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 「Katsumi_Egi」さんのコメント一覧 登録数(1473件)rss
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[001]岬の兄妹
 海の匂いKatsumi_Egi (Mail)2019-03-23
 
 冒頭から第一感、ずいぶんと紋切型の表現が続くな、と思ったが、確かに全編に亘って、特に新しさを志向することなく、王道のスペクタクルを目指しているように感じられた。 ・・・
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 冒頭から第一感、ずいぶんと紋切型の表現が続くな、と思ったが、確かに全編に亘って、特に新しさを志向することなく、王道のスペクタクルを目指しているように感じられた。 南京錠とドアのカットから始まる手持ちのシェイキーな移動撮影。クレジットバックはきちんと構図を意識した堤防のカットで、監督名のインポーズ時にカモメを出現させる。そして、タイトル文字が赤文字でデカデカと出る。よく考えられているが、古めかしくもある。  古めかしいというか、王道、ということで云うと、題材からの要請という面はあるが、ドアと窓がいっぱい使われている。上に書いた、ファーストカットが既にそうだが、ドアや窓を挟んだ2つの空間が、抜き差しならない異空間である、という演出がいっぱいあるのだ。例えば、兄妹の居所のドアや窓で云うと、取り立て屋や電力会社の訪問者の場面もそうだが、特に、妹・和田光沙の初仕事(二人組のヤクザとのシーン)の後、マクドで買ってきたものを食べまくる部分に続いて、兄・松浦祐也が、なんだか開き直って、窓に貼っていた段ボールを外し、外光を入れる場面なんて象徴的だと思う。  あるいは、訪問先の家・部屋(トラックも)の戸やドアはことごとく、兄が入ることのできない境界線となるのだが、高校のプール横の、更衣室(?)の場面で使われる窓外からのカット(すりガラスの向こうで手をつくのが見えるカット)なんかも見事だ。  そして、馴染みになり、度々呼ばれる中村祐太郎の部屋だけが、妹を連れ帰えるために、兄が侵入することを許されるのだが(というか、侵入せざるをえない状況となりドキドキするのだが)、だからこそ、ラスト近くでの、この部屋のドアと窓の扱いが余計に感慨深く思われる。  ただし、違和感のある演出もいくつかある。例えば、二人組のヤクザとのホテルのシーン(『時計じかけのオレンジ』みたい)で使われるズーミング(わざとらしいズームは全編でこゝだけだが)。高校のプールの場面は、その導入部からして既に汚らしい画面でイヤ。(でも、だから余計に「海の匂い」のクダリの清涼感との落差が際立つけれど。)あるいは、高校のプールの場面もそうなのだが、花を持って道を歩くお爺さんのカットが唐突に挿入される、だとか、後半、車を運転する造船所の社長(?)のカットがいきなり繋がれる、といったシーン繋ぎも、この監督の好みなんだろうが、好悪が分かれるところだろう。いずれにしても、とても自覚的によく考えられていることは確かだし、力強い造型であることも間違いない。 #私は「チェンジいや」が一番クスリとさせられた。
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[002]運び屋
 リンカーン・マークLTKatsumi_Egi (Mail)2019-03-16
 
 彼が演者として映っているだけで映画らしくなる、というような簡単なものではないと分かってはいるのだが、それにしても、例えば近作5作のパワーダウンを完全に払拭する。ど・・・
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 彼が演者として映っているだけで映画らしくなる、というような簡単なものではないと分かってはいるのだが、それにしても、例えば近作5作のパワーダウンを完全に払拭する。どうしてこうも違うものなのか。  しかし、カメラの視野の中にいながら現場をコントロールしていると感じられるのは、我々としても、見ていてとても安心でき、画面も安定して感じられる。ハロー効果的な認知バイアスであることも確かだろう。こゝ数本のように、「本当は、彼は現場にはいないんじゃないか」と不安に感じることは、少なくもないのだ。  それに、彼が出演することで、彼らしい老いの映画であり、老若男女、国籍人種を超えたチームワークと、「コミュニケーションと共感」の映画であることが際立つ効果も大きいと云えるだろう。  さて、少し具体的な演出の例を挙げると、まず、冒頭の彼のそっけない登場(デイリリーの温室のシーン)が、シーゲルぽくってとてもいい。こゝで既に復調を感じさせる。この後、あっという間に、唐突に18年後に飛ぶという潔い繋ぎもそう。あるいは、ハイウェイの撮り方は、道からティルトして車(おんぼろのフォード・ピックアップトラック及びリンカーン・マークLT)を映すか、空撮が導入部となる。これを何度も繰り返す。このあたりの「いい加減さ」も、鼻歌や替え歌のハミングと相まって、飄々としたキャラクター造型と、超然とした、諦観の境地を体現・定着する効果に繋がっている。  また、孫娘から元妻ダイアン・ウィーストが倒れたと連絡があり、駈けつけてからのシーンで見せる彼の顔がとてもいい。ベッドのウィーストと、かたわらで座っているイーストウッドの切り返し。このシーンが良いのは、ウィーストとの関係性の描写とともに、運び屋のスケジュールを大幅に逸脱する、という状況のハラハラ感と、図太い演出にゾクゾクするという部分も大きい。あるいは、メキシコに招待されたパーティ場面の演出が非常に若々しく、前作(『15時17分、パリ行き』)のアムステルダムのシーンを思い出させたのだが、これを見ると、彼の演出がまだまだ枯れていないことを納得し、とても嬉しくなった。そしてクライマックスでは、ブラッドリー・クーパーやマイケル・ペーニャが乗る救急車と、上空のヘリコプターを同一のフレームに収めたカットをきっちり決めてきて、「おゝやってくれるやん」と思ていると、さらに、リンカーン・マークLTとヘリコプターを同時に映したカットを繰り出してくるのだ。この連打は満足度が高い。  全体に、あまりに集大成的に良く出来ていて、これが遺作になるのではないかと心配になってしまう感覚もあるのだが、本作の若々しい演出を見る限り、まだまだ期待できるのではないかと思う。そう思いたい。
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[003]アリータ:バトル・エンジェル
 拡張身体Katsumi_Egi (Mail)2019-03-10
 
 26世紀の夜の舗道も濡れている。これはいい。26世紀のこの街も『ブレード・ランナー』のLAのようだ。これはどうだろう。都合のいい展開はいいが、ラッキー続きがつまらない・・・
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 26世紀の夜の舗道も濡れている。これはいい。26世紀のこの街も『ブレード・ランナー』のLAのようだ。これはどうだろう。都合のいい展開はいいが、ラッキー続きがつまらない。町の外の湖に沈んだ宇宙船の中から、拡張身体を持ってくるあたりで、度が過ぎると思えて来る。  全体、アクションにはキレがある。でも飽きて来る。主人公アリータの造型が雑過ぎるのもその一因だ。バックグラウンドや性格付けも雑だが、コンピュータ処理での整形は、複数の意味で愚行だと思う。彼女だけ、ストップモーションアニメーションのようで(誇張してるけど)、死活のスリルだとか、身体能力の驚きだとかが減衰する。あるいは、映画界(及び映画ファン)にとって、新たなアクション女優を発見する楽しみを奪っている。  世界観全体も、キャラクターも、薄っぺらい。ジェニファー・コネリーのガーターベルト姿を見ることができたのは救い。
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[004]ビール・ストリートの恋人たち
 アクリル板Katsumi_Egi (Mail)2019-02-25
 
 葉が黄色く紅葉した木の枝。その下の公園の道を二人(ティッシュとファニー)が歩いて来る俯瞰。まずこのファーストカットで心つかまれる。黄色と青の衣装。この後、ずっと特・・・
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 葉が黄色く紅葉した木の枝。その下の公園の道を二人(ティッシュとファニー)が歩いて来る俯瞰。まずこのファーストカットで心つかまれる。黄色と青の衣装。この後、ずっと特徴的に使われる色遣いだ。特に全編黄色が氾濫する。ティッシュの上着やカーディガン、ファニーのシャツ。ファニーの母親も黄色のスーツで登場する。やゝ節操がない、とも思えてくるぐらいだ(多分、記号的な意味合いはないと思われる)。全体、みんな衣装がお洒落過ぎて、ファンタジーに過ぎる、と感じられないだろうか(非現実的過ぎて反感を買うというようなことがないのだろうか)、といぶかってしまう。しかしだからこそ、映画的だ、とも思う。  あるいは、淡い色調は家屋の内装なんかでも効果を発揮する。例えば、ティッシュの家の壁に、くっつけたテーブルがカフェのそれようなのだ。淡いリーフ柄の壁紙。壁面設置の小さなランプ。電球色の光。なんて可愛いのだろう。  また、本作の画面作りで最も胸を打たれたのは、矢張り、面会シーンでの、アクリル板(接見室の仕切りの透明板)の主観ショットだ(これは言葉のアヤ)。つまり、アクリル板の位置にカメラを置いて、正面バストショットで切り返してる。面会場面は何度もあるが、アクリル板が画面に映り、それを意識させるカットは、ほんの少しだけしかない。「二人を仕切るもの」を意識させない演出の選択なのだ。
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[005]ラブレス
 パラボラアンテナKatsumi_Egi (Mail)2019-02-11
 
 これも恐るべき傑作。この厳しい作劇は、キャラクターに対して、と云うよりも、観客に対する厳しさだ。また、カメラの移動と寄り引きが相変わらず見事で一瞬もテンションが弛・・・
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 これも恐るべき傑作。この厳しい作劇は、キャラクターに対して、と云うよりも、観客に対する厳しさだ。また、カメラの移動と寄り引きが相変わらず見事で一瞬もテンションが弛緩しない。度々窓が映り、窓から見える風景やしんしんと降る雪、ガラス面の結露といった画面が、冷厳なプロットとフィルムの触感を整合させていく。また、窓外からの視点(窓外へ置いたカメラから撮影された画面)も多くあり驚かされる。いずれも建物の上階の窓外の視点なのだ。この視点転換も、冷徹にキャラクターを突き放す効果があり、ボディーブローのように観客に響く。  本作は前作からまた打って変わって、モスクワの高級マンションに暮らす富裕層を描いているのだが、背景として、森や木立、川辺といった自然のロケーションも上手く取り入れられる。のみならず、森の中の廃墟や、立ち入り禁止地区にある大きなパラボラアンテナといった構造物のスペクタキュラーもこの監督らしい。巨大で無機質な構造物が、人間の無力さを際立たせる、といったことも云えるかもしれないが、もっとシンプルにこの画面が与える名状し難い脅威の感覚こそ映画ではないか。
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[006]裁かれるは善人のみ
 カラシニコフKatsumi_Egi (Mail)2019-02-11
 
 あゝこれも凄い映画。この厳しさは極めて私の好みです。しかし、本作はクジラの映画ですね。ちょっと、あのクジラのカットが余りにも際立ち過ぎていて、全編に溢れる息詰まる・・・
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 あゝこれも凄い映画。この厳しさは極めて私の好みです。しかし、本作はクジラの映画ですね。ちょっと、あのクジラのカットが余りにも際立ち過ぎていて、全編に溢れる息詰まる緊張感が薄まって感じられてしまう弊があるぐらいだと思います。  導入部の風景等の空ショットと、ループするようなそのエンディングでの繰り返しは、もう明らかにズビャギンツェフのスタイル。他にも、屋内屋外問わず、緩やかなドリー移動、建物の大きな窓、窓外の視点、水辺の風景、不貞や不正、家族の断絶(特に子供との関係)といった、この監督の特質が、揺るぎなく定まっている。  上にも書いたクジラ出現の場面が突出しているが、その他も充実した画面ばかりだ。そんな中でも、主人公の仲間内で行われる射撃練習&バーベキュー大会のシーンは特筆すべきだろう。入り江とカルスト台地。射撃は当てたら1杯。外したら3杯。マシンガン(カラシニコフ)を取り出す友人もいる。的は肖像写真。「最近のはまだ歴史的考察が足りない。エリツィンも持っているが」とかなんとか。この場面の政治的尖鋭性の面白さを指摘したいのではない。フィルムの緊張感の強さに刮目してしまうことを云いたいのだ。そして、こゝから映画がギア・シフトし、予期せぬ方向へプロットが旋廻していく。このタイトな、必要十分な構成とカット繋ぎにガツンとやられる。 #酩酊している男(警官)にその妻が「運転できる?」と聞く。  それに対して男は「あたりまえだろ。交通警官だぞ」と返す。
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[007]ミスター・ガラス
 赤外線照準器Katsumi_Egi (Mail)2019-01-25
 
 全体がもうほとんどジョークのような映画だ。設定や世界観に文句を付ける気はなくなってしまう。笑わせる、ということで云えば、当然ながら、ジェームズ・マカヴォイが一番笑・・・
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 全体がもうほとんどジョークのような映画だ。設定や世界観に文句を付ける気はなくなってしまう。笑わせる、ということで云えば、当然ながら、ジェームズ・マカヴォイが一番笑わせる。彼だけで、ずっとニヤケながら見たが、正装したサミュエル・L・ジャクソンのルックスも笑う。  いや、もっと些末な部分、例えば、最初に監禁されている4人の女の子がみんなチアの格好をしているのも、ほとんどジョークのようなものなんじゃなかろうか。画的に面白いから選ばれた設定、というだけなのだろう。クライマックスも話の帰結も、壮大なのか、ミニマルなのかよく分からない世界観だが、結局、馬鹿力2人の対決というだけじゃないか、と思えてくるのも、なんだか愉快になる。  また、画面造型については、相変わらずキューブリックばりの冷え冷えとした画面で満足感が高い。病院の遠景のシンメトリーなカット。ピンクの壁の広い部屋に3人が集められるシーン等、美術の趣味もいい。照明(Light)と光、水や鏡といった反射物、監視カメラやモニターなどの道具立てへのこだわりも、見応えのある画面の造型に寄与する。そんな中で、マカヴォイとレーザーサイト(赤外線照準器)の赤い光、ウィリスと小さな水溜まり、という予想に反した小さな道具立ての強調が皮肉にも胸を打つ。あるいはアニャ・テイラー・ジョイの現実離れした真摯な対応も、愛を信じて疑わない、シャマランらしさと感じて、感動する。  ただ、マカヴォイは、前作ほどの爆発的エネルギーは感じられない。前作で驚かせてもらい過ぎた。前作にあった未曽有の恐怖の創出を超えることはかなり難しいし(そう、我々はもう見てしまっているのだから)、だからこそ、出し惜しみせず、開巻すぐに、ビーストを登場させもするのだが、しかし、ビーストはもっともっと怖くていい。 #オオサカタワーの扱いも肩透かしだが、大阪を宣伝してくれたのは嬉しい。
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[008]ミッション・ワイルド
 捜索者Katsumi_Egi (Mail)2019-01-20
 
 死と死体、墓と埋葬の映画。結婚の、夫婦の映画でもある。これらは、前作の『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』も同様のことが云える、つまり、トミー・リー・ジョー・・・
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 死と死体、墓と埋葬の映画。結婚の、夫婦の映画でもある。これらは、前作の『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』も同様のことが云える、つまり、トミー・リー・ジョーンズの特質なのだろう。また、プロット展開のテクニカルな面でも、前作同様、時間が解体され、フラッシュバックというか、恣意的に過去が挿入される構造を持つ。このフラッシュバックの部分は、前作では未整理な感覚を持ったが、本作では、生(性)と死が意識させられる、という面や、寒々としたルックの一貫性があり、前作よりも統一感がある。  冒頭のヒラリー・スワンクの家のたたずまい。大きな門のような不思議な入口があるのだが、これを『捜索者』のドアのように使ったカットがある。『捜索者』みたいと云えば、グレイス・ガマーの家が、先住民に襲われた後のデビーの家を思い起こさせる。このあたりは、意識したプロダクションデザインなのだろう。  前半はヒラリー・スワンク、後半はトミー・リー・ジョーンズ自身に主人公がシフトする展開も、唐突なだけでない図太さがあり、、ジョーンズが神のように扱われる(丘の上の青いホテルのシーン)に至るのは、やゝやり過ぎの感はあるが、この人は、映画監督としても、一筋縄ではいかない傑出した才能があることは間違いない。  エンディング近く、ほんの少ない出番ながら、メリル・ストリープとヘイリー・スタインフェルドの扱いも満足感を上げるし、エンドクレジットにまでいたる、ジョーンズの最後の振る舞いにも感動する。
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[009]メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬
 別れの曲Katsumi_Egi (Mail)2019-01-20
 
 面白い!前半の時間の交錯やメルキアデスが射殺される顛末は、ちょっと分かりづらい、というか、もう少し上手く見せて欲しいという部分もあるが、しかし後半、トミー・リー・・・・
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 面白い!前半の時間の交錯やメルキアデスが射殺される顛末は、ちょっと分かりづらい、というか、もう少し上手く見せて欲しいという部分もあるが、しかし後半、トミー・リー・ジョーンズとバリー・ペッパーが、メキシコの村へ向かう旅になってからは、もうずっと、ニヤケながら見る。メルキアデスの死体の扱いのブラックユーモアは最高。夜、蟻にたかられた際、焚火の火で燃やすシーン。あるいは不凍水をメルキアデスに注ぎ込むシーン。また、旅の途中、レヴォン・ヘルムが盲目の老人の役で出て来るが、なんとも云えない含蓄のある爺さんを創出している。そして、メキシコの村のバーで、少女がショパンの「別れの曲」を弾く場面。このシーンの夕景の光の表現は美しい。結局、適当に(適切に?)メルキアデスを埋葬してしまう、この帰結の余韻を残した放りっぱなし感も、たまらないのだ。  さて、主要な配役は皆良いが、まずは、レストランをやっている年増女、メリッサ・レオに圧倒された。若妻役のジャニュアリー・ジョーンズも控え目な演技に好感を持つ。
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[010]エレナの惑い
 巨大な煙突Katsumi_Egi (Mail)2019-01-12
 
 本作もファーストカットとラストカットは円環のように同じ場所、同じカメラポジションのカットだ。しかし、被写体は違う。なんというアイロニー。まさか、こゝに連れてこられ・・・
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 本作もファーストカットとラストカットは円環のように同じ場所、同じカメラポジションのカットだ。しかし、被写体は違う。なんというアイロニー。まさか、こゝに連れてこられようとは。    タイトルロールのエレナは元看護士。病院で知り合い結婚した富裕な夫と高級マンションで暮らしている。お互い再婚同士でそれぞれ子供が独立しているのだが、エレナは夫の娘と折り合いが悪く、夫はエレナの息子の家族が頼ってくることを良く思っていない。このような関係の中で、エレナが決然と行動する様が描かれる。複雑な感情は伝わるのだが、邦題のような「惑う」感覚は殆ど受けない。  前二作(『父、帰る』『ヴェラの祈り』)と異なり、モスクワを舞台とするので、随分と都会的な雰囲気のシーンが多いのだが、エレナの息子家族は郊外に住んでおり、巨大な煙突のあるだだっ広い風景が巧く取り入れられている。ラスト近く、エレナの孫サーシャが仲間達と喧嘩に向かう手持ちのシーケンスショット、未整備の空き地での乱闘場面は突出した強度で特筆すべきだろう。これがあるから、エピローグの複雑な感興が増すわけだが、いや単純にこの場面の演出に瞠目する。  あと、スポーツジムのプールのシーン等で使われるヒッチコック風(バーナード・ハーマン風)の劇伴が耳に残る。
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[011]ヴェラの祈り
 電話の映画Katsumi_Egi (Mail)2019-01-12
 
 ファーストカットが既に西部劇的風景だ。始めに書いておくが、同じロケーションがラストシーンでも使われるのだが、このエンディングの演出だけは、なんともあざといというか・・・
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 ファーストカットが既に西部劇的風景だ。始めに書いておくが、同じロケーションがラストシーンでも使われるのだが、このエンディングの演出だけは、なんともあざといというか、ワザとらしくてダメ。しかし、ラストのラスト迄、全く完璧な映画じゃないか、と思いながら見ていた。  丘陵地。田舎の家。家の中に光を入れていく場面の屋内前進移動。このあたりは音・ノイズが氾濫する。モノを置く音、引っ張る音。暖炉。暖炉の前の、たらいのお風呂。家の中の青い壁が絵画のように美しい。  家の前には洗濯物。白いシーツが干してある。クルミの木。風の音。ポーチ。西部劇的風景。そして中盤になって、家のすぐ側に谷があり、橋が架かっている、というロケーションを唐突に見せる。この小出しの見せ方・驚かせ方にも唸る。同じような、切り取り方の妙で云うと、斜面の墓地と教会の見せ方も、なんてクレバーなんだろう。  そして本作の最も重要な道具立ては電話であり、本作は電話の映画、ということもできるだろう。登場人物は相互に何度も電話をするシーンがあるが、中でも終盤で、過去に溯るカット繋ぎの際、時空をすり替える装置として、電話が使われる演出は特筆すべきだ。さらに、過去から現在への転換(戻り)をワンカット内で(カットを換えずに)さらりと表現するアンゲロプロスばりの(というかアンゲロプロスを軽やかにしたような)演出にもしびれる。という訳で、この演出に瞠目しているうちに、簡潔に終わっていれば最高だったのに。なおさら、エンディングの付け足し(乾草作業をする女性達への演出)が蛇足に感じてしまう。
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[012]アリー/ スター誕生
 意気Katsumi_Egi (Mail)2018-12-26
 
 傑作。タイトルインの際のレディー・ガガのハミングは「虹の彼方に」じゃないか!しかも、ガガの声は、まるでジュディ・ガーランドの音源を使っているのかと思ったぐらい似て・・・
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 傑作。タイトルインの際のレディー・ガガのハミングは「虹の彼方に」じゃないか!しかも、ガガの声は、まるでジュディ・ガーランドの音源を使っているのかと思ったぐらい似ている。続くドラァグクイーンのバーでの、ガガの最初の曲は「ラ・ヴィ・アン・ローズ」。このシーン、歌唱以上に彼女のタレント性を印象付ける。これはどうかと思ったが(もっと歌唱力こそ強調すべきではないかと思ったが)、カウンターに横臥させ、顔を向けて見つめさせる演出はいい。こゝで既にノックアウトだ。その後、やゝあって、ブラッドリー・クーパーと深夜のグロッサリーストアへ入った後のシーンがいい。店の前の駐車場に二人並んで座り、背後から肩なめの切り返し。これがとびっきり繊細な演出なのだ。即興で歌う場面だけ、ガガが立ち上がり対面するので正面切り返しになる。こゝは主題歌「シャロウ」を生む、全編でも最も重要なシーンと云っていいだろう。  同じように、二人の人物を横に並ばせて、背中側から撮った印象的なシーンが、あと2回ある。一つは、クーパーが更生施設に入所してからの、医師との対話シーンで、こゝも、後ろから肩なめ切り返し。少年時代の家の天井扇風機の話をする、これも重要な場面だ。もう一つは兄貴、サム・エリオットとの和解のシーン。自動車の中、後部座席から、運転席と助手席を撮った演出だ。これらの画面は、正面でなく横顔主体の切り返しとなることで、繊細さがよく出ているのだが、同時に、相手側に顔を向ける際に大きく顔を振る所作となるので、画面に動きが出る効果もあるように思う。  さて、他にも演出で特記しておきたいのは、クーパーが植え込みに倒れており、黒人の友人に起こされるシーンだ。友人が出現する仰角カットは唐突で、ちょっと変な繋ぎだな、と思っていると、その妻の登場も同じように唐突な仰角カットで、これは、ワザとやっているのだ。しかし、こうやってキャッチさせておいて、こゝから、結婚式へ話を運ぶ演出もいいと思う。このような中盤、後半になっても、弛緩しない画面造型は見事なものがある。その例でいくと、更生施設でのプールのカット(クーパーが水の中から浮かび上がるカット)なんて瞠目するし、あるいは、中盤以降の2度あるガガのヌードカットには、あっけにとられるではないか。一瞬ではあるが、乳房、乳首まできちんと写すし、全裸カットも繰り出すサービス精神は素晴らしい。日本映画ではちょっと考えられない、映画に賭ける意気が違う。  そして、これはまず最初に書くべきだったとも思うが、ライブシーンにおけるカメラワークや、光を取り入れる画面がイチイチ実にカッコいい。さらに、シンガーとしてのクーパー、アクターとしてのガガのパフォーマンスには、心底驚かされる。それは、とりもなおさず、ディレクターとしてのクーパーの仕事に圧倒される、ということだ。
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[013]日日是好日
 ジェルソミーナKatsumi_Egi (Mail)2018-12-16
 
 美しい日本映画。クレジットバックは清流のイメージ。水のイメージは、庭の筧とつくばい、お茶を入れる際の、柄杓から注ぐ水や湯。あるいは雨、あるいは海岸のシーン、山の渓・・・
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 美しい日本映画。クレジットバックは清流のイメージ。水のイメージは、庭の筧とつくばい、お茶を入れる際の、柄杓から注ぐ水や湯。あるいは雨、あるいは海岸のシーン、山の渓流シーンと度々描かれる。また、水は音と一緒に演出される。音の演出では最初に袱紗の扱いを学ぶ際の、袱紗を張る「パン」という音なども含めて、気持のいい音の映画だ。  黒木華も多部未華子も職業生活や恋愛事情についてほゞ描かれない(というか、意図的に端折られている)のが物足りないが、これは選択と集中というやつだろう。であれば、多部の扱いが潔く、黒木の、失恋して落ち込み、駅のホームに座り込んで泣くシーンや、男性と幸せな表情で歩くカットなどは、中途半端であり冗長だと、そしるべきか。私生活が謎である点は、樹木希林も同様だが、ただし、樹木とその師匠との関係が、写真立ての古い白黒写真と、鶴田真由が語る樹木の結婚式のエピソードで構築されており、やはり、回想やフラッシュバックを用いないことの奥床しさが良く出たいい演出である。(私はてっきり、黒木の結婚式のシーンが来て、樹木が反復するのかと思ったのだが。)  全体を通じて、樹木希林のしっかりした部分といい加減(臨機応変)な部分のバランスが見事だ。主人公は、はっきりと黒木なのだが、本作は、紛うことなく、樹木希林の映画。助演賞よりも主演賞が相応しい。 #フェリーニの『道』のことが三度語られる。ジェルソミーナの真似まである。
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[014]斬、
 ポン寄りKatsumi_Egi (Mail)2018-12-13
 
 強い炎のイメージと刀鍛冶の画面から始まり、強烈な音の映画であることを宣言する。殺陣シーンもそのカタチ以上に音が印象に残る。  カメラワークは、まず冒頭、田圃の畦で・・・
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 強い炎のイメージと刀鍛冶の画面から始まり、強烈な音の映画であることを宣言する。殺陣シーンもそのカタチ以上に音が印象に残る。  カメラワークは、まず冒頭、田圃の畦での池松壮亮−杢之進と前田隆成−市助との太刀練習で、むやみに動き回り、ズーミングも使いまくるので、とても危惧したのだが、その後落ち着いたのでホッとする。しかし、墓所での果し合いの場面あたりから、ポン寄り(カット・ズームイン)、ポン引き(カット・ズームアウト)が目立ち始め、中盤以降、ほぼ半分のカットでこれをやっているんじゃないかと思うぐらいになる。例えば、塚本晋也の澤村が、百姓家の引き戸を開けて表へ出てきたニーショットの次に、少し寄ったバストショットを繋ぐ(このとき、時間は途切れず継続している前提)、というようなカッティングがこれでもか、と見られるのだ。多分、デジタルの世界になり、容易にできるようになったのだろうが、この技法って、こゝぞ、という時に使うから良い(カッコいい、あるいは意味がある)のであって、むやみに使うと、節操がない(何も考えてないんじゃないか)と思えてしまうのだ。大林宣彦『花筐/HANAGATAMI』ほど、神経症的な使い方ではない(さりげない使い方)とは云え、私はかなり気になった。  さて、池松壮亮、蒼井優、塚本晋也、この主要キャストの造型は見応えがある。それぞれ、少々類型的な感もするが(苦悩する剣士、近現代的女性像、島田勘兵衛的リーダ)、皆激しく強いキャラだ。特に蒼井の台詞、所作(竹とんぼのシーンだとか)には現代的過ぎて違和感を覚える部分もあるが、そもそも彼女がラストまで、ほとんど全ての現場に顔を出すのが良く、彼女のショットがラストカットであることを考えてみても、蒼井優の扱いこそ、本作の肝だということだろう。ラストのラストで、いきなり日が陰り、ローキーとなる。そして悲痛な叫び声(という音)。
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[015]search/サーチ
 カット・ズームインKatsumi_Egi (Mail)2018-12-01
 
 全編PC画面で完結させる映画、ということで喧伝されているが、PCのディスプレイにウィンドウを複数立ち上げ、例えば電話で会話する際は、相手側が映っているウィンドウと・・・
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 全編PC画面で完結させる映画、ということで喧伝されているが、PCのディスプレイにウィンドウを複数立ち上げ、例えば電話で会話する際は、相手側が映っているウィンドウと、自分側のウィンドウのいずれかをクローズアップして、カットを繋いでいくといった趣向だ。主人公が電話をかけまくる映画なので、このような疑似カットバック(切り返し)が頻繁に出てくるが、当然ながら、殆ど正面バストショットでの切り返しとなる。ただし、それぞれ、目線はカメラを見ているわけではない(ディスプレイの、相手が映っているウィンドウを見ている)ので、イマジナリーラインを意識させないように出来上がっている。正面ガン見のカットもあったが、これをもっと上手くやれば、小津みたいな異次元の時空を作れるのにな、と思いながら見た。  また、カメラはPCや電話相手のスマートフォンのカメラだけでなく、部屋に取り付けた監視カメラも上手く使われる。あるいは、インターネット上のライブニュース配信のカメラも駆使してカットが繋がれる、という、良く考えられたものだ。さらに、例えば監視カメラをモニタリングしているPC画面を、引きとアップを駆使してアクション繋ぎのように繋ぐ。つまり、カット・ズームイン(ポン寄り)ということなのだが、それは動的な場面だけでなく、カメラ画像じゃないPC画面(メールやメッセージのテキスト入力画面等)でも、かなりこの技法は使われているように思う。ディスプレイを映したカットなので、寄るとブロウアップしたかのような粗い解像度になり、ざらざら感は、ある種の感情(サスペンスであったり切なさであったり)の醸成にも寄与する。  あと、多くのSNSが活用される中で、「YouCast」というライブ配信ツールが決め手になるが、この画面(ウィンドウ)で、部屋で机に座る娘が画面手前に映り、画面右奥のドアの向こうで父親の声がし、ドアを開け、部屋に入って来る縦構図は驚きのある良いカットだ。娘の微妙な表情が良く、ウィンドウ内で、カット・ズームインし、粗い粒子の父親のカットに繋ぐ部分には心揺すぶられた。  ということで、とても巧妙・周到な映画ではあるが、技巧的には既存の映画の撮影・編集の枠組みに絡め取られてしまっており、なんら逸脱のない、窮屈さを増しただけのシロモノとも思える。
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[016]A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー
 肌触りKatsumi_Egi (Mail)2018-11-26
 
 矢張り、この人は一筋縄ではいかない作家性のある監督だ。ディズニーのファミリー向け映画の後に、こんなとんでもない問題作をぶっこんで来る。まずは前半の3つの長回しは、・・・
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 矢張り、この人は一筋縄ではいかない作家性のある監督だ。ディズニーのファミリー向け映画の後に、こんなとんでもない問題作をぶっこんで来る。まずは前半の3つの長回しは、かなり挑戦的な姿勢じゃないか。3つとは、家屋全景のロングショットで、ルーニー・マーラが画面奥の家の扉と、画面手前のゴミ捨て場を往復するカット、夜中のベッドの二人(マーラとケイシー・アフレック)の俯瞰カット、そして、マーラがキッチンの床に座ってパイを食べるカットを指している。これらは、文字通りの長回しであって、普通の感覚で云うと無意味に長い。つまり、プロットを経済的に運ぶということを拒否しているのだ。  さて、本作はオフスクリーンで発生する唐突な音の設計がとても良く出来ている。幽霊譚なのだから、当たり前、というレベルを超えた豊かさがある。例えば夜中に響くピアノの音。クラクション。巨大なブルドーザ。マーラが窓を叩く音。先住民の襲撃の音。  そして、本作はシーツの映画である。と云うと、これも至極当たり前な物言いの感じがするが、冒頭、夜中に上半身裸でリビングを見に行くアフレックの、その後ろを恐る恐る付いて行くマーラもまた、白いシーツを体に巻いているである。この場面に続く、ベッドに戻って、愛撫し合う俯瞰のカットは、上にも書きましたが、これが異様に長いのだが、こゝはとても触覚(手や唇の肌触り)を意識させるカットになっており、この後の、触れることのできない切なさを大きくすることに繋がっているだろう。本作中、この次に強烈に触覚を喚起するカットは、壁の隙間の手紙を取り出そうする場面であり、いずれにしても、触覚はマーラに触れるという意味で成し遂げられる(成就する)のだ。
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[017]ピートと秘密の友達
 抱擁Katsumi_Egi (Mail)2018-11-26
 
 冒頭、走行中の自動車の前に鹿が飛び出してくることで物語が始まる導入部はとてもいい。あと、ピートが病院から脱走し、街中や通学バスを絡めて描かれる逃走シーンも良い調子・・・
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 冒頭、走行中の自動車の前に鹿が飛び出してくることで物語が始まる導入部はとてもいい。あと、ピートが病院から脱走し、街中や通学バスを絡めて描かれる逃走シーンも良い調子だ。クライマックスも自動車での追跡劇及び橋からの落下、ということで、自動車を使った演出が良く出来ている映画だと云えるだろう。  中途半端というか、予想を下回る、弱い造型についても指摘すべきと思うので、書きます。第一に、ドラゴン、エリオットのキャラクターが大人し過ぎる。そのデザインがディズニーらしい漫画っぽいものであることは、まあ良いとしても、優しいキャラ造型がシーンをつまらなくする。例えば、エリオットがダラス・ハワードの家の中にピートを見つけたにもかからわず引き返してく、というシーンがあるが、これ(この忖度)なんかは、やり過ぎじゃないかと思う。クレバー過ぎるというか、ファンタジーに過ぎる。あるいは、ピートの、文明生活とのギャップの描き込みも足りない。足りないことが嘘くさい、と云っているのではない。ギャップをもっと面白いシーンとして活かして欲しいのだ。 #本作の抱擁シーン。クライマックスの後、エリオットがピートを抱きしめる。そしてその後、ダラス・ハワードがピートを抱きしめる。
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[018]セインツ -約束の果て-
 抱きしめられるKatsumi_Egi (Mail)2018-11-26
 
 これは傑作だ。将来、2010年代畢竟の傑作と位置づけられるのではないか。テレンス・マリックを意識させずにはおかない佇まいを持ちながら、しかし、マリックなんかよりも断然・・・
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 これは傑作だ。将来、2010年代畢竟の傑作と位置づけられるのではないか。テレンス・マリックを意識させずにはおかない佇まいを持ちながら、しかし、マリックなんかよりも断然映画の演出の手触りがある。マジックアワー、斜光や逆光、手持ちカメラの多用と共に、人と人が抱きしめ合う所作の反復が切なさを増幅する。  ルーニー・マーラとケイシー・アフレック、或いはマーラとその娘は勿論のこと、マーラとベン・フォスター、フォスターとマーラの娘、そしてアフレックはキース・キャラダインにも不意に、かつ暴力的に抱きしめられるのだ。アフレックはマーラにもキャラダインにも、横臥した状態で頭を抱えられる。彼らの描き方は静謐な基調で統一されるが、同時に圧倒的な切ない緊張感で支配されている。手拍子を効果的に使った音楽の使い方も素晴らしく、大いに興奮させられる。
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[019]ボヘミアン・ラプソディ
 6分Katsumi_Egi (Mail)2018-11-14
 
 全米ツアーの導入部。ハイウェイを画面奥にした空撮から、バスと自動車にカメラが寄って行って、自動車のフロントガラスをすり抜け、車内を通って後部ガラスもすり抜け、場面・・・
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 全米ツアーの導入部。ハイウェイを画面奥にした空撮から、バスと自動車にカメラが寄って行って、自動車のフロントガラスをすり抜け、車内を通って後部ガラスもすり抜け、場面転換してコンサート会場の画面まで、まるでワンカットだったかのように見せる。 こういうの大好きだが、それでも、なんかそのスムーズさはイマイチだと思うのです。スムーズじゃないVFX。VFXで云うと、ライヴ・エイドの導入部も上空からのカメラが、ステージ上のグランドピアノの前迄ワンカットで移動したようなカットだ。また、フレディ・マーキュリーが座るピアノの椅子の脚の間をカメラが通っていく、小さなドローンを使ったと思しきカットもある。デザインは面白いと思うのだが、クオリティは今一つブレイクスルーが必要に感じた。  また、アメリカツアーの実績をコンサート場面中に都市名を叫ぶだけで処理する部分、あるいは、ワールドツアーは、画面に都市名の文字を流していくだけである、といったところは、どうにも手抜きに見える。かつてのハリウッド映画で常套だった、走る列車に新聞やポスターをオーヴァー・ラップする処理に比べても、チープな演出じゃないか。  あと、フレディの部屋の窓から、通りを挟んだ向かいのビルの上階に、メアリーの部屋(の窓)が見える場面が二度ほどあるが、この仰角で見上げる画面造型はいいと思った。逆にメアリーの窓からフレディの窓を俯瞰で見下ろす画面は出てこない。これは少々物足りないが、ある種の関係性が示されていると取ることもできるだろう。  そして、タイトル曲の扱いについて。中盤で制作過程を丁寧に描く部分は、ラストのライヴ・エイドの場面に次ぐ見せ場だと思うのだが、結局フルで聞くことができなかったのは残念に思う。尺が6分延びても、フルで通しで聞かせて欲しかった。あるいは、暗転後の「Dont Stop Me Now」と「The Show Must Go On」というのはメッセージ性という意味では落ち着きの良さを感じるが、タイトル曲を流しても良かったのではないだろうか。
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[020]結婚演出家
 黒い犬二匹Katsumi_Egi (Mail)2018-11-08
 
 映画らしい虚実を扱った作品で、わざと大げさなBGMが入ったり、現実離れしたプロットが挿入されたり、イメージ(妄想)と現実が判然としないカットが繋がれたりする、一筋・・・
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 映画らしい虚実を扱った作品で、わざと大げさなBGMが入ったり、現実離れしたプロットが挿入されたり、イメージ(妄想)と現実が判然としないカットが繋がれたりする、一筋縄では行かない作品だ。少々ワザとらしく感じる部分もあるのだが、全体に重々しくなり過ぎないよう作られており、ユーモアも漂う。  タイトルの意味は、主人公の映画監督が、中盤、ある結婚式のビデオ撮影を頼まれることを指しているのだが、その契機となるシシリーの浜辺の場面がとても美しく、かつ奇異なシーンで目を引く。主人公の前に、新郎新婦とその母と撮影クルーが登場し、クルーの中の演出家が主人公に演出のアドバイスを求める。そのアドバイスした奇妙な演出が、画面として具現化されるのだが、単なるイメージ処理なのか、現実なのか、最初は区別がつかない描き方なのだ。あと、後半は建物に備え付けられた監視カメラ映像が度々挿入されるのだが、徐々に主人公の見た目の画面が監視カメラ映像と同じような荒いモノクロ画面として挿入されるようになる、といった虚実の提示も面白い部分だ。  ラストもあっけにとられると云ったオチではないのだが、我々が今まで見てきた黒い犬二匹はいったいなんだったんだろう、いや、全編について何が真実だったんだろうと感じさせるものになっており、煙に巻かれる。しかし、このスタイリッシュさは極めてカッコいいエンディングなのである。
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[021]肉体の悪魔
 演出家の映画Katsumi_Egi (Mail)2018-11-08
 
 ベロッキオ!圧倒的な演出力の映画だ。もう冒頭から異様なテンション。屋根。画面奥に、学校の教室の窓。黒人の女性がスリップ姿で屋根に出てきて、泣きわめく。飛び降り自殺・・・
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 ベロッキオ!圧倒的な演出力の映画だ。もう冒頭から異様なテンション。屋根。画面奥に、学校の教室の窓。黒人の女性がスリップ姿で屋根に出てきて、泣きわめく。飛び降り自殺をするつもりなのか。近所の人達や教室の生徒達が窓やテラスに現れる。その中に、マルーシュカ・デートメルスが鮮烈に登場する。黒人の女性とどういう関係か分からないのだが、二人が尋常ではない強度で視線を交わすのだ。このシーン、単に主人公の高校生アンドレアが、デートメルスを一目惚れするためだけに用意されたシーンだろう。それをこれだけ突出したオープニングとして演出する。こゝからラストまで、驚きに満ちたシーンが連続する。例えば2度目の裁判所のシーン。なぜか、檻の中に沢山の収監者が閉じ込められており、その中の一組の男女がキスしている。だんだんとエスカレートする男女が引き離されようとする際に、傍聴席のデートメルスは「最後までやらせてあげて!」と叫ぶのだ。あるいは、精神科医(アンドレアの父親)の部屋。男性患者がソファに横になった後、時空をまたいで、裸のデートメルスにすり替わる唐突さ。別の場面でも、デートメルスを部屋のソファに横臥させたバストショットが異様な長回しだったり、アンドレアがロープを使って綱登りでデートメルスの部屋へ入った後のベッドシーンでも、フィクスのカットが考えられないぐらい長い、といった部分は、普通の編集ではない。その他、ナイフやフォークが沢山散らばらる床の上で、狂ったように踊るシーン。笑いながら寝ているアンドレアにハサミを持って迫るシーン。あらゆるシーンで驚きがある。何よりも、デートメルスの狂気的な美しさがラストカットまで持続する。デートメルスを見るベロッキオの(そして観客の)欲望をカメラが体現している。そういう意味で、圧倒的な「演出家の映画」なのである。
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[022]止められるか、俺たちを
 表現欲求Katsumi_Egi (Mail)2018-10-30
 
 映画ファンとしては、日本映画史の中の実在する人物や出来事への興味もあるが、ある種の映画はこのように作られる、という部分、つまり、製作現場の描写への興味、ということ・・・
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 映画ファンとしては、日本映画史の中の実在する人物や出来事への興味もあるが、ある種の映画はこのように作られる、という部分、つまり、製作現場の描写への興味、ということでも、とても面白い映画だ。  ただ、映画はすべからく(本作も当然)フィクションなのだから(例えば、高間賢治は本当にあんなかたちで童貞を捨てたのか?)、例えば撮影現場での助監督、撮影助手の待遇は、もっと厳しく描かれてもいいんじゃないかと思ってしまった。(なんだか生ぬるい)  本作も全般に夜の屋外シーンがいい。夜の街を酔っぱらって歩く門脇麦。オバケと街角で別れる場面の反復。女2人で夜の学校のプールに入る場面。こういった場面は情感たっぷりでとてもいいのだ。  さて、ラスト近くなって、門脇が仕事(というか表現欲求)と母性保護のいずれにも苦悩するようになるが、その理屈の見せ方の手際はイマイチだと私には感じられた。このような主題も古臭すぎると思うが、それは置いておくとしても、例えば母親へ電話するシーンは(電話するまでも異様に長いが)、不要ではないかと。
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[023]イコライザー2
 ゴーストタウンKatsumi_Egi (Mail)2018-10-17
 
 これも面白い、のみならず、突出した画面造型を持った活劇だが、それにしても、デンゼル・ワシントンが強い。強すぎる。  ブリュッセルでの事件と、主人公ワシントンの卑近・・・
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 これも面白い、のみならず、突出した画面造型を持った活劇だが、それにしても、デンゼル・ワシントンが強い。強すぎる。  ブリュッセルでの事件と、主人公ワシントンの卑近な世直し行為とをクロスで繋ぐ構成を、メリッサ・レオが橋渡しして、プロットが交錯するのだが、イマイチ、スカッとした繋ぎでない。例えば、ホテルの暴漢2人組みの再登場や爆殺場面なんかは、性急過ぎる。あるいは、ワシントンの隣人で画家を夢見る若い友人、アシュトン・サンダーズの造型は全般に良いと思うが、ギャングの仲間から奪還するクダリは、ちょっとやり過ぎかもしれない。前後のプロットが省略され過ぎている感覚を持つ。アシュトン・サンダーズがらみでは、ワシントンの部屋で、書棚の裏に隠れるシーンは出色だ。マジックミラーの使い方は、イーストウッドの『目撃』を想起する。  イーストウッドと云えば、クライマックスの嵐の中の浜辺の町での対決は『ペイル・ライダー』なんかを思い出させる、西部劇志向の場面設定だ。激しい風雨の道具立ても効果的だが、住民が全員避難している状況なので、無人の町、ゴーストタウンのような舞台設定をシンプルに作り出している。嵐に関しては、中盤ぐらいから、その到来についてジワジワと描き込まれるが、なかなか来ないで、クライマックスで過剰に見せてしまうという扱いもいい。  あと、ペドロ・パスカルも雰囲気のある良い役者だと思うが、やっぱり怖さが足りない。ワシントンに拮抗する要素が微塵も描かれない。 #登場する書籍は「世界と僕のあいだに」「シッダールタ」「失われた時を求めて」
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[024]MEG ザ・モンスター
 個人とチームKatsumi_Egi (Mail)2018-10-05
 
 新たな鮫映画の佳作だ。ジェイソン・ステイサムの生身のアクションが最大の見所なのだが、細かな演出的配慮も、とても良く出来ている。例えば、視線の交錯や所作の合図が何度・・・
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 新たな鮫映画の佳作だ。ジェイソン・ステイサムの生身のアクションが最大の見所なのだが、細かな演出的配慮も、とても良く出来ている。例えば、視線の交錯や所作の合図が何度も何度も出てくる。ガラス等(潜水艇の窓やプラスチック製シャーク・ケイジ)を隔てて情感を盛り上げる場面も多い。特にステイサムとリー・ビンビンと、その娘の三者間で何度もある。そもそも、これくらいの幼い子供(8歳だったか)が全編にわたって現場にいる、という設定がいい。  あと、本作は結局ステイサム一人が、良いところ、カッコいいところをさらっていく映画であることは間違いないが、一方、プロとしての個人とチームの映画でもある。例えば、仲間のために自らの命を犠牲にする、というモチーフが3度も出てくる。このあたりを胡散臭いと云ってしまえば身も蓋もないが、ステイサムただ一人が本作を背負って立っている、という印象を与えない作りになっている。あるいは、通常、もっともっと卑劣漢に描かれることの多い、部外者的な位置づけの資本家レイン・ウィルソンでさえ、真の悪党としては描かれない。研究員のリーダ的存在であるマック(クリフ・カーティス)は、何もしないようでいても存在感があるし、女性エンジニアのジャックス(ルビー・ローズ)も同様だ。さらに、前半で退場するトシ(マシ・オカ)について、後半に至っても、チーム内で複数回言及される、というのも気が利いていると私には感じられる。  (マシオカについては「日本人を軽んじている」という見方の正反対だと私は思う。この重要な役を日本人の設定にした、ということのバランス感覚を考えるべきだろう。)  尚、本作の撮影者はトム・スターンだ。やはり、屋内シーンの美しさに、感嘆した部分が多くある。例えば、ステイサムが、海洋研究所「マナ・ワン」に参加し乗り込んだ潜水艇の中で、唐突にビンビンの娘が現れ、二入で会話するシーン。こゝの色遣いは絶妙。それから、この娘が、背中に小さな羽を付けて、「マナ・ワン」の中を歩き回るシーン。
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[025]きみの鳥はうたえる
 ただいまKatsumi_Egi (Mail)2018-10-01
 
 冒頭近く、染谷将太と分かれて舗道に佇む柄本佑に、萩原聖人と石橋静河が出会う。別れ際に石橋が柄本の肘を触る。こゝから、唐突にカメラが屋内(店舗内)に入り、ウィンドウ・・・
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 冒頭近く、染谷将太と分かれて舗道に佇む柄本佑に、萩原聖人と石橋静河が出会う。別れ際に石橋が柄本の肘を触る。こゝから、唐突にカメラが屋内(店舗内)に入り、ウィンドウ越しに柄本を映すのだ。さらに、このカットの中で前進移動も入る。おゝと驚かされたが、これって、とても古い映画のようだと思う。  シノプスや道具立てについては、ヌーベルバーグの映画を彷彿とさせる。深夜の繁華街や、住宅街、誰もいない街並みの佇まい。そこを柄本と染谷、柄本と石橋らが歩く姿がとてもいい。あるいは、多くの人が指摘する通り、クラブで、3人がダンスする場面は最高だ。石橋の気持ち良さそうな笑顔を見ているのは、映画の至福だと思う。あと2倍ぐらい長くてもいいと思う。これらのシーンは照明(色遣い)の良さを特に感じる部分でもある。  また、登場人物の意思決定プロセスについて、詳細に描かれないのも良い点で、特に石橋のあらゆる行動の理由が排除されている。なぜ彼女は柄本を誘ったのか、なぜ、彼女は、すっぽかされても怒らないのか、パンをあげるのか、コンビニで支払いをするのか、染谷と二人でキャンプへ行くのか等々。推測できなくはないが、生活環境やバックボーンも全く提示されないので、本当に憶測の域を出ないのだ。映画は理由を描くものではなく、観客は(私は)理由を知るために映画を見るのではない。  あと、最初に感じた古い映画のようだ、という感覚は全編に亘って思い続けることになる。例えば肘タッチの反復のようなプロット構成の周到さ。同じように柄本が無人の部屋に入って来る際の「ただいま」と冷蔵庫の扉の反復には計算高過ぎて嫌らしさを感じた程だし、他にも、モノローグ(ナレーション)の使い方も効果抜群だ。そして、ラストの石橋のバストショットが特徴的だが、仰角気味(ローアングル)のカットが結構多く(部屋でのシーンは殆どローアングル)、構図がとても安定している部分もそうだ。古い映画のよう、というのは、ヌーベルバーグよりも、もっともっと古い映画のよう、ということで、この監督には、度量の大きさと共に職人的な才能を感じる。
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[026]アブラハム渓谷
 薔薇Katsumi_Egi (Mail)2018-09-22
 
 マノエル・ド・オリヴェイラの「ボヴァリー夫人」。本作では、主人公のエマがイポリット(原作及び映画化作品では印象的なキャラクター。足の不自由な男)のように跛行する。・・・
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 マノエル・ド・オリヴェイラの「ボヴァリー夫人」。本作では、主人公のエマがイポリット(原作及び映画化作品では印象的なキャラクター。足の不自由な男)のように跛行する。結婚相手は俗物の医師だし、友人宅でのパーティのシーンで、情人と出会いもする。残念ながら、ダンスパーティ・シーンではないが、サックスソロの「Tenderly」がかかり、情感を盛り上げる。  渓谷の建物のロングショットや家屋の外観、道、ベランダなどの空ショットで、えんえんとモノローグ(ナレーション)が入り、独特のゆったりとしたリズムを形成するのだが、何と云っても本作を楽しむ要諦は、複数人物の会話シーンでの、視線の演出とカットバック(リバースショット)のスリリングさ、あるいは、カットバックと見た目のカットの挿入の妙を味わうことだろう。  また、庭の生け垣、家の前の道、家屋の中の階段の仰角カットといったカットで、スクリーンの奥へ、まるでトンネルのような形状で動線が続いている画面が何度も出てきて、これもとても面白い、眩惑的な効果を醸し出している。  そして、もう一つ特徴的なのは、人物の正面バストショットかつカメラ目線の固定ショットの多用だ。静物や空ショットも含めて、全編に亘ってフィクスのカットばかりで、落ち着きのある格調高いムードを演出するのだが、ラスト近く、オレンジの木の下を歩くエマのカットとその見た目のカットが、信じられないぐらい滑らかなドリーの移動撮影なのだ。ドリーはこゝだけだと思う。この滑らかさは衝撃的でさえある。  さて、こゝからは備忘のようなものですが、ラスト近くで「エマは薔薇の花だ」という科白もあるし、少女時代に、赤い薔薇の花弁に指を突っ込む、というあからさまなカットもある。エピローグ前には、聾唖の洗濯女に一輪の薔薇を手渡す。というように、明確な形で、薔薇はエマの象徴として用いられる。一方、月光もエマを表しており、ベートーベンの「月光」やドビュッシーの「月の光」などがBGMとして反復される。さらにクラシック音楽の使い方で書き留めておきたいのは、エマが誘惑する、バイオリンを弾く青年は「G線上のアリア」ばかり弾くのだが(いや、これしか弾けないのかと思わせておいて)、情事後の閨房では、唐突にアルビノーニのアダージョを弾きはじめる。するとエマは「その曲は悲しくなる」と云って止めるのだ。皮肉なことに、映画のラストの音楽はこのアダージョなのである。 #アルビノーニのアダージョを使った作品ということで、記憶に残っているのは、ウェルズの『審判』と『マンチェスター・バイ・ザ・シー』。そして、私にとって決定的なのは、テレビ版の向田邦子の『あ・うん』
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[027]ボヴァリー夫人
 酩酊感Katsumi_Egi (Mail)2018-09-22
 
 シャブロル版は殆ど全てのカットで、イザベル・ユペールが映っていたのではないか、と錯覚させられるぐらいの女優映画だ。ユペールも一番綺麗な時期だろう、彼女が度々見せる・・・
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 シャブロル版は殆ど全てのカットで、イザベル・ユペールが映っていたのではないか、と錯覚させられるぐらいの女優映画だ。ユペールも一番綺麗な時期だろう、彼女が度々見せる、涙で目を潤ませる表情が美しいし、演技・演出の独創的な部分でもある。  撮影では、俯瞰ぎみの高さのカメラの視点が印象に残る。家屋から出て舗道を歩くユペールを、ドリーでとらえるカットなんかも、少し高い位置に(人間の背丈よりも上に)カメラがある感覚なのだ。また、本作もシャブロルらしく、全編に亘って、シーン終結部の余白の時間が限りなくゼロに近い、特徴的なカッティングだ。それどころか、クリストフ・マラヴォワ(ロドルフ)との逢引きを、ワンカットで表現したりするのも、信じられないぐらい短いカットだ。速いカット繋ぎは、終盤の、ユペールが金策に走る部分で、畳みかける感じとしても、よく効果が出ている。逆に性急な演出に感じられる、というデメリットもあるのだが、スリルの醸成という意味では、奏功していると思う。  尚、前半の伯爵邸での舞踏会のダンスシーンは、ハリウッド版(ヴィンセント・ミネリの1949年版)『ボヴァリー夫人』と甲乙つけがたい、と云っていいぐらいの驚愕のダンスシーンになっている。こゝでも、俯瞰ぎみのカメラポジションが特徴的で、私は眩暈を感じる一歩手前の酩酊感を味わった。  エンディングのボヴァリー夫人の変貌については、ジャン・ルノワールの1933年版の方が強烈だった。この点に関しては、残念ながら、本作のユペールもルノワール版を超えているとは云えない。
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[028]ボヴァリー夫人
 ダンスシーンKatsumi_Egi (Mail)2018-09-22
 
 ミネリ版もルノワール版同様、窓の映画だ。鏡の映画でもある。窓、鏡、ドア、階段といった装置が、絢爛たる演出で繰り出される。窓ガラスが暴力的に割られる趣向に瞠目するダ・・・
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 ミネリ版もルノワール版同様、窓の映画だ。鏡の映画でもある。窓、鏡、ドア、階段といった装置が、絢爛たる演出で繰り出される。窓ガラスが暴力的に割られる趣向に瞠目するダンスパーティのシーンと、終盤、自棄になり、拳で窓ガラスを殴る場面。あるいは、ボールルームの鏡に、きらびやかな衣装と男性たちに囲まれた姿で映ったジェニファー・ジョーンズのカットと、安ホテルのびび割れた鏡のカット、といった対比の見せ方にも唸らされる。  しかしそれにしても、本作のダンス・パーティの場面は、聞きしに勝る驚愕のダンスシーンだ。まずは、ジョーンズとルイ・ジュールダンの、ワルツでの回転運動をとらえ続けるカメラの視点に圧倒されるのだが、加えて、酩酊したヴァン・ヘフリンがダンスする人達の邪魔になる様。椅子を投げつけられ粉々になる窓ガラス。へフリンがよろけて銀盆上の沢山のグラスを床に叩きつけて割るカットといった混乱のイメージが、狂気的にこの場面を盛り上げる。初期ミネリの傑作、『若草の頃』の暴力性を思い起こさせる。  また、これもルノワール版の踏襲を志向したのではないかと思うのだが、縦構図の画面が沢山ある。人物を前後に置いたカットが多いし、人物と窓外からの視点をからめた配置、例えば、窓から外を見るジョーンズと、部屋の奥で娘と遊ぶへフリンを同一カット内に収めて窓外から映す、といったカット。このような縦構図も、あまりこれ見よがしではない、品の良いパン・フォーカスで構成されていて、違和感がない。あるいは、ジョーンズが、二階の窓から飛び降りようとするのを、へフリンが抱きしめて止めるカットでは、まるで、カメラが部屋から窓を抜けて外に出たような効果を出している、これも見事な演出だ。  尚、本作では足の不自由な下男イポリット(ハリー・モーガンが演じている)を手術する場面が、途中でへフリンが怖くなり手術を放棄する、という描き方に改変されている。また、醜い乞食は出て来ない。さらに決定的なのは、エンディングのマダム・ボヴァリーが、ほとんど醜態をさらさず、綺麗なまゝ、という点だ。このあたりは、ハリウッド映画らしいと思う。ジュールダンやへフリンがフラッシュバックのようにそれぞれワンカット挿入されるラストの演出も格調高い。
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[029]寝ても覚めても
 防潮堤Katsumi_Egi (Mail)2018-09-11
 
 まず、画面造型の特徴から思い返していくと、冒頭(大阪、中之島のシーン)は、爆竹をからめた高速度撮影のケレン味に目がいってしまうけれど、それ以上にエスカレータでの、・・・
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 まず、画面造型の特徴から思い返していくと、冒頭(大阪、中之島のシーン)は、爆竹をからめた高速度撮影のケレン味に目がいってしまうけれど、それ以上にエスカレータでの、東出昌大−麦(ばく)の背中と、唐田えりか−朝子の正面カットの切り返し、特に、唐田の正面、やゝ俯瞰のカットには唸ってしまった。なんと端正かつ力強い繋ぎだろう。唐田一人の正面カットでは、麦と決別する東北の防潮堤の場面でも再現され、こゝはさらに強いカットになっている。また、前後するが、前半で麦がパンを買いに行くと言って出ていく部分。残された皆をドリーで引きながら(後退移動しながら)映す正面カットも異様にキャッチーだ。これは、麦の「見た目」を装いながら、観客はカメラの視点(作り手の意図的な演出)であることを意識せずにはいられない、映画的な恐るべき不穏なカットなのである。  続いて視点の高低について。冒頭エスカレータのシーンも既にそうだが、高低に自覚的な演出が多々ある。オートバイ事故現場の俯瞰。渡辺大知−岡崎がベランダから、家の前で抱き合う東出と唐田を見下ろす場面。ビルの非常階段で煙草を吸う東出と瀬戸康史。階下(地上)のカフェの前の唐田の俯瞰。東北へ向かう(帰ってくる)車を映す高速道路の大俯瞰。そして、天の川(淀川の支流と紹介される。交野市辺り)の川べりを駈ける男女のロングショット。さらに面白いのは、クダンの防潮堤の場面やラストカットで示される、高所にいる人物の、正面からのカメラの視点だ。見ている最中にカメラポジションを気にする観客は少数かも知れないが、しかしそれでも、カメラの視点に、ある種の不思議さ、不安感、現実を超えるものを感じるのではないだろうか。  さて、プロットに関して云っても、タイトルの示す通り、夢と現(うつつ)についての映画であり、観客は、果たしてこれは現実なのか、不思議な感覚をずっと持ち続ける仕掛けがなされている。極めつけは麦の再登場で、こゝはとても怖い、恐怖映画のような演出だが、朝子の幻視・妄想(夢)だと思い、ホッとしていると、再々登場に唖然とさせられてしまうのだ。「高速降りた?」という科白の反復も同様の仕掛けの一つだろう。  もう一つ。本作は卓越した猫映画である。特に、後半の猫の所作表情は素晴らしい。 #備忘。猫の名前、ジンタン。
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[030]センセイ君主
 白い光Katsumi_Egi (Mail)2018-09-06
 
 浜辺美波の顔芸の映画。大したもんだ。既に『君の膵臓』の時から、これぐらいのポテンシャルは想像できたけれど、それにしても見事。見てて飽きない。もっと見たい。喩えが古・・・
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 浜辺美波の顔芸の映画。大したもんだ。既に『君の膵臓』の時から、これぐらいのポテンシャルは想像できたけれど、それにしても見事。見てて飽きない。もっと見たい。喩えが古すぎて恐縮だが、田中絹代や高峰秀子の顔芸を思わせる。竹内涼真にも一貫性があり好印象。できれば、決定的瞬間(恋に落ちる演出)が欲しいとも思ったが、そういうことはやらないのだ。それも良しとする。川栄李奈も上手い。この人、初めていいと思った。幼馴染の佐藤大樹との関係が変わらないのもいい。ラストは予定調和なのだが、これ以上ない最良の終わり方だと思う。矢本悠馬については、出番をもっと作って欲しかった。もっと見たい。しかし全部まとめて、やっぱり監督のディレクションの手柄なんだと思います。この過剰さは立派です。  ただし、新川優愛登場のコンサート場面が凡庸だったりで、全体に画面造型で驚かすような部分は希薄。相変わらず(撮影者は異なるというのに『君の膵臓』と同じような感じで)、高校内は、やたらと白い光(露光オーバーぎみ)で、この照明には飽きが来る。
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