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 「Katsumi_Egi」さんのコメント一覧 登録数(1461件)rss
 コメント題投稿者投稿日
[001]日日是好日
 ジェルソミーナKatsumi_Egi (Mail)2018-12-16
 
 美しい日本映画。クレジットバックは清流のイメージ。水のイメージは、庭の筧とつくばい、お茶を入れる際の、柄杓から注ぐ水や湯。あるいは雨、あるいは海岸のシーン、山の渓・・・
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 美しい日本映画。クレジットバックは清流のイメージ。水のイメージは、庭の筧とつくばい、お茶を入れる際の、柄杓から注ぐ水や湯。あるいは雨、あるいは海岸のシーン、山の渓流シーンと度々描かれる。また、水は音と一緒に演出される。音の演出では最初に袱紗の扱いを学ぶ際の、袱紗を張る「パン」という音なども含めて、気持のいい音の映画だ。  黒木華も多部未華子も職業生活や恋愛事情についてほゞ描かれない(というか、意図的に端折られている)のが物足りないが、これは選択と集中というやつだろう。であれば、多部の扱いが潔く、黒木の、失恋して落ち込み、駅のホームに座り込んで泣くシーンや、男性と幸せな表情で歩くカットなどは、中途半端であり冗長だと、そしるべきか。私生活が謎である点は、樹木希林も同様だが、ただし、樹木とその師匠との関係が、写真立ての古い白黒写真と、鶴田真由が語る樹木の結婚式のエピソードで構築されており、やはり、回想やフラッシュバックを用いないことの奥床しさが良く出たいい演出である。(私はてっきり、黒木の結婚式のシーンが来て、樹木が反復するのかと思ったのだが。)  全体を通じて、樹木希林のしっかりした部分といい加減(臨機応変)な部分のバランスが見事だ。主人公は、はっきりと黒木なのだが、本作は、紛うことなく、樹木希林の映画。助演賞よりも主演賞が相応しい。 #フェリーニの『道』のことが三度語られる。ジェルソミーナの真似まである。
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[002]斬、
 ポン寄りKatsumi_Egi (Mail)2018-12-13
 
 強い炎のイメージと刀鍛冶の画面から始まり、強烈な音の映画であることを宣言する。殺陣シーンもそのカタチ以上に音が印象に残る。  カメラワークは、まず冒頭、田圃の畦で・・・
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 強い炎のイメージと刀鍛冶の画面から始まり、強烈な音の映画であることを宣言する。殺陣シーンもそのカタチ以上に音が印象に残る。  カメラワークは、まず冒頭、田圃の畦での池松壮亮−杢之進と前田隆成−市助との太刀練習で、むやみに動き回り、ズーミングも使いまくるので、とても危惧したのだが、その後落ち着いたのでホッとする。しかし、墓所での果し合いの場面あたりから、ポン寄り(カット・ズームイン)、ポン引き(カット・ズームアウト)が目立ち始め、中盤以降、ほぼ半分のカットでこれをやっているんじゃないかと思うぐらいになる。例えば、塚本晋也の澤村が、百姓家の引き戸を開けて表へ出てきたニーショットの次に、少し寄ったバストショットを繋ぐ(このとき、時間は途切れず継続している前提)、というようなカッティングがこれでもか、と見られるのだ。多分、デジタルの世界になり、容易にできるようになったのだろうが、この技法って、こゝぞ、という時に使うから良い(カッコいい、あるいは意味がある)のであって、むやみに使うと、節操がない(何も考えてないんじゃないか)と思えてしまうのだ。大林宣彦『花筐/HANAGATAMI』ほど、神経症的な使い方ではない(さりげない使い方)とは云え、私はかなり気になった。  さて、池松壮亮、蒼井優、塚本晋也、この主要キャストの造型は見応えがある。それぞれ、少々類型的な感もするが(苦悩する剣士、近現代的女性像、島田勘兵衛的リーダ)、皆激しく強いキャラだ。特に蒼井の台詞、所作(竹とんぼのシーンだとか)には現代的過ぎて違和感を覚える部分もあるが、そもそも彼女がラストまで、ほとんど全ての現場に顔を出すのが良く、彼女のショットがラストカットであることを考えてみても、蒼井優の扱いこそ、本作の肝だということだろう。ラストのラストで、いきなり日が陰り、ローキーとなる。そして悲痛な叫び声(という音)。
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[003]search/サーチ
 カット・ズームインKatsumi_Egi (Mail)2018-12-01
 
 全編PC画面で完結させる映画、ということで喧伝されているが、PCのディスプレイにウィンドウを複数立ち上げ、例えば電話で会話する際は、相手側が映っているウィンドウと・・・
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 全編PC画面で完結させる映画、ということで喧伝されているが、PCのディスプレイにウィンドウを複数立ち上げ、例えば電話で会話する際は、相手側が映っているウィンドウと、自分側のウィンドウのいずれかをクローズアップして、カットを繋いでいくといった趣向だ。主人公が電話をかけまくる映画なので、このような疑似カットバック(切り返し)が頻繁に出てくるが、当然ながら、殆ど正面バストショットでの切り返しとなる。ただし、それぞれ、目線はカメラを見ているわけではない(ディスプレイの、相手が映っているウィンドウを見ている)ので、イマジナリーラインを意識させないように出来上がっている。正面ガン見のカットもあったが、これをもっと上手くやれば、小津みたいな異次元の時空を作れるのにな、と思いながら見た。  また、カメラはPCや電話相手のスマートフォンのカメラだけでなく、部屋に取り付けた監視カメラも上手く使われる。あるいは、インターネット上のライブニュース配信のカメラも駆使してカットが繋がれる、という、良く考えられたものだ。さらに、例えば監視カメラをモニタリングしているPC画面を、引きとアップを駆使してアクション繋ぎのように繋ぐ。つまり、カット・ズームイン(ポン寄り)ということなのだが、それは動的な場面だけでなく、カメラ画像じゃないPC画面(メールやメッセージのテキスト入力画面等)でも、かなりこの技法は使われているように思う。ディスプレイを映したカットなので、寄るとブロウアップしたかのような粗い解像度になり、ざらざら感は、ある種の感情(サスペンスであったり切なさであったり)の醸成にも寄与する。  あと、多くのSNSが活用される中で、「YouCast」というライブ配信ツールが決め手になるが、この画面(ウィンドウ)で、部屋で机に座る娘が画面手前に映り、画面右奥のドアの向こうで父親の声がし、ドアを開け、部屋に入って来る縦構図は驚きのある良いカットだ。娘の微妙な表情が良く、ウィンドウ内で、カット・ズームインし、粗い粒子の父親のカットに繋ぐ部分には心揺すぶられた。  ということで、とても巧妙・周到な映画ではあるが、技巧的には既存の映画の撮影・編集の枠組みに絡め取られてしまっており、なんら逸脱のない、窮屈さを増しただけのシロモノとも思える。
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[004]A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー
 肌触りKatsumi_Egi (Mail)2018-11-26
 
 矢張り、この人は一筋縄ではいかない作家性のある監督だ。ディズニーのファミリー向け映画の後に、こんなとんでもない問題作をぶっこんで来る。まずは前半の3つの長回しは、・・・
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 矢張り、この人は一筋縄ではいかない作家性のある監督だ。ディズニーのファミリー向け映画の後に、こんなとんでもない問題作をぶっこんで来る。まずは前半の3つの長回しは、かなり挑戦的な姿勢じゃないか。3つとは、家屋全景のロングショットで、ルーニー・マーラが画面奥の家の扉と、画面手前のゴミ捨て場を往復するカット、夜中のベッドの二人(マーラとケイシー・アフレック)の俯瞰カット、そして、マーラがキッチンの床に座ってパイを食べるカットを指している。これらは、文字通りの長回しであって、普通の感覚で云うと無意味に長い。つまり、プロットを経済的に運ぶということを拒否しているのだ。  さて、本作はオフスクリーンで発生する唐突な音の設計がとても良く出来ている。幽霊譚なのだから、当たり前、というレベルを超えた豊かさがある。例えば夜中に響くピアノの音。クラクション。巨大なブルドーザ。マーラが窓を叩く音。先住民の襲撃の音。  そして、本作はシーツの映画である。と云うと、これも至極当たり前な物言いの感じがするが、冒頭、夜中に上半身裸でリビングを見に行くアフレックの、その後ろを恐る恐る付いて行くマーラもまた、白いシーツを体に巻いているである。この場面に続く、ベッドに戻って、愛撫し合う俯瞰のカットは、上にも書きましたが、これが異様に長いのだが、こゝはとても触覚(手や唇の肌触り)を意識させるカットになっており、この後の、触れることのできない切なさを大きくすることに繋がっているだろう。本作中、この次に強烈に触覚を喚起するカットは、壁の隙間の手紙を取り出そうする場面であり、いずれにしても、触覚はマーラに触れるという意味で成し遂げられる(成就する)のだ。
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[005]ピートと秘密の友達
 抱擁Katsumi_Egi (Mail)2018-11-26
 
 冒頭、走行中の自動車の前に鹿が飛び出してくることで物語が始まる導入部はとてもいい。あと、ピートが病院から脱走し、街中や通学バスを絡めて描かれる逃走シーンも良い調子・・・
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 冒頭、走行中の自動車の前に鹿が飛び出してくることで物語が始まる導入部はとてもいい。あと、ピートが病院から脱走し、街中や通学バスを絡めて描かれる逃走シーンも良い調子だ。クライマックスも自動車での追跡劇及び橋からの落下、ということで、自動車を使った演出が良く出来ている映画だと云えるだろう。  中途半端というか、予想を下回る、弱い造型についても指摘すべきと思うので、書きます。第一に、ドラゴン、エリオットのキャラクターが大人し過ぎる。そのデザインがディズニーらしい漫画っぽいものであることは、まあ良いとしても、優しいキャラ造型がシーンをつまらなくする。例えば、エリオットがダラス・ハワードの家の中にピートを見つけたにもかからわず引き返してく、というシーンがあるが、これ(この忖度)なんかは、やり過ぎじゃないかと思う。クレバー過ぎるというか、ファンタジーに過ぎる。あるいは、ピートの、文明生活とのギャップの描き込みも足りない。足りないことが嘘くさい、と云っているのではない。ギャップをもっと面白いシーンとして活かして欲しいのだ。 #本作の抱擁シーン。クライマックスの後、エリオットがピートを抱きしめる。そしてその後、ダラス・ハワードがピートを抱きしめる。
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[006]セインツ -約束の果て-
 抱きしめられるKatsumi_Egi (Mail)2018-11-26
 
 これは傑作だ。将来、2010年代畢竟の傑作と位置づけられるのではないか。テレンス・マリックを意識させずにはおかない佇まいを持ちながら、しかし、マリックなんかよりも断然・・・
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 これは傑作だ。将来、2010年代畢竟の傑作と位置づけられるのではないか。テレンス・マリックを意識させずにはおかない佇まいを持ちながら、しかし、マリックなんかよりも断然映画の演出の手触りがある。マジックアワー、斜光や逆光、手持ちカメラの多用と共に、人と人が抱きしめ合う所作の反復が切なさを増幅する。  ルーニー・マーラとケイシー・アフレック、或いはマーラとその娘は勿論のこと、マーラとベン・フォスター、フォスターとマーラの娘、そしてアフレックはキース・キャラダインにも不意に、かつ暴力的に抱きしめられるのだ。アフレックはマーラにもキャラダインにも、横臥した状態で頭を抱えられる。彼らの描き方は静謐な基調で統一されるが、同時に圧倒的な切ない緊張感で支配されている。手拍子を効果的に使った音楽の使い方も素晴らしく、大いに興奮させられる。
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[007]ボヘミアン・ラプソディ
 6分Katsumi_Egi (Mail)2018-11-14
 
 全米ツアーの導入部。ハイウェイを画面奥にした空撮から、バスと自動車にカメラが寄って行って、自動車のフロントガラスをすり抜け、車内を通って後部ガラスもすり抜け、場面・・・
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 全米ツアーの導入部。ハイウェイを画面奥にした空撮から、バスと自動車にカメラが寄って行って、自動車のフロントガラスをすり抜け、車内を通って後部ガラスもすり抜け、場面転換してコンサート会場の画面まで、まるでワンカットだったかのように見せる。 こういうの大好きだが、それでも、なんかそのスムーズさはイマイチだと思うのです。スムーズじゃないVFX。VFXで云うと、ライヴ・エイドの導入部も上空からのカメラが、ステージ上のグランドピアノの前迄ワンカットで移動したようなカットだ。また、フレディ・マーキュリーが座るピアノの椅子の脚の間をカメラが通っていく、小さなドローンを使ったと思しきカットもある。デザインは面白いと思うのだが、クオリティは今一つブレイクスルーが必要に感じた。  また、アメリカツアーの実績をコンサート場面中に都市名を叫ぶだけで処理する部分、あるいは、ワールドツアーは、画面に都市名の文字を流していくだけである、といったところは、どうにも手抜きに見える。かつてのハリウッド映画で常套だった、走る列車に新聞やポスターをオーヴァー・ラップする処理に比べても、チープな演出じゃないか。  あと、フレディの部屋の窓から、通りを挟んだ向かいのビルの上階に、メアリーの部屋(の窓)が見える場面が二度ほどあるが、この仰角で見上げる画面造型はいいと思った。逆にメアリーの窓からフレディの窓を俯瞰で見下ろす画面は出てこない。これは少々物足りないが、ある種の関係性が示されていると取ることもできるだろう。  そして、タイトル曲の扱いについて。中盤で制作過程を丁寧に描く部分は、ラストのライヴ・エイドの場面に次ぐ見せ場だと思うのだが、結局フルで聞くことができなかったのは残念に思う。尺が6分延びても、フルで通しで聞かせて欲しかった。あるいは、暗転後の「Dont Stop Me Now」と「The Show Must Go On」というのはメッセージ性という意味では落ち着きの良さを感じるが、タイトル曲を流しても良かったのではないだろうか。
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[008]結婚演出家
 黒い犬二匹Katsumi_Egi (Mail)2018-11-08
 
 映画らしい虚実を扱った作品で、わざと大げさなBGMが入ったり、現実離れしたプロットが挿入されたり、イメージ(妄想)と現実が判然としないカットが繋がれたりする、一筋・・・
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 映画らしい虚実を扱った作品で、わざと大げさなBGMが入ったり、現実離れしたプロットが挿入されたり、イメージ(妄想)と現実が判然としないカットが繋がれたりする、一筋縄では行かない作品だ。少々ワザとらしく感じる部分もあるのだが、全体に重々しくなり過ぎないよう作られており、ユーモアも漂う。  タイトルの意味は、主人公の映画監督が、中盤、ある結婚式のビデオ撮影を頼まれることを指しているのだが、その契機となるシシリーの浜辺の場面がとても美しく、かつ奇異なシーンで目を引く。主人公の前に、新郎新婦とその母と撮影クルーが登場し、クルーの中の演出家が主人公に演出のアドバイスを求める。そのアドバイスした奇妙な演出が、画面として具現化されるのだが、単なるイメージ処理なのか、現実なのか、最初は区別がつかない描き方なのだ。あと、後半は建物に備え付けられた監視カメラ映像が度々挿入されるのだが、徐々に主人公の見た目の画面が監視カメラ映像と同じような荒いモノクロ画面として挿入されるようになる、といった虚実の提示も面白い部分だ。  ラストもあっけにとられると云ったオチではないのだが、我々が今まで見てきた黒い犬二匹はいったいなんだったんだろう、いや、全編について何が真実だったんだろうと感じさせるものになっており、煙に巻かれる。しかし、このスタイリッシュさは極めてカッコいいエンディングなのである。
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[009]肉体の悪魔
 演出家の映画Katsumi_Egi (Mail)2018-11-08
 
 ベロッキオ!圧倒的な演出力の映画だ。もう冒頭から異様なテンション。屋根。画面奥に、学校の教室の窓。黒人の女性がスリップ姿で屋根に出てきて、泣きわめく。飛び降り自殺・・・
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 ベロッキオ!圧倒的な演出力の映画だ。もう冒頭から異様なテンション。屋根。画面奥に、学校の教室の窓。黒人の女性がスリップ姿で屋根に出てきて、泣きわめく。飛び降り自殺をするつもりなのか。近所の人達や教室の生徒達が窓やテラスに現れる。その中に、マルーシュカ・デートメルスが鮮烈に登場する。黒人の女性とどういう関係か分からないのだが、二人が尋常ではない強度で視線を交わすのだ。このシーン、単に主人公の高校生アンドレアが、デートメルスを一目惚れするためだけに用意されたシーンだろう。それをこれだけ突出したオープニングとして演出する。こゝからラストまで、驚きに満ちたシーンが連続する。例えば2度目の裁判所のシーン。なぜか、檻の中に沢山の収監者が閉じ込められており、その中の一組の男女がキスしている。だんだんとエスカレートする男女が引き離されようとする際に、傍聴席のデートメルスは「最後までやらせてあげて!」と叫ぶのだ。あるいは、精神科医(アンドレアの父親)の部屋。男性患者がソファに横になった後、時空をまたいで、裸のデートメルスにすり替わる唐突さ。別の場面でも、デートメルスを部屋のソファに横臥させたバストショットが異様な長回しだったり、アンドレアがロープを使って綱登りでデートメルスの部屋へ入った後のベッドシーンでも、フィクスのカットが考えられないぐらい長い、といった部分は、普通の編集ではない。その他、ナイフやフォークが沢山散らばらる床の上で、狂ったように踊るシーン。笑いながら寝ているアンドレアにハサミを持って迫るシーン。あらゆるシーンで驚きがある。何よりも、デートメルスの狂気的な美しさがラストカットまで持続する。デートメルスを見るベロッキオの(そして観客の)欲望をカメラが体現している。そういう意味で、圧倒的な「演出家の映画」なのである。
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[010]止められるか、俺たちを
 表現欲求Katsumi_Egi (Mail)2018-10-30
 
 映画ファンとしては、日本映画史の中の実在する人物や出来事への興味もあるが、ある種の映画はこのように作られる、という部分、つまり、製作現場の描写への興味、ということ・・・
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 映画ファンとしては、日本映画史の中の実在する人物や出来事への興味もあるが、ある種の映画はこのように作られる、という部分、つまり、製作現場の描写への興味、ということでも、とても面白い映画だ。  ただ、映画はすべからく(本作も当然)フィクションなのだから(例えば、高間賢治は本当にあんなかたちで童貞を捨てたのか?)、例えば撮影現場での助監督、撮影助手の待遇は、もっと厳しく描かれてもいいんじゃないかと思ってしまった。(なんだか生ぬるい)  本作も全般に夜の屋外シーンがいい。夜の街を酔っぱらって歩く門脇麦。オバケと街角で別れる場面の反復。女2人で夜の学校のプールに入る場面。こういった場面は情感たっぷりでとてもいいのだ。  さて、ラスト近くなって、門脇が仕事(というか表現欲求)と母性保護のいずれにも苦悩するようになるが、その理屈の見せ方の手際はイマイチだと私には感じられた。このような主題も古臭すぎると思うが、それは置いておくとしても、例えば母親へ電話するシーンは(電話するまでも異様に長いが)、不要ではないかと。
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[011]イコライザー2
 ゴーストタウンKatsumi_Egi (Mail)2018-10-17
 
 これも面白い、のみならず、突出した画面造型を持った活劇だが、それにしても、デンゼル・ワシントンが強い。強すぎる。  ブリュッセルでの事件と、主人公ワシントンの卑近・・・
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 これも面白い、のみならず、突出した画面造型を持った活劇だが、それにしても、デンゼル・ワシントンが強い。強すぎる。  ブリュッセルでの事件と、主人公ワシントンの卑近な世直し行為とをクロスで繋ぐ構成を、メリッサ・レオが橋渡しして、プロットが交錯するのだが、イマイチ、スカッとした繋ぎでない。例えば、ホテルの暴漢2人組みの再登場や爆殺場面なんかは、性急過ぎる。あるいは、ワシントンの隣人で画家を夢見る若い友人、アシュトン・サンダーズの造型は全般に良いと思うが、ギャングの仲間から奪還するクダリは、ちょっとやり過ぎかもしれない。前後のプロットが省略され過ぎている感覚を持つ。アシュトン・サンダーズがらみでは、ワシントンの部屋で、書棚の裏に隠れるシーンは出色だ。マジックミラーの使い方は、イーストウッドの『目撃』を想起する。  イーストウッドと云えば、クライマックスの嵐の中の浜辺の町での対決は『ペイル・ライダー』なんかを思い出させる、西部劇志向の場面設定だ。激しい風雨の道具立ても効果的だが、住民が全員避難している状況なので、無人の町、ゴーストタウンのような舞台設定をシンプルに作り出している。嵐に関しては、中盤ぐらいから、その到来についてジワジワと描き込まれるが、なかなか来ないで、クライマックスで過剰に見せてしまうという扱いもいい。  あと、ペドロ・パスカルも雰囲気のある良い役者だと思うが、やっぱり怖さが足りない。ワシントンに拮抗する要素が微塵も描かれない。 #登場する書籍は「世界と僕のあいだに」「シッダールタ」「失われた時を求めて」
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[012]MEG ザ・モンスター
 個人とチームKatsumi_Egi (Mail)2018-10-05
 
 新たな鮫映画の佳作だ。ジェイソン・ステイサムの生身のアクションが最大の見所なのだが、細かな演出的配慮も、とても良く出来ている。例えば、視線の交錯や所作の合図が何度・・・
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 新たな鮫映画の佳作だ。ジェイソン・ステイサムの生身のアクションが最大の見所なのだが、細かな演出的配慮も、とても良く出来ている。例えば、視線の交錯や所作の合図が何度も何度も出てくる。ガラス等(潜水艇の窓やプラスチック製シャーク・ケイジ)を隔てて情感を盛り上げる場面も多い。特にステイサムとリー・ビンビンと、その娘の三者間で何度もある。そもそも、これくらいの幼い子供(8歳だったか)が全編にわたって現場にいる、という設定がいい。  あと、本作は結局ステイサム一人が、良いところ、カッコいいところをさらっていく映画であることは間違いないが、一方、プロとしての個人とチームの映画でもある。例えば、仲間のために自らの命を犠牲にする、というモチーフが3度も出てくる。このあたりを胡散臭いと云ってしまえば身も蓋もないが、ステイサムただ一人が本作を背負って立っている、という印象を与えない作りになっている。あるいは、通常、もっともっと卑劣漢に描かれることの多い、部外者的な位置づけの資本家レイン・ウィルソンでさえ、真の悪党としては描かれない。研究員のリーダ的存在であるマック(クリフ・カーティス)は、何もしないようでいても存在感があるし、女性エンジニアのジャックス(ルビー・ローズ)も同様だ。さらに、前半で退場するトシ(マシ・オカ)について、後半に至っても、チーム内で複数回言及される、というのも気が利いていると私には感じられる。  (マシオカについては「日本人を軽んじている」という見方の正反対だと私は思う。この重要な役を日本人の設定にした、ということのバランス感覚を考えるべきだろう。)  尚、本作の撮影者はトム・スターンだ。やはり、屋内シーンの美しさに、感嘆した部分が多くある。例えば、ステイサムが、海洋研究所「マナ・ワン」に参加し乗り込んだ潜水艇の中で、唐突にビンビンの娘が現れ、二入で会話するシーン。こゝの色遣いは絶妙。それから、この娘が、背中に小さな羽を付けて、「マナ・ワン」の中を歩き回るシーン。
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[013]きみの鳥はうたえる
 ただいまKatsumi_Egi (Mail)2018-10-01
 
 冒頭近く、染谷将太と分かれて舗道に佇む柄本佑に、萩原聖人と石橋静河が出会う。別れ際に石橋が柄本の肘を触る。こゝから、唐突にカメラが屋内(店舗内)に入り、ウィンドウ・・・
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 冒頭近く、染谷将太と分かれて舗道に佇む柄本佑に、萩原聖人と石橋静河が出会う。別れ際に石橋が柄本の肘を触る。こゝから、唐突にカメラが屋内(店舗内)に入り、ウィンドウ越しに柄本を映すのだ。さらに、このカットの中で前進移動も入る。おゝと驚かされたが、これって、とても古い映画のようだと思う。  シノプスや道具立てについては、ヌーベルバーグの映画を彷彿とさせる。深夜の繁華街や、住宅街、誰もいない街並みの佇まい。そこを柄本と染谷、柄本と石橋らが歩く姿がとてもいい。あるいは、多くの人が指摘する通り、クラブで、3人がダンスする場面は最高だ。石橋の気持ち良さそうな笑顔を見ているのは、映画の至福だと思う。あと2倍ぐらい長くてもいいと思う。これらのシーンは照明(色遣い)の良さを特に感じる部分でもある。  また、登場人物の意思決定プロセスについて、詳細に描かれないのも良い点で、特に石橋のあらゆる行動の理由が排除されている。なぜ彼女は柄本を誘ったのか、なぜ、彼女は、すっぽかされても怒らないのか、パンをあげるのか、コンビニで支払いをするのか、染谷と二人でキャンプへ行くのか等々。推測できなくはないが、生活環境やバックボーンも全く提示されないので、本当に憶測の域を出ないのだ。映画は理由を描くものではなく、観客は(私は)理由を知るために映画を見るのではない。  あと、最初に感じた古い映画のようだ、という感覚は全編に亘って思い続けることになる。例えば肘タッチの反復のようなプロット構成の周到さ。同じように柄本が無人の部屋に入って来る際の「ただいま」と冷蔵庫の扉の反復には計算高過ぎて嫌らしさを感じた程だし、他にも、モノローグ(ナレーション)の使い方も効果抜群だ。そして、ラストの石橋のバストショットが特徴的だが、仰角気味(ローアングル)のカットが結構多く(部屋でのシーンは殆どローアングル)、構図がとても安定している部分もそうだ。古い映画のよう、というのは、ヌーベルバーグよりも、もっともっと古い映画のよう、ということで、この監督には、度量の大きさと共に職人的な才能を感じる。
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[014]アブラハム渓谷
 薔薇Katsumi_Egi (Mail)2018-09-22
 
 マノエル・ド・オリヴェイラの「ボヴァリー夫人」。本作では、主人公のエマがイポリット(原作及び映画化作品では印象的なキャラクター。足の不自由な男)のように跛行する。・・・
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 マノエル・ド・オリヴェイラの「ボヴァリー夫人」。本作では、主人公のエマがイポリット(原作及び映画化作品では印象的なキャラクター。足の不自由な男)のように跛行する。結婚相手は俗物の医師だし、友人宅でのパーティのシーンで、情人と出会いもする。残念ながら、ダンスパーティ・シーンではないが、サックスソロの「Tenderly」がかかり、情感を盛り上げる。  渓谷の建物のロングショットや家屋の外観、道、ベランダなどの空ショットで、えんえんとモノローグ(ナレーション)が入り、独特のゆったりとしたリズムを形成するのだが、何と云っても本作を楽しむ要諦は、複数人物の会話シーンでの、視線の演出とカットバック(リバースショット)のスリリングさ、あるいは、カットバックと見た目のカットの挿入の妙を味わうことだろう。  また、庭の生け垣、家の前の道、家屋の中の階段の仰角カットといったカットで、スクリーンの奥へ、まるでトンネルのような形状で動線が続いている画面が何度も出てきて、これもとても面白い、眩惑的な効果を醸し出している。  そして、もう一つ特徴的なのは、人物の正面バストショットかつカメラ目線の固定ショットの多用だ。静物や空ショットも含めて、全編に亘ってフィクスのカットばかりで、落ち着きのある格調高いムードを演出するのだが、ラスト近く、オレンジの木の下を歩くエマのカットとその見た目のカットが、信じられないぐらい滑らかなドリーの移動撮影なのだ。ドリーはこゝだけだと思う。この滑らかさは衝撃的でさえある。  さて、こゝからは備忘のようなものですが、ラスト近くで「エマは薔薇の花だ」という科白もあるし、少女時代に、赤い薔薇の花弁に指を突っ込む、というあからさまなカットもある。エピローグ前には、聾唖の洗濯女に一輪の薔薇を手渡す。というように、明確な形で、薔薇はエマの象徴として用いられる。一方、月光もエマを表しており、ベートーベンの「月光」やドビュッシーの「月の光」などがBGMとして反復される。さらにクラシック音楽の使い方で書き留めておきたいのは、エマが誘惑する、バイオリンを弾く青年は「G線上のアリア」ばかり弾くのだが(いや、これしか弾けないのかと思わせておいて)、情事後の閨房では、唐突にアルビノーニのアダージョを弾きはじめる。するとエマは「その曲は悲しくなる」と云って止めるのだ。皮肉なことに、映画のラストの音楽はこのアダージョなのである。 #アルビノーニのアダージョを使った作品ということで、記憶に残っているのは、ウェルズの『審判』と『マンチェスター・バイ・ザ・シー』。そして、私にとって決定的なのは、テレビ版の向田邦子の『あ・うん』
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[015]ボヴァリー夫人
 酩酊感Katsumi_Egi (Mail)2018-09-22
 
 シャブロル版は殆ど全てのカットで、イザベル・ユペールが映っていたのではないか、と錯覚させられるぐらいの女優映画だ。ユペールも一番綺麗な時期だろう、彼女が度々見せる・・・
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 シャブロル版は殆ど全てのカットで、イザベル・ユペールが映っていたのではないか、と錯覚させられるぐらいの女優映画だ。ユペールも一番綺麗な時期だろう、彼女が度々見せる、涙で目を潤ませる表情が美しいし、演技・演出の独創的な部分でもある。  撮影では、俯瞰ぎみの高さのカメラの視点が印象に残る。家屋から出て舗道を歩くユペールを、ドリーでとらえるカットなんかも、少し高い位置に(人間の背丈よりも上に)カメラがある感覚なのだ。また、本作もシャブロルらしく、全編に亘って、シーン終結部の余白の時間が限りなくゼロに近い、特徴的なカッティングだ。それどころか、クリストフ・マラヴォワ(ロドルフ)との逢引きを、ワンカットで表現したりするのも、信じられないぐらい短いカットだ。速いカット繋ぎは、終盤の、ユペールが金策に走る部分で、畳みかける感じとしても、よく効果が出ている。逆に性急な演出に感じられる、というデメリットもあるのだが、スリルの醸成という意味では、奏功していると思う。  尚、前半の伯爵邸での舞踏会のダンスシーンは、ハリウッド版(ヴィンセント・ミネリの1949年版)『ボヴァリー夫人』と甲乙つけがたい、と云っていいぐらいの驚愕のダンスシーンになっている。こゝでも、俯瞰ぎみのカメラポジションが特徴的で、私は眩暈を感じる一歩手前の酩酊感を味わった。  エンディングのボヴァリー夫人の変貌については、ジャン・ルノワールの1933年版の方が強烈だった。この点に関しては、残念ながら、本作のユペールもルノワール版を超えているとは云えない。
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[016]ボヴァリー夫人
 ダンスシーンKatsumi_Egi (Mail)2018-09-22
 
 ミネリ版もルノワール版同様、窓の映画だ。鏡の映画でもある。窓、鏡、ドア、階段といった装置が、絢爛たる演出で繰り出される。窓ガラスが暴力的に割られる趣向に瞠目するダ・・・
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 ミネリ版もルノワール版同様、窓の映画だ。鏡の映画でもある。窓、鏡、ドア、階段といった装置が、絢爛たる演出で繰り出される。窓ガラスが暴力的に割られる趣向に瞠目するダンスパーティのシーンと、終盤、自棄になり、拳で窓ガラスを殴る場面。あるいは、ボールルームの鏡に、きらびやかな衣装と男性たちに囲まれた姿で映ったジェニファー・ジョーンズのカットと、安ホテルのびび割れた鏡のカット、といった対比の見せ方にも唸らされる。  しかしそれにしても、本作のダンス・パーティの場面は、聞きしに勝る驚愕のダンスシーンだ。まずは、ジョーンズとルイ・ジュールダンの、ワルツでの回転運動をとらえ続けるカメラの視点に圧倒されるのだが、加えて、酩酊したヴァン・ヘフリンがダンスする人達の邪魔になる様。椅子を投げつけられ粉々になる窓ガラス。へフリンがよろけて銀盆上の沢山のグラスを床に叩きつけて割るカットといった混乱のイメージが、狂気的にこの場面を盛り上げる。初期ミネリの傑作、『若草の頃』の暴力性を思い起こさせる。  また、これもルノワール版の踏襲を志向したのではないかと思うのだが、縦構図の画面が沢山ある。人物を前後に置いたカットが多いし、人物と窓外からの視点をからめた配置、例えば、窓から外を見るジョーンズと、部屋の奥で娘と遊ぶへフリンを同一カット内に収めて窓外から映す、といったカット。このような縦構図も、あまりこれ見よがしではない、品の良いパン・フォーカスで構成されていて、違和感がない。あるいは、ジョーンズが、二階の窓から飛び降りようとするのを、へフリンが抱きしめて止めるカットでは、まるで、カメラが部屋から窓を抜けて外に出たような効果を出している、これも見事な演出だ。  尚、本作では足の不自由な下男イポリット(ハリー・モーガンが演じている)を手術する場面が、途中でへフリンが怖くなり手術を放棄する、という描き方に改変されている。また、醜い乞食は出て来ない。さらに決定的なのは、エンディングのマダム・ボヴァリーが、ほとんど醜態をさらさず、綺麗なまゝ、という点だ。このあたりは、ハリウッド映画らしいと思う。ジュールダンやへフリンがフラッシュバックのようにそれぞれワンカット挿入されるラストの演出も格調高い。
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[017]寝ても覚めても
 防潮堤Katsumi_Egi (Mail)2018-09-11
 
 まず、画面造型の特徴から思い返していくと、冒頭(大阪、中之島のシーン)は、爆竹をからめた高速度撮影のケレン味に目がいってしまうけれど、それ以上にエスカレータでの、・・・
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 まず、画面造型の特徴から思い返していくと、冒頭(大阪、中之島のシーン)は、爆竹をからめた高速度撮影のケレン味に目がいってしまうけれど、それ以上にエスカレータでの、東出昌大−麦(ばく)の背中と、唐田えりか−朝子の正面カットの切り返し、特に、唐田の正面、やゝ俯瞰のカットには唸ってしまった。なんと端正かつ力強い繋ぎだろう。唐田一人の正面カットでは、麦と決別する東北の防潮堤の場面でも再現され、こゝはさらに強いカットになっている。また、前後するが、前半で麦がパンを買いに行くと言って出ていく部分。残された皆をドリーで引きながら(後退移動しながら)映す正面カットも異様にキャッチーだ。これは、麦の「見た目」を装いながら、観客はカメラの視点(作り手の意図的な演出)であることを意識せずにはいられない、映画的な恐るべき不穏なカットなのである。  続いて視点の高低について。冒頭エスカレータのシーンも既にそうだが、高低に自覚的な演出が多々ある。オートバイ事故現場の俯瞰。渡辺大知−岡崎がベランダから、家の前で抱き合う東出と唐田を見下ろす場面。ビルの非常階段で煙草を吸う東出と瀬戸康史。階下(地上)のカフェの前の唐田の俯瞰。東北へ向かう(帰ってくる)車を映す高速道路の大俯瞰。そして、天の川(淀川の支流と紹介される。交野市辺り)の川べりを駈ける男女のロングショット。さらに面白いのは、クダンの防潮堤の場面やラストカットで示される、高所にいる人物の、正面からのカメラの視点だ。見ている最中にカメラポジションを気にする観客は少数かも知れないが、しかしそれでも、カメラの視点に、ある種の不思議さ、不安感、現実を超えるものを感じるのではないだろうか。  さて、プロットに関して云っても、タイトルの示す通り、夢と現(うつつ)についての映画であり、観客は、果たしてこれは現実なのか、不思議な感覚をずっと持ち続ける仕掛けがなされている。極めつけは麦の再登場で、こゝはとても怖い、恐怖映画のような演出だが、朝子の幻視・妄想(夢)だと思い、ホッとしていると、再々登場に唖然とさせられてしまうのだ。「高速降りた?」という科白の反復も同様の仕掛けの一つだろう。  もう一つ。本作は卓越した猫映画である。特に、後半の猫の所作表情は素晴らしい。 #備忘。猫の名前、ジンタン。
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[018]センセイ君主
 白い光Katsumi_Egi (Mail)2018-09-06
 
 浜辺美波の顔芸の映画。大したもんだ。既に『君の膵臓』の時から、これぐらいのポテンシャルは想像できたけれど、それにしても見事。見てて飽きない。もっと見たい。喩えが古・・・
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 浜辺美波の顔芸の映画。大したもんだ。既に『君の膵臓』の時から、これぐらいのポテンシャルは想像できたけれど、それにしても見事。見てて飽きない。もっと見たい。喩えが古すぎて恐縮だが、田中絹代や高峰秀子の顔芸を思わせる。竹内涼真にも一貫性があり好印象。できれば、決定的瞬間(恋に落ちる演出)が欲しいとも思ったが、そういうことはやらないのだ。それも良しとする。川栄李奈も上手い。この人、初めていいと思った。幼馴染の佐藤大樹との関係が変わらないのもいい。ラストは予定調和なのだが、これ以上ない最良の終わり方だと思う。矢本悠馬については、出番をもっと作って欲しかった。もっと見たい。しかし全部まとめて、やっぱり監督のディレクションの手柄なんだと思います。この過剰さは立派です。  ただし、新川優愛登場のコンサート場面が凡庸だったりで、全体に画面造型で驚かすような部分は希薄。相変わらず(撮影者は異なるというのに『君の膵臓』と同じような感じで)、高校内は、やたらと白い光(露光オーバーぎみ)で、この照明には飽きが来る。
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[019]追想
 小石Katsumi_Egi (Mail)2018-08-29
 
 イアン・マキューアンの原作(邦題「初夜」)は既読。と云っても10年ぐらい前に読んでおり、細部は殆ど忘却の彼方だったが、それでも初夜の顛末の面白さとエピローグの切なさ・・・
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 イアン・マキューアンの原作(邦題「初夜」)は既読。と云っても10年ぐらい前に読んでおり、細部は殆ど忘却の彼方だったが、それでも初夜の顛末の面白さとエピローグの切なさは上手く映画として演出されていると思った。ビーチの風景にサキソフォンのBGMが流れる開巻は、かなりイメージが異なり驚いたし、全体に音楽の使い方はポップ過ぎる感覚も持ったけれど、シアーシャ・ローナンは、これ以上ないと思われるぐらい、フローレンスのイメージにぴったりだ。それに、チェジル・ビーチの小石だらけの地勢の特徴が映画の画面として機能する。2人の意地の張り合いと硬化する関係の昂進を、この小石だらけのロケーションが、画面として後押ししているように思う。また、付き合い始めて間もなく、フローレンスが突然エドワード(ビリー・ハウル)を訪ねる部分が、私にとって、原作で最も清澄な印象を残した場面だったのだが、映画でも、こゝが最も撮影の綺麗なシーケンスだ。  さて、特筆すべき2つの長回しの移動撮影を記載しておこう。一つめは、前半のウィッグモア劇場での、フローレンスがアルバイトで譜面めくりをする、ピアノ演奏のカット。ピアノの周りを一周したように思うが、とても眩惑的な美しい移動ショットだ。そしてもう一つはエピローグ後のラストカット。チェジル・ビーチの場面のフラッシュバックだが、エピローグの感傷的な余韻を拭い去るような、だが、同時に倍加させもする、厳しく突き放した演出で秀逸。
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[020]カメラを止めるな!
 血糊Katsumi_Egi (Mail)2018-08-23
 【ネタバレ注意】
 「撮影現場の創意の映画」のように見えて、私には完全に「プリプロダクションの映画」だと思える。もう少し丁寧に書くと、撮影現場での創造性はあまり伝わらず、撮影前の設計・・・
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 「撮影現場の創意の映画」のように見えて、私には完全に「プリプロダクションの映画」だと思える。もう少し丁寧に書くと、撮影現場での創造性はあまり伝わらず、撮影前の設計段階で面白さが決まってしまっていると思える、創造性という意味での豊かさが、ごく限定的にしか感じられない映画ということだ。  もしかしたら、前半のワンカット映画撮影時における予期せぬアクシデントを、後半の撮影現場の中で、展開の変更や伏線回収として臨機応変に対応しているのかも知れないが、そうだとしても、完成した映画を見る限り、シナリオ段階でデザインした理屈の回収に終始する映画だという印象は免れない。  例えば、前半の映画の中で、血糊がカメラのレンズに付着し、カメラマンが布で拭く、という部分があるが、私は見ながら、アルフォンソ・キュアロンの『トゥモロー・ワールド』の「批評」になっていると思い、この部分は異様に昂奮した。(『トゥモロー・ワールド』では、血糊はコンピュータ処理で消されたと思われる)。さらに、この部分も、後半になって伏線として回収されるのだろうと思ってワクワクしていたのだが、結局、後半でこの部分は再現されなかったのだ。この例だけで云うと、前半の撮影現場のアクシデントが、後半で活かされている、と云うことはできないのである。  さて、そもそも中盤以降の、プロットが1カ月前に溯ってからは、画面が安手のテレビドラマかバラエティ番組の再現ドラマ映像レベルのクオリティになる。低予算でも、もっともっと充実した画面の映画は数多ある。私が見たいのは、このようなレベルの画面ではない。  ただし、登場人物のキャラクタリゼーションと見せ場のバランスは見事だ。中でも、母親(監督の妻)の非現実なキャラの増長ぶりがいい。このような、ぶっ飛んだ造型がもっとあれば、さらに良かったと思う。
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[021]ウインド・リバー
 羊たちKatsumi_Egi (Mail)2018-08-02
 【ネタバレ注意】
 息子に馬の扱いを教える(かつ、馬が息子に馴れるように調教する)という感動的な場面を持つ、雪のワイオミングを舞台にした現代西部劇。しかし、西部劇的意匠以上に、『羊た・・・
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 息子に馬の扱いを教える(かつ、馬が息子に馴れるように調教する)という感動的な場面を持つ、雪のワイオミングを舞台にした現代西部劇。しかし、西部劇的意匠以上に、『羊たちの沈黙』の後裔であるという感覚が強い。ずばり、羊の群れの場面から始まるのだ。  主人公はあくまでもハンターのジェレミー・レナーであり、基本的にはレナーの過去の出来事を絡めながら、彼のプロとしての振る舞いでプロットを牽引する。一方、若い女性のFBI捜査官として、エリザベス・オルセンが登場し、彼女の成長がもうひとつの焦点となるのだが、単に、まだ未成熟な女性FBI捜査官という意味で、ジョディ・フォスターを継承しているというだけでなく、本作の演出的な最大の見せ場が『羊たちの沈黙』でジョナサン・デミが行った時空の「すり替え」の継承なのだ。それもあからさまに、ドアのノックというアクション、ドアの内外という異空間を起点にするところまで同じであり、模倣じゃないかとも思われるが、本作では、全編で唯一こゝだけがフラッシュバックで繋がれる処理ということもあって、その演出効果の鮮やかさにおいて、甲乙つけがたい出来だと思うのだ。  さて、このトレーラーハウスのドアを挟んだ銃撃戦シーンの演出についても銘記しておくべきだろう。オフからの2つの銃撃が見事だ。初っ端の、ドアの向こうから、オルセンが撃たれる部分と、トレーラーの外部にいるレナーが、内部へ撃ちこみ、敵が吹っ飛ばされるカットを指している。簡潔かつスピード感溢れる巧い演出だと思う。  尚、エピローグでレナーのネイティブの友人が「死の化粧」をしており、「教えてくれる人がいなかったから、見よう見まねでやった」というような科白があるのだが、これは複雑な情感をもたらす科白で唸った。このエピローグもとてもいい。
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[022]パンク侍、斬られて候
 念動力Katsumi_Egi (Mail)2018-07-21
 
 冒頭の街道の場面での、綾野剛と近藤公園のフルショットでのシネスコの使い方も良いと思うが、それ以上に、中盤までの屋内での画面造型とカッティングが面白い。例えば、豊川・・・
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 冒頭の街道の場面での、綾野剛と近藤公園のフルショットでのシネスコの使い方も良いと思うが、それ以上に、中盤までの屋内での画面造型とカッティングが面白い。例えば、豊川悦司と綾野のシーンの、2ショットでのカット割り。或いは屋内望遠カットの圧縮感も。しかし、豊川は絶好調だ。國村隼の台詞回しもあらためて上手いと感じる。染谷将太もコメディパートとしては良い役で、この人が一番笑わせる。結局、中盤あたりまでは、そのぶっ飛び加減がかなり面白い映画だ。おおよそ、茶山−浅野忠信(登場のインパクト!)が出てくるあたりまで、或いは、ナレーションがデウスという名の猿だった、ということが分かる辺りまでか。デウス登場の際、目のアップで、これは間違いなく永瀬正敏の目だ、と分かる見せ方も(メイク含めて)とてもいい。  ただし、後半のカオスの表現はもっと効果的な見せ方があるんじゃなかろうか。デジタル処理は安っぽい。あと、北川景子の登場シーンの照明は、イマイチ。なんか黄色っぽい画面が嫌だ。また、北川への寄り過ぎの構図が目立つ。ダンスが変なのはいいが、この人だけ肌の露出度が低い、というのはどうだろうか。  その他、杓子定規な殿様・東出昌大、北川に惚れる密偵・渋川清彦、念動力を使う若葉竜也含めてキャラクターの描き分けと、きちんと見せ場を用意する演出は、大したものだと思う。
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[023]ジュラシック・ワールド/炎の王国
 エレベータKatsumi_Egi (Mail)2018-07-21
 【ネタバレ注意】
 これはシリーズ中でもかなり面白い、良く出来た活劇。殆ど弛緩することなく、驚くべきアクション場面が繰り出される。  冒頭は真っ暗な水中。光のカットがあり、海底探査艇・・・
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 これはシリーズ中でもかなり面白い、良く出来た活劇。殆ど弛緩することなく、驚くべきアクション場面が繰り出される。  冒頭は真っ暗な水中。光のカットがあり、海底探査艇が現れる。海の中の門が開き、前作で海に沈んだインドミナス・レックスの骨の一部が採取される。この後のアクションで、まず度肝を抜かれるのだが、同時に海中の水門が印象付けられるのだ。そして、続くブライス・ダラス・ハワードの登場はエレベータで、扉に挟まれそうになる演出だ。というように、全編に亘って、左右、上下のスライド開閉扉のモチーフが沢山出てくる。ラプトルの檻の扉は前作でも印象深い使われ方だったが、死活の境界線としての、ドアを使ったスリル創出が本作の肝だろう。本作では、恐竜の檻の扉だけでなく、島のシーンでは、あの丸い乗り物(ジャイロスフィア)のドアを絡めた場面も指摘できる。或いは、後半の邸宅の中の部屋にある荷物用の小さなエレベータだとか。  そして本作で新たに登場する怪物は、前作のインドミナス・レックスをさらに凶暴狡猾にしたインドラプトルというハイブリッド恐竜で、体が小さめなので、敏捷性も増しており、屋内のアクションシーンで上手く機能するようにできている。足の爪を床に打ち付けてリズムを取る音が不気味な効果を発揮する。ヴェロキ・ラプトルの生き残り、ブルーとの対決がクライマックスだが、その帰結は、第一作(『ジュラシック・パーク』)のラストを思い出させる、標本展示を使った演出だ。(さらに『ダーティハリー4』も想起させる)  エンディングは、かなり放りっぱなしの感があり、好悪が分かれるところだと思うけれど、これはこれで良いと思う。この続きは無い方が良いと思う。
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[024]女と男の観覧車
 日照り雨Katsumi_Egi (Mail)2018-07-14
 
 劇作家志望の海水浴場監視員ジャスティン・ティンバーレイク=ミッキーによるカメラ目線・モノローグの進行は相変わらず鬱陶しくて、好きになれないのだが、ヴィットリオ・ス・・・
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 劇作家志望の海水浴場監視員ジャスティン・ティンバーレイク=ミッキーによるカメラ目線・モノローグの進行は相変わらず鬱陶しくて、好きになれないのだが、ヴィットリオ・ストラーロの超絶照明には驚愕する。  遊園地のネオンサイン等電飾の光の氾濫が、多くのシーンで短い時間間隔の中での照明変化を納得させる理屈になっているのだが、車の中の、ミッキーとジュノー・テンプル=キャロライナのシーンでは、車外は夕立だが、徐々に日がさして日照り雨になっていく。それを車中の窓越しの光で表現する光の扱いには驚く。  クライマックスは、ラスト近くの、ティンバーレイクがケイト・ウィンスレットの家を訪ねて来てからの、二人のやりとりのシーンだろう。ウィンスレットのモンロー風のドレスの下からベージュの下着がはみ出している風情が常軌を逸した感覚を上手く醸成しているし、二人のオーバーアクトもまあ見応えがあるのだが、多分ステディカムなのだろう、二人を追いかけるシーケンスショットの画面は、多くは寄り過ぎ(もうちょっと引いてほしいと思うレベルのアップ)でフィクスになる。当然カメラオペレーションはストラーロじゃないし、真実は分からないのだが、このシーケンスショットの構図の選択は、アレンのもの(ディレクション)だろうと思うと、矢張り、ストラーロだけでは、映画足りえない、と思えてしまう。同じような演劇的な場面の演出であれば、まだアルトマンの方が映画だ。  また、焚火・火遊び好きの息子の扱いについては絶妙だ。この子の存在は『ラジオ・デイズ』を思い出させるし、ティンバーレイク以上に、アレンの分身として存在していると思える。そう考えれば、ラスト、ラストカットでも突き放して終わるエンディングは、主要登場人物全員を突き放しているにとどまらず、アレンが自分自身を突き放しているということだろう。 #冒頭から、ジュノー・テンプルの登場と歩行シーンは、『悲しみは空の彼方に』を思い出さずにいられない。
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[025]ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー
 拳銃さばきKatsumi_Egi (Mail)2018-07-14
 
 雪の西部劇であり、砂浜の(海の見える)西部劇。予告編を見た時から、他ならぬロン・ハワードの西部劇なのだから、悪くなろうはずもないと確信したが、期待に違わぬ出来栄え・・・
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 雪の西部劇であり、砂浜の(海の見える)西部劇。予告編を見た時から、他ならぬロン・ハワードの西部劇なのだから、悪くなろうはずもないと確信したが、期待に違わぬ出来栄えだ。  まずは、光に対しての自覚的な演出に引かれる。巻頭は黒画面にスパーク。続くシーケンスは、夜でずっとローキーだ。ソロ=アルデン・エーレンライクもヒロインのキーラ=エミリア・クラークも顔がよく見えないレベル。しかし、ウォームの女王に尋問されるシーンで、ソロが石を壁に投げ、いきなり光が射し込むのだ。この光の扱い良し。  その後のカーチェイスもまずまずの出来だが、戦場のシーンで、ウディ・ハレルソンとタンディ・ニュートンが登場してからの前半部が矢張り良く出来ている。チューバッカとの出会いを経て、列車強盗にいたる、雪の西部劇のシーケンスが白眉だろう。(ただし、このシーケンスの最後に、ハレルソンに「殴って悪かった」等と云せてしまうロングショットは、ロン・ハワードらしい甘さを感じる)  中盤はスペースオペラらしい宇宙活劇部分も盛り込まれるが、ドロイドL3にまつわる部分は、私には理に落ちた感がし、少々興醒めだ。惑星ケッセルからの脱出行で、ミレニアム・ファルコン号の操縦席のソロの横に、チューバッカが座るシーンには感激したが。  そして、舞台が海岸のある砂丘、コアキシウム精製施設のある星に移ってからが盛り返す。何と云っても、この場面の風がいい。このような画面の触感を楽しむことが映画を見る快感だ。まるで、アメリカ先住民(インディアン)のような人々。盗賊エンフィス・ネストが忽然と再登場するカットも怖さが良く出ている。  ラストの決闘シーンは、その簡潔さが良いのだが、ただ、こゝはもうちょっと派手に演出しても良かった。しかし、ホルスターから抜いて撃つ、という定番の銃の早撃ちを演出しなかったのは、考えた上での判断なのだろう。思い起こしてみると、ハン・ソロは、惑星タトゥイーンのモス・アイズリーの酒場で登場した際、ホークス『脱出』のハンフリー・ボガートや、フォード『シャイアン』のジェームズ・スチュワートのように、テーブルの下から相手を撃つ、という、ある意味卑怯だが、早撃ちの決闘とは対極の、実利的な(そしてある種アイロニカルな)演出がほどこされていたわけで(この際、どちらが先に撃ったのか、という事柄は置いておくとして)、早撃ちの拳銃さばきの見せ場は、ジャンゴ・フェットの特権なのかも知れない。いずれ、そのクローンである、ボバ・フェットが見せてくれることを期待したい。  或いは、本作のハレルソンは、戦場での登場シーンで見事な銃さばきを見せるだけに、ラストの決闘シーンでも期待をさせるのだが、矢張り現代西部劇としての慎ましさを示した演出なのだ。リー・マーヴィンもジョン・ウェインも死んでしまった後の西部劇なのだから。 #西部劇は1976年に『ラスト・シューティスト』で息の根を止められたが、その2年前に、『スパイクス・ギャング』によって瀕死の重傷を負わされている。リチャード・フライシャーとドン・シーゲルによる西部劇の葬儀。その両方に立ち会ったのが、他ならぬロン・ハワードなのだ。
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[026]犬ヶ島
 正面カットKatsumi_Egi (Mail)2018-07-08
 
 墜落する一人乗り機、ゴンドラ、カゴ等の宙吊りのモチーフ。これらを含めて極めてアナログ的な、面倒臭そうな仕組みが尊重される世界観が面白い。あるいは、犬もアタリも、い・・・
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 墜落する一人乗り機、ゴンドラ、カゴ等の宙吊りのモチーフ。これらを含めて極めてアナログ的な、面倒臭そうな仕組みが尊重される世界観が面白い。あるいは、犬もアタリも、いちいち目に涙を溜める描写が強調され挿入される細部も、人間臭い、心の通ったキャラクタリゼーションを印象付ける。  ケンカ、乱闘の表現が白い土ぼこりの反復で簡潔に描かれる演出はどうだろう。リアルに描き込むのは難しいことは分かるのだが、こゝだけ漫画的過ぎて違和感はある。  複数構成員による活劇であるという点とテーマ曲の流用という部分で、どうしても『七人の侍』へのオマージュを思ってしまうし、全編に亘る、正面から正面への切り返しは小津を想起させる。「竜来軒」の看板も小津っぽい。ただし、正面カットは小津以上に正面、というか真正面であり、ローアングルと人物の視線の危うさでハードボイルド性を獲得する小津の画面の特質とは似て非なるものだ。小津のローアングル+正面ショットの切り返しは、いつまでも、何度見ても、キャッチーで慣れることが難しいのだが、本作の正面カットの連続は、これが案外慣れてしまうし、違和感を覚えなくなる。という意味でも、小津へのオマージュというよりは、あくまでもウェス・アンダーソンがやりたいことをやった画面と云うべきだろう。『ファンタスティック Mr.FOX』の延長線上なのだ。
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[027]ファントム・スレッド
 自動車Katsumi_Egi (Mail)2018-06-23
 
 単純に本作の舞台であるオートクチュールの世界の華やかさ、その絢爛たるスペクタキュラーだけでも見応えがある。特に、最初の顧客の描写、公爵夫人ヘンリエッタの場面で既に・・・
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 単純に本作の舞台であるオートクチュールの世界の華やかさ、その絢爛たるスペクタキュラーだけでも見応えがある。特に、最初の顧客の描写、公爵夫人ヘンリエッタの場面で既に圧倒される。  しかし、あゝ本作も、階段の映画であり、ドアの映画だ。それは勿論、端的にはダニエル・デイ=ルイスの居所兼仕事場にある階段の描き方、雇い人の女性達(パターンナーやお針子達)を行き来させる、圧倒的な画面の面白さを指しているし、各部屋のドアの、境界線としての意味づけ、人(亡霊も!)を中に入れるかどうかといった峻別を厳格に意識させる演出を指していたりする。  さらに、人物の視点の高低の描き方について云えば、階段を使ったシーンだけでなく、アルマ−ヴィッキー・クリープスを、箱の上(云わば小さな即席の階段)に乗せて、服を着せたり、採寸したりする別荘のシーンが出色の出来だ。この演出のねちっこさにはゾクゾクする。  また、ダニエル・デイ=ルイスが運転する自動車(ブリストル40)のカットが悉くスリリングで、これもある種の異常な空間造型と云えるだろう。既に最初に別荘へ向かう車を後部から撮ったカットが尋常じゃないし、アルマを迎えに来る夜の場面の、Uターンのカットもそう。これら、自動車という装置の暴力性の強調は、ダニエル・デイ=ルイスの性格付けへ寄与にするにとどまらず、異空間の造型として強烈に機能する。  このような、階段やドアや自動車といった装置の演出は、エンディングに向かって、二人の異様な関係性を深化させる、その感情を組織する。キノコのオムレツを食べさせる場面の二人の視線の演出が、直截的にスリルを感じさせる分かりやすいクライマックスの演出ではあるのだが、階段やドアや自動車も、ラストに向かって2人の関係性を収斂させる重要な要素なのだ。  尚、ダニエル・デイ=ルイスの姉シリルを演じるレスリー・マンヴィルが流石にオスカーノミニーも納得の存在感だ。その冷たさと厳しさ、そして秘めたる優しさも滲み出る、凛とした佇まいが美しい。
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[028]レディ・バード
 旅立ちKatsumi_Egi (Mail)2018-06-17
 
 冒頭、車の中で「怒りの葡萄」の朗読を聞いて涙する母と娘。直後の顛末の見せ方、そのスピード感にうなる。ラストも車を運転する場面のフラッシュバックがあり、母への想い、・・・
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 冒頭、車の中で「怒りの葡萄」の朗読を聞いて涙する母と娘。直後の顛末の見せ方、そのスピード感にうなる。ラストも車を運転する場面のフラッシュバックがあり、母への想い、わが町サクラメントへの想いが語られるので、全体に本作は自動車の映画であり、母娘の映画であり、サクラメントという町についての映画だったという心象が強く残る。  悪い癖で「これは〜の映画だ」などと、ついついレッテル貼りをしてしまうのだが、勿論、一本の映画には多くの側面や切り口が見い出せるわけで、レッテル貼りは、感想をまとめる上での単なる方便に過ぎないです。本作も、一方で、シアーシャ・ローナンのロスト・バージンを主軸にしたプロットで構成されており、前半はルーカス・ヘッジズ、中盤以降はティモテ・シャラメとの恋愛譚として括るべきでしょう。あるいは父親や兄とその恋人を含めた家族の物語だし、何よりも、カトリック系の高校を舞台とする学園モノと云うべきかも知れない。学生演劇でやるミュージカル場面(練習風景含めて)がとても楽しい。  しかし、それでも、矢張り、これが母娘の映画だと考えたくなるのは、ヘッジスやシャラメの扱いが中途半端である、という理由もあるのだが、例えば、本作のクライマックスは、後半の空港のシーンだと思うからです。この空港の場面は全く普通じゃない。主人公のローナンを捉える視点は早々に捨て去られ、別れの場面も旅立ちの場面も割愛されるのだ。代わりに映されるのは、車を運転する母親・ローリー・メトカーフとその悲痛な表情で、私はこの構成・演出を思い出すと、今でも涙がこみ上げて来る。素直にグレタ・ガーウィグの才能を称賛したいと思う。  さて、2002年から2003年を時代背景とする映画だが、画面の肌触りは全編に亘ってザラザラしており、1970年代のフィルムの触感がある。斜光や太陽光の取り込み、といった特徴も、その感を強くさせる。この撮影も本作の題材によくマッチしており、ポイントを上げる。IMDbのTriviaによると、ガーウィグは、当初16ミリでの撮影を希望したが断念したとのことで(デジタル撮影後、ノイズを強調したらしい)、こういったこだわりも映画作家として好ましいと思う。今後に期待大だ。
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[029]万引き家族
 選ぶKatsumi_Egi (Mail)2018-06-14
 
 小さな庭と縁側のある住居の美術装置と、黄色っぽい照明(フィルターワークか?)の醸し出す危うい感覚は面白いのだが、前半は人物の動きが平板で、映画が走り出さず、若干い・・・
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 小さな庭と縁側のある住居の美術装置と、黄色っぽい照明(フィルターワークか?)の醸し出す危うい感覚は面白いのだが、前半は人物の動きが平板で、映画が走り出さず、若干いらいらしながら見た。やっぱり賞取り映画らしい刺激の無さかと思いきや、しかし中盤からは、良くなる。特に、夏になって、祥太とリン(ユリ、ジュリ)の蝉採りが描かれるあたりから、この2人が出てくると、ホッとさせられる。また、夏のシーンでは、海水浴の場面も印象深いが、ソーメンと通り雨のシーンや、音しか聞こえない隅田川の打ち上げ花火を皆で見る縁側の場面など、良いシーンが目白押しだ。リリー・フランキーと安藤サクラがソーメンを食べるシーンは、ソーメンの鉢を2人でつついている、ということ自体がもう暗喩だが、安藤の振る舞いと、そのカッティングは絶品。また、花火を皆で見る縁側の場面では、いったん、俯瞰で全員を捉えた後、さらにカットを換えて、大俯瞰(ビル屋上レベル)になる。この視点移動は本作中白眉だろう。印象的な大俯瞰は、前半にも、スイミーとマグロの話をする祥太と治(フランキー)の場面で使われており、いずれも夜のカットである、という点は、撮影現場の苦労が思われる。  結局、リンは振り出しに戻ったかのようにも思えるが、ラストの視線の表すものを考えるなら、彼女の成長は明らかだと私は感じる。リンという名前を自分で選んだシーンは、その決然たる反応に驚いたが、他の登場人物も皆、自分で選ぶ、選んだ、というモチーフが、ラストまで一貫して描かれており、そういう意味で、本作は、曖昧ではあるが、力強さを感じる、ある種のハッピーエンディングと云っていいだろう。  些末過ぎて、どうでもいいと思われる話かも知れないが、本作中、3回フェードアウトがある。1回目は、上に書いたスイミーとマグロの話をする2人の大俯瞰カット。2回目は縁側でリンを抱きしめる安藤サクラのカット。3回目は、ラスト近く、空き家になった家に戻って来た松岡茉優のカット。私はこれら3つとも、フェードアウトは不要と思う。こゝで場面転換に変化をつけたい、という編集者の生理をある程度納得するものの、映画の流れを途切れさせる、コブのようにひっかかりが残ると感じるのだ。
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[030]ベストフレンズ
 魔法Katsumi_Egi (Mail)2018-06-09
 
 ジョージ・キューカーの遺作も、遺作ベストテンを選ぶとしたら入れたくなるぐらいの見事な映画だ。まずは冒頭の冬のカレッジのシーン。雪の舞う様が独創的だし、駅のホームで・・・
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 ジョージ・キューカーの遺作も、遺作ベストテンを選ぶとしたら入れたくなるぐらいの見事な映画だ。まずは冒頭の冬のカレッジのシーン。雪の舞う様が独創的だし、駅のホームでの別れの場面の、傾いた列車のカットが、何度切り返しても、きちんと傾いており、一貫性のある画面に見えるなんてところで、もう魔法を見たように感動してしまう。こゝからラストの暖炉を前にしたカットまで、ため息がでるような美しい画面の連続、素晴らしく安定した王道のリバースショットとカッティング・イン・アクションの連続なのだ。  ジャクリーン・ビセットとキャンディス・バーゲンの2人ヒロイン。2人とも当時30代半ばで、とても美しい。邦題はこの二人の間柄を表していて、ほゞ同等に見せ場もあるのだが、プロットの主軸は、あくまでもビセットだ。彼女の、多くの場面で毅然としているのに、一方で性に対して奔放、という造型は、このキャラクターを複雑なものとし、同時に映画の娯楽性を上げており、私は映画的に好ましい措置だと思う。まず前半の、旅客機のトイレでの情交シーンが、常軌を逸した愉快なシーンになっており、こゝだけでも素晴らしい。旅客機の着陸態勢、車輪を機体から出す様子等やランディングの描写とのクロスカッティングが、意味不明の(というか問答無用の)メタファーになっている。なんと若々しい演出!しかも堂々たる安定したカッティングなのだ。  さて、ビセットを中心に書いてしまったが、バーゲンのとびっきりの見せ場も上げておこう。それはラスト近くの全米作家賞受賞パーティの場面で、暗い部屋に一人たたずむ彼女のカットだろう。このカットの美しさには惚れ惚れする。そして、キューカーのラストのラストも、本当に感動的な、もうこれしかない、というラストカット。さらに付け加えれば、ジョルジュ・ドルリューの音楽も美しい。あゝ映画の至福。 #備忘 ・メグ・ライアンがバーゲンの娘の役で本作がデビュー。まだまだ演技は拙い。 ・都合3回のパーティシーンがあるのだが、それぞれのパーティに多くの作家や映画人が顔を見せているよう。ラストクレジットには、クリストファー・イシャーウッドだとか、ロジェ・バディム、キャンディス・バーゲンの母親のフランセス・バーゲン、ランダル・クレイザー、ポール・モリセイ、ニナ・フォックなんて名前が見える。NYでのプロモーションのためのパーティの場面で、レイ・ブラッドベリがいるのは私にも分かった。
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