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 「Katsumi_Egi」さんのコメント一覧 登録数(1451件)rss
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[001]イコライザー2
 ゴーストタウンKatsumi_Egi (Mail)2018-10-17
 
 これも面白い、のみならず、突出した画面造型を持った活劇だが、それにしても、デンゼル・ワシントンが強い。強すぎる。  ブリュッセルでの事件と、主人公ワシントンの卑近・・・
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 これも面白い、のみならず、突出した画面造型を持った活劇だが、それにしても、デンゼル・ワシントンが強い。強すぎる。  ブリュッセルでの事件と、主人公ワシントンの卑近な世直し行為とをクロスで繋ぐ構成を、メリッサ・レオが橋渡しして、プロットが交錯するのだが、イマイチ、スカッとした繋ぎでない。例えば、ホテルの暴漢2人組みの再登場や爆殺場面なんかは、性急過ぎる。あるいは、ワシントンの隣人で画家を夢見る若い友人、アシュトン・サンダーズの造型は全般に良いと思うが、ギャングの仲間から奪還するクダリは、ちょっとやり過ぎかもしれない。前後のプロットが省略され過ぎている感覚を持つ。アシュトン・サンダーズがらみでは、ワシントンの部屋で、書棚の裏に隠れるシーンは出色だ。マジックミラーの使い方は、イーストウッドの『目撃』を想起する。  イーストウッドと云えば、クライマックスの嵐の中の浜辺の町での対決は『ペイル・ライダー』なんかを思い出させる、西部劇志向の場面設定だ。激しい風雨の道具立ても効果的だが、住民が全員避難している状況なので、無人の町、ゴーストタウンのような舞台設定をシンプルに作り出している。嵐に関しては、中盤ぐらいから、その到来についてジワジワと描き込まれるが、なかなか来ないで、クライマックスで過剰に見せてしまうという扱いもいい。  あと、ペドロ・パスカルも雰囲気のある良い役者だと思うが、やっぱり怖さが足りない。ワシントンに拮抗する要素が微塵も描かれない。 #登場する書籍は「世界と僕のあいだに」「シッダールタ」「失われた時を求めて」
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[002]MEG ザ・モンスター
 個人とチームKatsumi_Egi (Mail)2018-10-05
 
 新たな鮫映画の佳作だ。ジェイソン・ステイサムの生身のアクションが最大の見所なのだが、細かな演出的配慮も、とても良く出来ている。例えば、視線の交錯や所作の合図が何度・・・
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 新たな鮫映画の佳作だ。ジェイソン・ステイサムの生身のアクションが最大の見所なのだが、細かな演出的配慮も、とても良く出来ている。例えば、視線の交錯や所作の合図が何度も何度も出てくる。ガラス等(潜水艇の窓やプラスチック製シャーク・ケイジ)を隔てて情感を盛り上げる場面も多い。特にステイサムとリー・ビンビンと、その娘の三者間で何度もある。そもそも、これくらいの幼い子供(8歳だったか)が全編にわたって現場にいる、という設定がいい。  あと、本作は結局ステイサム一人が、良いところ、カッコいいところをさらっていく映画であることは間違いないが、一方、プロとしての個人とチームの映画でもある。例えば、仲間のために自らの命を犠牲にする、というモチーフが3度も出てくる。このあたりを胡散臭いと云ってしまえば身も蓋もないが、ステイサムただ一人が本作を背負って立っている、という印象を与えない作りになっている。あるいは、通常、もっともっと卑劣漢に描かれることの多い、部外者的な位置づけの資本家レイン・ウィルソンでさえ、真の悪党としては描かれない。研究員のリーダ的存在であるマック(クリフ・カーティス)は、何もしないようでいても存在感があるし、女性エンジニアのジャックス(ルビー・ローズ)も同様だ。さらに、前半で退場するトシ(マシ・オカ)について、後半に至っても、チーム内で複数回言及される、というのも気が利いていると私には感じられる。  (マシオカについては「日本人を軽んじている」という見方の正反対だと私は思う。この重要な役を日本人の設定にした、ということのバランス感覚を考えるべきだろう。)  尚、本作の撮影者はトム・スターンだ。やはり、屋内シーンの美しさに、感嘆した部分が多くある。例えば、ステイサムが、海洋研究所「マナ・ワン」に参加し乗り込んだ潜水艇の中で、唐突にビンビンの娘が現れ、二入で会話するシーン。こゝの色遣いは絶妙。それから、この娘が、背中に小さな羽を付けて、「マナ・ワン」の中を歩き回るシーン。
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[003]きみの鳥はうたえる
 ただいまKatsumi_Egi (Mail)2018-10-01
 
 冒頭近く、染谷将太と分かれて舗道に佇む柄本佑に、萩原聖人と石橋静河が出会う。別れ際に石橋が柄本の肘を触る。こゝから、唐突にカメラが屋内(店舗内)に入り、ウィンドウ・・・
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 冒頭近く、染谷将太と分かれて舗道に佇む柄本佑に、萩原聖人と石橋静河が出会う。別れ際に石橋が柄本の肘を触る。こゝから、唐突にカメラが屋内(店舗内)に入り、ウィンドウ越しに柄本を映すのだ。さらに、このカットの中で前進移動も入る。おゝと驚かされたが、これって、とても古い映画のようだと思う。  シノプスや道具立てについては、ヌーベルバーグの映画を彷彿とさせる。深夜の繁華街や、住宅街、誰もいない街並みの佇まい。そこを柄本と染谷、柄本と石橋らが歩く姿がとてもいい。あるいは、多くの人が指摘する通り、クラブで、3人がダンスする場面は最高だ。石橋の気持ち良さそうな笑顔を見ているのは、映画の至福だと思う。あと2倍ぐらい長くてもいいと思う。これらのシーンは照明(色遣い)の良さを特に感じる部分でもある。  また、登場人物の意思決定プロセスについて、詳細に描かれないのも良い点で、特に石橋のあらゆる行動の理由が排除されている。なぜ彼女は柄本を誘ったのか、なぜ、彼女は、すっぽかされても怒らないのか、パンをあげるのか、コンビニで支払いをするのか、染谷と二人でキャンプへ行くのか等々。推測できなくはないが、生活環境やバックボーンも全く提示されないので、本当に憶測の域を出ないのだ。映画は理由を描くものではなく、観客は(私は)理由を知るために映画を見るのではない。  あと、最初に感じた古い映画のようだ、という感覚は全編に亘って思い続けることになる。例えば肘タッチの反復のようなプロット構成の周到さ。同じように柄本が無人の部屋に入って来る際の「ただいま」と冷蔵庫の扉の反復には計算高過ぎて嫌らしさを感じた程だし、他にも、モノローグ(ナレーション)の使い方も効果抜群だ。そして、ラストの石橋のバストショットが特徴的だが、仰角気味(ローアングル)のカットが結構多く(部屋でのシーンは殆どローアングル)、構図がとても安定している部分もそうだ。古い映画のよう、というのは、ヌーベルバーグよりも、もっともっと古い映画のよう、ということで、この監督には、度量の大きさと共に職人的な才能を感じる。
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[004]アブラハム渓谷
 薔薇Katsumi_Egi (Mail)2018-09-22
 
 マノエル・ド・オリヴェイラの「ボヴァリー夫人」。本作では、主人公のエマがイポリット(原作及び映画化作品では印象的なキャラクター。足の不自由な男)のように跛行する。・・・
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 マノエル・ド・オリヴェイラの「ボヴァリー夫人」。本作では、主人公のエマがイポリット(原作及び映画化作品では印象的なキャラクター。足の不自由な男)のように跛行する。結婚相手は俗物の医師だし、友人宅でのパーティのシーンで、情人と出会いもする。残念ながら、ダンスパーティ・シーンではないが、サックスソロの「Tenderly」がかかり、情感を盛り上げる。  渓谷の建物のロングショットや家屋の外観、道、ベランダなどの空ショットで、えんえんとモノローグ(ナレーション)が入り、独特のゆったりとしたリズムを形成するのだが、何と云っても本作を楽しむ要諦は、複数人物の会話シーンでの、視線の演出とカットバック(リバースショット)のスリリングさ、あるいは、カットバックと見た目のカットの挿入の妙を味わうことだろう。  また、庭の生け垣、家の前の道、家屋の中の階段の仰角カットといったカットで、スクリーンの奥へ、まるでトンネルのような形状で動線が続いている画面が何度も出てきて、これもとても面白い、眩惑的な効果を醸し出している。  そして、もう一つ特徴的なのは、人物の正面バストショットかつカメラ目線の固定ショットの多用だ。静物や空ショットも含めて、全編に亘ってフィクスのカットばかりで、落ち着きのある格調高いムードを演出するのだが、ラスト近く、オレンジの木の下を歩くエマのカットとその見た目のカットが、信じられないぐらい滑らかなドリーの移動撮影なのだ。ドリーはこゝだけだと思う。この滑らかさは衝撃的でさえある。  さて、こゝからは備忘のようなものですが、ラスト近くで「エマは薔薇の花だ」という科白もあるし、少女時代に、赤い薔薇の花弁に指を突っ込む、というあからさまなカットもある。エピローグ前には、聾唖の洗濯女に一輪の薔薇を手渡す。というように、明確な形で、薔薇はエマの象徴として用いられる。一方、月光もエマを表しており、ベートーベンの「月光」やドビュッシーの「月の光」などがBGMとして反復される。さらにクラシック音楽の使い方で書き留めておきたいのは、エマが誘惑する、バイオリンを弾く青年は「G線上のアリア」ばかり弾くのだが(いや、これしか弾けないのかと思わせておいて)、情事後の閨房では、唐突にアルビノーニのアダージョを弾きはじめる。するとエマは「その曲は悲しくなる」と云って止めるのだ。皮肉なことに、映画のラストの音楽はこのアダージョなのである。 #アルビノーニのアダージョを使った作品ということで、記憶に残っているのは、ウェルズの『審判』と『マンチェスター・バイ・ザ・シー』。そして、私にとって決定的なのは、テレビ版の向田邦子の『あ・うん』
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[005]ボヴァリー夫人
 酩酊感Katsumi_Egi (Mail)2018-09-22
 
 シャブロル版は殆ど全てのカットで、イザベル・ユペールが映っていたのではないか、と錯覚させられるぐらいの女優映画だ。ユペールも一番綺麗な時期だろう、彼女が度々見せる・・・
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 シャブロル版は殆ど全てのカットで、イザベル・ユペールが映っていたのではないか、と錯覚させられるぐらいの女優映画だ。ユペールも一番綺麗な時期だろう、彼女が度々見せる、涙で目を潤ませる表情が美しいし、演技・演出の独創的な部分でもある。  撮影では、俯瞰ぎみの高さのカメラの視点が印象に残る。家屋から出て舗道を歩くユペールを、ドリーでとらえるカットなんかも、少し高い位置に(人間の背丈よりも上に)カメラがある感覚なのだ。また、本作もシャブロルらしく、全編に亘って、シーン終結部の余白の時間が限りなくゼロに近い、特徴的なカッティングだ。それどころか、クリストフ・マラヴォワ(ロドルフ)との逢引きを、ワンカットで表現したりするのも、信じられないぐらい短いカットだ。速いカット繋ぎは、終盤の、ユペールが金策に走る部分で、畳みかける感じとしても、よく効果が出ている。逆に性急な演出に感じられる、というデメリットもあるのだが、スリルの醸成という意味では、奏功していると思う。  尚、前半の伯爵邸での舞踏会のダンスシーンは、ハリウッド版(ヴィンセント・ミネリの1949年版)『ボヴァリー夫人』と甲乙つけがたい、と云っていいぐらいの驚愕のダンスシーンになっている。こゝでも、俯瞰ぎみのカメラポジションが特徴的で、私は眩暈を感じる一歩手前の酩酊感を味わった。  エンディングのボヴァリー夫人の変貌については、ジャン・ルノワールの1933年版の方が強烈だった。この点に関しては、残念ながら、本作のユペールもルノワール版を超えているとは云えない。
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[006]ボヴァリー夫人
 ダンスシーンKatsumi_Egi (Mail)2018-09-22
 
 ミネリ版もルノワール版同様、窓の映画だ。鏡の映画でもある。窓、鏡、ドア、階段といった装置が、絢爛たる演出で繰り出される。窓ガラスが暴力的に割られる趣向に瞠目するダ・・・
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 ミネリ版もルノワール版同様、窓の映画だ。鏡の映画でもある。窓、鏡、ドア、階段といった装置が、絢爛たる演出で繰り出される。窓ガラスが暴力的に割られる趣向に瞠目するダンスパーティのシーンと、終盤、自棄になり、拳で窓ガラスを殴る場面。あるいは、ボールルームの鏡に、きらびやかな衣装と男性たちに囲まれた姿で映ったジェニファー・ジョーンズのカットと、安ホテルのびび割れた鏡のカット、といった対比の見せ方にも唸らされる。  しかしそれにしても、本作のダンス・パーティの場面は、聞きしに勝る驚愕のダンスシーンだ。まずは、ジョーンズとルイ・ジュールダンの、ワルツでの回転運動をとらえ続けるカメラの視点に圧倒されるのだが、加えて、酩酊したヴァン・ヘフリンがダンスする人達の邪魔になる様。椅子を投げつけられ粉々になる窓ガラス。へフリンがよろけて銀盆上の沢山のグラスを床に叩きつけて割るカットといった混乱のイメージが、狂気的にこの場面を盛り上げる。初期ミネリの傑作、『若草の頃』の暴力性を思い起こさせる。  また、これもルノワール版の踏襲を志向したのではないかと思うのだが、縦構図の画面が沢山ある。人物を前後に置いたカットが多いし、人物と窓外からの視点をからめた配置、例えば、窓から外を見るジョーンズと、部屋の奥で娘と遊ぶへフリンを同一カット内に収めて窓外から映す、といったカット。このような縦構図も、あまりこれ見よがしではない、品の良いパン・フォーカスで構成されていて、違和感がない。あるいは、ジョーンズが、二階の窓から飛び降りようとするのを、へフリンが抱きしめて止めるカットでは、まるで、カメラが部屋から窓を抜けて外に出たような効果を出している、これも見事な演出だ。  尚、本作では足の不自由な下男イポリット(ハリー・モーガンが演じている)を手術する場面が、途中でへフリンが怖くなり手術を放棄する、という描き方に改変されている。また、醜い乞食は出て来ない。さらに決定的なのは、エンディングのマダム・ボヴァリーが、ほとんど醜態をさらさず、綺麗なまゝ、という点だ。このあたりは、ハリウッド映画らしいと思う。ジュールダンやへフリンがフラッシュバックのようにそれぞれワンカット挿入されるラストの演出も格調高い。
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[007]寝ても覚めても
 防潮堤Katsumi_Egi (Mail)2018-09-11
 
 まず、画面造型の特徴から思い返していくと、冒頭(大阪、中之島のシーン)は、爆竹をからめた高速度撮影のケレン味に目がいってしまうけれど、それ以上にエスカレータでの、・・・
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 まず、画面造型の特徴から思い返していくと、冒頭(大阪、中之島のシーン)は、爆竹をからめた高速度撮影のケレン味に目がいってしまうけれど、それ以上にエスカレータでの、東出昌大−麦(ばく)の背中と、唐田えりか−朝子の正面カットの切り返し、特に、唐田の正面、やゝ俯瞰のカットには唸ってしまった。なんと端正かつ力強い繋ぎだろう。唐田一人の正面カットでは、麦と決別する東北の防潮堤の場面でも再現され、こゝはさらに強いカットになっている。また、前後するが、前半で麦がパンを買いに行くと言って出ていく部分。残された皆をドリーで引きながら(後退移動しながら)映す正面カットも異様にキャッチーだ。これは、麦の「見た目」を装いながら、観客はカメラの視点(作り手の意図的な演出)であることを意識せずにはいられない、映画的な恐るべき不穏なカットなのである。  続いて視点の高低について。冒頭エスカレータのシーンも既にそうだが、高低に自覚的な演出が多々ある。オートバイ事故現場の俯瞰。渡辺大知−岡崎がベランダから、家の前で抱き合う東出と唐田を見下ろす場面。ビルの非常階段で煙草を吸う東出と瀬戸康史。階下(地上)のカフェの前の唐田の俯瞰。東北へ向かう(帰ってくる)車を映す高速道路の大俯瞰。そして、天の川(淀川の支流と紹介される。交野市辺り)の川べりを駈ける男女のロングショット。さらに面白いのは、クダンの防潮堤の場面やラストカットで示される、高所にいる人物の、正面からのカメラの視点だ。見ている最中にカメラポジションを気にする観客は少数かも知れないが、しかしそれでも、カメラの視点に、ある種の不思議さ、不安感、現実を超えるものを感じるのではないだろうか。  さて、プロットに関して云っても、タイトルの示す通り、夢と現(うつつ)についての映画であり、観客は、果たしてこれは現実なのか、不思議な感覚をずっと持ち続ける仕掛けがなされている。極めつけは麦の再登場で、こゝはとても怖い、恐怖映画のような演出だが、朝子の幻視・妄想(夢)だと思い、ホッとしていると、再々登場に唖然とさせられてしまうのだ。「高速降りた?」という科白の反復も同様の仕掛けの一つだろう。  もう一つ。本作は卓越した猫映画である。特に、後半の猫の所作表情は素晴らしい。 #備忘。猫の名前、ジンタン。
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[008]センセイ君主
 白い光Katsumi_Egi (Mail)2018-09-06
 
 浜辺美波の顔芸の映画。大したもんだ。既に『君の膵臓』の時から、これぐらいのポテンシャルは想像できたけれど、それにしても見事。見てて飽きない。もっと見たい。喩えが古・・・
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 浜辺美波の顔芸の映画。大したもんだ。既に『君の膵臓』の時から、これぐらいのポテンシャルは想像できたけれど、それにしても見事。見てて飽きない。もっと見たい。喩えが古すぎて恐縮だが、田中絹代や高峰秀子の顔芸を思わせる。竹内涼真にも一貫性があり好印象。できれば、決定的瞬間(恋に落ちる演出)が欲しいとも思ったが、そういうことはやらないのだ。それも良しとする。川栄李奈も上手い。この人、初めていいと思った。幼馴染の佐藤大樹との関係が変わらないのもいい。ラストは予定調和なのだが、これ以上ない最良の終わり方だと思う。矢本悠馬については、出番をもっと作って欲しかった。もっと見たい。しかし全部まとめて、やっぱり監督のディレクションの手柄なんだと思います。この過剰さは立派です。  ただし、新川優愛登場のコンサート場面が凡庸だったりで、全体に画面造型で驚かすような部分は希薄。相変わらず(撮影者は異なるというのに『君の膵臓』と同じような感じで)、高校内は、やたらと白い光(露光オーバーぎみ)で、この照明には飽きが来る。
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[009]追想
 小石Katsumi_Egi (Mail)2018-08-29
 
 イアン・マキューアンの原作(邦題「初夜」)は既読。と云っても10年ぐらい前に読んでおり、細部は殆ど忘却の彼方だったが、それでも初夜の顛末の面白さとエピローグの切なさ・・・
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 イアン・マキューアンの原作(邦題「初夜」)は既読。と云っても10年ぐらい前に読んでおり、細部は殆ど忘却の彼方だったが、それでも初夜の顛末の面白さとエピローグの切なさは上手く映画として演出されていると思った。ビーチの風景にサキソフォンのBGMが流れる開巻は、かなりイメージが異なり驚いたし、全体に音楽の使い方はポップ過ぎる感覚も持ったけれど、シアーシャ・ローナンは、これ以上ないと思われるぐらい、フローレンスのイメージにぴったりだ。それに、チェジル・ビーチの小石だらけの地勢の特徴が映画の画面として機能する。2人の意地の張り合いと硬化する関係の昂進を、この小石だらけのロケーションが、画面として後押ししているように思う。また、付き合い始めて間もなく、フローレンスが突然エドワード(ビリー・ハウル)を訪ねる部分が、私にとって、原作で最も清澄な印象を残した場面だったのだが、映画でも、こゝが最も撮影の綺麗なシーケンスだ。  さて、特筆すべき2つの長回しの移動撮影を記載しておこう。一つめは、前半のウィッグモア劇場での、フローレンスがアルバイトで譜面めくりをする、ピアノ演奏のカット。ピアノの周りを一周したように思うが、とても眩惑的な美しい移動ショットだ。そしてもう一つはエピローグ後のラストカット。チェジル・ビーチの場面のフラッシュバックだが、エピローグの感傷的な余韻を拭い去るような、だが、同時に倍加させもする、厳しく突き放した演出で秀逸。
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[010]カメラを止めるな!
 血糊Katsumi_Egi (Mail)2018-08-23
 【ネタバレ注意】
 「撮影現場の創意の映画」のように見えて、私には完全に「プリプロダクションの映画」だと思える。もう少し丁寧に書くと、撮影現場での創造性はあまり伝わらず、撮影前の設計・・・
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 「撮影現場の創意の映画」のように見えて、私には完全に「プリプロダクションの映画」だと思える。もう少し丁寧に書くと、撮影現場での創造性はあまり伝わらず、撮影前の設計段階で面白さが決まってしまっていると思える、創造性という意味での豊かさが、ごく限定的にしか感じられない映画ということだ。  もしかしたら、前半のワンカット映画撮影時における予期せぬアクシデントを、後半の撮影現場の中で、展開の変更や伏線回収として臨機応変に対応しているのかも知れないが、そうだとしても、完成した映画を見る限り、シナリオ段階でデザインした理屈の回収に終始する映画だという印象は免れない。  例えば、前半の映画の中で、血糊がカメラのレンズに付着し、カメラマンが布で拭く、という部分があるが、私は見ながら、アルフォンソ・キュアロンの『トゥモロー・ワールド』の「批評」になっていると思い、この部分は異様に昂奮した。(『トゥモロー・ワールド』では、血糊はコンピュータ処理で消されたと思われる)。さらに、この部分も、後半になって伏線として回収されるのだろうと思ってワクワクしていたのだが、結局、後半でこの部分は再現されなかったのだ。この例だけで云うと、前半の撮影現場のアクシデントが、後半で活かされている、と云うことはできないのである。  さて、そもそも中盤以降の、プロットが1カ月前に溯ってからは、画面が安手のテレビドラマかバラエティ番組の再現ドラマ映像レベルのクオリティになる。低予算でも、もっともっと充実した画面の映画は数多ある。私が見たいのは、このようなレベルの画面ではない。  ただし、登場人物のキャラクタリゼーションと見せ場のバランスは見事だ。中でも、母親(監督の妻)の非現実なキャラの増長ぶりがいい。このような、ぶっ飛んだ造型がもっとあれば、さらに良かったと思う。
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[011]ウインド・リバー
 羊たちKatsumi_Egi (Mail)2018-08-02
 【ネタバレ注意】
 息子に馬の扱いを教える(かつ、馬が息子に馴れるように調教する)という感動的な場面を持つ、雪のワイオミングを舞台にした現代西部劇。しかし、西部劇的意匠以上に、『羊た・・・
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 息子に馬の扱いを教える(かつ、馬が息子に馴れるように調教する)という感動的な場面を持つ、雪のワイオミングを舞台にした現代西部劇。しかし、西部劇的意匠以上に、『羊たちの沈黙』の後裔であるという感覚が強い。ずばり、羊の群れの場面から始まるのだ。  主人公はあくまでもハンターのジェレミー・レナーであり、基本的にはレナーの過去の出来事を絡めながら、彼のプロとしての振る舞いでプロットを牽引する。一方、若い女性のFBI捜査官として、エリザベス・オルセンが登場し、彼女の成長がもうひとつの焦点となるのだが、単に、まだ未成熟な女性FBI捜査官という意味で、ジョディ・フォスターを継承しているというだけでなく、本作の演出的な最大の見せ場が『羊たちの沈黙』でジョナサン・デミが行った時空の「すり替え」の継承なのだ。それもあからさまに、ドアのノックというアクション、ドアの内外という異空間を起点にするところまで同じであり、模倣じゃないかとも思われるが、本作では、全編で唯一こゝだけがフラッシュバックで繋がれる処理ということもあって、その演出効果の鮮やかさにおいて、甲乙つけがたい出来だと思うのだ。  さて、このトレーラーハウスのドアを挟んだ銃撃戦シーンの演出についても銘記しておくべきだろう。オフからの2つの銃撃が見事だ。初っ端の、ドアの向こうから、オルセンが撃たれる部分と、トレーラーの外部にいるレナーが、内部へ撃ちこみ、敵が吹っ飛ばされるカットを指している。簡潔かつスピード感溢れる巧い演出だと思う。  尚、エピローグでレナーのネイティブの友人が「死の化粧」をしており、「教えてくれる人がいなかったから、見よう見まねでやった」というような科白があるのだが、これは複雑な情感をもたらす科白で唸った。このエピローグもとてもいい。
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[012]パンク侍、斬られて候
 念動力Katsumi_Egi (Mail)2018-07-21
 
 冒頭の街道の場面での、綾野剛と近藤公園のフルショットでのシネスコの使い方も良いと思うが、それ以上に、中盤までの屋内での画面造型とカッティングが面白い。例えば、豊川・・・
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 冒頭の街道の場面での、綾野剛と近藤公園のフルショットでのシネスコの使い方も良いと思うが、それ以上に、中盤までの屋内での画面造型とカッティングが面白い。例えば、豊川悦司と綾野のシーンの、2ショットでのカット割り。或いは屋内望遠カットの圧縮感も。しかし、豊川は絶好調だ。國村隼の台詞回しもあらためて上手いと感じる。染谷将太もコメディパートとしては良い役で、この人が一番笑わせる。結局、中盤あたりまでは、そのぶっ飛び加減がかなり面白い映画だ。おおよそ、茶山−浅野忠信(登場のインパクト!)が出てくるあたりまで、或いは、ナレーションがデウスという名の猿だった、ということが分かる辺りまでか。デウス登場の際、目のアップで、これは間違いなく永瀬正敏の目だ、と分かる見せ方も(メイク含めて)とてもいい。  ただし、後半のカオスの表現はもっと効果的な見せ方があるんじゃなかろうか。デジタル処理は安っぽい。あと、北川景子の登場シーンの照明は、イマイチ。なんか黄色っぽい画面が嫌だ。また、北川への寄り過ぎの構図が目立つ。ダンスが変なのはいいが、この人だけ肌の露出度が低い、というのはどうだろうか。  その他、杓子定規な殿様・東出昌大、北川に惚れる密偵・渋川清彦、念動力を使う若葉竜也含めてキャラクターの描き分けと、きちんと見せ場を用意する演出は、大したものだと思う。
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[013]ジュラシック・ワールド/炎の王国
 エレベータKatsumi_Egi (Mail)2018-07-21
 【ネタバレ注意】
 これはシリーズ中でもかなり面白い、良く出来た活劇。殆ど弛緩することなく、驚くべきアクション場面が繰り出される。  冒頭は真っ暗な水中。光のカットがあり、海底探査艇・・・
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 これはシリーズ中でもかなり面白い、良く出来た活劇。殆ど弛緩することなく、驚くべきアクション場面が繰り出される。  冒頭は真っ暗な水中。光のカットがあり、海底探査艇が現れる。海の中の門が開き、前作で海に沈んだインドミナス・レックスの骨の一部が採取される。この後のアクションで、まず度肝を抜かれるのだが、同時に海中の水門が印象付けられるのだ。そして、続くブライス・ダラス・ハワードの登場はエレベータで、扉に挟まれそうになる演出だ。というように、全編に亘って、左右、上下のスライド開閉扉のモチーフが沢山出てくる。ラプトルの檻の扉は前作でも印象深い使われ方だったが、死活の境界線としての、ドアを使ったスリル創出が本作の肝だろう。本作では、恐竜の檻の扉だけでなく、島のシーンでは、あの丸い乗り物(ジャイロスフィア)のドアを絡めた場面も指摘できる。或いは、後半の邸宅の中の部屋にある荷物用の小さなエレベータだとか。  そして本作で新たに登場する怪物は、前作のインドミナス・レックスをさらに凶暴狡猾にしたインドラプトルというハイブリッド恐竜で、体が小さめなので、敏捷性も増しており、屋内のアクションシーンで上手く機能するようにできている。足の爪を床に打ち付けてリズムを取る音が不気味な効果を発揮する。ヴェロキ・ラプトルの生き残り、ブルーとの対決がクライマックスだが、その帰結は、第一作(『ジュラシック・パーク』)のラストを思い出させる、標本展示を使った演出だ。(さらに『ダーティハリー4』も想起させる)  エンディングは、かなり放りっぱなしの感があり、好悪が分かれるところだと思うけれど、これはこれで良いと思う。この続きは無い方が良いと思う。
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[014]女と男の観覧車
 日照り雨Katsumi_Egi (Mail)2018-07-14
 
 劇作家志望の海水浴場監視員ジャスティン・ティンバーレイク=ミッキーによるカメラ目線・モノローグの進行は相変わらず鬱陶しくて、好きになれないのだが、ヴィットリオ・ス・・・
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 劇作家志望の海水浴場監視員ジャスティン・ティンバーレイク=ミッキーによるカメラ目線・モノローグの進行は相変わらず鬱陶しくて、好きになれないのだが、ヴィットリオ・ストラーロの超絶照明には驚愕する。  遊園地のネオンサイン等電飾の光の氾濫が、多くのシーンで短い時間間隔の中での照明変化を納得させる理屈になっているのだが、車の中の、ミッキーとジュノー・テンプル=キャロライナのシーンでは、車外は夕立だが、徐々に日がさして日照り雨になっていく。それを車中の窓越しの光で表現する光の扱いには驚く。  クライマックスは、ラスト近くの、ティンバーレイクがケイト・ウィンスレットの家を訪ねて来てからの、二人のやりとりのシーンだろう。ウィンスレットのモンロー風のドレスの下からベージュの下着がはみ出している風情が常軌を逸した感覚を上手く醸成しているし、二人のオーバーアクトもまあ見応えがあるのだが、多分ステディカムなのだろう、二人を追いかけるシーケンスショットの画面は、多くは寄り過ぎ(もうちょっと引いてほしいと思うレベルのアップ)でフィクスになる。当然カメラオペレーションはストラーロじゃないし、真実は分からないのだが、このシーケンスショットの構図の選択は、アレンのもの(ディレクション)だろうと思うと、矢張り、ストラーロだけでは、映画足りえない、と思えてしまう。同じような演劇的な場面の演出であれば、まだアルトマンの方が映画だ。  また、焚火・火遊び好きの息子の扱いについては絶妙だ。この子の存在は『ラジオ・デイズ』を思い出させるし、ティンバーレイク以上に、アレンの分身として存在していると思える。そう考えれば、ラスト、ラストカットでも突き放して終わるエンディングは、主要登場人物全員を突き放しているにとどまらず、アレンが自分自身を突き放しているということだろう。 #冒頭から、ジュノー・テンプルの登場と歩行シーンは、『悲しみは空の彼方に』を思い出さずにいられない。
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[015]ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー
 拳銃さばきKatsumi_Egi (Mail)2018-07-14
 
 雪の西部劇であり、砂浜の(海の見える)西部劇。予告編を見た時から、他ならぬロン・ハワードの西部劇なのだから、悪くなろうはずもないと確信したが、期待に違わぬ出来栄え・・・
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 雪の西部劇であり、砂浜の(海の見える)西部劇。予告編を見た時から、他ならぬロン・ハワードの西部劇なのだから、悪くなろうはずもないと確信したが、期待に違わぬ出来栄えだ。  まずは、光に対しての自覚的な演出に引かれる。巻頭は黒画面にスパーク。続くシーケンスは、夜でずっとローキーだ。ソロ=アルデン・エーレンライクもヒロインのキーラ=エミリア・クラークも顔がよく見えないレベル。しかし、ウォームの女王に尋問されるシーンで、ソロが石を壁に投げ、いきなり光が射し込むのだ。この光の扱い良し。  その後のカーチェイスもまずまずの出来だが、戦場のシーンで、ウディ・ハレルソンとタンディ・ニュートンが登場してからの前半部が矢張り良く出来ている。チューバッカとの出会いを経て、列車強盗にいたる、雪の西部劇のシーケンスが白眉だろう。(ただし、このシーケンスの最後に、ハレルソンに「殴って悪かった」等と云せてしまうロングショットは、ロン・ハワードらしい甘さを感じる)  中盤はスペースオペラらしい宇宙活劇部分も盛り込まれるが、ドロイドL3にまつわる部分は、私には理に落ちた感がし、少々興醒めだ。惑星ケッセルからの脱出行で、ミレニアム・ファルコン号の操縦席のソロの横に、チューバッカが座るシーンには感激したが。  そして、舞台が海岸のある砂丘、コアキシウム精製施設のある星に移ってからが盛り返す。何と云っても、この場面の風がいい。このような画面の触感を楽しむことが映画を見る快感だ。まるで、アメリカ先住民(インディアン)のような人々。盗賊エンフィス・ネストが忽然と再登場するカットも怖さが良く出ている。  ラストの決闘シーンは、その簡潔さが良いのだが、ただ、こゝはもうちょっと派手に演出しても良かった。しかし、ホルスターから抜いて撃つ、という定番の銃の早撃ちを演出しなかったのは、考えた上での判断なのだろう。思い起こしてみると、ハン・ソロは、惑星タトゥイーンのモス・アイズリーの酒場で登場した際、ホークス『脱出』のハンフリー・ボガートや、フォード『シャイアン』のジェームズ・スチュワートのように、テーブルの下から相手を撃つ、という、ある意味卑怯だが、早撃ちの決闘とは対極の、実利的な(そしてある種アイロニカルな)演出がほどこされていたわけで(この際、どちらが先に撃ったのか、という事柄は置いておくとして)、早撃ちの拳銃さばきの見せ場は、ジャンゴ・フェットの特権なのかも知れない。いずれ、そのクローンである、ボバ・フェットが見せてくれることを期待したい。  或いは、本作のハレルソンは、戦場での登場シーンで見事な銃さばきを見せるだけに、ラストの決闘シーンでも期待をさせるのだが、矢張り現代西部劇としての慎ましさを示した演出なのだ。リー・マーヴィンもジョン・ウェインも死んでしまった後の西部劇なのだから。 #西部劇は1976年に『ラスト・シューティスト』で息の根を止められたが、その2年前に、『スパイクス・ギャング』によって瀕死の重傷を負わされている。リチャード・フライシャーとドン・シーゲルによる西部劇の葬儀。その両方に立ち会ったのが、他ならぬロン・ハワードなのだ。
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[016]犬ヶ島
 正面カットKatsumi_Egi (Mail)2018-07-08
 
 墜落する一人乗り機、ゴンドラ、カゴ等の宙吊りのモチーフ。これらを含めて極めてアナログ的な、面倒臭そうな仕組みが尊重される世界観が面白い。あるいは、犬もアタリも、い・・・
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 墜落する一人乗り機、ゴンドラ、カゴ等の宙吊りのモチーフ。これらを含めて極めてアナログ的な、面倒臭そうな仕組みが尊重される世界観が面白い。あるいは、犬もアタリも、いちいち目に涙を溜める描写が強調され挿入される細部も、人間臭い、心の通ったキャラクタリゼーションを印象付ける。  ケンカ、乱闘の表現が白い土ぼこりの反復で簡潔に描かれる演出はどうだろう。リアルに描き込むのは難しいことは分かるのだが、こゝだけ漫画的過ぎて違和感はある。  複数構成員による活劇であるという点とテーマ曲の流用という部分で、どうしても『七人の侍』へのオマージュを思ってしまうし、全編に亘る、正面から正面への切り返しは小津を想起させる。「竜来軒」の看板も小津っぽい。ただし、正面カットは小津以上に正面、というか真正面であり、ローアングルと人物の視線の危うさでハードボイルド性を獲得する小津の画面の特質とは似て非なるものだ。小津のローアングル+正面ショットの切り返しは、いつまでも、何度見ても、キャッチーで慣れることが難しいのだが、本作の正面カットの連続は、これが案外慣れてしまうし、違和感を覚えなくなる。という意味でも、小津へのオマージュというよりは、あくまでもウェス・アンダーソンがやりたいことをやった画面と云うべきだろう。『ファンタスティック Mr.FOX』の延長線上なのだ。
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[017]ファントム・スレッド
 自動車Katsumi_Egi (Mail)2018-06-23
 
 単純に本作の舞台であるオートクチュールの世界の華やかさ、その絢爛たるスペクタキュラーだけでも見応えがある。特に、最初の顧客の描写、公爵夫人ヘンリエッタの場面で既に・・・
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 単純に本作の舞台であるオートクチュールの世界の華やかさ、その絢爛たるスペクタキュラーだけでも見応えがある。特に、最初の顧客の描写、公爵夫人ヘンリエッタの場面で既に圧倒される。  しかし、あゝ本作も、階段の映画であり、ドアの映画だ。それは勿論、端的にはダニエル・デイ=ルイスの居所兼仕事場にある階段の描き方、雇い人の女性達(パターンナーやお針子達)を行き来させる、圧倒的な画面の面白さを指しているし、各部屋のドアの、境界線としての意味づけ、人(亡霊も!)を中に入れるかどうかといった峻別を厳格に意識させる演出を指していたりする。  さらに、人物の視点の高低の描き方について云えば、階段を使ったシーンだけでなく、アルマ−ヴィッキー・クリープスを、箱の上(云わば小さな即席の階段)に乗せて、服を着せたり、採寸したりする別荘のシーンが出色の出来だ。この演出のねちっこさにはゾクゾクする。  また、ダニエル・デイ=ルイスが運転する自動車(ブリストル40)のカットが悉くスリリングで、これもある種の異常な空間造型と云えるだろう。既に最初に別荘へ向かう車を後部から撮ったカットが尋常じゃないし、アルマを迎えに来る夜の場面の、Uターンのカットもそう。これら、自動車という装置の暴力性の強調は、ダニエル・デイ=ルイスの性格付けへ寄与にするにとどまらず、異空間の造型として強烈に機能する。  このような、階段やドアや自動車といった装置の演出は、エンディングに向かって、二人の異様な関係性を深化させる、その感情を組織する。キノコのオムレツを食べさせる場面の二人の視線の演出が、直截的にスリルを感じさせる分かりやすいクライマックスの演出ではあるのだが、階段やドアや自動車も、ラストに向かって2人の関係性を収斂させる重要な要素なのだ。  尚、ダニエル・デイ=ルイスの姉シリルを演じるレスリー・マンヴィルが流石にオスカーノミニーも納得の存在感だ。その冷たさと厳しさ、そして秘めたる優しさも滲み出る、凛とした佇まいが美しい。
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[018]レディ・バード
 旅立ちKatsumi_Egi (Mail)2018-06-17
 
 冒頭、車の中で「怒りの葡萄」の朗読を聞いて涙する母と娘。直後の顛末の見せ方、そのスピード感にうなる。ラストも車を運転する場面のフラッシュバックがあり、母への想い、・・・
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 冒頭、車の中で「怒りの葡萄」の朗読を聞いて涙する母と娘。直後の顛末の見せ方、そのスピード感にうなる。ラストも車を運転する場面のフラッシュバックがあり、母への想い、わが町サクラメントへの想いが語られるので、全体に本作は自動車の映画であり、母娘の映画であり、サクラメントという町についての映画だったという心象が強く残る。  悪い癖で「これは〜の映画だ」などと、ついついレッテル貼りをしてしまうのだが、勿論、一本の映画には多くの側面や切り口が見い出せるわけで、レッテル貼りは、感想をまとめる上での単なる方便に過ぎないです。本作も、一方で、シアーシャ・ローナンのロスト・バージンを主軸にしたプロットで構成されており、前半はルーカス・ヘッジズ、中盤以降はティモテ・シャラメとの恋愛譚として括るべきでしょう。あるいは父親や兄とその恋人を含めた家族の物語だし、何よりも、カトリック系の高校を舞台とする学園モノと云うべきかも知れない。学生演劇でやるミュージカル場面(練習風景含めて)がとても楽しい。  しかし、それでも、矢張り、これが母娘の映画だと考えたくなるのは、ヘッジスやシャラメの扱いが中途半端である、という理由もあるのだが、例えば、本作のクライマックスは、後半の空港のシーンだと思うからです。この空港の場面は全く普通じゃない。主人公のローナンを捉える視点は早々に捨て去られ、別れの場面も旅立ちの場面も割愛されるのだ。代わりに映されるのは、車を運転する母親・ローリー・メトカーフとその悲痛な表情で、私はこの構成・演出を思い出すと、今でも涙がこみ上げて来る。素直にグレタ・ガーウィグの才能を称賛したいと思う。  さて、2002年から2003年を時代背景とする映画だが、画面の肌触りは全編に亘ってザラザラしており、1970年代のフィルムの触感がある。斜光や太陽光の取り込み、といった特徴も、その感を強くさせる。この撮影も本作の題材によくマッチしており、ポイントを上げる。IMDbのTriviaによると、ガーウィグは、当初16ミリでの撮影を希望したが断念したとのことで(デジタル撮影後、ノイズを強調したらしい)、こういったこだわりも映画作家として好ましいと思う。今後に期待大だ。
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[019]万引き家族
 選ぶKatsumi_Egi (Mail)2018-06-14
 
 小さな庭と縁側のある住居の美術装置と、黄色っぽい照明(フィルターワークか?)の醸し出す危うい感覚は面白いのだが、前半は人物の動きが平板で、映画が走り出さず、若干い・・・
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 小さな庭と縁側のある住居の美術装置と、黄色っぽい照明(フィルターワークか?)の醸し出す危うい感覚は面白いのだが、前半は人物の動きが平板で、映画が走り出さず、若干いらいらしながら見た。やっぱり賞取り映画らしい刺激の無さかと思いきや、しかし中盤からは、良くなる。特に、夏になって、祥太とリン(ユリ、ジュリ)の蝉採りが描かれるあたりから、この2人が出てくると、ホッとさせられる。また、夏のシーンでは、海水浴の場面も印象深いが、ソーメンと通り雨のシーンや、音しか聞こえない隅田川の打ち上げ花火を皆で見る縁側の場面など、良いシーンが目白押しだ。リリー・フランキーと安藤サクラがソーメンを食べるシーンは、ソーメンの鉢を2人でつついている、ということ自体がもう暗喩だが、安藤の振る舞いと、そのカッティングは絶品。また、花火を皆で見る縁側の場面では、いったん、俯瞰で全員を捉えた後、さらにカットを換えて、大俯瞰(ビル屋上レベル)になる。この視点移動は本作中白眉だろう。印象的な大俯瞰は、前半にも、スイミーとマグロの話をする祥太と治(フランキー)の場面で使われており、いずれも夜のカットである、という点は、撮影現場の苦労が思われる。  結局、リンは振り出しに戻ったかのようにも思えるが、ラストの視線の表すものを考えるなら、彼女の成長は明らかだと私は感じる。リンという名前を自分で選んだシーンは、その決然たる反応に驚いたが、他の登場人物も皆、自分で選ぶ、選んだ、というモチーフが、ラストまで一貫して描かれており、そういう意味で、本作は、曖昧ではあるが、力強さを感じる、ある種のハッピーエンディングと云っていいだろう。  些末過ぎて、どうでもいいと思われる話かも知れないが、本作中、3回フェードアウトがある。1回目は、上に書いたスイミーとマグロの話をする2人の大俯瞰カット。2回目は縁側でリンを抱きしめる安藤サクラのカット。3回目は、ラスト近く、空き家になった家に戻って来た松岡茉優のカット。私はこれら3つとも、フェードアウトは不要と思う。こゝで場面転換に変化をつけたい、という編集者の生理をある程度納得するものの、映画の流れを途切れさせる、コブのようにひっかかりが残ると感じるのだ。
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[020]ベストフレンズ
 魔法Katsumi_Egi (Mail)2018-06-09
 
 ジョージ・キューカーの遺作も、遺作ベストテンを選ぶとしたら入れたくなるぐらいの見事な映画だ。まずは冒頭の冬のカレッジのシーン。雪の舞う様が独創的だし、駅のホームで・・・
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 ジョージ・キューカーの遺作も、遺作ベストテンを選ぶとしたら入れたくなるぐらいの見事な映画だ。まずは冒頭の冬のカレッジのシーン。雪の舞う様が独創的だし、駅のホームでの別れの場面の、傾いた列車のカットが、何度切り返しても、きちんと傾いており、一貫性のある画面に見えるなんてところで、もう魔法を見たように感動してしまう。こゝからラストの暖炉を前にしたカットまで、ため息がでるような美しい画面の連続、素晴らしく安定した王道のリバースショットとカッティング・イン・アクションの連続なのだ。  ジャクリーン・ビセットとキャンディス・バーゲンの2人ヒロイン。2人とも当時30代半ばで、とても美しい。邦題はこの二人の間柄を表していて、ほゞ同等に見せ場もあるのだが、プロットの主軸は、あくまでもビセットだ。彼女の、多くの場面で毅然としているのに、一方で性に対して奔放、という造型は、このキャラクターを複雑なものとし、同時に映画の娯楽性を上げており、私は映画的に好ましい措置だと思う。まず前半の、旅客機のトイレでの情交シーンが、常軌を逸した愉快なシーンになっており、こゝだけでも素晴らしい。旅客機の着陸態勢、車輪を機体から出す様子等やランディングの描写とのクロスカッティングが、意味不明の(というか問答無用の)メタファーになっている。なんと若々しい演出!しかも堂々たる安定したカッティングなのだ。  さて、ビセットを中心に書いてしまったが、バーゲンのとびっきりの見せ場も上げておこう。それはラスト近くの全米作家賞受賞パーティの場面で、暗い部屋に一人たたずむ彼女のカットだろう。このカットの美しさには惚れ惚れする。そして、キューカーのラストのラストも、本当に感動的な、もうこれしかない、というラストカット。さらに付け加えれば、ジョルジュ・ドルリューの音楽も美しい。あゝ映画の至福。 #備忘 ・メグ・ライアンがバーゲンの娘の役で本作がデビュー。まだまだ演技は拙い。 ・都合3回のパーティシーンがあるのだが、それぞれのパーティに多くの作家や映画人が顔を見せているよう。ラストクレジットには、クリストファー・イシャーウッドだとか、ロジェ・バディム、キャンディス・バーゲンの母親のフランセス・バーゲン、ランダル・クレイザー、ポール・モリセイ、ニナ・フォックなんて名前が見える。NYでのプロモーションのためのパーティの場面で、レイ・ブラッドベリがいるのは私にも分かった。
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[021]椿姫
 奇跡的Katsumi_Egi (Mail)2018-06-09
 
 ラストのガルボの視線!どんなにやつれてもガルボは美しい。もうガルボを美しく撮ることにスタフが結集した女優映画だが、しかしそれだけでは終わらないジョージ・キューカー・・・
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 ラストのガルボの視線!どんなにやつれてもガルボは美しい。もうガルボを美しく撮ることにスタフが結集した女優映画だが、しかしそれだけでは終わらないジョージ・キューカーの繊細な演出が息づく傑作。オペラ座での視線の演出、田舎暮らしのシーンの光の扱い、ライオネル・バリモア来訪シーンの重々しい空気。そしてこゝからラストへ向かってキューカーは観客の感情をわしづかみにして振り回す。ラストのガルボはまさに奇跡的だ。
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[022]レディ・プレイヤー1
 欠落感Katsumi_Egi (Mail)2018-05-28
 
 やっぱり、VRゴーグルをかけた人々の、リアルな動作の映像がいちいち挟み込まれる、というところがポイントだろう。これを面白がる(心の中で笑う)映画だと見た。云うなれば・・・
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 やっぱり、VRゴーグルをかけた人々の、リアルな動作の映像がいちいち挟み込まれる、というところがポイントだろう。これを面白がる(心の中で笑う)映画だと見た。云うなれば、『空飛ぶモンティ・パイソン』の「Silly Walker」のコントのような、風刺としての面白さ、として受け取ったということだ。  2045年のオハイオ州コロンブス。冒頭の主人公が住むマンション?からして、嘘っぽい。造型としては面白いが、結局、映画中の現実も、アバターの世界以上に嘘っぽいのだ。住環境も、あるいは、25年後のVRゴーグルが、今現在のものとほとんど変わらないというようなことも含めて(未来のVRギアはゴーグル型だろうか!)。勿論、これって、ワザと狙ってのデザインなのだろう。  一番目のゲーム、レースシーンは凄いスピード感で楽しめた。『AKIRA』の金田バイクかどうかは別として、1台だけ(?)バイクの視点があるのは、とても効果あり、と思う。『シャイニング』の再現を褒める人が多いですが、私には、ニコルソンやデュヴァルが出て来ない、というのは、恐ろしく欠落感があり、がっかりした。(バスタブの女は、元フィルムのカットでしょう?)対して、ダンスクラブの「Stayin Alive」のシーンは美しいデザイン。また、メカゴジラの登場とゴジラのテーマの変奏には、感激した。ガンダムはつまらない。  エンディング近く、集まってきた人々から歓喜で迎えられる、というお約束パターンと、パトカーの中でぶん殴られる悪役、というこれも、よくあるオチ。どうしてこんな子供だましのような演出をするのだろう。子供も大きなターゲットだから、なのかも知れないが、そうだとしたら、子供をバカにしている。
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[023]ヒッチ・ハイカー
 空き缶Katsumi_Egi (Mail)2018-05-19
 
 とにかくウィリアム・タルマンの悪役造型に尽きるのだが、演出も丹念によく見せる傑作スリラーだ。荒野の道を走る車、そのロングショットもバリエーションが豊かで感心する。・・・
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 とにかくウィリアム・タルマンの悪役造型に尽きるのだが、演出も丹念によく見せる傑作スリラーだ。荒野の道を走る車、そのロングショットもバリエーションが豊かで感心する。野宿の際の焚火がタルマンの顔に反映するカットなんかも、ゾクゾクする映画性。また、夜、寝る際も、タルマンは右目を薄く開けているように見え、寝ているのか起きているのか分からない。このあたりの描き方も見事。  銃を突き付けられ、要求通り車を運転せざるを得なくなったエドモンド・オブライエンとフランク・ラヴジョイが、いかにしてウィリアム・タルマンから逃げおおせるか、という話ではあるのだが、エンディングを含めて、彼らができること(できたこと)は殆どなく、結局、タルマンの一人勝ちで終わってしまう映画だというところも素晴らしい。  クレジットの序列ではオブライエンの方が明らかに上位だが、キャラ造型とプロット上の役割で云えば、オブライエンよりもラヴジョイの方が、ずっとヒーローらしい描かれ方をしている。ラヴジョイは射撃の名手で、オブライエンが空き缶を持たされ、ラブジョイがライフルで空き缶を撃つように命令されるシーンなんかが顕著な部分でしょう。こゝも見事なシーンだ。
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[024]二重結婚者
 階段Katsumi_Egi (Mail)2018-05-19
 
 この映画、全般的に屋内よりも屋外の描写に独創性がある。サンフランシスコの路上で、エドマンド・グウェンを手前に配置して、その背景にかなり急な坂道の斜面と、さらに向こ・・・
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 この映画、全般的に屋内よりも屋外の描写に独創性がある。サンフランシスコの路上で、エドマンド・グウェンを手前に配置して、その背景にかなり急な坂道の斜面と、さらに向こうのビルを映すカットだとか。最初に出てきた時にも目を引いたが、この構図を反復するのだから、ワザとやっているのだ。或いは、ビルの外観のティルトアップなんかも、何てことのないカットなのだが、妙に目に留まるし、違う云い方をすると、映画のリズムを形成している。また、屋内だと、アイダ・ルピノのアパートの階段はいい。こゝも何度も反復するが、全て階段下から仰角で撮った同じ構図のカットばかりなのだ。階段上から俯瞰で切り返したりしない、というところが、上で書いたグウェンの路上のカットと同様に、拘った演出に思えてくる。もしかしたら、真実は、カメラを置くことのできる場所がこゝしかなかったから、なのかも知れないが。でも、良いカットの反復なのだから、監督の功績ということでしょう。あと、エドモンド・オブライエンとジョーン・フォンテインが暮らす家の中のカットでも、バルコニーから玄関までを縦構図で表現した良いカットがある。(でもこの家の東洋趣味のクセが強い)
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[025]君の名前で僕を呼んで
 Katsumi_Egi (Mail)2018-05-09
 
 自然光と自然音の取入れがとても心地よい画面と音の映画だ。特に撮影はタイからサヨムプー・ムックディープロムを招き、奇抜な繋ぎを廃して(一部ジャンプカットもあるが)、・・・
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 自然光と自然音の取入れがとても心地よい画面と音の映画だ。特に撮影はタイからサヨムプー・ムックディープロムを招き、奇抜な繋ぎを廃して(一部ジャンプカットもあるが)、あくまでも静謐なカメラの視点を突き付ける。  それは、自然光を基調としているが、決してナチュラルな透明感を志向しているだけではない。例えばピントが甘いカットも多く使われているし、ティモシー・シャラメとアーミー・ハマーの二人が旅行中の、夜の舗道のシーンでは、なぜかスプロケット穴(フィルム穴)が写っているテイクさえある。あるいは、二人で、ピアーヴ・メモリアルという記念碑に立ち寄るカットは、ワンカット中に2回ティルトアップをし、記念碑の銅像と、隣接する教会の尖塔の十字架を見せるという、観客の視点を強制する硬質なシーケンスショットだ。このように、意思のはっきりした演出が継続しているので、見る側の緊張感も持続する。  さて、配役について云えば、何と云っても主人公のティモシー・シャラメが超絶美少年で惚れ惚れしてしまうのだが、対するアーミー・ハマーは、少々とうが立っているというか、でかいし、えらそうで、ミスキャストとまでは云わないがシャラメが勿体ないと思えてしまった。シャラメの父母も良い存在感だ。特に、父親のマイケル・スタールバーグはエンディング近くでとびっきりの見せ場がある。このスタールバーグの科白のおかげで、オスカー脚本賞じゃないかと邪推してしまう。(ま、それぐらい臭いし、不要な科白と云えるかもしれない :-P。)  また、エピローグの雪降らしはいい。それまでの夏の陽光と素晴らしい対比をなす。さらにラストカット、というか、エンドクレジット中のシャラメを映した長回しが見事なアイデアで、記憶に残る。シャラメの後景のフォーカスが外れた部分に食事の用意をする母たち。その後ろの窓の向こうで、しんしんと降る雪。
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[026]ラッキー
 ungatzKatsumi_Egi (Mail)2018-05-02
 
 あゝ、ハリー・ディーン。冒頭とエンディングのリクガメの歩みは、ウェルマンの『牛泥棒』を再現しているし、一人の俳優の、これ以上ない遺作、という意味では、『ラスト・シ・・・
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 あゝ、ハリー・ディーン。冒頭とエンディングのリクガメの歩みは、ウェルマンの『牛泥棒』を再現しているし、一人の俳優の、これ以上ない遺作、という意味では、『ラスト・シューティスト』と双璧ではないだろうか。劇中、ウェインへのリスペクトを表明するシーンもあるではないか。  ダイナーの黒人店主は『パターソン』のバリー・シャバカ・ヘンリーだ。逃げたリクガメ、ルーズベルトへの執着を語るデヴィッド・リンチ。赤い光の空き地へ吸い寄せられていくジェームズ・ダーレン。弁護士、ロン・リヴィングストンとのダイナーでの和解も心に残る。太平洋戦争の従軍経験で、笑顔の少女の思い出を語るトム・スケリット。これら印象深いシーンの連打だ。  そんな中でも、フィエスタ(雑貨屋の息子の誕生日パーティ)で、いきなり、大真面目に唄い出すシーンが、一番の見せ場かも知れない。あるいは、心配して訪ねて来たフィリピーナ、イヴォンヌ・ハフ・リーとのハグのシーンか。いや、禁煙のバーで、煙草を吸う場面だろうか。ウンガッツ。無。そして笑顔。
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[027]らせん階段
 心因性Katsumi_Egi (Mail)2018-04-30
 
 冒頭シーン。ホテルで無声映画の上映会が行われており、一見してグリフィスだと分かる。(調べると『The Sands of Dee』という映画。)その後、ホテルの階上の部屋で足を引き・・・
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 冒頭シーン。ホテルで無声映画の上映会が行われており、一見してグリフィスだと分かる。(調べると『The Sands of Dee』という映画。)その後、ホテルの階上の部屋で足を引きずる女へディゾルブするのだが、もうこの処理だけでゾクゾクしてしまう。殺害シーンの造型も秀逸。男の目、瞳孔までエクストリーム・クローズアップする。くだんの無声映画を見ていたヒロイン、ドロシー・マクガイアは唖者だが心因性の失声症であり、この設定がラストまでプロットに力を与える。前半すぐに彼女が女中として働いている町はずれの屋敷に舞台が移り、ラストまでカメラはこの屋敷を出ない。本作も、もう殆ど屋敷が主人公と云える映画だ。やたらと人物が出入りし、また人物の関係性もなかなか複雑だが、よく整理して見せる。見事にさばいている。本格推理のような趣もある点は、ちょっと作り物臭いのだが、実にスペクタキュラーな見せ方が続く。タイトルのらせん階段はこの屋敷の階段で、2階から1階、地下倉庫と続いている。地下の酒蔵、ブランデー、蝋燭といった道具立ても含め、映画らしいドキドキ感が息づいている。クライマックスでは、マクガイアはランプを窓に叩き付けたりして驚かしてくれるのだ。尚、陰鬱な場面も多い映画だが、一方、マクガイアが随所で屈託のない可愛い笑顔を見せるので救われる思いがする。このあたりのバランスもいい。
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[028]幻の女
 手のオブジェKatsumi_Egi (Mail)2018-04-30
 
 主人公は容疑者・アラン・カーティスかと思わせておいて、プロットを秘書のエラ・レインズに引き継ぐのだが、彼女の探偵物語になってからが断然いい。バーテンダー尾行シーン・・・
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 主人公は容疑者・アラン・カーティスかと思わせておいて、プロットを秘書のエラ・レインズに引き継ぐのだが、彼女の探偵物語になってからが断然いい。バーテンダー尾行シーンの濡れた舗道。列車のホームの夜の表現、見事な情感創出だ。また、エリシャ・クック・Jrがかなり目立つ良い役を与えられていて嬉しくなる。クック・Jrはレインズに誘惑される役なのだ。この場面の彼女は随分と芝居じみたセクシー美女に変身する演出で、この辺りはちょっと現実離れした、いかにも娯楽映画らしい部分だが、二人で行くジャズ・バーのシーンは、ある種狂気的なセクシャルな表現で特筆すべきだ。  そして最もビッグネームであろうフランチョット・トーンの登場が中盤になってから、というのがキャラクターの扱いとしてカッコいいところなのだが、トーンの悪役造型も特筆に値する。何と云っても彼の手の演技がいい。手で顔を押さえて苦痛の表情をしたりするが、神経質そうなルックスが合っているのだ。クライマックスはトーンの家だが、彼は彫刻家なので部屋に面白いオブジェがある。そんな中で、実にさりげなく手のオブジェがレインズの背景に映される。それも、最も重要なカットでこれを認めることができるのだ。なんて鮮やかな演出だろう。
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[029]ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男
 アイリスアウトKatsumi_Egi (Mail)2018-04-21
 
 異常な俯瞰の映画だ。まずは、ファーストカットが議会の真俯瞰、ということで、その宣言がなされている。以降、何度も鳥瞰、大俯瞰があるのだが、まるで『アメリカ交響楽』の・・・
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 異常な俯瞰の映画だ。まずは、ファーストカットが議会の真俯瞰、ということで、その宣言がなされている。以降、何度も鳥瞰、大俯瞰があるのだが、まるで『アメリカ交響楽』のラストのような、真俯瞰での大気圏外上昇移動まで見せる。それも2回も、だ(カレーの城塞の場面と、雨の中、屋上で傘を持って座っているチャーチルが、上空を見上げる場面)。という訳で、本作は、史実を描くと見せながら(というか概ね史実であることは違いないのでしょうが)、多分にフィクショナルな、作り物感丸出しの娯楽映画の演出がなされている。俯瞰以外にも、窓からの白い斜光の多用も(議会でも、宮殿でも)象徴的だ。対比するように、外光を取り入れる窓がない地下の執務室や閣議室も出てくるが、この作戦本部の扉にある小さな窓の演出も、かなり凝ったものになっている。あるいは、車の中から路上を見るチャーチルの見た目で、市井の人々を横移動の高速度撮影で撮った場面だとか。はたまた、子供が、上空の飛行機を、手を丸めて望遠鏡のようなイメージで見るのだが、その手の空間を細めていくことによってアイリスアウトのような画面になる、なんて面白いこともやっており、ジョー・ライトの演出技巧はとても楽しいのだが、果たして、本作の題材にマッチしているか、と云うと疑問を感じてしまう部分もある。(カレー玉砕の描き方に関しては特に)  さて、本作はチャーチルとその妻−クリスティン・スコット・トーマス、チャーチルと秘書−リリー・ジェームズという2人の女性との関係を丹念に描く部分でも見応えがあるが、もう一人、国王ジョージ6世−ベン・メンデルソーンとの関係の変化も感動的だ。メンデルソーンはコリン・ファース(『英国王のスピーチ』)に比べて幾分控えめに吃音を表現している。あと、チャーチルが地下鉄に乗って庶民の意見を聞くシーンも感動的ではあるのだが、流石に作劇的過ぎるというか、臭すぎる。
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[030]レッド・スパロー
 娼婦の学校Katsumi_Egi (Mail)2018-04-21
 
 まずは、このオープニング、アヴァン・タイトルに惹きつけられる。ジェニファー・ローレンスのバレエ・ダンスと、ジョエル・エドガートンの諜報活動とのクロスカッティング。・・・
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 まずは、このオープニング、アヴァン・タイトルに惹きつけられる。ジェニファー・ローレンスのバレエ・ダンスと、ジョエル・エドガートンの諜報活動とのクロスカッティング。いずれの昂奮も高め合う見事な演出だ。以降、この冒頭を超えるほどのシーンは現れないし、ローレンスと母親の関係を挿入する場面等で若干の弛緩もあるけれど、それでも、全編緊張感を上手く維持している。  キアラン・ハインズ、ジェレミー・アイアンズ、マティアス・スーナールツという悪役トリオも申し分の無い出来だし、それに加えてシャーロット・ランプリングが「娼婦の学校」の監督官という良い役回り。さらに、黒ずくめの若い殺し屋が極めて残酷かつ唐突な暴力を表現して、強烈な印象を残す。というように、活劇にとって最も重要な要素と云っていい、悪役の存在感も充分だ。  また、演出のきめ細かさに唸らされる部分もいくつかある。例えば、ブタペストのシェアルームの建物。門を入ると、上階の廊下に犬がいるのだが、最初のシーンでは、きちんと犬を映す。続いて、2回ほど、帰宅時の場面を短く挿入し、オフの鳴き声だけを聞かせておいて、3回目の帰宅の際は、鳴き声がなく、ローレンスの視線の演出(上階の方をちらっと見る視線)で犬の不在を印象づけ、サスペンスを高めるのだ。このあたりは上手いと思う。その他、メアリー=ルイーズ・パーカー演じる上院議員のキャラ造型やその顛末の描き方、クライマックスの夜の飛行場の演出、グリーグの音楽の扱い等含めて、なかなか良く出来ている。
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