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 「D.T」さんのコメント一覧 登録数(53件)rss
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[001]アルフレッド・ヒッチコック
 広く、20世紀ポップ・カルチャーのエポックD.T (Mail)2005-04-30
 
…おそらく、少なからぬ人にとって、巨匠ヒッチコックの映画の多くは初見でも十分面白い/強烈な「映画体験」になろうかと思う訳ですが、2度、3度と来てようやく「(うわっ、・・・
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…おそらく、少なからぬ人にとって、巨匠ヒッチコックの映画の多くは初見でも十分面白い/強烈な「映画体験」になろうかと思う訳ですが、2度、3度と来てようやく「(うわっ、)こんなにも深く豊かなものだったのか」と新たな驚喜に酔い痴(し)れる事が僕は少なくない。 僕に取って、『めまい』(1958)、『裏窓』(1954)、『北北西に進路を取れ』(1959)、『汚名』(1946)、『マーニー』(1964)等は昨今そんな最たるものですね、鑑賞を重ねるごとに味わい深く、ぞくぞくと心痺れさせてくれるような思わぬ新鮮な発見が有ります。 ―ヒッチコックの映画って、観客個々にとっての違和感なりのレヴェル、生理的好悪のレヴェルは異なっても、兎にも角にも視覚的な興奮、視覚的ショックと云ったものを観客に与えるのではないでしょうか、 しかし、ヒッチコック映画の内面的豊かさ(―それは、ヒッチコック映画自体の豊かさ、輝き、延いては、生命力を強靭なものとしていそう…)をしみじみと悟らされる事となるのは鑑賞を重ねてこそかもしれません。 勿論、表面的な強烈さ、奇抜さ、優雅さ、デザイン性、面白味…、それらが紡がれて行く映画を眼差して映画時間に浸る愉楽性だけでも、十分に一見、再見の価値がある映画群だと思います。 先に挙げた作品等が孕む、大人の諦観に繋がってゆくような精神性、内的豊かさは、僕など、鑑賞を重ねるうちにようやく見えて(?)きたものです。 --- 僕がヒッチコック映画を観始めた頃から感心している点をひとつ加えて言えば、登場人物、背景、映画空間、タイトルバックなど等、そこに映っているもの全てが、洗練されたモダンなルックであることであり、あるいは、そう云ったものに収斂して行くこと。 兎にも角にも、ヒッチの魅力をすっかり言い表す事は難しそう…、 その個々の映画にある表面的なカラフルさ、エグさ、俳優たちの優雅な佇まい、目を瞠るモダンなデザイン性…、 また、映画が孕む奥深い内面性、娯楽性と前衛精神の相俟つ創造性、目の覚めるようなシチュエーション設定、…など等魅力は尽きませんし、矢張り簡単には言い表すことも適いません。 ヒッチコック映画、ヒッチの生み出したもの総体の輝き、偉大さ、存在価値は、ヒッチコックの憧れでもあったフリッツ・ラングの、また、ビートルズ、ストーンズ、プレスリー等々の存在や、生み出したものの輝きと並んで、少なくとも20世紀ポップ・カルチャーのエポックだと僕には思えます。 <※後日、加筆予定>
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[002]大悪党
 強烈なサディズムと唐突なカタルシスD.T (Mail)2005-03-31
 【ネタバレ注意】
『大悪党』(1968)に一貫する硬質な肌理は、主に、佐藤慶扮するサディスティックなヤクザたる安井、そして、彼に騙され犯されヤク中にさせられた挙句売春を重ねるヒロイン芳子・・・
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『大悪党』(1968)に一貫する硬質な肌理は、主に、佐藤慶扮するサディスティックなヤクザたる安井、そして、彼に騙され犯されヤク中にさせられた挙句売春を重ねるヒロイン芳子に扮する緑摩子の怯え続けるスレンダーな肉体によって基調を為していよう。 そして、映画が始まって20分ほどの辺りで漸く登場する田宮二郎扮する弁護士・得田仁平の不敵なキャラクター性によっていよいよ映画的愉楽はいや増すばかりと為る。 彼は「ヤクザ嫌い」を口にして憚らないが、本人もまた報酬第一主義の手練(てだれ)の所謂悪徳弁護士たるものだ…。 さて、安井は倉石功扮する売れっ子ミュージシャン島輝夫に芳子を世話し、ホテルで抱き合う2人を密かに16ミリに撮り、そのフィルムをネタに島輝夫と内田朝雄扮する島のマネージャーを強請る。マネージャーは得田に弁護を依頼するも高額な報酬を吹っかけられる。 そんなある晩、芳子はマンションで酔い潰れた安井の首にネクタイを掛け渾身の力を振り絞って絞め殺してしまう。 僕は何度観ても、芳子が自分の身を貶めた憎き安井を殺める強烈な絞殺シーンには身を屈めてしまうばかりだ。そして、ふてぶてしく冷酷な悪党たる安井の死に束の間安堵を覚えるのだが…。 安井の死体を前に狼狽する芳子は得田のもとに駆け込んで行く。 徳田は芳子に「無実にしてやろうか、法廷で俺の言う通りにすればいい」と、彼女の弁護を買って出ることに。 芳子は、得田に仕込まれた通りに法廷で偽証を重ねて行く。 観客は、その偽証によって再現される偽りの絞殺シーンを再び見つめて行くこととなる、ここで僕は、劇中最初の絞殺シーンを凌ぐ生理的な痛みに苛まれてしまう。 繰り返されるのは偽証に重ねられる偽りの絞殺イメージでありながら、最初に安井の死に感じた安堵は最早無く、再び苦しみ抜く安井の姿に今度は憐れみすら覚えて行くのだ。… <※後日、加筆予定>
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[003]レイクサイド マーダーケース
 隠蔽された大罪の露顕を示唆する天の視点D.T (Mail)2005-02-02
 【ネタバレ注意】
本作『レイクサイド マーダーケース』は、姫神湖なる湖、その湖畔の森の中に建つログハウスを主舞台とし、 そこに名門私立中学の受験合宿の為に集う並木舞華(牧野有紗)始め・・・
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本作『レイクサイド マーダーケース』は、姫神湖なる湖、その湖畔の森の中に建つログハウスを主舞台とし、 そこに名門私立中学の受験合宿の為に集う並木舞華(牧野有紗)始め3人の子供と其の両親たち(役所広司・薬師丸ひろ子扮する並木俊介・美菜子夫妻、柄本明・黒田福美扮する藤間夫妻、鶴見辰吾・杉田かおる扮する関谷夫妻)、 謂わば合格請負人たる塾講師・津久見勝(豊川悦司)、 加えて、主人公の愛人である女流カメラマン・高階英里子(眞野裕子)、 ―といった登場人物たちが、所謂“お受験”に翻弄され底無しの荒廃に落ちて行く姿が紡がれて行く映画だ。 主人公の並木俊介を始め所謂大人たちは、劇中、その隠蔽して来たものを他者の前に晒さざるを得なくなって行く、それらの綯(な)い合わさったものは、或いは誰もが抱え持つ醜い利己性、背負った業に通じるがゆえに僕等観客の内面を衝くのだろう。 また、彼等が森や湖上の闇にあって、突然その闇を裂く車のライトに身を固めて立ち尽くしたり慌てて身を伏せるような瞬間がある。これらの場面に僕等観客の身体もが凍り付いてしまうのは、闇を切り裂かれた登場人物たちの慄きと僕等観客の隠し持つ闇が切り裂かれる怖れとが共鳴するからでもあろう。 たむらまさきのキャメラが一貫して緊迫感を孕み艶っぽい。 特に、湖畔に於ける夜や明け方の空気の肌理が塗り込められたような青味が殊のほか美しく、この、時間の移ろいに因って趣を異にする青味の階調の余韻が本作の映像のルックの基調を醸成して行く。 またそのキャメラは、戸外が絡むシーンに於いては深閑とした森と湖に漠と漂う不穏な気配を捉え、一方、ログハウス内、ホテルの一室、英里子の暗室等の密室空間に於いては、登場人物たちが隠し持つものが醸し出す不穏さを濃密に示す。 登場人物個々の利己性を的確に表現した俳優たちの演技からも目が離せない。 特に、映画の核となる並木夫妻に扮する役所広司、薬師丸ひろ子の映画栄えが絶品だ。 美菜子に扮する薬師丸ひろ子は時おり未来を垣間見る能力を持つ女性を演じる訳だが、例えば、その大きな目が赤く輝き示されて行くフラッシュフォワード(未来予見)のビジュアルに薬師丸自体が負けていない。 片や、無頼風情なアートディレクターで身勝手な夫、父親たる並木俊介に扮する役所宏司は、劇中最も転落幅の大きな役どころを演じ切って正に圧巻。 そして、本作が映画初出演となる眞野裕子が演じる、主人公の愛人であり同僚である高階英里子のキャラクターは映画に新鮮な驚きを加えて余りある。 映画冒頭に於けるプールの水面を背に仰向けになったモデルを俯瞰撮影する彼女の視線は、**に於ける湖面から浮上した死者の視線(―自身の未来)を垣間見てもいた…。何にせよ、そのカメラを覗く熱中の視線、自身が嘗て在籍してもいた名門私立中学の入試不正をカメラと共に追って行く探偵的視線、並木俊介の妻に手向ける敵対的な視線、それらに一貫する“眼差しの強度”は眞野裕子によって真に本作の要と相成った。 母・妻―美菜子、娘―舞華、愛人―英里子、 その三人個々の多面性も劇中印象深く示される。 例えば、 英里子が主人公と青いソファで抱き合っているシーンでの、 「並木さんの事は何でも知っているの」「心配しないで、家庭を壊すような事だけはしないわ」「娘さん大事にしなね」等と何を恨む風でも無く語る英里子の諦観したような一見大らかな女性性、そして、並木の妻・美菜子に向ける何処かしら……敵対的な視線、 父・俊介を見詰める舞華の喜びに満ち溢れた真っ直ぐな眼差し、夫婦の諍いを目の当りにした直後に血の繋がってはいない父親の傍に寄って行き「大丈夫?お母さんと」と気遣う健気さ、殺人隠蔽の始まりを示唆しているのであろう陶器(?)が割れ落ちるイメージに続く風呂上りの舞華が見せる女性の色香をも纏った目つき…、 そして、 美菜子の劇中ほぼ苛立ちに一貫した目、表情、素振り、 英里子と向き合った際の、憎悪を湛えた赤く輝く目、 終幕ほど、夫を前にふと覗かせる安堵の表情、 ―その綺麗な顔貌からだけでは容易に計り知れぬ三人の女性たちが内に秘めた魔性というものを、青山監督は三人の女性の目が宿すものによっても示し得ていよう。 並木俊介はカメラの閃光や湖面の照り返しに、「熱っ」等と、猛烈な拒絶反応を示す。一見、過剰とも映るその拒絶、苦痛の身振りは、映画終盤に示される、英里子のカメラが捉らえた入試****の証拠写真、そして、湖底に沈めた死体の露顕が彼の身を滅ぼす瞬間の暗示かもしれない。 終幕、主役夫婦の居る部屋の天井に吊された装飾が風を受け回転している、それは、湖上中空に浮かぶ英里子の周りを巡る姫神湖を擁した風景に繋がる。そして、雲を突き破って姫神湖に舞い下りる天の視点ともいうべきものが唐突なフラッシュフォワードを呼び映画は幕を閉じる。 ■http://ohwell.exblog.jp/
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[004]Mr.インクレディブル
 ヒーローの再起に重ねられる正義の模索D.T (Mail)2005-01-28
 【ネタバレ注意】
映画は、Mr.インクレディブルを始めとするスーパーヒーローたちへのインタビューで幕開き。 「世を忍ぶ仮の姿ってあるの?」と尋ねられる主人公は、「24時間働き尽くめって訳・・・
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映画は、Mr.インクレディブルを始めとするスーパーヒーローたちへのインタビューで幕開き。 「世を忍ぶ仮の姿ってあるの?」と尋ねられる主人公は、「24時間働き尽くめって訳じゃないさ」「時々、平凡な生活に憧れるよ、子供を育てるとかね」等と答える。 イラスティー・ガールの受け答えも印象深い、ここで彼女は「平凡な生活に憧れない?」とでも尋ねられるや、「まっぴらだわ、男だけに平和を守らせておく訳には行かない」等と口にする。何にせよ、彼らの余裕綽々ぶりが印象的だ。 映画は主人公が街中で悪党を追い始めるシーンに続く。 武装した悪党の車を難無く取り押さえた主人公は、新たな事件の情報を得て愛車に乗り込む、と、そこにはインクレディブル・ボーイと名乗るスーパーヒーロー的コスチュームに身を纏ったバディなる少年が。「僕にも手伝わせてよ」等と煩い彼を主人公は愛車から抛り出すもBomb Voyageなる爆破強盗を取り押さえんとする主人公の前にバディは再び姿を現し「僕は最高の相棒だろ?」と力添えしようとする、そんなバディに主人公は「手を出すんじゃない」等と一喝…。 ―その晩、主人公とイラスティ・ガールは教会で結婚式を挙げる…。 さて、主人公は高層ビルから飛び降り自殺を試みた男を救済したことが身の仇となる。 命を取り留めた男が「Mr.インクレディブルの所為で自殺が叶わず、却って怪我の後遺症で苦しんでいる」等と主人公を起訴、その後、スーパーヒーローたちの活躍に伴う甚大な器物破損等に対する訴訟が相次ぎ、主人公等は国家によって所謂ヒーロー活動を禁じられ、政府機関の監察下で一般的な市民生活を送る事を余儀なくされるのだ。 Mr.インクレディブル/ボブ・パーとその妻となったイラスティ・ガール/ヘレン・パーの市井に身を置いてからの姿は対照的だ。保険会社に勤務する主人公は顧客本位のサーヴィスをする余り却って上司に責められるような組織生活に鬱積を募らせて行き家庭でもどこか虚ろだ、一方のヘレンは3人の子を育てる母親としてしっかりと地に足がついている。 夫婦の子供たちも印象深く描かれ、その生まれ持つ超人能力を抑圧されているが故の個々の屈折が映画に厚みを加えて行く。まだ乳飲み子のジャック・ジャックは措くとして…、長女のヴァイオレットは自らの超人能力を負い目に感じるが故に極めて内向的であり、一方、彼女の弟ダッシュはその超人的な運動能力を学校等で発揮することを禁じられ不満が鬱積している。 これら映画序盤ほどまでに描かれた主人公とその家族、延いては、スーパーヒーローたちの云わば負の部分こそが、主人公等がスーパーヒーローとして再起して行く映画後半から終幕に架けて爽快なカタルシスをもたらす縁となる。 本作最大の悪役として描かれるのは“シンドローム”と名乗る件のバディ。あの少年時代の失意から十数年後、火山島に基地を置きスーパー・ヒーロー抹殺を重ねる彼はMr.インクレディブルをも凌ぐ力を纏う事と為る。その魔手は遂にはMr.インクレディブルに伸びる…。 ……(中略)…… 夫の身を案じたヘレンは、ジェット機を操縦しシンドロームの基地がある火山島に向かう。途中、ヘレンはジェット機に隠れ乗っていたヴァイオレットとダッシュを見つけるも、叱る間もなくジェット機はミサイル攻撃に遭い3人は命からがら火山島に上陸する。 真夜中、ヘレンは子供たちを残し一人夫を救いに向かう。 その翌朝、子供たちは敵陣営に見つかり必死に逃げ生き延びんとする訳だが、まさにこのスピード感漲る本作最大のアクション・シークェンスの最中に於いて、市井にあっては全てを窺い知れなかった超人能力の底力を子供たちが自覚し(―ヴァイオレットは半ば慄きながら、ダッシュは歓喜を以って)受け止めて行く姿こそが、さらに、家族が結束して敵陣に立ち向かってゆく姿こそが、僕にとっては本作最大の映画的醍醐味に通じるものとなる! 特筆すべきは、スクリーン上に生き生きと輝くイラスティ・ガール/ヘレンの存在。吹き替えをしたホリー・ハンターが文字通りヘレンに命を吹き込んでいよう。 ヘレンは嘗ては平凡さを否定していたものの、結婚後には主婦、母親として家庭生活を健気に支えて行く、その快活で可愛らしい彼女のキャラクター性は本作の最大の求心力だと思う。 多くに触れる余裕は無いが、シンドロームは自らが造り上げた戦闘ロボットを大都会に放ち大暴れさせたのちにスーパーヒーローの如く市民を救いに姿を現わす、云わば、偽りの正義たるものとして描かれる。彼は束の間市民から喝采を浴びるものの、主人公家族の結束の前に自滅して行く。劇中、旧態依然たるスーパーヒーローのシンボルとして示されていたマントがバディ/シンドロームにとって身の仇となる辺りは、疲弊したアメリカ的正義への訣別を示してもいるのだろう。 ■http://ohwell.exblog.jp/
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[005]セレンディピティ
 一途な恋の御伽噺たる愛らしき一篇D.T (Mail)2005-01-01
 【ネタバレ注意】
『セレンディピティ』(2001)という作品の魅力の大半は、ベビー・フェイスな中年男たるジョン・キューザック(※1966年生)のハイ・テンション、そして、ヒロイン役ケイト・ベ・・・
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『セレンディピティ』(2001)という作品の魅力の大半は、ベビー・フェイスな中年男たるジョン・キューザック(※1966年生)のハイ・テンション、そして、ヒロイン役ケイト・ベッキンセイルの可愛らしさによるものだろう。 クリスマスの贈り物を買い求めようとする客でごった返す主人公男女が出会う衣料品店、ウォールドルフ・アストリア・ホテル、セントラル・パークにあると思しき屋外スケートリンクなどを映画的舞台として良く生かした映像作りも中々見入らされる。 展開、プロットにご都合主義云々を言うことも出来るのだが、そういったものが本作の美点を大きく損ねているものとは思えない。僕にとっては、一途な恋の御伽噺たる愛らしさに収斂する91分なのだ。 クリスマスのような美しい季節(雪、人々の衣裳、街の装飾…)を背景に美男美女の恋がハッピー・エンドとなるのは娯楽映画の最たる美徳のひとつだと思うがゆえに、尚更、僕にとって本作の可愛らしさは捨て難いのだ。 ■http://ohwell.exblog.jp/
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[006]アイズ ワイド シャット
 張り詰めた美の中にふと垣間見える聖性D.T (Mail)2004-12-21
 【ネタバレ注意】
キューブリックという映画作家の最たる美質は、類稀なる人間探究の眼、人間探究の情熱を持った映像作家たるところに在るように思う。また、キューブリックが人間の本能、狂気、・・・
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キューブリックという映画作家の最たる美質は、類稀なる人間探究の眼、人間探究の情熱を持った映像作家たるところに在るように思う。また、キューブリックが人間の本能、狂気、純粋さ、運命、可能性などを扱って常に世人を戦慄させるような斬新さとゾクゾクするような美を以って唯一的なイメージに張り詰めたフィルムの創造を果たして来れたのは、彼が確固とした倫理観を持ち得ていたからこそだったのではないかとも思う。 その「唯一的なイメージに紡がれたもの=キューブリック映画」は、多くの作品が今だに生々しく、相変わらず冷ややかで、ますますイメージの生命力を失わずに在るように思う。 ------ キューブリックの遺作となった『アイズ ワイド シャット』(1999)、この159分の美しきイメージに向き合う喜びというものは映画館の闇にあってこそのものかもしれぬ。 本作は、クリスマスの装飾に彩られたNYを背景に持つ。 内科医の主人公とその妻子が暮らす家や患者の家の中、きらびやかなXマス・パーティーが催される豪邸、病院、ホテル、カフェ等、劇中至るところに点在するクリスマスツリーのイルミネーションの美しさは格別だ、そんな中、ヴィネッサ・ショウ扮する娼婦ドミノの質素なアパートの一室に在るツリーの輝きは最も人の温もりを纏っていたようにも思う。 一方、資産家たちを会員とする極秘倶楽部、その“儀式”が執り行われる“ハウス”に於いてはツリーや十字架などと云ったものは見当たらない。この点に於いてキューブリックが示すものは、聖なるものの不在なのかもしれないし、聖なるものの在り処の示唆なのかもしれない。 本作は、偉大な皮肉屋たるキューブリックのクリスマス映画、という言い方も適うかもしれない。 聖なるもの、純粋と不純、性の快楽と不条理、生死、危険と恐怖、現実と虚構、真実と嘘、…そう云ったものへの賛美も懐疑も相俟ったようなキューブリックの視線によって紡がれたイメージが僕の意識を開かせてくれるような瞬間がこの159分の映画体験にはいつも訪れる、事細かに触れることは措(お)かせていただくが、張り詰めた美の中にふと人間の聖性とでも云った純粋さが立ち現われるような瞬間がある。―つまり、さまざまな危険やら恐怖やら失意やらを乗り越えて行く可能性を孕んだ人間の姿かたちというものを『アイズ ワイド シャット』という映画は張り詰めた美の中に浮かび上がらせているが故に僕を強く惹き付け、深く陶酔させて止まぬのだ。 <※後日、加筆予定> ■http://ohwell.exblog.jp/
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[007]ラ・ジュテ
 今尚、僕等の目を開かせてくれるイメージD.T2004-11-30
 【ネタバレ注意】
『ラ・ジュテ』という短編映画(※29分)は、僕にとっては、主人公にのみならず、人類を存続させるために主人公を過去、未来に送り込む科学者、加えて、未来人にすら、人間一個・・・
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『ラ・ジュテ』という短編映画(※29分)は、僕にとっては、主人公にのみならず、人類を存続させるために主人公を過去、未来に送り込む科学者、加えて、未来人にすら、人間一個(生命)の可能性を感じて複雑に胸を衝くものでした。 また、映画作家も含め芸術家、作家ってこうゆうものだと思えました。 ―つまり、『ラ・ジュテ』を含む1962年頃に発表された、時代の不安、痛みを見据えた幾つかの映画を観る限りで言えば、核(戦争)の恐怖と共にある現代人の個的な不安感、(絶望の果ての)希望といったものを作家たちそれぞれがさまざまなイメージに結晶させ、今尚、僕等観客の目を開かせてくれる訳です。 『ラ・ジュテ』という作品の発表は1962年…。 この「キューバ危機」のあった1962年という年は、世界中相当数の人間の意識に“第三次世界大戦”への不安が掠(かす)め、燻っていた時期だったのでしょう。 例えば、『ラ・ジュテ』とは違った切り口ですが、矢張り、この1962年に発表された『太陽はひとりぼっち』(アントニオーニ)では、“核”への動揺が映画終幕でズバリ示されています。 また、「キューバ危機」等の動揺は容易に終息しようもなかったはず。 実際に、1964年には『博士の異常な愛情』(キューブリック)、『未知への飛行』(ルメット)という核の恐怖を扱った力作が発表されている。 この1964年、先に触れたアントニオーニは『赤い砂漠』を発表。 ―ここでは、ヒロインの夫が働く巨大な化学工場、疫病が発生する巨大な外国貨物船、加えて、ヒロインが長男に語り聞かせる御伽噺に被さる、美しい少女が日がな海辺で自然と戯れる美しい孤島など等の鮮烈なイメージが、交通事故で精神を病み、不安、孤独に囚われがちなヒロインの姿、存在をフォトジェニックに際立たせている。 そして、映画自体に、アントニオーニが当時抱いていた終末観が巧まずして反映されているように感じます。 さて、『ラ・ジュテ』と向き合った後、改めて、ギリアムの『12モンキーズ』(1995)を思い起こしてみると、“核”が“ウィルス(細菌兵器)”に姿を変えてはいますが、『ラ・ジュテ』にあるイメージ、モチーフ(※主人公の監視者、既視イメージ、夢の中の女との出会い、動物の剥製が並ぶ博物館、壁の落書き、セコイアの切り株、空港、少年…など等)の多くが踏襲されており、ここでも矢張り人間(生命)一個の掛け替えのなさが僕の胸に迫ります。 “LA JETEE”とは、“送迎台”を意味するフランス語。 過去に送られた主人公は「夢の中の女」と出会い逢瀬を重ねて行く。 ………(中略)……… 朝陽が射しこむベッド、 寝返りを打ちながら女がまどろみから目覚める。 時折り、この甘美な瞬間は僕の中でゆっくりフラッシュバックします。 ■http://ohwell.exblog.jp/
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[008]ジェリー・ゴールドスミス
 作品の唯一性、醍醐味を引き出すスコア群D.T (Mail)2004-11-30
 
去る7月21日(※米国現地時間)に逝去したジェリー・ゴールドスミス、 その訃報は僕にとって唐突だった。 それは、僕に、自身の半生をフラッシュバックさせてくれもした。 ゴー・・・
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去る7月21日(※米国現地時間)に逝去したジェリー・ゴールドスミス、 その訃報は僕にとって唐突だった。 それは、僕に、自身の半生をフラッシュバックさせてくれもした。 ゴールドスミスは少年時代の僕を映画の愉楽に引き込んでくれた映画人の一人であったのだ。 『オーメン』『カサンドラ・クロス』『カプリコン・1』『エイリアン』『スター・トレック』等々、大スクリーンから鳴り響く彼のオープニング・テーマ曲がどれほど少年時代の僕の心を掻き立て、また、オープニング・クレジットに彼の名を見つけることがどれほど僕の胸を躍らせ、延いては、映画本編自体へと引き込んでくれたことか。 追って体験した、例えば、『リオ・ロボ』、『墓石と決闘』等に在る慎ましく凛とした美しさに貫かれたサウンド、旋律にどれほど心痺れたことか…。 ゴールドスミスは、50数年に及ぶTV・映画音楽作曲家としてのキャリア中に200を超す映画スコアを残した。 その個々のイメージを過剰に演出することとは無縁の研ぎ澄まされたスコア構築、肌理細やかな独創美に一貫したサウンド、旋律は個々の映画に緊迫と愉楽の両者を紡ぎ品位を醸成する。 僕にとって、ゴールドスミスの紡ぎ出すサウンド、旋律の最たる美点、美徳は、個々の映画の唯一的な肌理や醍醐味を引き出す点にあり、また、それ故、彼の為したスコアは手掛けた映画の数ほどに多彩だ。 --- その多彩な映画音楽を僕なりに大別すると、 『パピヨン』、『カサンドラ…』、『チャイナタウン』等のように、劇中のメインテーマを始め甘美な旋律のナンバーが深い余韻を残すスコア群、 先述した『リオ・ロボ』、『墓石と決闘』、また、『トラ・トラ・トラ!』、『パットン大戦車軍団』、『マッカーサー』等のように、慎ましく映画を奏でながら映画に凛とした品位、崇高さを醸成して行くスコア群、 『猿の惑星』、『オーメン』、『ブラジルから来た少年』等、比類の無い独創美に紡がれたスコア群(―特に『猿の惑星』のスコアは、ゴールドスミスの持つ前衛性と繊細なスコア構築力が相俟ってシャフナーが造形した映画全編のイメージと絶ち難く一体化した、広く「映画音楽」に於ける一大傑作だろう。猿が文化を持ち人間を支配すると云う悪夢的光景に紡がれる世界を不協和、無調性のサウンドを多用して奏でる本スコアには、あらゆる日常的な時間感覚から観客を解き放つような力が漲っている)、 加えて、『カプリコン・1』、『スター・トレック』、『ハムナプトラ…』等諸作の醍醐味たるスケール感溢れるスペクタキュラー性を格別な輝きにまで昇華させ得るような、繊細かつ動的に多様な音の表情を紡ぎ出すオーケストレーションが心を掻き立てて止まぬスコア群、 ―とでも云った按配になる。 何れにせよ、ゴールドスミスの紡ぎ出す音は、映画の内的な部分と共鳴して震え、スクリーンに生起するイメージを輝かせる“サウンド”、“旋律”であり、延いては、彼がスコアを手掛けた映画の多くは、僕等観客に娯楽映画を観ることの愉楽に立ち返らせるものと為る。 さて、僕個人の現時点に於けるゴールドスミス作品5傑を。 1.『猿の惑星』(1968) 2.『ブラジルから来た少年』(1978) 3.『勝利への旅立ち』(1986) 4.『チャイナタウン』(1974) 5.『電撃フリント・アタック作戦』(1967)・・・ゴールドスミスが大人の遊び心に溢れた愉楽世界を軽快に奏でる逸品。その、ラテン調の心地良いリズム、ラウンジ調の甘美な旋律、スリリングなリズムパーカッションなどが相俟ってのサウンド、旋律に僕は心蕩けてしまうばかり…。 ―これらに於けるゴールドスミスのサウンド、旋律は、最早、僕の中で映画のイメージと絶ち難く結びついている。 『パピヨン』(1973)の哀感迸る旋律にも未だ映画に接する度に陶酔させられるし、『スウォーム』(1978)、『アウトランド』(1981)等も実にサスペンスフル(―そのサスペンス醸成は、監督の手腕を少々凌ぐほどだ…)かつスケール感溢れる職人的で隙の無い研ぎ澄まされたスコアだと思う。 1990年以降の5傑も付け加えておきたい。 1.『マチネー/土曜の午後はキッスで始まる』(1993) 2.『ルディ』(1993) 3.『危険な動物たち』(1996) 4.『トータル・リコール』(1990) 5.『ハムナプトラ/失われた砂漠の都』(1999) ゴールドスミスの映画音楽に陶酔すること、それは、目の覚めるような美しい女性の姿をやや距離を置き眼差している時のような、夢見心地と曰く言い難い心切なさが相半ばしたものにも似ている。どちらも、僕の心をときめかせ、切なさに苛みもし、その余韻ですらが心を潤してくれるのだ。 今、ジェリー・ゴールドスミスの逝去から4箇月ほどが経つ。 享年75歳、氏が天国でとわに安らかであられますように。 ■http://ohwell.exblog.jp/
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[009]秋立ちぬ
 終わりゆく夏D.T (Mail)2004-10-30
 
少年と少女のひと夏の出会い オープニング・クレジットの背景は桝目の無い原稿用紙のよう 映画序盤と終盤で秀男と着物姿の順子が擦れ違う橋 母親は旅館の住み込み女中となる・・・
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少年と少女のひと夏の出会い オープニング・クレジットの背景は桝目の無い原稿用紙のよう 映画序盤と終盤で秀男と着物姿の順子が擦れ違う橋 母親は旅館の住み込み女中となる、 秀男の孤独は募る そんな夜、田舎から連れて来たカブト虫の“リキ”に話し掛け涙する 秀男と順子の自然な接近、交情… 秀男を自室に招き入れ嬉々とする順子、 ふたりだけでデパートへ カブト虫の“リキ”が姿を消す 秀男の母親は常客と駆落ち 大阪から上京してきた父親と会う順子、…本宅の異母兄弟は冷たい 秀男と順子の遠出…  *** 銀座、下町、多摩川、東京の海……1960年夏 夏木陽介が秀男を乗せてバイクを走らす夜の首都高、 松坂屋の屋上から浜離宮の森越しに見える海/東京湾、 緑濃い夏の多摩川べり、多摩川で泳ぐ夏木陽介や若い男女… 埋め立てが進む、しかし、大きな海原が迫り来る広々とした晴海周辺、 ふたりが遊ぶ東雲(しののめ)の小さな渚、打ち寄せる波、広々とした海原 信州の祖母から送られてきたリンゴ箱から出てくるカブト虫! ……もぬけの空となった順子の家=旅館 デパートの屋上に一人カブト虫と静かに戯れる秀男 浜離宮の森越しに見える海 遠い空
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[010]華氏911
 閉塞した世界の痛ましさを示唆D.T2004-10-08
 【ネタバレ注意】
ムーアは、ブッシュ父子(ジョージ・H・W・ブッシュ元大統領、ジョージ・W・ブッシュ現大統領)とその近しい者たち…とサウジアラビア王族や大財閥ビン・ラディン一族等が親密に・・・
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ムーアは、ブッシュ父子(ジョージ・H・W・ブッシュ元大統領、ジョージ・W・ブッシュ現大統領)とその近しい者たち…とサウジアラビア王族や大財閥ビン・ラディン一族等が親密に交流する多くの映像を示し、さらに、「9.11米国同時多発テロ」後にビン・ラディン一族24人を含む百数十人のアメリカ在住サウジアラビア人がアメリカ政府上層部の許可でFBIの取調べを受けることも無く出国できた事実を関係者の証言を交えて見せる等しながら、双方の癒着関係、サウジアラビアがアメリカから得た膨大な石油収入の行き先、対米投資される膨大なサウジ・マネーのさらなる投資先…、とでも云ったところを示唆して行く…。 アメリカによって「9.11米国同時多発テロ」の黒幕とされたのはアルカイダ(※イスラム教徒による国際武装勢力ネットワーク)を率いるオサマ・ビン・ラディン、 ブッシュ大統領が「アフガニスタン攻撃」「イラク攻撃」突入に際して主張したのは、タリバン政権やフセイン大統領によるオサマ・ビン・ラディンの庇護、イラクが隠し持つ大量破壊兵器がアルカイダに供与される危険、とでも云ったところだ。 映画が示す、「9.11米国同時多発テロ」勃発後に設置された調査委員会(?)早期打ち切り、さらなるテロ攻撃の危険を煽るかのようなTV報道、イラク戦後復興事業参入に目の色を変える企業人達の姿などは、先述したブッシュ父子等とサウジアラビア王族や大財閥との癒着関係の示唆と相俟ってイラク戦争の構図たるものの一側面を示唆するところとなっていよう。 ムーアの前作『ボウリング・フォー・コロンバイン』は、ナイーヴで人懐っこい資質を持つ映像作家ムーアの一途さ、そして、報道映像やら絶妙のタイミングで挿入されるクラシック映画中のワンシーンやらを畳み込む見事な乗りを湛えた映像コラージュ等で観客の視線を画面に縛り続けた。 しかし、今作では映画自体の乗りや映像の愉楽味はムーア自身によって敢えて抑えられていよう。それが故に、映画に示されるムーアが捉える現実は前作に比べて僕に重くのしかかってくる…。 2001年9月11日にニューヨークで勃発した、世界貿易センタービルへの旅客機突入のシークェンス。ここではその旅客機突入、ビル炎上倒壊の映像は黒味で伏せられる。映画館の闇が強調される中に爆音が迫って来るや僕は初めての恐怖感覚とでも云ったものに体がすくむ。 黒味で伏せられていたスクリーンは、攻撃されたビルを見上げる人々の姿が在る映像に転じる。彼らの声、表情、姿は唐突な惨劇を目の当りにして為す術も無くすくみ上がっているばかりに感じられる。 さらに、二つのビルから吹き飛ばされた膨大な書類群が白煙、黒煙に覆われた空(―そこには無数の砕片と化したさまざまなものが舞い散っていたであろう)から舞い落ちてくる光景が示される。 このシークェンスに於いてムーアが示したものは、ブッシュ政権下のアメリカを漠と覆い続けて来たと思しき閉塞感、“911”後の閉塞感、自失感とでも云ったものかもしれない…。また僕の中でこのシークェンスは、映画後半で示される(クリスマス・イヴの夜の)米兵によるイラク民家への家宅捜索を捉えたシークェンスに重なりもする。暗闇の民家に押し入った米兵たちが一人の若者を連行して行く姿、母親が悲痛に喚きその娘が母に泣き縋り怯え切っている姿、この暗闇の痛ましさに僕の体はすくんでしまうのだ…。 前作にあるムーアの思考過程というものは、先述したような見事な乗りを湛えた映像コラージュ、巧みな編集による彼一流のスタイリッシュな映像によって、また、何よりも全編に亘って画面に在るムーアと同体化することによって生々しい迫力を持ち画面に向き合う僕の視線や心を惹きつけた。 しかし、今作は現米国大統領と直に向き合うことが叶わぬ分、過去から今日に至るブッシュの身振り素振りやら言動やらを収めた報道映像、ヴィデオ映像等を全編に亘って示しながら、ムーアは多く画面の外からブッシュを見据え対峙(―ナレーション)するのだ。 ムーアが示す、「父親が大統領だとコネは無限だ」「話したい時にいつでも話せるよ」等と語る石油会社役員だった頃の映像やら、大統領就任以降の笑うに寒々しき言動を納めた数々の映像は、ムーアが捉えるジョージ・W・ブッシュという人物の欠点を持つが故の人間味をも大統領の資質に対する疑念をも良く示すものと為っていよう。 映画は、後半から終幕に架けてムーア自身の露出も少なく彼一流の遊び、映像の愉楽味も影をひそめて行く、そのナイーブな印象のナレーションは彼なりの決意表明を孕むものと為って行く。 ラスト、演説するブッシュの映像が示され、「もう騙されない」とムーアの声によって映画は締められる。映像によるカタルシスを与えてくれる訳ではないが、映像作家ムーアの確信犯的な幕引きなのだろう。
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[011]渡辺文雄
 ムンムンとした熱気を放つ渡辺文雄の存在感D.T (Mail)2004-08-09
 【ネタバレ注意】
2004年8月4日、渡辺文雄が急性呼吸不全のため都内の病院で逝去した。 今、僕なりに渡辺文雄の映画俳優としてのキャリアを顧みると、そのインテリとしての知性なり情熱なりは、・・・
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2004年8月4日、渡辺文雄が急性呼吸不全のため都内の病院で逝去した。 今、僕なりに渡辺文雄の映画俳優としてのキャリアを顧みると、そのインテリとしての知性なり情熱なりは、決して観念的、自己完結的な演技などに納まって行くものではなかったように思う。渡辺文雄は見るからに厭らしい面を纏ったキャラクターを数多く為し得ている。それらに血肉を通わせてスクリーン上にぎらぎらと輝かせることにその情熱が惜しみなく注がれていたのだろう。 キャリア初期の『愛と希望の街』(1959)、『彼岸花』(1958)、『秋日和』(1960)と云った作品に在る聡明で朗らかでモダンさも愛らしさも兼ね備えた姿などを見ていると、それらを売り物にしても監督たちに十分重宝がられて行っただろうと思えるのだが、大島渚と出会ってからの役どころは徐々に「憎まれ役」が増えて行く。 渡辺文雄の演技は政治的葛藤に苛まれるような役どころをナイーブに演じた時などにも忘れ難いものが在るのだが、ジャンルは如何なるものであれ、何よりも「憎まれ役」を演じた時にこそ渡辺文雄という俳優はスクリーン上で最も輝いていよう。 それら、渡辺文雄が為し得た幾重にも屈折した人間性を湛えたキャラクターたちは胡散臭さやどす黒さを以って輝き、僕の視線を奪い心を引きずり回す。 例えば、『女囚さそり 第41雑居房』(1972)の冷酷な刑務所長、『帰って来たヨッパライ』(1968)でのヒロインの業突張りな養父、『白い巨塔』(1978―1979/フジ)の浅はかな市会議員あたりにある渡辺文雄の演技、強烈な存在感はいつも僕を驚喜させて止まない。 作品名を挙げることは避けるが、爽やかさを以って登場しながらも、仕舞いには悪辣な本性を現すような役どころを演じた時の渡辺文雄もこれまた絶品だ。 僕がこれまで見聞きして来たところでは、先述したもの以外にも渡辺文雄が為した猛烈なキャラクターは少なくなさそうだ。例えば、『聖獣学園』(1974)に於ける修道院の司祭役などはその風貌からして観客の度肝を抜くものであるらしい…。 渡辺文雄の主たる映画キャリアが1960年代、1970代に在るとして、この時期、特に1970年代に嬉々と「憎まれ役」を数多くこなしたことは俳優・渡辺文雄の偉大な功績だと思う。 どの出演映画を観ても、彼は役を演じることに心底夢中になっているように見える。 映画の肌理がシュールなものであっても、「不良番長シリーズ」(1968―1972)のような猥雑さに終始するものであっても、「日本の首領シリーズ」(1977―1978)のような一世を風靡した所謂“東映実録路線もの”などであっても、彼がスクリーンで放つムンムンとした熱気は映画に張り詰めたものを醸成して行く。 渡辺文雄は、所謂“大島組”として括られる事の多い4人の俳優(渡辺文雄、戸浦六宏、小松方正、佐藤慶)の内の一人でもある。彼らの不敵なルック、特異な持ち味は長く観客の視線を奪って来たように思う。そして、僕の目に映る渡辺文雄は、戸浦六宏や佐藤慶よりもばりばりとしたタフさを以って、小松方正とはまた異なったワイルドな胡散臭さを以ってスクリーン上に暴れている。 大島渚が1969年に撮った『新宿泥棒日記』という映画がある。 本作には、横尾忠則扮する(本)泥棒が活躍するドラマ本筋と絡みつつ妙な宙吊り感を湛えて印象深い或るシーンが挿入される。それは、渡辺文雄、戸浦六宏、小松方正、佐藤慶を含む大島組面々が酒を飲み交わしながらのセックス談義を納めた10分ほどのシーンだ。ここでは何よりも、4人(※ここでは彼等に役名などは無い)が交わす友人同士ならではの気の置けない言葉の遣り取りが僕の頬を緩ませる。 渡辺文雄は「破廉恥に行きます。僕はこの際司会者に為ります。いいですね、いいですね、いいですね…」等と言いながら場を仕切り始め、一同にさまざまな問いを投げ掛けて行く。 例えば、渡辺文雄が「愛とは何ですか?」と問うと、佐藤慶は「愛なんて人に言うことじゃないですね」と毅然と応える。詳細に触れる遑は無いが、さらに、佐藤慶は「セックスの開放なんて僕は有り得ないと思う、それは飽くまでも個々のもので、そのまま埋没したっていいと思うし、その方が遥かに美しいと思う…」「名器でも何でもないものを名器にし得ることがセックスだと思う…」等々、耳を傾けざるを得ないような印象深い言葉をあの良く通る魅力的な声で紡ぎ出して行く。 一方、渡辺文雄もあのやや甲高い声で自説を語りはするのだが、佐藤慶の語るものと比べて今ひとつ要領を得ない。それでも、身振り手振りを交えて声高に語り、時に友人の言葉に深く頷きもする渡辺文雄の大人の朗らかさや大らかさは僕を惹き付けて止まないのだ。 享年74歳。 この場をお借りして、渡辺文雄氏の逝去に深い哀悼の意を捧げます。 ■http://ohwell.exblog.jp/
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[012]華氏451
 繊細に紡がれた映像が導く胸を衝くテーマ性D.T (Mail)2004-07-31
 【ネタバレ注意】
映画は赤、緑、青、紫、黄などのフィルターを通して捉えたさまざまなTVアンテナのモンタージュから始まる。ここではタイトル“Fahrenheit 451”(『華氏451』)、キャスト、スタ・・・
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映画は赤、緑、青、紫、黄などのフィルターを通して捉えたさまざまなTVアンテナのモンタージュから始まる。ここではタイトル“Fahrenheit 451”(『華氏451』)、キャスト、スタッフがナレーターの声で示され、タイトルを示す文字、オープニング・クレジットの文字群は無い。 続く主人公モンターグ(オスカー・ウェルナー)を擁する消防隊の出動シーン。 ここには緊急出動の緊迫感などはおよそ希薄だ。消防隊の官僚的、ロボット的な動作、身振りを冷ややかに際立たせるようなイメージとバーナード・ハーマンの木琴を駆使したスコアとが相俟って、この出動シーンは緊迫感というよりも漠とした不穏さが醸成されて行く。 現場に向かう消防車のモンタージュ・シーンは、若い男がくつろぐ部屋へと転じる。 そこに電話のベルが鳴り響き、受話器を取った若い男にキャメラが4度カットインする中、電話向こうから「大急ぎでそこから逃げて!」と女の声が警告。近づくサイレンを耳にするや若い男は部屋を飛び出して行く。 消防車が集合住宅に到着。件の若い男の部屋に踏み込んだ隊員たちは黙々と部屋を捜索し、あちこちに隠された本を見つけ出し袋に詰め込みベランダから外へ放り落とす。それらを主人公が火炎放射器で躊躇無く焚書処分する。 ここに於いては、「しかし、何故本を焼くのだろう?」という疑問が観客個々のレヴェルで生じもしよう。しかし、消防隊長が任務を終えた主人公に口にするのは「違反なのに何故本を読むのかな」という、観客の思いとは正反対に在るような言葉だ。 斯様に、トリュフォーはトップ・シークェンスで既に観客を文字、活字が抹殺されつつある“異世界”へと誘い込んでいる。 先述したように、映画のタイトル、主要キャストやスタッフは文字に拠らずナレーターの声で示され、登場人物が自宅やモノレール内で広げる新聞形態の印刷物にはコマ割されたコミック調の絵が在るばかりで文字は見当たらない。さらに、消防署や消防隊員を示すのも文字には拠らず、“蜥蜴”のデザインと“451”という数字に拠る。 そう、本作では本の表紙やその中身が示される画面、市民にあてがわれた数字による管理番号、そして、“THE END”が現れる画面以外には文字が徹底して排されているのだ。 本作のキャラクター造形に於いて印象深いのが、登場人物の鏡像的な姿の現れようだ。 幹部の声が掛かるほど優秀な消防士であった主人公は近所に住むクラリスという女性との出会いによって本に目覚め活字が紡ぎ出す知識や物語に没頭して行く。主人公の妻リンダは夫が家に持ち帰る本を畏れ夫を密告する。 二つのヒロインはジュリー・クリスティによって演じられる。小学校教師見習いのクラリスは快活で社交的、一方のリンダはやや神経質で内向的だ。 アントン・ディフリングという俳優は主人公にいつも冷ややかで敵対的な視線を向ける同僚フェビアンを演じ、さらに、小学校を解雇されたクラリスが主人公と学校を訪れた際に教室のドアからフェビアン同様の冷ややかな眼差しを送る女教師に扮する。 映画終盤、主人公は組織に反逆し、クラリスから教えられた“本の人々”が共同生活するコロニーへと逃走。ここで主人公は、権力側に拠って捏造された“贋のモンターグ”が街中で銃殺されるTV中継をコロニーのリーダーと一緒に眺めながら過去の自分と訣別する。 トリュフォーは登場人物の鏡像によって、一人の人間や組織の不完全性を示唆しているように思う。 映画終幕に描かれるのは“本の人々”。 彼らは自ら選んだ本の表題をコロニーでの名とし、絶滅間近い本を一冊丸々覚えるとその本を焼く。 ここ終幕に於いて静かに僕の心を奪うのが、老人と少年によって示される、本(物語)が伝承される瞬間だ。 コロニーのリーダーが主人公に示す川縁のテント。 そこでは余命幾ばくも無さそうな老人が甥たる少年に或る物語を伝授している。 老人は体を横たえたまま淡々と物語を諳(そら)んじ、少年は無心にそれを繰り返す。 画面がオーバーラップするとそこは銀世界に一変。 キャメラが川縁のテントに寄って行き、程なく少年のクロースアップに切り替わる。 物語終幕の一節ほどを諳んじた少年の顔が輝く。 キャメラが老人に切り替わると、老人の目は閉じられている… キャメラは少年に切り替えされる。 少年の視線は漠と宙に在るが、その瞳は輝いている。 少年は物語の最後を諳んじる。 このシーンは、件のリーダーが主人公に語る「本が再び書かれ出版される時のために、一人一人が一冊ずつ本を記憶し伝承して行く」といった云わば本作のテーマ性を情感を以って明示していよう。 ラスト。 雪降り頻る中、本を諳んじる人々が森の中を思い思いに歩いているさまが奥行き感のある構図で示される。人々が幾重にも行き交いさまざまな言語が交錯して聞こえてくる。 彼等の一心な身振りが音(声の重なり)と映像に収斂し僕の胸を衝き揺さぶる。 ■http://ohwell.exblog.jp/
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[013]グッバイ、レーニン!
 脆さと強靭さを以って輝くキャラクター性D.T (Mail)2004-07-15
 【ネタバレ注意】
『グッバイ、レーニン!』は、主人公アレックスとその母親クリスティアーネのキャラクターが立っていることが最大の美点だろう。この二つのキャラクターの輝き故に少々緩いイメ・・・
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『グッバイ、レーニン!』は、主人公アレックスとその母親クリスティアーネのキャラクターが立っていることが最大の美点だろう。この二つのキャラクターの輝き故に少々緩いイメージも含めて画面に見入ってしまう。 また、主人公に“アレックス”の名が冠されたこのドイツ映画が纏う“忙しなさ”は、東ドイツ(ドイツ民主共和国)と云う国家に唐突に訪れた一大転換の反映として在り、また、ベッカー監督のキューブリック・コンプレックス如きものが時には上滑りに画面に示されるが故に在るように思う。 例えば、『時計じかけのオレンジ』(1971)での札付きの不良たる主人公アレックスが少女2人を自室に連れ込んでのセックスを固定キャメラで捉えた映像を早回しで示すシーンを捩(もじ)っての病院から退院する母親を迎える部屋を模様替えするシーンにしても、主人公の所謂映画狂の友人が撮影した映像に在る『2001年宇宙の旅』(1968)中の「猿人が空高く放り投げた骨が大気圏外に在る宇宙船へと転じる」イメージの捩り方にしても、キューブリックの産み出したイメージとの無邪気な戯れとでも云った以上のものは感じられない。 また、主人公が看護士の恋人と暮らし始めたアパートで彼女の看護実習の試験台に使われているシーン。此処アパートのバスタブで包帯を全身に巻かれ手足にギブスを嵌められて身動きが取れないでいる主人公の姿は、『時計じかけのオレンジ』終幕の病院ベッドに在る“札付きアレックス”の姿に近しいものだろう。 兎も角、それらは微笑ましくこそあれ、然したる妙味、新味を以って僕の心を掴むものではない。 本作で『時計じかけのオレンジ』に在るものの変奏なり援用なりが試みられているとして、そこに新たな独自性をも見い出せるが故に僕を惹き付けるものは、主に、ベッドから出られぬ(―詳細は省く)母親を擁したシーンに於いてあり、母親思いの好青年たる主人公から垣間見えて来る脆さや強靭な意志や想像力に於いてある。 例えば、病院で昏睡する母親が初めて意識を取戻し目覚めるシーン。 アレックスは衛星放送アンテナのセールスマンとしての就業時間以外の大半を母親の介添に費やしている。そんな彼は病室の看護士であるララというロシア娘に一目惚れ、ある日、母親の病室でララを押し倒さんばかりに迫る、正にそんな最中に母親は昏睡から目覚める。顧みれば、彼(か)の“札付きアレックス”も当直の医師と看護婦のセックスの最中に意識を取戻している。 斯様に、両作品に於いては昏睡する者を至近にした男女のセックス、性衝動のぶつかり合いが彼等を目覚めさせる(ように見える)訳だが、それらが、人体の化学反応的道理に適っているか否か等はともかく、予知困難な“昏睡からの目覚め”の唐突性に映画的迫真を加えているものは昏睡する者の傍に在る男女の性衝動だ。 また、両作品の母と息子の関係に共通するものの一つは互いを突き放す事が出来ない点だと思う。特に『グッバイ、レーニン!』に於いては、主人公の幼少時に父親が西側に亡命(―詳細は伏せよう)したこともあり、母親は20年以上に亘って他の何者よりも(※例えば主人公の姉に対してよりも)息子アレックスに愛情を注いで止まなかった…。 さて、『時計じかけのオレンジ』の主人公“札付きアレックス”は自ら志願して凶悪な犯罪者を非暴力体質に変えることを目的とした「ルドビコ療法」の被験者となり、連日注射、投薬を施され、映画館の椅子に拘束され瞼を固定されさまざまな暴力映像を見続けさせられて行く。 一方、『グッバイ、レーニン!』に於いては、TVを観たいと言い出した母親はアレックスが(件の映画狂の友人の力を借りて)捏造した映像をベッドで見続けさせられる…。 おそらくベッカー監督は、暴力、窃盗、ドラッグ、セックス…に明け暮れ、過失ではあっても殺人を犯し、国家権力によって矯正され反体制側にも利用された挙句にも、自分を歓喜に満たすものの在り処を確信するに至る“札付きアレックス”の強靭な精神性、想像力を本作の二つのキャラクターに生かそうと試みたのだろう。 何にせよ『グッバイ、レーニン!』の二つのキャラクターは、自ら選んだ社会主義の価値観を生き抜いた母親として、国家、親子、家族、個人の激動期を生き抜いて行く若者として、脆さも強靭さも併せ持つ人間性を以ってスクリーン上に目映く輝いている。 映画終幕近く、母、息子、そして家族等が或るニュース映像に見入る。 そこに息子の“捏造”を見抜いたと思しき母親は不意にTVモニターから目を逸らしチラチラと息子を見遣る、そのいとおしげな眼差し、面差しは僕を甘美な心地に誘う。 映画はドイツの歴史的転換期を背景に主人公の精神的成長を示しながら、何よりもアレックスとクリスティアーネの絆を核に据えた親子の寓話性に収斂していよう。 ■http://ohwell.exblog.jp/
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[014]映画に愛をこめて アメリカの夜
 夢か現かの如き心地良さと切なさが交錯D.T (Mail)2004-06-30
 【ネタバレ注意】
映画中の登場人物が“映画狂”という設定って少なからずありますよね。 『アメリカの夜』(1973)という映画は、ニースの撮影所を主舞台に“パメラを紹介します”という謂わば映画・・・
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映画中の登場人物が“映画狂”という設定って少なからずありますよね。 『アメリカの夜』(1973)という映画は、ニースの撮影所を主舞台に“パメラを紹介します”という謂わば映画中映画の撮影がクランク・アップするまでが、映画監督、プロデューサー、女性スクリプター、化粧係、小道具係、往年の大女優、主演男女優、共演者、また、助監督、撮影監督、画面には姿が現れぬ“ジョルジュ”(―彼のその姿無き存在感は映画に絶妙のアクセントを生み、その旋律は映画人たちの営みすべてを慈しむかのような甘美さで映画を包み込む…)等々…のさまざまなレヴェルで映画から離れられないキャラクターたちを擁して紡がれて行く。 劇中最大の映画狂はトリュフォー扮するフェラン監督その人でしょう。 ただ、ナタリー・バイ扮するスクリプターの映画熱、仕事熱が侮れませんし、助監督始めスタッフ、俳優たちが撮影に心身を捧げる姿の悉くが愛おしい。 もう、トリュフォーの映画熱、映画愛は『アメリカの夜』全編に於いて遍在する訳です。 この映画を端的に表すこと、あるいは、詳細に言葉で綴ることは困難かもしれません。 一方で、ほんのひとつの切り口でお喋りが尽きなくなるようにも感じます。(※例えば、僕がこの映画のヒロインであるジュリー/パメラに扮するジャクリーン・ビセットの美しさ、優しさ、可愛さ、性的魅力などを語り出せば単に止め処が無くなるばかりに違いない…。) ------ さて、 僕が「いいなぁ」、「美しいなぁ」、「堪らないなぁ」と思う部分を三つ挙げると、 ―まず、オープニング・クレジットが流れる画面。 ここでは、画面一杯をサウンドトラックフィルムの如くに見立て、左側にサウンドトラックを示す2本の縦線が示され、右側にクレジットが流れて行く。左側2本の縦線は音楽や人の声や雑音にシンクロしさまざまに形、太さを変えて行く。 そう、オープニング・クレジット中の映画音(サウンドトラック)が発生する現場(―おそらく、“ジョルジュ”指揮下の音合わせの現場)は映さず、オーケストラが奏でる音、そして、“ジョルジュ”がオーケストラにあれこれ指示を飛ばしている声や指揮棒で譜面台を叩いていると思しき音等が、件のサウンドトラックを示す縦線を震わせ形を変えて示されて行く訳です。 オープニング・クレジットが流れ終わると、唐突に、一丁の拳銃を眼前にした若い娘が大写しとなったモノクロスチルが示され、キャメラがズーム・アウトするとそのモノクロスチルが全貌を現す。そこに在るのは、何者かに拳銃を突き出されて恐怖に身を固めながらもその兇器を両手で取り押さえんとするかのようなドロシー、そして、部屋の隅で息を潜めてうずくまるリリアンの姿であり、また、ギッシュ姉妹が共演したサイレント映画中の一場面であることに間違いないでしょう。 この観る者の瞳に焼き付くかの如き力が迸(ほとばし)っているモノクロスチルが示されて行く無音の数秒間の最後に“リリアン及びドロシー・ギッシュに捧げる”というトリュフォーの署名入りの献辞が示される。それは、その声が画面を震わすことの無かった、しかし、その姿がトリュフォーの心を繰り返し歓喜、感銘に震わせたであろう、サイレント映画に在る可憐なリリアン、ドロシー姉妹への狂おしくも純粋な讃辞だと思います。 ―ふたつめは、フェランが“パメラを紹介します”中の仮装舞踏会の場面で使うための曲を電話口で聴くシーン。 ここで、フェランは受話器を片手に中々ご満悦な素振りで“ジョルジュ”が電話向こうから流す録音テープに聴き入り、同時に、空いているもう一方の手で小包を開き中身を机に積み上げて行く。 小包から姿を現すものは、ブニュエル、ドライヤー(Carl Theodor Dreyer)、ルビッチ(Ernst Lubitsch)、ベルイマン、ゴダール、ヒッチコック、ロッセリーニ、ホークス、ブレッソン等の名を冠した書籍群。 フェラン/トリュフォーは盟友たる“ジョルジュ”/ジョルジュ・ドルリューの奏でる音楽にこれら映画作家たちへの尽きせぬ愛情を重ね、こぼれんばかりに発露させている。 ハードワーク続きで心身の休まらぬフェランに刹那現れた至福のひと時は、その、音と映像が溶け合う甘美を以って僕を浄化させてくれる。 ―さらに、3度に分けて劇中に挿入されるフェラン監督の夢のシーン。 その中身は伏せますが、3度目で、フェランが撮影期間中ベッドで魘(うな)されるように見ている夢の全貌があきらかになる。その瞬間は映画が大切な者ほど胸を衝かれてしまう瞬間かもしれません。 映画終幕、撮影が終わり撮影所から去って行く人々が示される。 この頃には夢か現かの如き心地良さに浸りきっていた自分自身に気づく。 映画が終わって行くという現実にただひたすら切なくもなっているのです…。 ■http://ohwell.exblog.jp/
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[015]妻の心
 緩やかに張り詰めた豊かさ、心地良さD.T (Mail)2004-06-30
 【ネタバレ注意】
『妻の心』(1956)は群馬の地方都市で薬屋を営む家(富田家)が主舞台。 一家の生業たる薬屋の衰調と相俟ってか余剰とは無縁な印象の映画ぶりだが、その余剰の無さが喪失の寂・・・
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『妻の心』(1956)は群馬の地方都市で薬屋を営む家(富田家)が主舞台。 一家の生業たる薬屋の衰調と相俟ってか余剰とは無縁な印象の映画ぶりだが、その余剰の無さが喪失の寂寥感やらに収斂されて行く訳ではない。 僕にとって『妻の心』という映画は最良の成瀬映画の範疇には無いのだが、まるで欲張っていない演出、映画造形に見えながら中々過不足無いイメージが紡がれて緩やかに張り詰めもするこの101分間は清々しく心地良い。そこに身を委ねて不意に浄化を得られる映画であることもまた確かなのだ。 本作の緩やかに張り詰めた豊かさを醸成する核となるものはヒロインの喜代子(※富田家の次男・信二の妻)に扮する高峰秀子の佇まいであり、家庭の日常に生じる何気ない細部の描写の積み重ねにある。 成瀬映画に於いて、「家」を健気に支える主婦(あるいは未亡人)と云った役どころを得た高峰の清楚で凛とした美しさはいつも心に染み入る。 本作の喜代子にあっては、親友の兄として学生時代から馴染のある男性への急激なよろめき、そして、自ら不意に踏み止まるさまに切なく美しい瞬間が立ち現れる…。 喜代子の夫・信二(小林桂樹)は、若い頃実家を飛び出した兄・善一(千秋実)に代わって次男坊ながら家と家業を守っている。そんな信二が家の空き地を潰して喫茶店を開くと言い出す。 喜代子は親友である竹村弓子(杉葉子)の銀行員の兄・健吉(三船敏郎)に融資を相談し、また、調理や接客を習得するために健吉の行きつけでもあるレストランで働くようになる。喜代子はレストラン、親友の家、街中…等で健吉と顔を合わせ一緒に歩き言葉を交わす内に学生時代から馴染のある彼(※健吉は未婚)に惹かれ、不意によろめいて行く…。 一方、夫・信二も兄の妻子が突然転がり込んで来、続いてやって来た(失職した)兄ともどもいつまでとも知れぬ居候を続け、また、兄から借金を請われもし心労が重なり自暴自棄にも為る中、ある晩、妻に無断で友人(田中春男)と共に芸者とつるみ温泉地で外泊。夫婦の仲はぎくしゃくし冷めて行く…。 千秋実(1917年生)、三船敏郎(1920年生)の映画栄えにも惹き付けられた。 ヒロインにとって頼り甲斐のある誠実な銀行員役の三船(※本作中の物静かで笑顔が爽やかな身振りは絶品…)、身勝手で小心者の富田家の長男・善一役の千秋の両者ともに30代半ば過ぎの男栄えが画面に艶やかに栄えるのだ。 鑑賞後に顧みれば、両者共に然して大きな役どころでない点を別にしても、本作は二人の映画スターを十分に生かし切っているとは言い得ず、しかし、そんな部分も僕にとっては本作の欲っ気の無さとでも云った美点に収まって行く。 1950年代に於ける成瀬常連女優の一人である中北千枝子は甲斐性無しの夫・善一に苦労の絶えぬ妻・かほるに扮し、その哀れさ、開き直りの強(したた)かさが此処でも成瀬映画の絶妙なアクセントとなる。 ヒロインの親友弓子に扮する杉葉子の爽やかな笑顔、大らかで清々しい存在感は本作品でも他の成瀬作品での杉葉子の存在感と同様、画面に清涼感をもたらし、延いては、成瀬映画の美しく透明感ある佇まいの醸成に大きく寄与する。 件のレストランで喜代子を朗らかにてきぱきと指導する夫婦に扮する加藤大介、沢村貞子の快活さも微笑ましく爽やかそのもの…。 映画後半、激しいにわか雨に茶屋で暫く足止めになる喜代子と健吉。 テーブルに喜代子と向き合うも雨が降り頻る屋外を見遣り勝ちな健吉だが、ふと、喜代子に向ける視線や切なげな表情が、そして、思いつめたような喜代子の表情が緊迫を孕む…。 映画終幕近く、ある日中の商店街を自転車を引いて歩く夫を見つけ歩み寄る喜代子。ほどなく二人はある新規開店の賑わいを目にとめる、ヒロインは「私たちも**までには喫茶店、何とか開店しましょうね」と口にする、夫が「そうだな」と朗らかに応じる。 夫婦のわだかまりは不意に解ける。 こんな瞬間を以って夫婦や家族の営々とした日常や触れ合いに輝きを与える辺りが成瀬映画の豊かさであり、また、僕にとって成瀬映画を観る喜びに繋がって行くのだ。 ■http://ohwell.exblog.jp/
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[016]バーナード・ハーマン
 天才的な独創性に紡がれた映画スコア群D.T (Mail)2004-06-29
 【ネタバレ注意】
バーナード・ハーマン(1911―1975)の生み出した映画音楽は常に映画の細部から映画全体に輝きを加えて余りあるものだろう。その多くは美しい旋律を基調としながら、しかし、そ・・・
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バーナード・ハーマン(1911―1975)の生み出した映画音楽は常に映画の細部から映画全体に輝きを加えて余りあるものだろう。その多くは美しい旋律を基調としながら、しかし、その音は甘美ではあっても決して甘ったるいものに堕しはしない…。 ハーマンの映画音楽は映画に紡がれたイメージと共に美と驚きを以って僕の心を掻き立て潤す。 彼の映画に於けるキャリアは『市民ケーン』(1941/ウェルズ)から始まり『タクシー・ドライバー』(1976/スコセッシ)で幕を閉じる。 僕は、映画音楽には「映画」というイメージのコラージュたるものの上辺を装うだけのものも在れば、イメージが放つ力に拮抗しながらイメージを解き放つレヴェルのものも在ると思っている。バーナード・ハーマンの生み出した映画音楽は、イメージと拮抗し虚飾を排した強靭な独創性に一貫した音でイメージを完全に解き放ち、映画全体に輝きを加えて行く。 彼の一作曲家としてのオーソドキシー(正統性)たるところは“後期ロマン派”の音楽性にあると見聞きする。ニューヨークのジュリアード音楽院で作曲や指揮を学んだ彼は、クラシック音楽のみに飽き足らず現代音楽作曲家としてキャリアを積み名声を高めて行く。 ハーマンのコマーシャルな作曲家としてのキャリアはCBSラジオ入社以後に始まる。 このCBS時代にハーマンはオーソン・ウェルズと出会い、彼が製作するラジオ番組「マーキュリー劇場」にもスコアを書いて行く。この番組を今日まで知らしめているのはニュース速報の形で流した“火星人襲撃”の衝撃性ゆえだろう。一フィクションが当時(1938年)のアメリカ市民に大混乱、大反響を招いた一点からだけでもメディア史上の一大エポックと言い得るものに違いない。1940年、RKOは“時の人”ウェルズに『市民ケーン』(1941)を撮らせることと為る。そして、ハーマンはウェルズによってハリウッドに招かれる。 ハーマンは1950年頃から映画音楽に本腰を入れる。当時20世紀フォックス音楽部長だったアルフレッド・ニューマン(※“20世紀フォックス映画ファンファーレ”の作曲者としても名高い)に才能を買われ良い仕事を多く回してもらったこと等も幸いし、ハーマンは1950年代当初から充実したスコアを生み出して行く。特に、『ハリーの災難』(1955)から『マーニー』(1964)に亘るヒッチコックとのコラボレーション期間などは正しくハーマンのキャリア中最充実の傑作スコアを多く為し得ていよう。 1950年代、1960年代のハーマンは映画スコアを為す一方でTVの仕事も多くこなした。 彼は生前「現代音楽作曲家も、映画、TVメディアに積極的に貢献すべき」と発言している。 ハーマンの残した映画スコアは『市民ケーン』(1941)から数えて50作品に満たない。 ハリウッド第一線に30数年ほど在った作曲家が残した映画スコアが“50弱”というのは、ハーマンと同時代の売れっ子作曲家たちに比べれば決して多い数ではない。 例えば、ミクロス・ローザ(1907―1995)は『密告者』(1937)または『鎧なき騎士』(1937)から数えて100作品ほどの映画スコアを、アルフレッド・ニューマン(1901―1970)は『放蕩息子』(1930)から数えて180作品ほどの映画スコアを残している。 ―しかし、完全主義、凝り性であり、また、社交下手、人間嫌いであったと云われるハーマンの仕事ぶりや人となり等を鑑みれば充実の“50弱”だともまた言えよう。 ハーマンはしばしば監督と意見が合わずに苦しんだという。しかし、僕など、ハーマンが創作上の様々な葛藤、監督との軋轢の果てに為し得た渾身の創造(―繊細かつダイナミックな旋律、斬新かつ品位ある音…)に歓喜を以って身を委ねるばかりだ。 ハーマンにとって『タクシー・ドライバー』(1976)でのスコセッシとの仕事は身を削るものだったようだ。 ここ『タクシー・ドライバー』に於けるハーマンの音は主人公を中心に紡がれるイメージと一体になって、狂気、甘美、焦躁を的確に紡いで行く。そして、ここに在るハーマンのスコアは繊細な肌理を湛えながらも、その音はイメージの内に激情を滾らせイメージと共に生々しく迸り続けている…。また、この映画で世界的な称賛を勝ち得ることと為る若きスコセッシ(※公開当時34才)の才気を慈しみ、束の間、スコセッシの紡ぎ出すイメージに耽溺しながら奏でられているようにすらも感じる。 本作の全ての録音を終えた翌未明(1975年12月24日)にハーマンは息を引き取る…。 映画はバーナード・ハーマンへの哀悼の言葉 Our Gratitude and Respect to Bernard Herrmann June 29.1911−December 24.1975 ―がエンドロールの最後に示され幕を閉じる。 ■http://ohwell.exblog.jp/
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[017]黒の試走車(テストカー)
 過不足無き映像に紡がれた97分の至福D.T (Mail)2004-05-31
 【ネタバレ注意】
『黒の試走車』(1962)という映画は、1960年代の日本高度経済成長期只中に於ける熾烈な企業間戦争とでも云ったものを過不足無く示し得た増村保造の才気漲る逸品だ。 ここには・・・
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『黒の試走車』(1962)という映画は、1960年代の日本高度経済成長期只中に於ける熾烈な企業間戦争とでも云ったものを過不足無く示し得た増村保造の才気漲る逸品だ。 ここには二つの自動車メーカーが同時期に売り出す二つの新型スポーツカーを巡る開発競争、販売競争が両社の産業スパイたちを核に描かれる。 一方のヤマト自動車は一流自動車メーカー、本社企画部署には元陸軍中佐たる馬渡(菅井一郎)をトップに関東軍特務機関出身の兵(つわもの)を揃える。 もう一方のタイガー自動車は社長自ら“まだまだ二流”を自覚する自動車メーカーであり、デザイン、技術開発に巨費を投じた“パイオニア”の売り出しに社運を賭ける。そして、小野田課長(高松英郎)が陣頭指揮を取る「企画一課」は、小野田が口繁く朝比奈(田宮二郎)等部下に繰り返すように“産業スパイの部屋”だ。 黒い覆いを纏わされた“パイオニア・第一号テスト車”が高速走行テストを開始せんとするシーンで幕を空ける『黒の試走車』という映画は、産業スパイ、つまり盗む者たちの視点、視野というものを反映した画面作りに一貫していよう。 その視点、視野というものは、タイガー本社に於ける重役会議室、社長室、企画一課の閉塞感、また、様々なオフィスビルの階段、廊下、トイレ…、料亭の廊下や畳部屋…、小野田等が出勤時のヤマト自動車デザイン課長を強引に引っ張り込む車内など、映画中至るところに在る密室の閉塞性に反映されていよう。 映画後半、朝比奈と昌子(叶順子扮する朝比奈の恋人)が会う屋外(※日中の公園)ですら、僕等観客に心的な開放を与えてくれるものではない。… <※後日、加筆予定> ■http://ohwell.exblog.jp/
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[018]幻の湖
 橋本忍の狂的な情熱を収め得たフィルムD.T (Mail)2004-05-07
 【ネタバレ注意】
僕はこの映画を3年前に池袋新文芸座で観ている。 スクリーン栄えのする映画だと思う。 『幻の湖』という映画は橋本忍が製作、脚本、監督に携わった作家渾身の一作でありなが・・・
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僕はこの映画を3年前に池袋新文芸座で観ている。 スクリーン栄えのする映画だと思う。 『幻の湖』という映画は橋本忍が製作、脚本、監督に携わった作家渾身の一作でありながら、「東宝の歴史的大失敗作」等の一語で貶められがちな映画だ。 僕は『幻の湖』には一映画人として面白いお話以上のものを生み出さんとした橋本忍の狂的なまでの熱気が画面によく立ち表れていると思う、また、僕ら観客が言葉で掬い取れない凄みもこの映画には多々在るとも思う。 南條玲子扮するヒロインが怨敵を出刃包丁で刺す一撃はシャトル打ち上げの映像に繋がる。その強烈な怨念、情念が宇宙空間に収斂するべき映画終幕は作家の破格のアイディア、イメージを映画美として定着させる技術が伴わず、その破格のエネルギーもろとも映画は無残に大空中分解してしまう。 ここに在る映像は杜撰で醜悪な貧しい宇宙空間であり、今日までに至る日本映画の不可能性を露呈していよう。 しかし、そんな終幕をも含めた164分の映画中に数多く立ち表れる一口に言い表せない映画的醍醐味に目を見張り胸躍らされ続けた興奮の余韻は鑑賞後も消えないのだ。 あるいは、あの終幕は橋本忍にとって半確信犯的な自爆的な決着だったのだろう。 --- 初めに述べたように、『幻の湖』は大スクリーンに栄える映画だ。 此処には、琵琶湖を擁した空間を核に据え、引力に抗えない地上性とそれを包み込む時空間とでも云った宇宙性を感じさせる映像が在る。そういった空間性、延いては時空間的なスケール感を良く体感させ得る劇中一貫した画面造りがこの映画最大の美点だとも思う。 琵琶湖を擁した現代の映像、そして、後半からフラッシュバックで立ち表れてくる戦国時代の映像の多くは目を奪う美しさだ。様々に色づき輝く湖面、春の満開の桜に、新緑に、紅葉に、銀世界に染まる琵琶湖周辺の自然が織り成す美の迸りや佇まいが正に光と空気感ごと画面によく収められていよう。 特に、お市の方の侍女みつ(星野知子)と隆大介扮する地侍吉康(※お市の方の引き立てで浅井家に召し上げられて行く)が初めて出会う湖畔の素朴な風景、雪山を越え吉康の元に通って来たみつが吉康と横笛を吹き交わす冬の情景などは心奪われ見惚れてしまうばかりだ。 一方、ヒロインが愛犬を殺した日夏という男を追う(※これが云わばマラソンレースの形を借りての殺気を孕んだ一騎打ち、敵討ち的なものに収斂して行く辺りが圧巻。ヒロインとその怨敵たる日夏が一途に走る絵的な可笑しみは類例が思い浮かばない)姿を捉えながら街々や田園風景がとめどなく広がって行く辺りのスケール感は目を奪う。 この殺気を孕む一騎打ちレースの前哨戦たる舞台は東京(※青山辺りから駒沢周辺まで)、そして決戦の地が琵琶湖周辺(※ヒロインが“お市”の源氏名で働くトルコ風呂がある雄琴から琵琶湖大橋まで―1980年代初期の、素朴さが失われつつある琵琶湖周辺の風景にも目を見張らされる)…。 映画終盤、日夏がヒロインの働くトルコ風呂に客として訪れるや映画の不穏さはいや増すばかり…。ヒロインは突然目の前に現れた怨敵に激しく動揺し暫く自失となる。そんな彼女が日夏の言葉に身を震わせ始め唐突に出刃包丁を掴み出刃先を怨敵に振るうや日夏は顔色を変えながらも機敏に店外へと走り逃げて行く。日本髪、和服、足袋といった仕事上のコスチュームを纏ったまま殺気を滾らせて日夏を追うヒロイン、「東京のお返しは琵琶湖、この琵琶湖でしてやる!」という激情滾るモノローグ…。―兎にも角にも目が離せない。 しかし、先までに述べたように、終幕のシャトル空間、長尾というシャトル飛行士(※ヒロインの云う“運命の男性”)の宇宙遊泳を含めた宇宙空間の特撮が映画の息の根を止めてしまう。長尾という現代青年、そして、戦国時代に於ける、悲運、悲恋に染まる吉康という武士の二役を演じる隆大介は全編個性的で素晴しい存在感を放っているのだが、終幕の画面造りが隆大介の演技、素晴らしい存在感に追いついていない。 宇宙空間に出た長尾が琵琶湖上空で“横笛”(※悲恋を象徴する映画中の重要なモチーフ)を湖の東岸と西岸を結ぶように置くという素晴らしいアイディアを圧巻たるイメージまでに高められなかった技術力の貧しさ、安っぽい画面が残念至極だ。 『幻の湖』は、橋本忍という映画人の狂的な情熱を164分に収め得たフィルムであろう。演出家としての冷静さには欠ける。例えば、劇中を貫くヒロインのエキセントリックさは目を見張るばかりなのだが、観客一般に共感、共鳴を催させるまでには至らないだろう。しかしながら、画面から迸る熱気、幾つかの咄嗟に類例が思い浮かばないイメージ造形には心を揺さ振られる。そして、画面に広がるスケール感は映画の醍醐味たる美徳の一つに違いない。 僕はこの映画体験が大好きだ。
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[019]中谷一郎
 画面栄えのする中谷一郎の男っぷりD.T (Mail)2004-04-30
 
2004年4月1日、中谷一郎が咽頭癌のため東京都内の病院で逝去した。 訃報に接した際、僕に思い浮かんだ中谷一郎の姿は、この2月、3月にたまたま山本薩夫の映画を何本か鑑賞し・・・
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2004年4月1日、中谷一郎が咽頭癌のため東京都内の病院で逝去した。 訃報に接した際、僕に思い浮かんだ中谷一郎の姿は、この2月、3月にたまたま山本薩夫の映画を何本か鑑賞していた余韻もあって、『金環蝕』(1975)での故田中角栄元総理を彷彿とさせる保守党幹事長役、『不毛地帯』(1976)での関東軍幹部役でのものだった。 中谷一郎の代名詞的な役どころである『水戸黄門』(TVシリーズ)に於ける“風車の弥七”役なども主にあの神出鬼没ぶりゆえ印象深くはあるのだが、僕は映画の中に在る中谷演じるキャラクターの男っぷりの方により強く惹かれてきた。 ―斯くは言うものの、僕など「中谷一郎という俳優の魅力はこれこれだ!」等と自信を持って明言できるものなど然して持ち得てはいない…。 兎も角、映画に在る中谷一郎の男っぷりは中々画面栄えがし僕の目を奪う。 卑屈さとはほぼ無縁な面差しと背筋の伸びた身ごなし、そして、垢抜けし切ってはいない土臭さが相俟っての雰囲気、風貌には言い知れぬ懐かしさをも覚えてしまう。 僕にとっては、主に1960年代、1970年代の映画に在る中谷一郎の姿、風貌は頑強な日本人の一典型に通じて行くのだ。 ―そんな中谷一郎は、仕事仲間等から“ミンクさん”という可愛らしい響きを湛える愛称でも呼ばれていたらしい。 中谷一郎演じる『無宿(やどなし)』(1974)での強面の組頭役、『用心棒』(1961)での兇状持ち役、また、『網走番外地 望郷篇』(1965)に於ける、高倉健扮する主人公の幼馴染で嵐寛寿郎を親分とする旭組組長の二代目役等は、出演シーンは少ないながら、その役柄が、顔貌、存在感と共に甦って来る。この辺りは映画俳優としての強みに通じるものに違いない。 岡本喜八監督は中谷一郎を佐藤允、天本英世等と同様に大いに好んで映画に使って来たようだ。 久しく鑑賞から遠ざかっている『独立愚連隊』(1959)、『独立愚連隊西へ』(1960)、『ああ爆弾』(1964)等を含めて、岡本喜八作品に在る中谷一郎に改めて接する機会も持って行きたい。 享年73歳、謹んで中谷一郎氏のご冥福をお祈りします。 ■http://ohwell.exblog.jp/
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[020]鉄砲犬
 愉楽に張詰めた画面が紡ぎ出す至福の83分間D.T (Mail)2004-03-31
 【ネタバレ注意】
「犬シリーズ」(1964〜1967年・全9作)は、大映が生んだ二枚目スター田宮二郎を擁した藤本義一(※脚本)の才気と大映スタッフのプロフェッショナリズムが得難い虚構世界を生・・・
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「犬シリーズ」(1964〜1967年・全9作)は、大映が生んだ二枚目スター田宮二郎を擁した藤本義一(※脚本)の才気と大映スタッフのプロフェッショナリズムが得難い虚構世界を生み出す愉楽の活劇群だ。 『鉄砲犬』(1965/村野鐡太郎)はシリーズ第5作目、シリーズ中にあって最もスタイリッシュで心地良い一作だろう。 村野鐡太郎と藤本義一の冴え(登場人物個々のキャラクター付けの簡潔さ、人物の絡み具合と人物間の掛け合いの巧妙さ…)、小林節雄のキャメラによる情緒的にも物理的にも余剰感のない画面の強さ、菊池俊輔によるスコアが醸し出す洒脱味などが相俟って愉楽の映画時間が紡れて行く。そして、田宮二郎扮する鴨井大介の輝きこそが映画の求心力だ。 ここに在る一匹狼のチンピラ鴨井は弁舌、身ごなしとも調子良く、少々キザで中々ファッショナブル、腹立たしいほど男っぷりが良くフォトジェニック…。 そして、自身の男っぷり、喧嘩の腕、拳銃捌き、女にモテるといった辺りは鴨井本人も十分に自覚的。しかし一方で、自身のおつむの軽さを笑い飛ばし、馴れ合いは拒むが心根は優しいこの鴨井という男に臭みは有っても人間的厭らしさはない。 僕にとって『鉄砲犬』に在る鴨井は最高にイカしたスクリーン・ヒーローだ! <※後日、加筆または訂正予定> ■http://ohwell.exblog.jp/
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[021]白い巨塔
 権威の冷たさに似た温度感の希薄さ…D.T (Mail)2004-03-31
 【ネタバレ注意】
ここ劇中群像劇の温度感の希薄さは出色だ。それは国立大学医学部、延いては権威の体質を良く反映したものでもあろう。 この映画を端的に、あるいは詳細に語り尽くす遑は無いが・・・
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ここ劇中群像劇の温度感の希薄さは出色だ。それは国立大学医学部、延いては権威の体質を良く反映したものでもあろう。 この映画を端的に、あるいは詳細に語り尽くす遑は無いが、“白い巨塔”なる、大学病院という象牙の塔を巡る、医師たち、医師の家族、患者、裁判に関わる人々のエゴイズムが醸し出す閉塞の空気感、劇中一貫した冷え冷えとした質感、世界観は、白黒、明暗のコントラストが強い映像の印象と相俟って忘れ難い。 実に多くの人物が画面に出入りする映画であるが、キャラクター造形が簡潔(※残念ながら原作を読んでいないがゆえ“的確”か否かの明言は避けたい…)さに収斂しながら、しかし、画面に登場する者たちの人物像をきっちりと観る者に印象付ける。 その群像劇は正にあれよあれよの150分。過剰感や混乱を観客に抱かせる事など無くドラマとイメージが紡がれて行く…。 田宮二郎によって姿かたちを得た外科医たる技量と自信に満ちた財前五郎のキャラクター性は、劇中一貫して迫力、魅力がほとばしり、僕の視線を奪い、心を掻き立て陶酔させて行く。 財前はある癌患者への検査を怠り死に至らせてしまう。 一人の保険患者の死を前にしても、教授選を争う最中の財前には自らの誤診、怠慢を謙虚に省みる余地など生じない。 教授の地位、権威の座に囚われる財前を演じる田宮の強靭なイメージ、一貫するフォトジェニックさには惚れ惚れするばかり。 正に、田宮演じる財前五郎在ってこその『白い巨塔』という映画の肌理、質感だと信じる一方、大雑把な言い方にとどめるが、滝沢修演じる東都大学(※所謂「東大」を暗喩)教授船尾の品格有る、しかし魔王の如き尊大さこそ、日本医学界なるところの権威体質や諸々の病根を垣間見せ、延いては映画に深みを与えるものに違いない。 ―兎も角、映画後半部の核となる、所謂“誤診裁判”を締め括る、裁判官による鑑定証人尋問に立った船尾教授の証言が為される数分程に亘ってのシークェンスは、滝沢修の演技を擁しての緊張感に漲っており、映画中の圧巻部だと思う。 滝沢扮する船尾の答弁、証言は、鋭利でたゆまぬものだが、その国立大学医学部、延いては日本医学界の一象徴たる姿、知性と品格ある、しかし、ひ弱さの欠片も無い姿から放たれる気迫、迫力は、結局は“冷たさ”に収斂して行くように思う。それは権威(機構)そのものに似ているのかもしれず、それゆえ忘れ難い…。 船尾の答弁、証言は、その終いに架けて強度とスリリングさを増す。 財前の非(※誤診)を責め、医師としての良心の欠如を強い語調で諌(いさ)めながら、物凄い高みに問題をすり替え、国立大学医学部という船尾自らが在る場を守り抜くために、教授職に留まることすら危うくもあった財前を救うのだ…。 証言を終えた船尾の顔は鬼とも魔王とも形容したくなる尊大さが良く立ち現れてもいよう。 <※後日、加筆予定> ■http://ohwell.exblog.jp/
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[022]血煙高田馬場
 歓喜に震えさすもの悉くが簡潔さに収斂D.T (Mail)2004-02-29
 【ネタバレ注意】
中山安兵衛に扮するバンツマこと阪東妻三郎の豪放磊落な存在感を求心力に、映画は映画たる愉楽を纏って行くばかり…。これは映画的瞬間に紡がれた珠玉の50分だ。 画面に在る細部・・・
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中山安兵衛に扮するバンツマこと阪東妻三郎の豪放磊落な存在感を求心力に、映画は映画たる愉楽を纏って行くばかり…。これは映画的瞬間に紡がれた珠玉の50分だ。 画面に在る細部からバンツマを擁した幾つかの殺陣までに在る悉くは、その一つ一つが豊かで観客が震えるような余韻を持つ、しかし、それらが徒に過剰感を生むのではなく、映画は、ただ簡潔さに収斂して行くかのようだ。 バンツマ扮する中山安兵衛が所々に垣間見せる純粋な心根の立ち現れようは、中山安兵衛たるキャラクターを観客が純粋に愛する縁ともさせよう。 例えば、安兵衛が叔父が真剣勝負を交わす高田の馬場に死に物狂いで駆けつける終幕のシーンが圧巻なのは、単に、十八人を向こうにしたバンツマ烈火の大殺陣のアクション映像の醍醐味のみに因らず、安兵衛と叔父の肉親的交情が映画序盤からきちんと示されてあるがゆえの圧巻たる映画的身振りなのだろう。 --- 此処『決闘高田の馬場』にあるバンツマ。 その、 悲壮込み上げて天を仰ぐ表情、 叔父貴を逆恨みから斬った仇どもに怒り込み上げ切って、引っくり返ったような甲高い声で「よし、来いっ!」と雄叫びを上げるさま、 自らの自堕落を顧みず隣人夫婦の喧嘩を執り成す際の嬉々とした姿、 叔父貴の助太刀に長屋を立つ際、飯をガガァーッと手づかみで食らう姿、 そして長屋を飛び出し高田の馬場へと一目散に走りに走る姿…等々、 ―この映画に在るバンツマの悉くの振る舞い、喜怒哀楽の発露、加えて、束の間見せる静けさといった逐一に血が通い血が滾(たぎ)っており、感情迸るもの、つまり、映画的愉楽の紡がれたものと相成って行く。 --- 斯様に、バンツマ扮する安兵衛在るところ(彼を求心力に)悉くが躍動する。 唯一、安兵衛の叔父たる菅野六郎左衛門だけは彼の破天荒に巻き込まれることなんぞに無縁だが、その内面は乱行の過ぎる甥への不安に波打つばかりであったのだろう。 逆に、この叔父と在る時の安兵衛は身を縮めるばかりで言葉一つ発せず仕舞いだ。 しかし、世に唯一人真心から自分を叱り、事あるごとに甥たる自分の体を気遣う叔父の前に在る安兵衛の内面は矢張り何時でも揺さ振られていたのだろう…。 終幕、十八人を向こうにしたバンツマ烈火の大殺陣。 このシークェンス中程のバンツマの動きに悠然と伴走する横移動のキャメラ、そして(“慢心の”長槍使い)中津川祐範との決着までを縦構図に捉えるキャメラの愉楽等は筆舌に尽くし難い。 仇討ちを果たし、安兵衛は横たわったままの叔父の体に走り寄る、そして、俄かに何百人とも判別がつかぬ人だかりの熱狂、狂騒に囲まれる中、安兵衛は悲壮に震えながら天を仰ぐ…。 ■http://ohwell.exblog.jp/
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[023]ボウリング・フォー・コロンバイン
 人間的理性を顧みさせて行くムーアの一途さD.T (Mail)2004-02-23
 【ネタバレ注意】
『ボウリング・フォー・コロンバイン』(2002)という映画には、作者が画面に示したものと観客個々が漠然とにせよ既知なる部分とが交錯することで観客個々に思考を促すドキュメン・・・
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『ボウリング・フォー・コロンバイン』(2002)という映画には、作者が画面に示したものと観客個々が漠然とにせよ既知なる部分とが交錯することで観客個々に思考を促すドキュメンタリーの一特質と、スクリーンを観る者を(巧妙に)騙しつつ愉楽に至らせる劇映画の美徳とでも云った両者を備えた身振りを見て取れる。 作者たるマイケル・ムーアは、劇中示されるように、チャールトン・へストンが会長の任を負うNRA(National Rifle Association of America/全米ライフル協会)の永久会員だ。―そんな一米国人たるムーアの抱く「(ムーアが作品発表後のインタビューで口にするように、個々を見れば善良な)米国人が個々の怒りや憎しみを他者の命を奪うことで決着させてしまう短絡傾向の顕著」への葛藤、自責、羞恥の念が映画に終始垣間見れもする。 隣人の銃暴力の恐怖とも自己(と家族の)防衛手段に銃を持つこと等とも、過去から現在、そして此の先当分に亙って無縁に思える僕自身が、『ボウリング・フォー・コロンバイン』という映画を観ながら胸が不吉に騒いだり、良心の葛藤なりを覚えたりしてしまうのは、画面に在る主に米国人たちの姿や言葉等を介して、生活、人生に纏わりつく憎しみ、怒り、エゴ、また、恐怖と云った感情なりが時に生々しく僕を刺すが故でもある。 ムーアの視線は対象に迫って尚そこから遊離しているかのようだ。それは、対象に取り組む真摯さが獲得し得た冷静さ、延いては、人間的理性を示すものかもしれない。 映画を顧みれば、例えば、彼とキャメラが迫る人物なりに因って銃所持の問題、過去の銃撃事件等に於いて驚くべき真実性が画面に立ち現れることなど殆ど無かったようにも思い起こす。それでも、ムーアの真摯、一途な思考ぶりが画面に乗っているが故に観客は画面を見詰めながら感情、理性ともに掻き立てられて行く…。 劇中アニメーションに拠る「米国史」にしても、教会、警察、学者等によって嫌悪感と共に“ショック・ロッカー”等と口にされていたマリリン・マンソンや“The Culture of Fear:Why Americans Are Afraid of the Wrong Things”の著者たる社会学者グラスナー教授等に拠って米国人に恐怖を煽る元凶の一つに劇中扱われていた「TV報道」の映像にしても、既に起こった事例群をムーアの主観も客観も混じえて再構築、再提示したものに過ぎないだろう。 特に、劇中大量の「TV報道映像」は米国人の現実観を形成し得るものとして、延いては、米国の現実として画面に示されていよう。 一方、劇中頻繁に示されるムーアと生身の人間の対峙を通して米国の現実に対する米国人や隣国のカナダ人の感情(的批評)が紡がれて行く。それらは僕にとって嫌悪や同調の別等はあっても注視するに値するものとなってくる…。 終幕近く、ある2人の高校生による無差別銃撃で後遺症を負った青年2人とムーアが、無差別銃撃犯が銃弾を購入した大手量販店の本社に出向き、銃弾を店舗に置かぬよう訴える件がある。ムーア等が諸手挙げて喜ぶ顛末に、画面の此方側の僕など然したる現実感を持ち得ないのだが、企業側当事者が2人の青年に残る傷跡(※一人は下半身麻痺で車椅子に在る)を眼前にしたことが、既に起こった暴力を企業に現実感として引き寄せ、延いては、企業倫理を顧みる縁とさせたであろう点は見捨て置けない。 ハリウッドのヘストン邸。 ある一室の椅子に身を沈めてムーアのインタビューを受けるヘストンの傍には嘗ての主演映画をモチーフにしたデザインポスターとでも云ったものが2点置かれ、ムーア図らずして、フィクショナルな世界に大スターとして在るヘストンが際立つ。 そんなヘストンに現実認識を迫るムーア。その対峙は、奥行き感の浅い画面と相俟って息苦しいほどスリリングでもある。 此処では、訪問者たるムーアに誠意を手向けるヘストンの姿への僕自身の安堵感や、ヘストン(1924年生)がハリウッド映画という本来の表舞台で今後“NRA会長”以上に脚光を浴びる役どころに恵まれることはないのだろう…と云った個人的な雑念が画面に向き合う僕の中に巡って穏やかでは居られない。ムーアの問いに毅然と対処しつつも何処か痛々しいヘストンに胸掻き立てられもする…。 つまり、老いの最中に在るヘストンの姿に、『ボウリング・フォー・コロンバイン』中で僕にとって最たる現実感が迸っている。 ヘストンはムーアが差し出す或る銃撃事件で亡くなった少女の写真を顧みる事無く自室に戻って行く。その後姿に劇中僕自身に沸き起こった様々な感情や葛藤による熱気が一旦終息もし、(ヘストンも僕自身も)暴力に命を奪われた人々に手向ける言葉を持ち得ぬことに苛立ちもする中、映画は尚一つの事件レポートを加えて終わって行く。 ■http://ohwell.exblog.jp/
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[024]天使
 人間の品位、真心が立ち現れる終幕。D.T (Mail)2004-01-31
 【ネタバレ注意】
先日、『天使』(1937/ルビッチ)をヴィデオにて再鑑賞。これが三度目ほどの鑑賞だ。 この三角関係をめぐる恋愛映画に在る、 フレデリック(Sir Frederick Barker)という外・・・
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先日、『天使』(1937/ルビッチ)をヴィデオにて再鑑賞。これが三度目ほどの鑑賞だ。 この三角関係をめぐる恋愛映画に在る、 フレデリック(Sir Frederick Barker)という外交官に扮するハーバート・マーシャルの慌てず騒がずの端正な佇まい、 終幕近く、“エンジェル”と旧友が出会った部屋で、その二人の恋を悟ったがゆえのフレデリックの(哀しみ、)気づき、諦念の身振り…、 そして、あの終幕の愉楽…。 ―それらは、僕の中にしばらく留まって離れそうにない。 この映画を観、その度に少しづつ言葉に出来るものが在るのならば、僕にとっては御の字と云ったところだ。 この映画は、キャメラ、小道具、俳優へのディレクション等を含めた演出上の計算、打算と云った悉くが表にそれとして浮き立って厭らしく留まる事など無く、しかし、映画としての豊かさ、愉楽に収斂して行く。 終幕程近く、ロシア大公妃のサロン(※少々怪し気な上流階級社交クラブとでも云ったものか…)の一室に主役3人が在る緊迫、それは、絶望の淵に立って真底エンジェルたる妻マリアの掛け替えの無さに気付いたフレデリックの静かなる、端正なる姿、諦念の身振りによって、静かなる緊迫の張り詰めた、透明感を湛えたイメージに紡がれた愉楽の一瞬に転じる。 しかし、此処、エンジェルたるマリア(マレーネ・ディートリッヒ)をめぐる三角関係がイメージとして明瞭に立ち現れてくるこの終幕程近くのシーンは、張り詰めていながらも結局は慎ましさゆえの美、官能の気配の心地良さに収斂して行く。 ―(そして、)あの終幕。 90分程に在ったすべてが、あの終幕、男女が大公妃のサロンたる屋敷邸を去って行く後ろ姿を擁したイメージに納まり、僕の中で余韻となって繰り返される…。 この『天使』という1930年代ハリウッド黄金期、また、ルビッチ黄金期中(―決して1930年代のルビッチ監督映画の悉くが興行的成功を収めた訳ではないのは周知の通り…)の映画は、例えば5回、6回と観賞を重ねて行くのならば、この90分程に在ったイメージ殆どすべてが僕の中に刷り込まれ、映画を離れた後も一続きのイメージを反芻出来得る如きものに思えたりもする。 仮にそうであろうが、僕にとってその一続きなるイメージを言葉に置き換えることは中々叶いそうにない…。言葉など、イメージの余韻、イメージの魔力に呑み込まれてしまうかのようで…。 『天使』、『極楽特急』(1932)、『ニノチカ』(1939)等々、ルビッチの冴えが煌めく珠玉の映画に取り付かれた事をある時不意に自覚してしまった者は、再び、これら諸作品に向き合って行き、その度に、生々しい映画的イメージの愉楽に心地好く身を委ねている自分自身を悟って行くばかりのように思う…。 ■http://ohwell.exblog.jp/
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[025]イングリッド・チューリン
 硬質な外観に人間的品性を垣間見せる演技力D.T (Mail)2004-01-28
 【ネタバレ注意】
イングリッド・チューリン(Ingrid Thulin)が、2004年1月7日にストックホルムで逝去した。 彼女の生年に1926年、1929年の両説あるが、何れにせよ、癌との闘病の末1月27日の生・・・
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イングリッド・チューリン(Ingrid Thulin)が、2004年1月7日にストックホルムで逝去した。 彼女の生年に1926年、1929年の両説あるが、何れにせよ、癌との闘病の末1月27日の生誕日を待たずして天に召されたと云ったところか…。 僕にとってイングリッド・チューリンは、リヴ・ウルマン、ビビ・アンデショーン、ハリエット・アンデルセン、グンネル・リンドブロム等と同様、ベルイマン映画に在る時にこそ最も目を見張らされる女優だ。 --- 僕は、『カサンドラ・クロス』(1976)という、所謂「オールスター・パニック映画」(※一見、この映画は国際色豊かなオールスター・キャストを擁したスケール感あるスペクタクル映画ぶりでハリウッド映画と見紛う如き作品だが、実際はカルロ・ポンティの製作指揮によるイタリア、イギリス、旧西ドイツ合作の非ハリウッド映画である。)中で初めてチューリンの演技に向き合った。 当時、映画を観始めて間もない者なりに、主役級のリチャード・ハリス、ソフィア・ローレン、また、バート・ランカスター、エヴァ・ガードナー等の、大雑把にひっくるめて言えば「華のある大スター」たちとは異なるチューリンのスクリーン上での存在感、硬質な外観と女性的品位が相俟ってのフォトジェニックさと云ったところに心奪われ目が離せなかったように思い起こす。 僕が今日までイングリッド・チューリンの名と共に思い浮かべる硬質で怜悧な女性像たるイメージは、『カサンドラ・クロス』でチューリンが演じる“International Health Organization”なる組織の女医に於いても良く垣間見れる。 映画冒頭、件の本部ビル内の一室に潜入したテロリスト一味中の2名が米国が極秘裏に培養する細菌(※細菌兵器用培養液)を浴びてしまう。辛うじて逃げ延びた一人がヨーロッパ数カ国を横断する急行列車に身を隠す。 (ストーリー的な詳細に触れるいとまは無いが、)“International Health Organization”本部内にバート・ランカスター扮する米軍当局者たるタカ派的米軍大佐マッケンジーが指揮を執る対策司令部とでも云ったものが置かれ、マッケンジー大佐に請われ“International Health Organization”当局医師として参加するのがチューリン扮するドクター・エレナ・ストラドナー。 彼女はマッケンジー大佐(※彼は細菌感染した列車、乗客を細菌兵器開発の事実諸共に闇に葬り去らんと事を運んで行く…)と細菌感染が広がる急行列車、1,000人ほどの乗客の処置を巡って対立して行く。 硬質なイメージを持つチューリン、ランカスター両俳優によって演じられる女医と米軍大佐が、両者の背負った立場、任務、使命感の相違ゆえの対立過程で醸し出すものは、 空気感染のみで大量の人命を葬り去る能力を孕んだ細菌兵器の恐怖、多国籍から為る1,000人ほどの列車乗客の行く末、(画面上には姿が示されることのない)ポーランド(?)のヤノフなる地に在る嘗てのユダヤ人収容所…とでも劇中マッケンジー大佐の台詞によって示される列車乗客が隔離収容されるという施設、ヤノフに通じる“カサンドラ鉄橋”等といった悉くのものを介して“人命の尊厳”に迫らんともしたであろう映画の特性に寄与するものとなっていよう。 ―尤も、映画全体を顧みれば、ヨーロッパを横断する急行列車にホロコースト的受難をダブらせながら、戦禍を負ったヨーロッパ(人)の傷跡、影、心情的な部分を介しての“人命の尊厳”的なところを部分的には良く表すものの映画的に大きく示すまでには至らなかった点が余りにも勿体無くは思うのだが…。 --- 僕は『カサンドラ・クロス』以降、ベルイマン映画を中心に、少なからぬイングリッド・チューリン出演映画に向き合って来られた。 スクリーン上のチューリンは、他に媚びぬようなキャラクター性、厳しげなものを纏った表情や容貌で十分見入らせる。 その底力のある演技力は、容易に忘れ得ぬ様々な女性像をフィルム上に結実させた。 僕にとっては、『沈黙』(1962)に在る彼女が最も忘れ難い。 『冬の光』(1962)、『女はそれを待っている』(1958)等がそれに次ぐ。 これら諸作に在るチューリン演じるキャラクターは、自身を苛む葛藤、失意、憎悪などを自らの内面的強さに因って不意に乗り越えて行くように思う。そして、そんな部分をスクリーン上に体現する際のチューリンの姿、演技にこそ強く心掴まれるのだ。 西暦2004年が始まって間もない。 21世紀を超えて生きる高齢の映画人、世紀を超えて尚キャリアを重ねているヴェテラン映画人の老後なりに幸多きことを心より望みたい。 最後に、 改めて、スウェーデンが生んだ偉大な女優、イングリッド・チューリンのご冥福を心よりお祈りする。 ■http://ohwell.exblog.jp/
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[026]デヴィッド・ヘミングス
 トーマスの姿に在る、情熱、諦観、寛容…D.T (Mail)2003-12-31
 【ネタバレ注意】
僕が長く心奪われている映画の一つに『欲望』(1966/アントニオーニ)があります。 繰り返し観賞を重ねて尚魅力の尽きぬ映画であり、ぼんやりその映画に思いを馳せ、イメージ・・・
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僕が長く心奪われている映画の一つに『欲望』(1966/アントニオーニ)があります。 繰り返し観賞を重ねて尚魅力の尽きぬ映画であり、ぼんやりその映画に思いを馳せ、イメージを反芻する事も少なくない。 この映画、僕にとっては“夢”にも似て、破格の魅力を湛えたイメージと瞬間に溢れています。 スクリーン、画面に見えているはずのものをしっかり捉えよう、掴もうと思って(画面に乗り出すも、)掴み損ねてしまうかの如きところなど、“夢”から目覚めるや、漠と意識に捕らえていたはずの“夢”のイメージといったものが一気に遠ざかって行く中、それでも意識の内に漠と残った幾つかのイメージの断片の気配を認め、それを慎重に手繰り寄せようとするも不意に消え去ってしまう感覚と重なるように思えます…。 --- この映画で主人公のトーマスを演じたデヴィッド・ヘミングスが、映画撮影中のルーマニアで12月4日(※現地時間で3日とも4日とも報道されているようだ…)亡くなりました。 1941年生まれ、享年62歳。 映画俳優に一世一代の名演とでも言えるものがあり、また、一世一代のはまり役とでも言えるものがあるかと思います。 『欲望』でヘミングスが演じたトーマスは、ヘミングスが為し得た不滅のキャリアの一つであり、一世一代のはまり役だったと思います。広くスクリーン上の傑出したキャラクターの一つでもあるでしょう。 映画でヘミングスが演じたのは、トーマスという、才気煥発な若き売れっ子カメラマン。その仕事振りには自信、情熱が張り詰めている。 1960年代半ば過ぎのロンドンを舞台にアントニオーニが描く、ジェネレーション・ギャップ、価値観の揺らぎといったテーマ性は、若さと老成、熱中と諦観が同居しているようなトーマスのキャラクターによって時代の空気感ごとフィルムによく定着し得たように思います。 映画中のトーマスの目、眼差しが忘れ難い。 スタジオ撮影等での尋常ではない自信満々な態度、熱中の眼差し、 モデルたちを前に何度もダメ出しをする追究の眼差し、一方、狂騒的なパントマイム集団に向ける寛容の眼差しや素振り、 恋人(妻?、友人の妻?)に向ける切なげな眼差し、 **、パントマイム集団の二人が繰り広げる見えないテニスボールでのラリーを追う諦観的な眼差し… ………(中略)……… 圧巻は、ジェーンという若い女と年配男の公園での逢引と思しき現場を写したネガ・フィルムを現像しプリントを引き伸ばして行くシークエンスでの、引き伸ばしたプリントにぼんやり見える何ものかを一心に追究して行く眼差しだ。 此処でトーマスはプリントを眺めながら何か怪しげな影が写っているのに気付き黙して見詰める。 何なのだ…引き伸ばしたプリントを一人眺める、 指を当てて…ジェーンの視線の先の茂みを辿る、 さらにプリントを引き伸ばす。―途中から、観客もピストルを持った男が茂みから垣間見えているかのように、そして別のネガから引き伸ばしたプリントには、死体めいたものが植え込み(/茂み)から垣間見えているかのように…トーマスと同時体験的に見えてくる。 だがしかし、目をトーマスのように凝らしても観客にも決定的な姿は見えてこない辺りが“夢”それ自体と似てもいよう。 トーマスと言うキャラクターは、例えば、タイトルバックに後姿を垣間見せた中年ほどにも見えるカメラマンの幻覚の産物かもしれないし、彼(―中年ほどにも見えるカメラマン)の夢の中の産物かもしれない。 しかし、おそらく、観る者によって映画に在るトーマスに対する解釈はさまざまだろう。 トーマスというキャラクターに僕はなぜ惹かれ続けるのだろう…。 ヘミングスは1970年代からキャメラの後ろにも立つようになる。 監督として、映画、TVシリーズの演出作品を少なからず残したのだ。 この場をお借りして、デヴィッド・ヘミングス氏の逝去に深い哀悼の意を捧げます。 ■http://ohwell.exblog.jp/
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[027]佐分利信
 破格かつ品格在る人物を数多く体現D.T (Mail)2003-12-01
 
僕が、佐分利信(旧芸名、島津元/1909―1982)を一つの映画を通して意識した最初の作品は、少々不運ながら『悪霊島』(1981)です。 その晩年期の作品に在る“魁偉”な容貌、そ・・・
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僕が、佐分利信(旧芸名、島津元/1909―1982)を一つの映画を通して意識した最初の作品は、少々不運ながら『悪霊島』(1981)です。 その晩年期の作品に在る“魁偉”な容貌、そして、人…というより、異界の何者かが発するように響く、太く、しかし、掠(かす)れた低音を震わせての喋りようでの存在感に、演技の巧拙のみで表すのが勿体無いような畏れの念を含んだ有り難み、あるいは、反発と畏怖の相半ばするものを、10代の頃なりに漠と抱いたように思い起こします。 大雑把に言えば、日本映画はこの魁偉なる名優をよく生かしてきたのかもしれません。 ただ、日本映画全体のレベルが凋落しつつあった1970〜1980年代の映画に在る佐分利信には、監督から引き出されるものを超えた凄みが加わっていたように思える。 ある使命感(―日本映画に於いて、戦前から50年間に亘って演技者としてのキャリアを築き、加えて、戦後は監督としてのキャリアをも残した者の使命感)ゆえに本人が振り絞った、単に演技の一語に収まり得ない何ものかに因って、映画的緊張感を孕むものとなった作品も少なくないように思えます。 <※後日、加筆予定> ■http://ohwell.exblog.jp/
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[028]キル・ビル
 ユマを求心力に得た絢爛たる映像コラージュD.T (Mail)2003-11-02
 【ネタバレ注意】
『キル・ビル VOL.1』は、“復讐の情念”に染まったヒロインを核に据えた破天荒なアクション映画だ。 タランティーノは、自らを熱狂、陶酔させて止まぬ「仁侠映画、クンフー映画・・・
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『キル・ビル VOL.1』は、“復讐の情念”に染まったヒロインを核に据えた破天荒なアクション映画だ。 タランティーノは、自らを熱狂、陶酔させて止まぬ「仁侠映画、クンフー映画、ジャンル・ムービー群」等から着想、創作意欲を得て、真実贅沢な映像コラージュを生んだ。 本作には、称賛のみに支えられてきた訳ではない作品群を見下すのではなく、子供が憧れのヒーローを一心に見上げてしまうような素振りが在る。 詳細は避けるが、主役ヒロイン、ザ・ブライド(ユマ・サーマン)が“復讐”を期する5人、≪オーレン・石井(ルーシー・リュー)、ヴァニータ・グリーン(ヴィヴィカ・A・フォックス)、エル・ドライヴァー(ダリル・ハンナ)、そして、続編で多くブライドと絡むであろうバド(マイケル・マドセン)、ビル(デヴィッド・キャラダイン)≫のキャラクターには、仁侠映画、クンフー映画、ジャンル・ムービー群のヒロインや主人公たちのエッセンスが混在しているに違いない。 例えば、大殺陣が繰り広げられる「青葉屋」のシークエンス。 此処でブライドとオーレンが何度か対峙する訳だが、まず、オーレンが大写しで示され、切り替えされた画面でオーレンを見上げるブライドが大写しで示される。 オーレンを見上げる怨念に燃え立つであろう視線には、タランティーノが梶芽衣子など任侠映画ヒロインに向ける“崇拝、敬愛”の心情、眼差しが垣間見れよう。 --- 映画は、劇中に<Chapter1>等と示されるように、5つの章から成る。 ブライドは結婚式の教会で、かつて自身も所属していた「毒蛇暗殺団」によるリンチを受け、ボス「ビル」によって頭に銃弾を撃ち込まれる。 映画前段は、瀕死のブライドがモノクロ画面で示される冒頭から、ブライドが4年間の昏睡から目覚め5人への復讐に立ち上がり、ヴァニータに復讐を果たすまでを、軽快なアクションとオフビートな映像表現を絡めて時制を行き来させつつもテンポ良く見せて行く。 片や映画後半、ブライドが沖縄に渡り刀匠、服部半蔵(サニー・千葉)を訪ねてから以降(<Chapter4><Chapter5>)は、奇異なオフビート感で映像が塗り込められ、見世物的強度を増しながら疾走する。 映画後半の主舞台は日本。 この映画は、日本人が持つ精神的豊かさも、不自由さ(―此処では、オーレンを乗せた車が、前後に一台の車も走っていない高速道路を数台のバイクに護られながら走っている異様さ、東京の実風景が全く「青葉屋」のシークエンスに絡まぬ事の不自然さを指摘しておきたい)も垣間見せる。 この不自由、窮屈を辛うじて乗り越えたのは、タランティーノの情熱、創意に他ならない。 --- 映画終幕を飾る、東京「青葉屋」での対決は、ブライドの「オーレン・石井、まだ勝負はついちゃねーよぉ」とでもいった雄叫びが口火を切る。 ブライドとオーレンの身辺を固める数人との対決は意外と呆気無く幕を降ろす。 オーレンとブライドが向き合う中、オーレンの私設軍隊「クレイジー88」の一団が青葉屋に雪崩れ込んで来る。 俯瞰のキャメラが“黄色いトラックスーツ”のブライドと彼女を取り囲んだ数十人とも百人程とも判別出来ぬ“黒いアイマスク、黒いスーツ”の戦士たちを捉え、大殺陣前の緊迫を煽る。 この大殺陣のシークエンスは、ブライドとジョニー・モー(ゴードン・リュー)の存在感あるキャラクターを核に、ブライドとティーンエイジャー戦士達との多彩で破天荒な立ち回りが連綿と見せられ、心地良い間延び感に浸らせる。 二十分ほどに及ぶ大殺陣はブライドとジョニー・モーとの死闘によって幕を降ろす。 そして、「まだ命の有る者は持って帰るがいい…」といったブライドの慈悲が示された後、雪降る日本庭園でのオーレンとブライドによる一対一(サシ)の勝負。 オーレンは手強く、程無くブライドはオーレンの刀に倒れ込む。 オーレンは、ブライドに「馬鹿な白人女が刀でサムライごっこ…」等と毒づく。 慢心したオーレンはブライドの一太刀を浴びる。 息が乱れ、呆然自失のオーレンは、「さっきは馬鹿にして悪かったね」と口にする。 ブライドはオーレンを見詰め「分かった…。い…く…よ」と口にし、オーレンは「来な」と返す。 ―此処では、二人の説得性の希薄な日本語が修羅場での切迫感、仁侠映画的交情を著しく削ぐ。しかし、意識が弛緩し可笑しさに震えようとも、観客の視線は画面に縛られ続けるのではないか。 このタランティーノによる絢爛たる映像コラージュの求心力は、“ザ・ブライド”を演じたユマ・サーマンの映画的存在感だ。彼女の一貫したフォトジェニックさ、真摯なキャラクター造形が“復讐の情念”に染まったヒロイン像に説得力を与えている。 “復讐”というものに斬新な決着が示されている事を、続編『キル・ビル VOL2』に期待したい。 ■http://ohwell.exblog.jp/
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[029]桜桃の味
 終わらないものへの気づきの視線D.T (Mail)2003-10-02
 【ネタバレ注意】
ここ『桜桃の味』に於ける終幕は、そこまで積み重ねて来た一切の説話性、寓話(意)性、イメージを一つの唐突さで宙ぶらりんにしてしまう。 こんな突き放し方がキアロスタミの・・・
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ここ『桜桃の味』に於ける終幕は、そこまで積み重ねて来た一切の説話性、寓話(意)性、イメージを一つの唐突さで宙ぶらりんにしてしまう。 こんな突き放し方がキアロスタミの強靭な作家性、飽くなき創造性のひとつの現れに違いありません。 『桜桃の味』の終幕は、あの自然史博物館に勤める初老男性が主人公に口にしたように夜明けに「3つ石を投げる」ことも示されなければ、まして、主人公の生死の暗示すら放棄している訳です。 最後の最後に、美しいドラマとしての過程、決着を放棄し、しかし、唐突にデジタルヴィデオ撮影によるものと思われる荒い画面から立ち現れて示される悉くには、“今”“生きていること”の甘美さがよく示されている。 『桜桃の味』は僕にとって面白い映画であり、心揺さぶられる驚きと陶酔を得られる映画です。あの終幕に執着してしまう映画です。 *** エンドロール、 ここでの、 黒の背景に、終幕で山肌を覆っていた草木の色が写り込んだような緑色の文字群も印象深い。 ―兎にも角にも、『桜桃の味』という映画の終幕は、終わらないものへの気づきが僕の中で刹那にせよ立ち揺らぐように思えます。 ■http://ohwell.exblog.jp/
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[030]幻の女
 ヒロインに視線を奪われる至福D.T (Mail)2003-10-01
 【ネタバレ注意】
映画冒頭、キャメラは羽飾り帽子を被った女の後姿を捉える。 バーのストゥールに腰掛けていた女がジュークボックスをかけようと席を離れると、妻に結婚記念日のショーとディナ・・・
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映画冒頭、キャメラは羽飾り帽子を被った女の後姿を捉える。 バーのストゥールに腰掛けていた女がジュークボックスをかけようと席を離れると、妻に結婚記念日のショーとディナーを反故にされたスコットが入って来る。 スコットは女をショーに誘う。 バーでも劇場に向かうタクシーの車中でも女の表情は陰鬱だ。 ショーの途中から劇場に入り最前席に腰を降ろす二人。 女はそれまでに無く和やかな表情を見せる。 しかし、最前席の程近くでドラムを叩くクリフが奇抜な帽子を被った女に好奇の目を向けウィンクを送るや女の顔は少し強張る。 歌手のエステラが登場しショーは熱気を増す。しかし、女はエステラの被っている帽子が自分のものと同じだと気付くや一層表情を強張らせる。 ショーの後、女から名前すら聞きだせぬままスコットは帰宅。 彼が自宅に入ると、バージェス等3人の刑事が居り、妻が殺害された旨を知らされる。 妻の死体が運び出される際、スコットは「髪を引き摺っているぞ」と悲痛に叫び目に涙を光らす。 スコットは容疑者として捜査に引回される。「殺害時刻には、羽飾り帽子の女と居た」というスコットのアリバイは、件のバーのバーテン、タクシー運転手、エステラの悉くに否定される。 警察やスコット自身の尽力虚しく羽飾り帽子の女は見つからず、アリバイ立証が叶わぬスコットに極刑判決が下る。 獄中のスコットを秘書キャロル(エラ・レインズ)が訪ねて来る。 失意のスコットを励ますキャロルの言葉やスコットを見詰める眼差しから、勤め先のボスたるスコットに秘めた愛を募らせて来たことが伝わる。 キャロルは、警察やスコットが手を尽くしても見つからなかった羽飾り帽子の女を探る為、単身、スコットが殺害事件当夜に件の女と出会ったバーを訪れる。 水割りを注文し、無言でバーに佇むキャロル。 次の晩、さらに次の晩もバーを訪れ、毎夜カウンターの同じ場所に座り、組んだ腕をテーブルに置き、同じ場所(※バーテン)に視線を向けたキャロルの姿、怒りを圧し留めたような険しい表情を湛えながら同じ姿勢でバーに在る様、それ自体に視線が釘付けになる。 3日目の深夜、キャロルは店を閉めたバーテンを尾行する。 バーテンが店を出ると一頻り降った雨で路面は濡れている。 キャロルはバーテンの後を追い、地下鉄の駅の階段を上がって行く。 雨上がりで霞んだ深夜の街並みを背景にした高架ホームに一人ヒロインが立つ姿をロングで捉えたしんとした画面が清々しいフォトジェニックさを湛えている。 バーテンはキャロルの尾行をかわそうと焦る。 彼はキャロルを出し抜き、街角で彼女に「なぜ俺を尾行するんだ」と詰め寄る。 この殆ど台詞無きシークエンス、特に、キャロルがバーテンを尾行する深夜のニューヨークの映像の宙吊り感が快い。 キャロルの帰宅を待っていたのはバージェス刑事。 裁判を注意深く傍聴していた彼は、「スコットは帽子の女のことしか言わなかった。アリバイが頼りないのは馬鹿か無実のどちらかゆえだ。彼は馬鹿じゃない…」「私もスコットの味方だ」等と口にする。キャロルに美しい笑顔が広がる。 キャロルは商売女のような身なりとメイクでスコットが件の帽子の女と観に行ったショーに現れ、事件当夜、女が座った席に座る。 隣の空席が、キャロルの満たされぬものを端的に示し得ていよう。 キャロルは最前席の程近くでドラムを叩くクリフに、露骨な視線と網タイツで強調した脚線を晒し、身を揺らしウィンクまで送って彼を挑発し虜にする…。 ―クリフを演じるエリシャ・クック・Jrが劇中一貫して素晴らしい。浅はかなスケコマシ振り、歓喜や興奮に狂気を湛えて行く目が絶品だ。 殺人鬼は一見穏やかな紳士。 その巨大な手は、造形作家としてモダンな作品を生み、一方で、未熟で自己本位な性格がその両手を人を殺める凶器にも貶める。 彼はキャロルの去った後のクリフのアパートに現れる。 恐怖に凍りつくクリフの目、小男のクリフを覆い尽くす大きな暗い影は殺人鬼の異常性、心の闇を良く示すものだろう。 スコットの容疑が晴れての終幕。 キャロルが新しいオフィスに颯爽と出勤して来る。 スコットはキャロルに「ディクタフォンに指示は残しておいた。後は任せる」と伝えてからオフィスを出る。 キャロルは再生器を手にしディクタフォンを再生させる。 仕事の指示が流れた後、「まだだ!」とスコットの声が続き「一緒にディナーを。明晩も、その次の晩も、つまり毎晩だ」との言葉が流れる。キャロルの顔には輝くような笑みが広がる。 ここでは再生トラブルに拠って、スコットの最後の言葉“毎晩だ(every night)”が繰り返される。何と粋なプロポーズの演出! ラッパ状の再生器を胸に当て歓喜に浸るキャロル。その美しい笑顔をいつまでも眺めていたくなる。 ■http://ohwell.exblog.jp/
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