ったところです。 しかしビッグタイトル戦まで昇りつめる描写が、時間的に割愛されている気が、どうしてもしてしまい、プチ・ロッキーの様相を呈しているこの物語にきっと、成功モノ以外のオプションが用意をされているものと、穿った観方をし始めてしまいました。どのようなサプライズがかくれているのか、これから始まるビッグタイトルの行方に注目です。        8月9日(水)  第2回目 最終回 「甘かった............。」 サプライズどころの話しではなかった。 驚愕の展開がビッグタイトル戦での、たった一発の反則パンチによってもたらされたのでした。 この一撃によって、この映画はそれまでかぶっていたウサギの仮面を脱ぎ捨て、過酷な自分の本性をあらわにしてきた。 一撃がもたらしたもの、それは、脊椎損傷による、全身マヒという運命。 身体を極限までに躍動させるボクシングという行為から、一転して、永続的な肉体の棺おけにマギーは押し込まれていくことになる。 そしてその極度な停滞が行き着いた末の、血液循環悪化による片脚の切断。「プチ・ロッキー的な高揚感」を味わってしまった観客にとっては、同じ肉体が経験するこの過酷な運命の前に誰しもが愕然となる。 さらにこの映画は“肉体”の問題から“存在”という根源的な問題へと突き進んでしまう。自らの存在を自らの意思で消滅させる「尊厳死」という権利。宗教的な教えの前に老トレーナーが逡巡している間に、自分の意思を反映してくれる唯一の器官となってしまった“舌”を噛み切っての自殺未遂。 何という「負」への凄まじいまでの疾走感なんだろうか! この尋常ではない暴力的なまでに強靭なマイナス方向の力によって、 私はこの映画における 自分の立ち位置を完全に見失ってしまった。 自分の気持ちを平穏に保ち、折々の局面に対応する平常心と客観性を保つことなんて、到底できなくなっていたのだ。 はかなくも映画が企てた罠に陥り、無残にも映画の餌食となってしまった身としては........、 もう何も語ることができない。 8月9日(水)  第3回目  最終回の次の回 「ミリオンダラー・ベイビー」のレビューを完了しましたが、最終回のレビューにおいて、映画レビュー繋がりの バニーマンさんから、  「監督のクリント・イースト・ウッドが、       “この映画は 父と娘の恋愛(ラヴストーリー)だ”                  とインタビューでコメントしたそうです。」     との書き込み情報にインスパイヤーされて、「最終回の次の回」として特別にレビューを続けます。         なるほど.......。 老トレーナーの命名によるマギーのニックネーム  “モ・クシュラ” は   “愛する者よ、お前は私の血” と訳すのですが、  “私の血” が意味するところは          “娘” なのだろうと、このインタビューから強く思いました。 息子や娘のことを表現する時に “血を受け継ぐ”とか“血を引いた”などと日本では言いますが、 この表現を強引に転用すると、老トレーナーはマギーに対して“自分の娘” という思いで接していたことがわかります。 「父と娘の恋愛(ラヴストーリー)」 とのことですが、 究極的に相手を“思いやる気持ち”の物語なのでしょう。 あの二人は血は繋がってはいませんでしたが、 親子のように深く思い合う二人による、“魂の触れ合い”をこの映画は語っていたのです。 いや、そんな生ぬるい言い方ではダメだ、二人の       “魂が強くぶつかり合う” 映画だったのですね。 愛するが故に、その命を苦渋の選択の末、終わらせてあげる映画。 そして、信頼している人に、無限地獄から、死をもって解放してもらう映画。 そんな深く濃密な人間関係の物語だったのです。 悲劇的な語り口に深く動揺して、その中心にある、“魂の物語” に言及できないでいたのでした。 反省.......。
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[030]ウォーターボーイズ
 ポータブルDVDによる 車内鑑賞レビューマーク・レスター (Mail)2006-08-05
 【ネタバレ注意】
ポータブルDVDによる 車内鑑賞レビュー 通勤電車の中で、ポータブルDVDプレイヤーを使っての映画鑑賞にいそしんでいます。その日その日の、ストレートな印象を綴ってレ・・・
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ポータブルDVDによる 車内鑑賞レビュー 通勤電車の中で、ポータブルDVDプレイヤーを使っての映画鑑賞にいそしんでいます。その日その日の、ストレートな印象を綴ってレビューとしています。 7月11日(火) 「行動」 を起こす時には、その起因となる “キッカケ” というものが、必ず存在すると思うのです。 この映画の訴求点は、宣伝コピーの「男のシンクロ!?」 そのもので、シンクロに没頭する男子高校生の物語なのですが、そもそも、あの5人の男の子がシンクロを始めることになった “キッカケ” の突き詰めが甘いので、冒頭から「ぬるい!」 と思ってしまいました。 この映画が動き出す “キッカケ” となる、真鍋かおりとの人間関係をもっと丹念に描くべきであったと、声を大にして主張したい。 また、文化祭での公演を辞退したのにもかかわらず、再び引き受けることになる “キッカケ” の表現も、非常に「ぬるい」ため、彼らの活動の薄っぺらさばかりが気になってしまいました。 人が動くこと、人が集うことの土台には、しっかりとした理由がないと、リアリティに欠けてしまうと思うのです。それが、理屈まみれなものでもいいし、感情的なものであってもいいし、本能的なものでも、勿論いいのです。 兎に角、行動を支える“理由”というものがあって欲しいのです。 残念ながらこの映画は、行動に至るための、しっかりとした “理由” や “キッカケ” に対する配慮が成されていないため、この映画の存在理由である「男のシンクロ!?」 の必然性が欠如した状態で走り始めてしまったのです。 明日以降、足元を確認しなが動いて欲しいな。 7月12日(水) ヤッター!  やっとこの映画に“キッカケ”や“理由”という、行動の元となるものが出現いたしました。 ニュース画像にシンクロ5人組が放映され、彼らの人気が急上昇した途端、入部希望者が殺到するのです。テレビで紹介されたことで、「その祭りの渦に入り込みたい」という欲求が膨れ上がった末の行動なのです。「行動」の“キッカケ”がかなり不確かなこの映画において、何て素直にその「行動」を受け入れられたことか! こんな普通な理由があったからこそ、追加入部組を含めたみんなが、本番に向けて練習する姿についつい引き込まれてしまうのです。 こんな普通なことが、やっと2日目に成されたこと、大変、もったいないなと感じております。 本番を明日に控えて、さあー、佳境へと映画は進みます。この勢いで終盤を纏め上げて欲しいものです。 7月15日(土) 今、彼らのパフォーマンスが終了致しました。 うーむ、もったいない.......。 高校時代、僕も持っていただろう、ハツラツとした眩しい時間が、そこにはありました。しかも学園祭という、特権的時間の中でも、よりによって最高潮に達した瞬間に、彼らのピークが到来したことに、嫉妬さえも感じてしまいました。 僕の高校時代は映画研究部員として8mm映画を作ってきたのだけれど、”作り上げる””人に見てもらう”という観点では全く同じ行為になるわけで、高校3年生の時に作った映画を、色々な人に見てもらい、後夜祭の時に「最優秀クラブ賞」の発表を受けた時の高揚感が、まざまざと思い起こされました。 もったいない.......。と嘆いたのは、そんな終盤の見せ方が高度に結実したにもかかわらず、そもそもの映画の出発点である、シンクロ開始の必然性の脆弱さを、やっぱり思い出してしまったからなのです。しかも、しょうがないな、とは思いつつ、その脆弱性を作ってしまった 真鍋かおり が当然のごとく顔を現す予定調和的な作りに、反発を感じたのも確かです。 でも良かったですよ。前半まるっきりダメだった、“キッカケ” の敷設ですが、「シンクロの大成功」という大団円を導き出す “キッカケ” に関しては、立派に仕掛ることができたのですから。 夜のデートでの火事発見→消化活動によるプールの水不足→桜木女子高校のプールを借りてのシンクロ パフォーマンス。 めっちゃベタな展開ではありますが、心地よく結末への必然を作ってくれました。 ハツラツとした眩しい時間が、映画の中で、そして自分の回顧の中で、しっかりと輝いたのでした。
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