allcinema ONLINE オールシネマ 映画&DVDデータベース
検索オプション

投稿されたユーザーコメント
 
 「陸将」さんのコメント一覧 登録数(460件)rss
 コメント題投稿者投稿日
[001]オカルト
 宇野祥平のダメ人間っぷり陸将2013-01-30
 
宇野祥平をキャスティングした時点でもう勝ち。 「なんでこんなヤツに特殊能力が宿っちゃったんだろう」と思わせるダメ人間っぷり。 ホントに胡散臭くて面倒臭い。 特に焼肉屋・・・
続きを読む
宇野祥平をキャスティングした時点でもう勝ち。 「なんでこんなヤツに特殊能力が宿っちゃったんだろう」と思わせるダメ人間っぷり。 ホントに胡散臭くて面倒臭い。 特に焼肉屋でのシーンはその極み。 ああいう飲み会はイヤだなぁとしみじみと思う。 『オカルト』と銘打ってはいるが、宇野祥平の「観察映画」として最高。 渋谷交差点爆破殺人は取って付けたようなもの。 『オカルト』のような禍々しい恐怖を期待すると、肩透かしを食らうコメディ映画。
隠す
  
 
[002]妖精たちの森
 「見てはいけないもの」に対する憧れ陸将2013-01-21
 
未知のもの、異形のもの、見てはいけないもの。 そんなものに憧れる年頃が確かにある。 それが道徳的・倫理的・常識的に誤っていてもだ。 そんな年頃の心理を見事に表現してい・・・
続きを読む
未知のもの、異形のもの、見てはいけないもの。 そんなものに憧れる年頃が確かにある。 それが道徳的・倫理的・常識的に誤っていてもだ。 そんな年頃の心理を見事に表現している。 「性」や「死」への倒錯した恍惚の境地。 それを無垢な少年少女は、スポンジのように吸収していく。 お堅い家政婦や家庭教師には耳を貸さず、無骨な男に施しを受ける。 それが閉鎖的な空間に閉じ込められた彼らにとっては、絶対的なものになっていく。 それが恐ろしくもあり、同時に美しくもある。 映画とは、普段見られないものを見られることが喜びに繋がるものだ。 倫理的・道徳的に正しいことを伝えなければならないというルールはない。 普段は理性によって抑圧されているものが、作品内のルールとして機能している。 だからこそ、本作に不思議と魅了されてしまうのだろう。
隠す
  
 
[003]明日の空の向こうに
 それでも、鶴は翔んでゆく陸将2013-01-19
 【ネタバレ注意】
本作は3人の子供たちを中心とした「ロードムービー」として展開していく。 特に1番年下のペチャに寄り添った視点になっている。 年上の2人は国境を目指すこの冒険から、彼を・・・
続きを読む
本作は3人の子供たちを中心とした「ロードムービー」として展開していく。 特に1番年下のペチャに寄り添った視点になっている。 年上の2人は国境を目指すこの冒険から、彼を置き去りにしようとする。 そこから子供特有の遊戯性、あるいは兄弟愛が浮かび上がるが、何といっても3人のじゃれ合いが物語の推進力となっている。 やんちゃさや腕白さは言うなれば彼らなりの処世術でもある。 その姿が実に可愛らしい。 だが、この旅路で彼らが食料に困っている様子もなく、疲れて歩けない素振りも見せない。 中盤までは「過酷なものを極力見せないようにする」演出に戸惑いを感じてしまう。   しかし、その演出には理由がある。 やっと目的地である国境に辿り着いた3人。 そこには夢や希望が満ち溢れているはずであった。 だが、3人を待ち受けていたのは、この冒険の旅路よりもずっと過酷な現実である。 ここで、警察担当者の視点と観客の視点が重ね合わせられる。 この子たちを何とか助けてあげたい。 だが、それを法律が阻んでしまう。 八方ふさがりの状況下で、子供たちの「おねだり」の視線が胸を痛めつける。 だが、それでも子供たちはいつまでも悲観はしない。 車中の子供たちの笑顔に、観客は救われることになる。 『鶴は翔んでゆく』という歌に合わせて、まだまだ未来は開けているという希望が残されているのだ。 本作で特筆すべきは、アルトゥル・ラインハルトによる撮影だ。 子供たちの表情のドキュメンタリックな切り取りかた。 夜空の表情の切り取りかた。 風景や屋内の画の切り取りかた。 それらを観るという一点だけにおいても、一見の価値がある作品だ。
隠す
  
 
[004]闇のカーニバル
 「新宿」にも朝はやって来る陸将2013-01-11
 
普段は人でごった返す街、新宿。 そんな街をモノクロで映すとどうなるであろうか。 時間も場所も良く分からない。 そんな抽象化された街で、人々が如何わしい行動に出る。 それ・・・
続きを読む
普段は人でごった返す街、新宿。 そんな街をモノクロで映すとどうなるであろうか。 時間も場所も良く分からない。 そんな抽象化された街で、人々が如何わしい行動に出る。 それはまるでダーク・ファンタジーのようである。 朝がやってくると、新宿はまたもとの色彩を取り戻す。 人影はほとんどなく、冷たい風が身に染みる、殺風景な朝。 それはあの賑やかな光景とはかけ離れたものである。 自分も朝帰りをした時、同じような驚きに遭遇したことがある。 あの朝は、「闇のカーニバル」の出口だったのか。 あの禍々しい世界と、やはり地続きだったのだろうか。 そんな空想を掻き立てるような、不思議なカルト映画。
隠す
  
 
[005]最後のブルース・リー/ドラゴンへの道
 ブルース・リーの自己プロモーション力陸将2013-01-10
 
カルチャーギャップ・コメディとしての要素が濃い一作。 もはや世間から神格化されたブルース・リー像。 彼はそれを一度破壊するところから始める。 そのほつれから生まれる萌・・・
続きを読む
カルチャーギャップ・コメディとしての要素が濃い一作。 もはや世間から神格化されたブルース・リー像。 彼はそれを一度破壊するところから始める。 そのほつれから生まれる萌え。 ブルース・リーは自己プロモーション力が非常に高い。 「カンフーは自己を表現するもの」等、彼の哲学が伝わってくるのもまた良い。 ラストのチャック・ノリス戦がまた素晴らしい。 ヒゲが無き頃の彼が、代わりに胸毛をむしり取られる。 ブルース・リーと互角に戦った男。 だからこそ、「チャック・ノリス・ファクト」なるものが生み出されたのも納得。 そんな彼を倒す際の、ブルース・リーの表情に胸が熱くなる。 格闘家同士の、魂と魂の交感。 それは宗派や国境など軽々と越えてしまうものなのだ。
隠す
  
 
[006]ホビット 思いがけない冒険
 知能指数の低いキャラクターたち陸将2012-12-22
 
本シリーズには財宝と故郷を取り戻す冒険物語という主軸がある。 その第1作となる本作には、冒険の過程で2人の人物が成長していく様が描かれている。 1つはホビットであるビ・・・
続きを読む
本シリーズには財宝と故郷を取り戻す冒険物語という主軸がある。 その第1作となる本作には、冒険の過程で2人の人物が成長していく様が描かれている。 1つはホビットであるビルボが、旅に参加する意義を見出すまで。 1つはドワーフ国の王が、ビルボの勇士を目撃し、赦しの心を得るまで。 それを3時間という尺をかけて描くことは疑問ではあるが、またあの世界に帰って来た喜びと、その世界観が最新技術によってさらにグレードアップされて帰って来た驚きは、最後まで存分に味わうことができる。 だが、序盤のモタモタ感に最後まで足を引っ張られてしまった印象を受ける。 特にビルボの家に集結しバカ騒ぎする場面の冗長さ。 「旅の仲間」を集める過程を省くため、何故このメンバーでなければならないのか、とりわけホビットの中で何故ビルボでなければならないのかという疑問が、最後まで頭にこびりついて離れない。 最初は不参加モードだったビルボの心境の変化も見えづらい。 ピーター・ジャクソンのユーモアの入れ方も下手だ。 本来は悪趣味なグロテスク描写で笑わせるのを得意にしているが、本作の「ユーモア」はただ単に知能指数が低いというレベルの繰り返しで、全く「愉快さ」に繋がっていかない。 それは「旅の仲間」がほとんどドワーフで構成されていること、そして途中で遭遇する敵キャラがマヌケにしか見えないことが原因だ。 特にゴブリンやトロルを倒す場面は、「旅の仲間」のチームワークではなく、敵側の欠陥から危機を切り抜けさせてくれている印象を受けてしまい、「旅の仲間」個々の成長が見えづらくなってしまっている。 「B級映画」としてはそれが「可愛らしさ」として許容されるかもしれないが、このスケールと尺でやられても単にイライラするだけだ。 やはりピーター・ジャクソンは、『バッド・テイスト』や『ブレインデッド』のような「B級映画」の水が合っていると思う。
隠す
  
 
[007]フランケンウィニー
 「モンスター映画」に愛をこめて陸将2012-12-22
 
ティム・バートンのルーツである短編『フランケンウィニー』には、彼の全てが詰まっている。 周囲に理解されず、自分の世界に閉じこもる孤独な魂。 現実は生きにくい世界として・・・
続きを読む
ティム・バートンのルーツである短編『フランケンウィニー』には、彼の全てが詰まっている。 周囲に理解されず、自分の世界に閉じこもる孤独な魂。 現実は生きにくい世界として存在し、生者と死者が一括りにされる独特の世界観。 あるきっかけで暴徒化する住宅街の住民たち。 だからこそ、自身の短編をリメイクした本作はバートンの原点回帰であり、個人映画の趣が強い。 本作は「モンスター映画」にオマージュを捧げまくった作品だ。 フランケンシュタイン、ドラキュラ、狼男、そしてガメラまで。 科学の力によって映画内で創られた「モンスター」たちは、バートンの愛情によって蘇り、思う存分暴れ回る。 モノクロ映像で彼らの過去の活躍に敬意を払いながらも、そんな彼らを3Dで観れる喜び。 あまりにもオーソドックスな「ホラー映画」的な盛り上げ方も、今回は効果的に働いている。 それでいて短編では唐突に感じられた展開にも、きちんと厚みが加えられている。 スパーキーが死ぬまでの過程、そして自らの死を自覚することで、ラストの双方の孤独な魂の寄り添いにグッときてしまう。 あるいは、街に雷がよく発生する理由、スパーキーと隣の家の犬との恋の芽生えを前半できちんと描いているからこそ、ラストの盛り上がりにすんなりと繋がっていく。 バートン作品としては近年ベストの出来であり、見事なリメイク作品だと思う。
隠す
  
 
[008]LOOPER/ルーパー
 負の「ループ」を断ち切るために陸将2012-12-22
 
「タイムトラベルSFもの」には、その特殊な設定のルール説明が必要だ。 だが、本作は冒頭で主人公の口から台詞で説明された後は、極力「画」で世界観を見せていく。 その映画・・・
続きを読む
「タイムトラベルSFもの」には、その特殊な設定のルール説明が必要だ。 だが、本作は冒頭で主人公の口から台詞で説明された後は、極力「画」で世界観を見せていく。 その映画的な語り口が非常に効果的だ。 それでいて、ルールの細かい整合性に縛られない大胆さや、SFというジャンルに縛られず、「人間」の深い部分に迫ろうとするアプローチの斬新さがある。 だからこそ、本作はとてつもなく面白い。 秀逸なのは「ルーパー」と呼ばれる人間たちの日常描写だ。 惰性で行う機械的な殺人と、無感動で味気ない日常の循環。 そして、トリップ感覚を味わえる恍惚かつ艶めかしい画作り。 安易にカメラを揺らそうとせず、アングルの不安定さで世界観を構築していく。 空虚で息苦しい閉塞感を体験させるからこそ、そんな負のループを断ち切ろうとする主人公の咄嗟の決断に感動してしまう。 「肉体の痛み」を感じさせる描写も巧みだ。 拷問場面は直接的に描いてはいないが、観客が思わず想像してしまう見事な仕掛け。 それでいて、その後オールド・ジョーがヤング・ジョーに居場所を伝える場面に恐怖を与える効果も果たしている。 ライアン・ジョンソンは観客の想像力を喚起させるための、情報の出し入れに長けている。 そんな気の利いたストーリーテリング力に、ひたすら魅せられてしまった。
隠す
  
 
[009]東京家族
 『東京物語』というフォーマットの偉大さ陸将2012-12-22
 
『東京物語』という日本を代表する傑作をアップデートする。 さらに、それを手掛けるのが、松竹で「家族もの」を撮り続けてきた名匠・山田洋次。 この時点で本作の一定水準以上・・・
続きを読む
『東京物語』という日本を代表する傑作をアップデートする。 さらに、それを手掛けるのが、松竹で「家族もの」を撮り続けてきた名匠・山田洋次。 この時点で本作の一定水準以上の出来は確約されたようなものだ。 だからこそ、山田洋次は余計なことはしない。 ある家族を傍観するように固定カメラが映し出す。 語りを全く焦ろうとせず、それが冗長だとも感じない。 その落ち着きのあるテンポが、観客に作品を十二分に味あわせ、実人生と照らし合わせる余地を与えてくれている。 特に新たな「家族」となる蒼井優が加わってから、久石譲の音楽の力と相まって、物語が俄然感動的になってくる。 「部外者」であった彼女が、相手方の両親に認められるまでの軌跡。 それを湿っぽくならずに、むしろ未来を切り開いていく存在として、軽やかに描いていくところに好感が持てる。 その他のキャラクターも十人十色だが、誰もが心の奥底に「家族愛」が宿っているのが見えるからこそ、心底感動させられてしまう。 アップデートされている箇所は、全てが成功しているとは言い難い。 特に「3.11」を絡めたエピソードは、語ろうとするテーマの補強ではなく、単なる蛇足のような印象さえ受けてしまう。 だが、その「正直さ」が本作の魅力であることも事実だ。 全ての場面から「家族」「人生」を否応なしに考えさせられる2時間30分。 それだけの長時間でありながら、観客の興味を持続させる山田洋次、そして『東京物語』というフォーマットの凄さを、改めて実感させられる。
隠す
  
 
[010]人生の特等席
 『マネーボール』以降の「野球映画」として陸将2012-11-29
 【ネタバレ注意】
本作はクリント・イーストウッド作品おなじみの「父と娘の物語」だ。 コミュニケーション不足によるすれ違い。 昔堅気の父親を理解できない娘。 仕事人間で家庭を顧みない父親・・・
続きを読む
本作はクリント・イーストウッド作品おなじみの「父と娘の物語」だ。 コミュニケーション不足によるすれ違い。 昔堅気の父親を理解できない娘。 仕事人間で家庭を顧みない父親。 『ブラッド・ワーク』や『ミリオンダラー・ベイビー』でも描かれたテーマが、本作でも主題になっている。 そして、心が離れてしまった父と娘の和解を、アメリカの原風景であり、また2人の唯一の共通の記憶である「ベースボール」に託すのだ。 本作も従来のイーストウッド作品同様、主人公の父親がイーストウッド自身に見えてくる。 憎まれ口を叩き、口数が少なく、シャイで頑固な親父。 彼でなければただのクソ親父に見えそうなキャラクターだが、それを演じるのがイーストウッドだからこそ生きてくる。 引退直前の老スカウトというのも彼自身と重ねて見ることができる。 ラストで結ばれる予感のある若者たちを眺めながら静かに去っていく佇まいからも、弟子のロバート・ロレンツに初メガホンを握らせた彼の心情が見え隠れする。 だが、やはり新人監督の力量不足を感じてしまう。 特に「父と娘の物語」に焦点を絞っていく過程で、その他のものを削ぎ落としていく展開が雑すぎる。 「勧善懲悪」と言えるほどの「悪」ではないのに、父や娘を理解しない者は勝手に切り捨てられていく。 そこが全くスマートではないからこそ、すんなりと物語に乗れないのだ。 また、『マネーボール』以降の野球映画として、野球描写に魅力が感じられない。 露骨なデジタル否定のようなスタンスで物語が展開していくが、そもそもスカウトが数字やデータだけ見ているということはあり得ない。 現地で撮った映像をスーパースロー再生して獲得を検討するのは当たり前のことであり、なおさら「全米ドラフトNo.1候補」という逸材を現地で1度も見ないなんてことは考えられない。 「将来性はあるけど、カーブを打つ時に腕が流れる」と言う理由で獲得を見送るが、ドラフト1位は即戦力でなければダメなのかと疑問に思う。 変化球の打ち方はプロに入れば改善できる可能性もあり、その伸びしろや対応力を見極めるのが本来のスカウトの役目ではないのか。 本作ではあたかもドラフトで入団した時点での能力こそが全てと言わんばかりで、野球好きからするとそのあたりの杜撰さが目に付いてしまう。 父と娘の和解を「ベースボール」に託すほど重要な役割を担わせたのであれば、野球描写もきちんと描く必然性があったように感じる。
隠す
  
 
[011]ふがいない僕は空を見た
 「性悪説」を受け入れること陸将2012-11-29
 【ネタバレ注意】
高校生男子の斎藤と人妻である里美が、コスプレしながら情事を重ねている。 その姿は、傍から見れば「イタイ」光景だ。 けれども、それを斎藤や里美の視点から探ると、また違っ・・・
続きを読む
高校生男子の斎藤と人妻である里美が、コスプレしながら情事を重ねている。 その姿は、傍から見れば「イタイ」光景だ。 けれども、それを斎藤や里美の視点から探ると、また違った「世界」が見えてくる。 この「世界」という現実からの逃避。 あるいは、この「世界」を生きなければならない自分自身への変身願望。 「イタイ」が「痛い」に変わってくる過程がじわりと浮かび上がってくる。 しかし、「痛み」を抱えているのは2人だけではない。 団地という「世界」の中で、周囲の人々も同じように「痛み」を抱えている。 似たような建物ばかりに囲まれて暮らし、そのまま一生を終える人々。 そんな鬱屈した息苦しさの中で、人間たちの醜さや憎しみが渦巻いている。 見上げれば青空が確かに見えるのに、ここから逃れることはできない。 その閉塞感は気が滅入るほどのものだ。 本作は「性悪説」についての映画だと思う。 「腹黒い」親の腹から生まれてくる、新たな命。 だが、生まれた瞬間からこの閉鎖的な「世界」の中で、他の人間と同じ空気を吸って生きていかなければならない。 彼らがこの「世界」に手探りで向かっていくにつれ、徐々に彼らは毒されていく。 そこで生じる「痛み」から、誰も逃れることはできないのだ。 けれども、本作のラストではある種の清々しささえ感じる。 それは、斎藤と里美が「世界」との向き合いかたを分かり始めたからではないだろうか。 本作は他者を描くことで、自己を肯定する映画だ。 生きづらい世の中で、それでも誰だって生きていかなければならない。 そんな人間たちは生まれつき「悪」である。 それを認識すれば、もう少し楽に生きられるのではないか。 「ふがいない」のは、自分だけではないのだと思う。
隠す
  
 
[012]綱引いちゃった!
 「ドリカム」の曲を流すタイミング陸将2012-11-28
 【ネタバレ注意】
本作では部活動やアスリートではなく、実生活と折り合いをつけながら競技を続ける女性たちを中心に据えている。 では何故、彼女たちは綱引きという「団体スポーツ」を続けるの・・・
続きを読む
本作では部活動やアスリートではなく、実生活と折り合いをつけながら競技を続ける女性たちを中心に据えている。 では何故、彼女たちは綱引きという「団体スポーツ」を続けるのだろうか。 その「スポーツの本質」を分かっているからこそ、気恥ずかしさ全開のお涙頂戴映画を作るその辺の日本人監督とは違い、水田伸生は「ドリカム」の主題歌を最後の綱引き大会で使用しない。 ここが本作の特筆すべき点だと思う。 本作は井上真央演じる主人公の成長物語という側面もある。 1人で頑張り過ぎてしまうが故に、苛立って地団駄を踏んでしまう。 逞しさと同時に、自暴自棄になってしまう弱さも兼ね備えたヒロインは、彼女以外では考えられないキャスティングだ。 そんな彼女はあるタイミングで母親の強さを実感し、努力は影でするものだと気付き、そして皆から真に認められるキャプテンへと変身を遂げる。 ここで選手全員が心を1つに練習・訓練するシーンに合わせるように、「ドリカム」の曲がフルで流れるのだ。 作り手もここが本作のターニングポイントだと分かっているが故の、的確な演出である。 むしろラストの綱引き大会の場面は、エンドロールも含め、苦みが強調される。 もはや勝っても何の見返りもない。 勝敗も関係ない。 「綱娘」としては最後の挑戦になるかもしれない。 そんな中でこそ「スポーツの本質」が浮かび上がってくるというものだ。 皆と一致団結する素晴らしさ。 生きがいを見つけることの喜び。 自分の心身の鍛練。 そういったものを前面に押し出し、「終わり」を告げてしまう瞬間を直接的に見せない切り上げ方も見事だ。 カタルシスと苦みのバランスが絶妙だからこそ、胸に沁み入ってくるものがある。 確かに欠点も多い映画だと思う。 各々の登場人物のエピソードもきれいな形で終わっているとは言い難い。 一応正論を述べている市長が、暴力によって完全な悪者として排除されてしまうのも残念だ。 しかし、綱引きという「マイナースポーツ」への真摯な姿勢には好感が持てる。 また、大分という地方都市の「表情」をきちんと切り取った点も評価できる。 そして何といっても「スポーツの本質」を正面から描いた良作だ。
隠す
  
 
[013]カラスの親指
 「コン・ゲームもの」の面白味陸将2012-11-28
 【ネタバレ注意】
「コン・ゲームもの」の魅力といえば、「ダマす・ダマされる」という「してやられた感」だろう。 それを映画冒頭の数分間で、これ以上ないほど手際よく見せていく。 「ダマす・・・・
続きを読む
「コン・ゲームもの」の魅力といえば、「ダマす・ダマされる」という「してやられた感」だろう。 それを映画冒頭の数分間で、これ以上ないほど手際よく見せていく。 「ダマす・ダマされる」側が目まぐるしく入れ替わる、スリリングな面白さ。 この競馬場のオープニング場面は、本当に見事な出来だ。 「コン・ゲームもの」のもう1つの魅力は、「ダマし通せるか」というスリルだろう。 本作はそこに悪玉への復讐、可愛げのある人物たちが織り成す「疑似家族」による「チームプレイもの」という要素を加え、カタルシスを倍増させる。 資金面や作戦室や小道具等、作戦の下準備を丁寧かつ小気味よく描く手腕も見事だ。 計画に狂いが生じても、その場で機転を利かせて乗り切る展開も、王道ではあるが面白い。 そして、「コン・ゲームもの」は観客をもダマさなければならない。 ラストでは映画全体で作り手が観客をダマし通してきたウソが、「親ガラス」の独白で明らかになる。 だが、全ての真実を言葉で説明していく展開には、パズルのピースが1つずつはまっていく快感もあるが、同時にあまりにもキレイに終わらせようとしすぎている印象を受ける。  例えば、金は一銭も盗んでいないという付け足し。 もちろんサギは犯罪行為ではあるが、そこまでして「親ガラス」を善人に仕立て上げる必要があるのだろうか。 あるいは、「トサカ」という猫。 結果的に「トサカ」が「疑似家族」を形成する人々にとって重要な意味を成したが、何の効果を期待して投入したのか。 途中の「殺された」くだりもやり過ぎ感は否めない。 悪玉の件も投げっ放しでケリがついていない。 全員の顔が組織に知られてしまった以上、彼らの上層部が黙っていないのではないか。 しかし、これらの欠点を上回る面白味が、本作には詰め込まれている。 本作の「カロリー」と尺のバランスは悪い気もするが、160分があっという間に感じられる伊藤匡史の手腕が随所で冴えを見せている。 日本の「コン・ゲームもの」の中では、特筆すべき出来だと言って間違いはないと思う。
隠す
  
 
[014]パラノーマル・アクティビティ4
 「アイドル映画」としての魅力陸将2012-11-22
 
本作は「フェイク・ドキュメンタリー」形式で撮られている。 それはリアルな出来事のように見せかけ、観客も超常現象の真っ只中にいるように錯覚させる仕掛けだ。 だが、それが・・・
続きを読む
本作は「フェイク・ドキュメンタリー」形式で撮られている。 それはリアルな出来事のように見せかけ、観客も超常現象の真っ只中にいるように錯覚させる仕掛けだ。 だが、それが中途半端なため、逆に作為性が増しているように感じる。 例えば、何故恐ろしい出来事が起きているのに撮影している余裕があるのか。 あるいは、地鳴りや耳鳴りのような人工的な音響効果も、作り手の狙いが見え見え。 それらが結果的に、観客の心の中に「作りもの」という安心感を介入させることになる。 固定カメラも観客の興味を持続させてはくれる。 自然と映っているものに眼を凝らし、動いているものには特に注視しようという意識が働くためだ。 あるいは、画面外から突然何かが飛び出してくるのではという緊張の糸が常にピンと張った状態に陥れられる。 だが、結局大したことは起こらない。 観客の緊張は、取り越し苦労に終わることになる。 全体の構成も上手くない。 何日目であるか字幕で表示される、何か起こりかけた時に翌朝になる、映像で超常現象の検証をする、というループ構造。 そのため、恐怖の持続が全くなく、観客にいちいち逃げ場を与えてしまう。 謎解き要素も雑なプロットであり、「ホラー」としても「ミステリー」としても失敗していると言える。 だが、突如「アイドル映画」としての一面が浮上してくる。 主人公の美少女のアップが、スマートフォンやチャットの画面によって、大写しにされる。 しかも、その状態の画面が本作は非常に多い。 彼氏とイチャつく様や、恐怖で顔が引きつる様が、ドキュメンタリックに記録されているのだ。 それは作り手の狙いの1つなのかもしれないが、そのような倒錯的な観方をしないと楽しめない作品であることは間違いない。
隠す
  
 
[015]映画と恋とウディ・アレン
 最適な「ウディ・アレン入門」陸将2012-11-22
 
本作は「ウディ・アレン入門編」として最適だと思う。 少年時代、ギャグライター、コメディアン、映画監督と歩んできた人生を、主に周囲にいた人間たちが語るスタイルで構成さ・・・
続きを読む
本作は「ウディ・アレン入門編」として最適だと思う。 少年時代、ギャグライター、コメディアン、映画監督と歩んできた人生を、主に周囲にいた人間たちが語るスタイルで構成されている。 そこから「悲観的」「皮肉」「滑稽」「可笑しみ」「哲学的」「庶民感覚」といったキーワードが浮かび上がってくる。 それらがウディ・アレンという人間を構成しているからこそ、あれほど第一線で活躍し続けられ、そして皆から愛され続けているのだろう。 また、本作は彼の人生を大きく2つに分けて紹介する。 1つは「コメディ路線からシリアス路線への転身」。 ここでは『アニー・ホール』(77)を転換期として、彼が人々は自分の心の中を見たいのではなく、人間ドラマが見たいのだと気づくまでが描かれる。 もう1つは「俳優に愛される男」。 ここではかつて彼の作品に出演した俳優のインタビューを中心に描かれている。 彼は演技指導をほとんどしない。 その代わりに、彼を喜ばせたいと願う俳優が自らを高め、それが結果的にベストアクトに繋がるのだ。 彼は現在進行形で1年に1本ペースで作品を作り続けている。 それは作品を作り続ければ運よくいい作品ができるかもという「数量理論」に基づくものだ。 その結果、『ミッドナイト・イン・パリ』(11)では彼自身最大のヒットも生み出すことができた。 そんな彼の歩みはこれからも続いていく。 本作で提示されているウディ・アレン像は目新しいものは1つもない。 自分で調べれば分かりそうなことばかりだ。 だが、字面ではなく、あれほどの人物たちから好かれているということを実際のインタビュー映像で観ると、説得力は自然と増していく。 そして、自然とウディ・アレンが好きになっていく自分がいる。
隠す
  
 
[016]エクスペンダブルズ2
 観客を裏切らない「男/漢」たち陸将2012-11-22
 
アクションスターは「ラジー賞」なんていう不名誉な賞以外、賞レースに絡みにくい。 批評家たちからもコテンパンに叩かれやすい。 そして、最近になって歳を取り、ファンからも・・・
続きを読む
アクションスターは「ラジー賞」なんていう不名誉な賞以外、賞レースに絡みにくい。 批評家たちからもコテンパンに叩かれやすい。 そして、最近になって歳を取り、ファンからも忘れ去られそうになっている。 若い頃よりも、肉体的な限界も感じ始めているはずだ。 オレたちは映画界に何を残してきたのだろうか。 オレたちはもう終わってしまったのだろうか。 そんなはずはない。 彼らの映画をTVや映画館で観て、一体どのくらいの人々が映画の魅力に気づかされただろうか。 少なくともその1人である自分にとって、彼らの姿を観に行くことは「敬意の表明」であり、「義務」であり、「恩返し」である。 そんな観客が物語なんて期待しちゃいない。 弱い者イジメする奴らは、オレたちが絶対に許さない。 ただそれだけでいいのだ。 人間ドラマに割く時間があれば、その分彼らのアクションが観たい。 そもそも人間ドラマなんて、彼ら1人1人の姿や人生に刻まれている。 そして、彼らだからこそ体現できるものが確かにある。 それは、現代では古臭いと思われているかもしれない「男/漢」らしさだ。 80年代の映画界を牽引してきた先輩たち。 その背中を観て育ってきた後輩たち。 そんな野郎どもの生き様をスクリーンで観てきた観客たち。 「男/漢」たちの魂の継承が今でも続けられている。 そこに意味がある。 そんな観客の想いを、彼らが裏切るわけがない。 同じアクションスターとして、苦汁をなめてきた者同士だからこそ気心が知れている。 野郎どもの「キャッキャ感」がたまらない。 役柄と実人生が一致しているようなメタ的な発言も、観客へのサービスだ。 終盤ではついに「3大巨頭」が揃い踏みする。 その光景を観ただけで、身体からアドレナリンが湧いてきて、何故か目頭が熱くなる。 そして自分を映画ファンにしてくれたことに改めて感謝したくなる。 この「祭り」に参加できて、本当に良かった。
隠す
  
 
[017]北のカナリアたち
 吉永小百合の「神格化」陸将2012-11-21
 
吉永小百合は「サユリスト」と呼ばれるファンを生むような伝説の存在である。 しかし、女優としての演技力はどうであろうか。 本作ではかなりハードな立場に置かれた女性を演じ・・・
続きを読む
吉永小百合は「サユリスト」と呼ばれるファンを生むような伝説の存在である。 しかし、女優としての演技力はどうであろうか。 本作ではかなりハードな立場に置かれた女性を演じているが、それが演技から伝わってこない。 自分のしたことに対して責任や罪の意識はあるのか。 何故「男」へ特別な愛情を注いでいるのか。 満島ひかり、宮崎あおい、小池栄子という素晴らしい若手女優に比べ、見劣りしてしまっているように感じる。 特に泣く芝居と声量のなさは致命的だと思う。 それは吉永が演じる役柄にも言える。 物語内部でも、周囲が勝手に彼女を許す。 例えば小池栄子が演じる女のエピソード。 子供の頃は先生の浮気が不快であったが、大人になって先生と同じ立場になって初めて、愛したものはしょうがないことを理解したとでもいいたげな展開。 そのために、彼女の友人が職場にやってきて、彼女に浮気現場の写真を突きつけ、頬を思いっきりビンタするという失笑もののやりとりを見なければいけないのか。 他にも、警察の描写があまりにも杜撰すぎる。 あるいは、周囲の酷い姿を見せることで、相対的に彼女を善人のように見せかける。 例えば、彼女の夫のエピソード。 余命僅かで、妻に十分愛され、これ以上家族に迷惑をかけたくないと願うような善良な人間だ。 ここでも夫は勝手に妻の浮気を黙認している。 それに加え、陰で野良犬を棒でぶん殴っていたという完全に蛇足な回想を、平気で挿入してくる。 だからといって、彼女が罪悪感なしに浮気してもよいということにはならない。 阪本順治は基本的に役者頼みの演出をする監督だ。 本作も同じことが言え、役者陣の演技は現在の邦画界において最高水準であるのは確かだ。 だが、ストーリーテリングに難があり、随所で強引さが目立ってしまう。 それに加え、本作は誰も口出しできないほど「神格化」された吉永さゆりを中心に据えてしまった。 そのために生じてしまった、要らぬ「気配り」がミステリーをつまらないものにしている。
隠す
  
 
[018]黄金を抱いて翔べ
 永遠に「悪ガキ」ではいられない陸将2012-11-21
 
井筒和幸は「悪ガキ」のような作品を撮る。 良い意味でも、悪い意味でも、パワーやエネルギーや勢い重視。 その根底にあるものは反骨心や憧れだ。 本作も例外ではない。 男たち・・・
続きを読む
井筒和幸は「悪ガキ」のような作品を撮る。 良い意味でも、悪い意味でも、パワーやエネルギーや勢い重視。 その根底にあるものは反骨心や憧れだ。 本作も例外ではない。 男たちにとって金塊とはオマケのようなものだろう。 1度きりの人生における、一世一代の賭け。 それを命がけでやり遂げるということに意味が生じるのだ。 だが、本作の主人公はもう「ガキ」ではない。 「カッコよさ」「男臭さ」「泥臭さ」を漂わせる、欲に飢えた「大人」なのだ。 だからこそ、強盗計画がただ単に杜撰で適当なものに見えてしまう。 きちんと火薬を集めてくるところから描く等、武器を調達する場面は丁寧な過程を踏んでいる。 だが、いわゆる『ケイパーもの』としての用意周到さが欠如しているのだ。 だからこそ、金塊を盗み出す展開もご都合主義的に見えてしまい、ストレートなカタルシスが得られない。 それに加え、彼らには外部から邪魔者が入ってくる。 随所でいちいち絡んでくる大阪の市井の人々は、6人のチームという閉じた世界と外部との関係性を持たせるという、井筒ならではの可笑しなサービスなのだろう。 だが、6人を追っている奴らが乱入してくる度に、物語がどんどん観にくくなってくる。 本筋である強盗計画そのものが粗いのに加え、複数のエピソードが乱立し、ぐちゃぐちゃになってしまった印象を受ける。 その「カオス」から発散されるエネルギーこそが井筒作品の魅力だとも言えるが、本作ではそれが生み出せているとは言い難い。
隠す
  
 
[019]のぼうの城
 「バカ」と「天才」の狭間で陸将2012-11-21
 【ネタバレ注意】
「のぼう」というキャラクターは良い意味でつかみどころがない。 そんな人物を狂言師である野村萬斎が、独特の台詞回しで「バカ」と「天才」の狭間で見事なバランスを取って演・・・
続きを読む
「のぼう」というキャラクターは良い意味でつかみどころがない。 そんな人物を狂言師である野村萬斎が、独特の台詞回しで「バカ」と「天才」の狭間で見事なバランスを取って演じている。 決して偉そうにせず、自ら手も下さず、戦闘にも参加しない。 だが、自然と「彼のためなら」と思わせるような魅力がある。 一方で「眼」で意志が働いているのかどうかを窺い知ることもできる。 ひょっとして、彼は計画的に人身掌握しているのではないかと疑ってしまうようなミステリアスな部分もきちんと残されているのだ。 百姓に慕われているエピソードをもっと厚くするべきだとは思うが、この一風変わった人物を中心に据えても、十分にエンターテインメント足り得ているところが素晴らしい。 語り口も実に手際が良い。 当時の世の中の勢力図や、自陣と敵陣のキャラクター配置を序盤でサラリと描くことで、後の物語展開にすんなりと集中できる。 特に開場から決戦のくだりは、全員が口では言わないが、腹の底では戦う気力に満ち満ちているのが手に取るように伝わってきて、実に爽快かつ愉快な場面だ。 あるいは、本作で唯一ストレートなカタルシスが得られる、弱者の戦法を駆使した門での戦い。 「頭脳」を働かせる成宮寛貴も良いが、「気合」だけで敵陣に突っ込んでいく山口智充の武骨さと迫力が見事だ。 本作の最大の見所は「水攻め」シーンだ。 その迫力のある映像が、津波を連想させるという理由から、人間が水に飲み込まれるカットを修正したそうだ。 その修正箇所が仕方のないことだが、やはり気になってしまう。 つまり、人間の背後に水が迫っていたのに無事であったり、水流の速度がよく分からなかったりと色々と無理が生じてしまっている。 この中盤の「水攻め」から物語自体もモタモタした印象を受ける。 ヒロインの造形も雑で、物語上もう少し上手く絡めて欲しかった。 だが、そんな欠点を遥かに上回る魅力に満ちた、一筋縄ではないエンターテインメント意欲作だと思う。
隠す
  
 
[020]シルク・ドゥ・ソレイユ3D 彼方からの物語
 映画としてつまらなさ過ぎる陸将2012-11-21
 
作品の軸はラブストーリーではあるが、物語はあってないようなもの。 台詞はほぼなく、7つの「ステージ」を実際にスクリーン上で披露していく。 それらのアクロバティックな演・・・
続きを読む
作品の軸はラブストーリーではあるが、物語はあってないようなもの。 台詞はほぼなく、7つの「ステージ」を実際にスクリーン上で披露していく。 それらのアクロバティックな演技や、幻想的なステージは確かに美しい。 だが、スクリーン上でただ映すのであれば、「ホンモノ」に劣るに決まっている。 『シルク・ドゥ・ソレイユ』自体がサーカスとして前衛的ではあるが、最後までこの作品の観方がよく分からない。 わざわざ映像化した意味が、一体どこにあるのだろうか。 それを「3D」で公開する意味も分からない。 『シルク・ドゥ・ソレイユ』は超人技だが、人間が演じている。 そこに驚きや感動がある。 だからこそ、人間のパフォーマンスを越えた3D効果を生み出してはいけないという制限が生じてしまっている。 突き抜け感が皆無なのが本当に残念だ。 『マダガスカル3』の素晴らしいサーカスシーン、あるいは大林宣彦作品のアナログとデジタルが混在した世界と比較すればよく分かる。 いかに本作が映画という「フィクション」として魅力がなく、つまらないものだということを。
隠す
  
 
[021]愛のゆくえ(仮)
 「ヌーベルヴァーグ」っぽさ陸将2012-11-21
 
中年男女だけのミニマムな世界、密室での会話劇、長廻しとモノクロームを駆使した撮影法。 戯曲として完成した作品を、いかにもヌーベルヴァーグっぽく撮る。 だが、映画的なシ・・・
続きを読む
中年男女だけのミニマムな世界、密室での会話劇、長廻しとモノクロームを駆使した撮影法。 戯曲として完成した作品を、いかにもヌーベルヴァーグっぽく撮る。 だが、映画的なショットが撮れておらず、全体的に平板な印象を受ける。 何の戦略を立てずに、ただ撮影技法を試した結果、映画として昇華しきれていないのだ。 本作は「オウム真理教」の犯人が逮捕される直前の1日を描いている。 けれども、「事件」に対しての批評性は一切含まれていない。 むしろ、あのような「事件」を起こした2人も行き場のないただの中年男女であり、私たちとそれほど変わらない存在であったということを描いている。 それ故、作り手は史実の再現ではないので、映画化に際して取材は一切行っていないと述べている。 だが、だからこそ、劇中のフィクショナルな部分に作り手の都合のよさを感じてしまう。 題材の必然性や、映画を通して社会と関わる存在である、映画作家としての責任が感じられない。 本作の面白味を挙げるなら、部屋での男女のやりとりにある。 ずっと仮名を使い、周囲や自分に対して嘘をついてきた生活。 そんな色褪せ、朽ち果て、味気ない日々が、「最後の晩餐」でフッと潤う瞬間が良い。 それと同時に、2人の生活が終わりを告げる切なさも漂っている。 だが、画が魅力的に撮れているからこその「映画」。 演劇的な魅力と映画的な魅力は違うのだと、個人的には思う。
隠す
  
 
[022]ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q
 シンジとカオルの妖しげな「シンクロ」陸将2012-11-21
 【ネタバレ注意】
冒頭の戦闘場面から、観客の頭の中は「?」で一杯になる。 いつ、どこで、誰が、何のために、戦っているのだろうか。 聞き慣れない言葉が説明なしに飛び交い、もの凄い情報量が・・・
続きを読む
冒頭の戦闘場面から、観客の頭の中は「?」で一杯になる。 いつ、どこで、誰が、何のために、戦っているのだろうか。 聞き慣れない言葉が説明なしに飛び交い、もの凄い情報量が飛び込んでくる。 だからこそ、見事な戦闘場面に集中できないのが勿体ない。 観客は劇中で唯一、前作で情報が止まっている碇シンジと同じ視点を持つことになる。 そして、彼と共に「未知の世界」にいきなり放り込まれるのだ。 本作で作り手は、シンジをひたすら絶望させるための仕掛けを用意する。 むしろ、そのためだけの第3作目と言っても過言ではない。 彼自身を支えている核である「エヴァンゲリオン初号機パイロット碇シンジ」という存在意義があっさりと全否定される。 あるいは、14年間の空白を埋めようとすれば、自らがとてつもなく大きな罪を背負ってしまったことが明らかになる。 彼は罪を購うことも許されず、むしろ絶望の淵へと容赦なく突き落とされてしまうのだ。 そんな中で、シンジという存在を唯一肯定してくれるのが、渚カオルという人物だ。 人類がほとんどいない閉鎖的世界の中で、2人は言葉を交わすうちに距離が縮まっていく。 「エヴァンゲリオン初号機」とさえシンクロできない中で、カオルとだけは「心、重ねて」シンクロできる。 そんな状況でシンジが顔を赤らめ、名前を呼び合う仲へと発展していく過程は「ホモソーシャル感」たっぷりだ。 特にピアノの連盤シーンの、2人の滑らかな指の動きが実に官能的だ。 そして、2人は「ダブルエントリープラグシステム」を導入した「エヴァンゲリオン第13号機」に、共に乗り込むことになる。 本作は、あまりにも巨大に広げられた風呂敷の中に、碇シンジを投入し、ひたすら彼を苦悩させ絶望を味わせるための作品だ。 その風呂敷一杯に詰め込まれている謎を、次回作が公開されるまでに自ら解こうとするファンは十分楽しめるかもしれない。 きっと本作に真の評価が下されるのは、4部作全てが揃った時になるのだろう。 だが、1本の映画としてはあまりにも観客に不誠実だ。 膨大な情報量に混乱する最中、純粋に楽しめることと言えば、シンジとカオルの「ホモソーシャル感」しか残されていなかった。 逆にいえば、そのような倒錯的な観方をしなければ、一般客は楽しめない作品なのではないか。
隠す
  
 
[023]任侠ヘルパー
 広げられたままの「風呂敷」陸将2012-11-21
 
本作は「任侠」要素と「ヘルパー」要素が、「弱者を救う」という人道によって融合した作品だ。 その中でも「ヘルパー」要素は比較的良く描かれているように思う。 表面的ではあ・・・
続きを読む
本作は「任侠」要素と「ヘルパー」要素が、「弱者を救う」という人道によって融合した作品だ。 その中でも「ヘルパー」要素は比較的良く描かれているように思う。 表面的ではあるが、介護問題の実情の厳しさをきちんと示している。 放置された介護施設の描写も、匂い立つ汚らしさが上手く表現されている。 そこから皆で施設を生まれ変わらせることで、生きるための活力が生じていくカタルシスには、やはりグッとくるものがある。 しかし、「任侠」要素が明らかに描き込み不足だ。 特に彼女でなければならない必然性が全く感じられない黒木メイサが登場してから、展開がどんどん雑になっていく。 せっかく手際よく描いていた地元議員と暴力団の利権争いも有耶無耶にされ、ヤクザ組織内の抗争も、その着地に作り手の困った末の苦肉の策であることが感じられる。 兄貴と子分の強固な関係性も全然伝わって来ない。 映画冒頭の、元ヤクザという設定である堺正章の演技も、拙い小芝居でかわそうとしている印象を受けてしまう。 結局、色々な要素を詰め込み過ぎた結果、それぞれを表面的に触れるだけで、きちんと「落とし前」がつけられていない作品になってしまった。 風呂敷を大っぴろげるのは結構なことだ。 しかし、広げるのならば後々きちんと畳めるサイズに止めておいてほしい。 この欠点は、近年の「東宝映画」全般に言えることのように感じる。
隠す
  
 
[024]その夜の侍
 不可解で可笑しげな人間たち陸将2012-11-21
 
欠陥だらけの人間たち、噛み合わない会話、そして理解し難い言動。 あるひき逃げ事件によって繋がれた2人の男と彼らを取り巻く人間模様は、不可解で可笑しげなものだ。 けれど・・・
続きを読む
欠陥だらけの人間たち、噛み合わない会話、そして理解し難い言動。 あるひき逃げ事件によって繋がれた2人の男と彼らを取り巻く人間模様は、不可解で可笑しげなものだ。 けれども、人間なんて所詮欠陥だらけの生き物である。 そして、相手の心情など完全に理解できるわけない。 そんな作り手の「突き放した人間観」が根底にあるからこそ、それでも誰かに寄り添わないと生きていけない人間の「謎」がじわりと浮上してくる。 演劇畑の監督だからこそ、シチュエーション毎の会話の面白さが際立つ。 特に、主人公がある女性とお見合いする場面や、デリヘルと会話する場面は、男女で居るにもかかわらず、性の匂いを一切感じさせない。 むしろ、生きていることの「気だるさ」を漂わせたユーモラスなシーンだ。 これら1つ1つの場面での人間同士のやりとりの積み重ねから、「人間」という全体像がおぼろげに見えてくる。 しかし、台詞が明らかに可笑しみを狙い過ぎているのがクドい。 つまり、台詞の「突拍子のなさ」「奇抜さ」「不可解さ」頼みの演出と言っても過言ではない。 その台詞が「人間」ではなく、「たわいもなさ」に向かっていくのも物足りない。 描きたいことは十分伝わるのだが、それと裏腹に「奇をてらった」という印象だけが強く残ってしまうのが惜しい。
隠す
  
 
[025]巨神兵東京に現わる 劇場版
 「サード・インパクト」のイメージ陸将2012-11-20
 【ネタバレ注意】
本編で「サード・インパクト」を実際に見せなかったということは、本作がそのイメージという役割を担っているのだろう。 確かに昔ながらのミニチュア特撮はよく出来ていると思・・・
続きを読む
本編で「サード・インパクト」を実際に見せなかったということは、本作がそのイメージという役割を担っているのだろう。 確かに昔ながらのミニチュア特撮はよく出来ていると思う。 しかし、人間が明らかに人形だと分かってしまうのが残念。 できれば本編で、人類が滅亡していく「サード・インパクト」の画が観たかった。
隠す
  
 
[026]劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [後編]永遠の物語
 まどかの「全肯定力」陸将2012-11-20
 【ネタバレ注意】
『後編』で焦点が当てられるのは、「まどか」と「ほむら」という2人の少女だ。 物語が進むにつれ、2人の「孤高感」が高まっていく。 誰にも認められず、気づかれもしない人生・・・
続きを読む
『後編』で焦点が当てられるのは、「まどか」と「ほむら」という2人の少女だ。 物語が進むにつれ、2人の「孤高感」が高まっていく。 誰にも認められず、気づかれもしない人生。 だが、それでも他人のために自分の人生を捧げる。 それこそが魔法少女として生きていくという、苦く切ない「宿命」なのだ。 しかし、観客だけは彼女たちの決意や行為を全て目撃している。 だからこそ、観客は涙を流しながら「オレだけは、彼女たちの人生を全肯定してやる!」という気持ちにさせられるのだ。 特に「まどか」の決意と選択には、心が揺さぶられる。 魔法少女たちの存在意義や希望への祈りを全肯定するために、全ての絶望を引き受けるという究極の自己犠牲。 その姿は「聖人」のような高潔さや、「神」のような神々しさを放っている。 時空を越えて、全ての魔法少女たちの鎮魂ではなく救済を施す決意。 それは、絶望や憎しみが渦巻き、神をも見失いがちな世の中において、全人類を包み込み、癒してくれているようにも感じる。 そして「まどか」は、彼女のために時に閉じ込められ、ループを繰り返す「ほむら」の人生をも全肯定する。 そんな2人が時空を越えた絆で繋がった瞬間、喜びのあまり心が震えた。 そして、その絆が「永遠の物語」を紡いでいくのであろう。 劇中で幾度となく目の前で残酷な現実が突きつけられ、その度に心はズタズタになり涙を流すことしかできなかった「まどか」の、あまりにも重過ぎる決意と選択。 「誰からも忘れられてしまうけど、皆が笑顔になってくれれば、私はそれで十分」。 この結論は、従来の「魔法少女もの」に対する、本作が叩きつけた最終回答だ。
隠す
  
 
[027]劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編]始まりの物語
 「契約」という恐ろしさ陸将2012-11-20
 【ネタバレ注意】
「魔法少女もの」というアニメのジャンルがある。 そこでは少女たちは大きな力を得て特別な存在になり、無邪気に魔法を使いこなして皆を笑顔にさせる。 けれども、本作はそんな・・・
続きを読む
「魔法少女もの」というアニメのジャンルがある。 そこでは少女たちは大きな力を得て特別な存在になり、無邪気に魔法を使いこなして皆を笑顔にさせる。 けれども、本作はそんな「魔法少女もの」に一石を投じる。 そもそも主人公が魔法少女になる決意をするまでの物語というのが斬新だ。 それまで、彼女は魔法少女になることで伴う責任、犠牲、代償のあまりの大きさにひたすら苦悩し、涙を流し続ける。 こんなものを見せつけられたら、以後「魔法少女もの」を無邪気に作ることが、果たして可能なのだろうか。 本作は女性が力を持つ世界である。 それはオープニングの朝食の場面が象徴している。 主夫が朝食を作り、キャリアウーマンが子供に起こされる。 あるいは娘がもらったラブレターに対し、母親は「ラブレターを送る男なんてただの腰抜け」と言い放つ。 この冒頭だけで、本作の世界観をきちんと描くことに成功している。 『前編』の最も面白い部分は「契約」という恐ろしさにある。 優秀な人材を「我が社」に入れるために、キュウべえという「社長」は少女たちをもてなす。 巴マミという年の近い先輩を用意し、美味しいケーキを食べながら交渉する。 時には口説き文句を用意し、時にはきちんと「職場見学」をさせ、無理強いはせず彼女たちに選択を委ねる。 この展開は実人生における就職活動そのものだろう。 だからこそ、「契約」した直後に「聞かれなかったから答えなかった」と言い放つキュウべえの恐ろしさが現実味を持つのだ。 このキュウべえというキャラクターの不気味さが光っている。 見かけは可愛いマスコット的な存在だと思わせ、相手の警戒心を解かせておいて、実は冷酷非道な奴だったという展開は、『クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの大冒険』の「ス・ノーマン・パー」を連想させる。 彼は人間の「常識」が通用しない上に、悪気も感じていない。 そして自分の中に確固たる軸や主張を持っており、気づいたら登場人物の傍にいつでもいる。 その不気味な無機質さや無感動さを生み出した時点で、作り手の勝利である。 魔女と対決する際の異空間の描き方も良い。 まるで大林宣彦の作品を髣髴とさせるような、異なるタッチの画が混在する世界。 そこからアニメーションが持つ表現の自由さも伝わってくる。 不満があるとすれば、3人の仲良しグループの中で唯一魔法少女にならない仁美の杜撰な扱いくらいだろう。 間違いなく日本アニメ史上に残る傑作だと思う。
隠す
  
 
[028]悪の教典
 血祭りという「お祭り」陸将2012-11-19
 
三池崇史という男は、頼まれた仕事は決して断らない。 そして、どんなに制約のある状況でも、「三池印」としか例えようのない「ほつれ」を必ず作品に刻み込む。 けれども、本作・・・
続きを読む
三池崇史という男は、頼まれた仕事は決して断らない。 そして、どんなに制約のある状況でも、「三池印」としか例えようのない「ほつれ」を必ず作品に刻み込む。 けれども、本作は「R−15指定」という中で、自由に撮ることができた。 そんな状況下で、三池はまさに「水を得た魚」のようだ。 本当に見たかった三池崇史の、何の制約もないエンターテインメント作品は、『十三人の刺客』(10)にも匹敵するほどの「お祭り」だ。 学園祭前日、夜まで残って文化祭の準備をする生徒たち。 そんな彼らを無慈悲に「血祭り」にあげていく教師。 死にゆく彼らに「最後の言葉」も言わせず、自ら「捨て台詞」も吐かない(「東大!」「too die?」という最高の受け答えは除く)。 学園祭の装飾がおどろおどろしさや、ケバケバしさ、チープさを醸し出す中での暴力による「祝祭」。 永遠と映し出される無秩序で過剰な暴力は、それにふさわしいものだ。 三池の振り切れた悪趣味全開の暴力シーンにも工夫が見られる。 あえてショットガンを用いることで加わる一発一発の重みや、吹っ飛ぶ肉体、飛び散る血液。 ナイフも頚動脈に突き刺すことで血を噴水のように噴き出させる。 あるいは、屋上に逃げられなかった人間たち、ヒーローになれなかった弓道部の男子等、殺戮が淡白にならないような工夫が随所に見受けられる。 脱出用シュートやAEDといった小道具の使い方も気が利いている。 確かに完璧な映画ではない。 先生が無条件に生徒から慕われるキャラクターであるのか疑問ではあるし、デフォルメ化されて描かれる学校内での現代的な問題も、ただただ散りばめられている印象を受ける。 だが、それも全て「お祭り」に向けた土台作りだと思えばよいのだ。 その残酷描写が批判を受けがちだが、「教育的」「道徳的」メッセージを伝えようなんて作り手もさらさら思っていない。 暴力映画は「このようなことを実際に行えば、こんなに酷いことが起こってしまう」ということを実際に映像で見せることで、暴力を抑制する役割を果たしていると捉える方が個人的には正しいと思っている。 むしろ「教育的」「道徳的」メッセージを伝えようとして、逆に題材に対して作り手の不誠実さや不快さが露呈している作品など幾多もある。 そのような作品こそ、批判されるべきではないのか。
隠す
  
 
[029]終の信託
 「物語」を再検証すること陸将2012-11-19
 【ネタバレ注意】
本作は大きく分けると2部構成になっている。 第1部は安楽死までの「物語」。 第2部は「物語」の再検証。 第2部は第1部という「材料」に基づいて、裁きを下し、この事件に・・・
続きを読む
本作は大きく分けると2部構成になっている。 第1部は安楽死までの「物語」。 第2部は「物語」の再検証。 第2部は第1部という「材料」に基づいて、裁きを下し、この事件についての落とし前をつける。 だからこそ、観客に求められるのは検事の助手と同じような立ち位置から、この「物語」をジャッジメントする視点だ。 第1部は医師と患者のラブストーリーのように見えるが、登場人物に感情移入する必要はない。 感情を持った生き物である人間同士の関係性を描き、観客はそんな2人が紡ぐ「物語」を目撃する。 その「物語」に沿っていくと、何となく安楽死まで疑いなく「スーッ」と観てしまう自分がいる。 けれども、患者を苦しめず、早く楽にするための措置だったはずなのに、患者はなかなか死なず、苦しみ、もがき、痙攣を起こす姿を執拗に見せる。 仕舞いには医師が薬を大量に投与してようやく死なせるのだ。 最期になって周防は観客に疑念を抱かせるのだ。 第2部はまず医学的見解と法的見解がぶつかり合う。 それは、個人的感情を排除した客観的で冷静な判断だ。 だが、医師が専門用語を並べていけばいくほど、検事の言葉の力強さに比べて上滑りしていき、形勢は不利になっていく。 そこで医師は個人的感情を挟み込み、「物語」を語り出す。 彼女が語り出す「物語」は、観客も実際に観てきた「事実」だ。 しかし、感情的になればなるほど、説得力の希薄さが浮き彫りになるのだから恐ろしい。    ここで彼女の供述が「あっという間」に調書となり「事実」として読み上げられる場面が素晴らしい。 検事のアップからカメラが徐々に引いていき、どうすることもできない医師の背中を暗がりの中から映し出すショットは、とてつもなく恐ろしく、それでいて信じられないほどエレガントだ。 取調室での両者のスリリングなやりとりは、「あっという間」の恐ろしさを、これ以上ないほど見事に演出している。 だが、周防は検事側にも個人的感情が差し挟んであることを決して忘れない。 世間的に注目の事件であり、だからこそ自身の出世にも影響が出る。 医師を待合室でわざと待たせ精神的に揺さぶりをかけ、取調室では声を荒げるタイミングを見計らっている。 そんな検事の狡猾さを、トイレでの助手同士の何気ないやりとりから描いているところが偉い。 映画全体の完璧な構成、きちんとした問題提起、そして主観と客観の見事なバランス感覚。 周防正行はやはり只者ではない。
隠す
  
 
[030]アルゴ
 「映画」を愛する男たち陸将2012-11-19
 【ネタバレ注意】
映画というのは所詮ウソっぱちだ。 そのウソをいかにホントらしく見せ、観客をダマし通せるかが重要なポイントだと思う。 本作で展開される作戦自体も、本当に実話なのかと疑っ・・・
続きを読む
映画というのは所詮ウソっぱちだ。 そのウソをいかにホントらしく見せ、観客をダマし通せるかが重要なポイントだと思う。 本作で展開される作戦自体も、本当に実話なのかと疑ってしまうほど大胆かつ奇抜なものだ。 だからこそ、ベン・アフレックは当時の映像や写真や肉声を挿入し、実話であることを執拗に強調する。 だが、同時に映画は虚構であるということも忘れていない。 映画という「ハッタリ」によって相手をダマし通せるかの1点にカタルシスを集中させることで、政治色とエンターテインメント性を見事に融合させている。 そのバランス感覚は見事としか言えない。 目を見張るのは、終盤の編集の絶妙さだ。 止まっていた『アルゴ』計画を、無理やり動かしてからの攻防戦。 空港でのメインストーリーの勢いを削がずに、同時進行するサブストーリーを挟み込むタイミングが最高だ。 手に汗握るスリリングな展開とはまさにこのことで、同時に携帯電話がない当時だからこそ成せる業だと言う事もできる。 細やかな演出も冴えており、特にイランの領空を「アルコール」で見せるあたりも心憎い。 もはやアフレックはたった3作品で巨匠の域に足を踏み入れたといっても過言ではないだろう。 アフレックは本当に「映画」を愛しているのだろう。 それは、『アルゴ』という「映画」の扱いを見れば明らかだ。 『アルゴ』という「映画」は、CIA製作の架空のSF映画である。 もちろん事件が解決すれば、映画史に残ることもなく、人々の記憶に残ることもなく、倉庫に葬られる運命だ。 だが、アフレックはストーリーボードの1枚をこっそり持ち帰り、70年代を代表するSF映画のフィギュアと共に並べるのだ。 葬り去られた「映画」に、最後の最後で日を当てるアフレックの優しさに、涙が止まらない。
隠す
  
 
 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11次へ
 
 



【スポンサーリンク】



allcinema SELECTION

allcinema SELECTION