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 「gosto de cinemas」さんのコメント一覧 登録数(16件)rss
 コメント題投稿者投稿日
[001]イキガミ
 嫌いじゃないがgosto de cinemas2009-09-27
 【ネタバレ注意】
仮想の設定を楽しむ近未来作品では、その設定のシミュレーションを楽しむのが主眼で、プラスαでオイシいシーンがあれば儲けモノ、くらいに考えているから、幾つかオイシいシー・・・
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仮想の設定を楽しむ近未来作品では、その設定のシミュレーションを楽しむのが主眼で、プラスαでオイシいシーンがあれば儲けモノ、くらいに考えているから、幾つかオイシいシーンがあって良かった、良かった、である。(1800円払って映画館で見る映画ではない。もちろんレンタルDVDだ) 面白いのは、「死」への恐怖が生を活性化するという法則には抗いがたいものがある。私は戦争時代や、政治運動のはげしかった時代への名状しがたい憧憬を抱く世代だが、「激動の時代」を歴史番組でみるだけの相対的に若い世代は、生の躍動を促す「死」を、インスタントに提供するこの映画の法律の説得力を、誇張でなく実感できるのではないか。  「生を尊いものにする仕掛け」にともなう理不尽な死に、義憤を感じ始めた主人公たちの一見「正常な」感覚をもってしても、死が生を輝かせる(生の価値を増大させる)事実にどう反論できるのかという疑問も湧いてくる。 戦前と異なるのは、戦前は天皇主権の下で作られたシステムで法律が決まり、戦争へと暴走し、国民を抑圧・翻弄したという歴史であったのに対し、映画の設定では一応民主的に選ばれたリーダーが民意を代弁してこの法律を作り、国民自身を縛りつける事となった、という事だ。その意味でナチスに通じ、人間の理性も時に判断を誤り、とんでもない事態をまねく、というような暗喩もこめられていそうである。 が、実際にはドラマ中のミュージシャン翼にしても、さくらの兄貴も、最後に生命の輝きを見せ、人々を感動させたわけである。この美談そのものが滝沢議員の宣伝に使われそうな素材でもあるが・・ともかくドラマとしては、彼らはこの法律ゆえに凝縮された生を生きる事ができた。 しかし、よく美談の題材となる特攻兵士と、この映画の美談とは一緒ではない。かつての戦争は、庶民にとって、国家から一方的に被った被害であるのに対し、国繁死亡者とは、民主的手続により決定されたルールによる犠牲者である。合意の上というやつである。日本人の弱点・・自らを精神的な高みへと律する倫理も宗教も持ち得なかった民族の弱点を、克服するために知恵を絞って作った法律なのである。(言ってしまえば) ドラマの中を覗くと、さくらの兄貴が妹のために尽くすシーンが、いかにもありがちな設定にもかかわらず、ぐっと来た。親をなくした男児がアウトローの道へ進むのはありがちだが、もし妹が盲目でなかったら、兄の身辺の怪しさはバレてしまい、妹の叱責を受けたかも知れない。だがなまじ騙しおおせるという甘えから、悪事に手を染めてしまう弱い兄でもある。 しかしさもありなんと理解もできるのである。そして「逝紙」が届いた兄の様子が秀逸。妹が喜ぶ顔を見る事への期待だけが彼を支えており、せめてそれによって報われる事を夢みて大金を稼ごうとさえした彼が、その瞬間を目前にして命を手放すこととなった巡り合わせを吟味し、不運を嘆く心は他のエピソードに比べても、ストレートに伝わってきた。「逝紙」を手にした者の行動、という面ではこの役が最も自然だったと思うのだが。彼の叫びのような行動には必然性を感じた。個人的には兄の死を手術直後に知る事となった、さくらの様子をみたかった。 翼の相方だった森尾の元を訪ねたプロダクションの中年男には、もっと言葉で怒りをぶつけてほしかった。「お前のせいであいつがどれだけ苦しんだか分かってんのかよっ。どの面下げて来てんだおら!」と。黙って睨むだけでなく。 最も不評な、風吹じゅんの議員さんエピソードの破綻は、思想改造された、という設定がドラマに有効に用いられていない事、引きこもりの生態が正しく描かれていない事、その他不要なシーンが原因だ。 法律は施行されているのに、法律の有効性を説いて回っているのはなぜ? また、この法律は「死」によって「生」の尊さを増大させる効果が狙われているにもかかわらず、滝沢議員じしんは、死から目を背け、息子の命と向き合えず、家庭を失って行く過程を辿ってゆく。この皮肉を描きたいのだとしても、息子に死亡予告書が届くことの(ドラマ上の)理由、効果が薄く、警官に撃たれて死ぬ事の(ドラマ上の)意味も、ぼやけている。「逝紙」をみても変わらなかった(生に目覚めなかった)母。 不出来なものの解説にこんなエネルギーを使うのも勿体ないが、そんな事をつらつら考えさせられた。
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[002]リンダ リンダ リンダ
 青春映画gosto de cinemas2009-08-10
 
秀作はあるけれど、安直なのに当たらないかと警戒してしまう「青春映画」というカテゴリー。題名の平易さゆえに無視していたこの映画だが、『リアリズムの宿』でこの監督に好印・・・
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秀作はあるけれど、安直なのに当たらないかと警戒してしまう「青春映画」というカテゴリー。題名の平易さゆえに無視していたこの映画だが、『リアリズムの宿』でこの監督に好印象を持った。 リアリティを重視した<青春>映画にあたると、かつての自分、そして現在の自分を眺めて、胸の奥をつかまれるような、灼けつく感じをおぼえて苦しくなってしまう。そして音楽はどうしたって人を魅了する。 リアリズムな映画には、見過ごした何かが必ずある。例えば主要な登場人物であるバンドのメンバー達の背景は、はっきりと語られる事がない。だがある種の真実味が醸され、奥行きと広がりがある。背後で世界とつながっているリアリティ。例えばバンドの中心である恵(ケイ)のエキゾチズム、父の影が薄く同情するのも母親だけ。海外赴任しているのか、離別したのか・・あるいはミュージシャンなのか。。元カレとの経緯は? なぞは多いがハマっている。ベースの望に特にエピソードはないが次第に皆の尻を叩いて行く位置に収まる、その姿に家庭事情が少し滲んだりもする。年齢に似合わず役割を担う勇気や割り切りのあるやつが、いたな。。そんな事を思い出したり。 留学生のソンが主役という事らしいが、これまた説明されなさすぎ?な人物。彼女はバンドを成功させること、うまく歌える事以上の大きな目標や、役割を据えていない。留学生という特異な設定なのに目立ちすぎないように演出されている。ドラマの軸はバンドの分裂に始まる「バンドの行方」にあり、その軸に対してソンは脇役、観察者の位置にある。そして劇的な解決策をもたらす役でもない。ただ縁を大事に、仲間のために奮闘する姿が他のメンバーとちょうど良い足並みとなり、共に手をつないで前進するイメージを作っている。そのようにふるまうソンの背後にあるものも、想像する事しかできないが、他の人物も含めて「背後」を想像させる雰囲気が、この映画の重要な要素になっている。 良い音楽に頼ればそれなりのドラマができる。「リンダリンダ」は、中でも最高の素材、という事は、誰でも思いつくありきたりな素材とも言える。そこは逆にハードルだ。この映画は彼女ら独自の演奏でありながら(プロ並みにうまいわけでもない)、最後にカタルシスにたどり着く事に成功した。 楽しい脇役も取沙汰したい所。頼りなげな小山先生の気持ちが最後には伝わってくるが、それまでの言動はその「不器用さ」ゆえに(観客にさえ)誤解されるというのが笑える。バンドのメンバーらが夜中に学校に忍び込み、こっそり練習するシーンがあるが、その次のシーンでは堂々と音を出している。その音を聞く小山教師の表情は抑制され、逆に色んな想像ができる。 学校の屋上でマンガ喫茶を開く中島先輩、歌がうま過ぎる萌、恥ずかしい告白でフラれるマキ、山田を待っていた大江の純情さ、描写は地味だがこのドラマの群像の1ピースとして輝いている。
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[003]Mr.ブルックス 完璧なる殺人鬼
 残念の理由gosto de cinemas2009-05-15
 【ネタバレ注意】
最近確実に落ちてきてるように思う米製映画、実際見なくなったが今回はビデオ屋で、主役二人の名前と、シナリオの設定でつい借りた。ケビンコスナー:プロデュース、とあるのが・・・
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最近確実に落ちてきてるように思う米製映画、実際見なくなったが今回はビデオ屋で、主役二人の名前と、シナリオの設定でつい借りた。ケビンコスナー:プロデュース、とあるのが気になったが、悪い予感のほうが当たってしまった。 とはいえ、雰囲気は最後まで壊す事なく終わる事はできた。その時間分だけ楽しめたとは言える、かも知れない。もっとも、壊すだけの何事も起こらないドラマだったとも言える。最後に娘に殺されるシーンが、実は「夢」だったというオチは脚本としては作品全体をこれでダメにしたくらいのミス。常識人としてのブルックスは十分に説明されていて、問題はその表向きの姿と「裏側」との関係だ。その示唆が結局何も残されなかった。 今ふと『ノーカントリー』を思い出した。人を殺す男の「生き方」の謎に肉薄しようとする作者らの気概が、結実していた。一方こちらは人物設定はしてみたけれど結局分かりませんでした、と言われたみたいだ。 演技。主人公の演技はそこそこ雰囲気を作っているが、それ以上の深まりがない。私は英語は分からないがケビンの喋り、口跡は元々甘く、そぐわない気がした。ケビン(という身体)なら、殺人鬼であったときどう喋りふるまうか、もしくは脚本どおりの行動をする殺人鬼なら、それはどういう「身体」か、どちらかのリクエストに応えねばならないが、結局ケビンコスナーという俳優のまま、脚本通りのセリフを喋る。部分的には頑張っていたが、やはり脚本のこけおどし・飛躍を背後で埋めて作品そのものを統一するまでの演技は出来なかった。 唯一、デミムーアの役は真実味が醸されて気持ちよい。
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[004]闇の子供たち
 桑田佳佑の歌gosto de cinemas2009-05-14
 
最後に歌が出てきて、そのままエンドロールとは思わなかったけれど、あの調べは良いですね。大きな問題を突きつけられても、私たちはそれに一時的に怒る事はできても、日常生活・・・
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最後に歌が出てきて、そのままエンドロールとは思わなかったけれど、あの調べは良いですね。大きな問題を突きつけられても、私たちはそれに一時的に怒る事はできても、日常生活のどこかに反映させる事はまず、出来ないだろう。ただ、脳の片隅にとどめおく、ある心情とセットにして。桑田のメロディはその心情を代弁した優れもの。一人の、傷を持つ人間=日本人である「私」に収斂して映画は終わり、それは今の「私たち」の限界点を表してもいる、その事が恐らく見終えた者の心に何かを遺す理由ではないかと。 そう、あれこれ言いたくなる映画であるのに。 また、長いコメントを書かせる「何か」がある。あちこち拙い演出の見える映画であるのに。 記者の来歴には殆ど触れられていない。観客は最後に至ってあれやこれやと想像をたくましくしなければならない。んで、エンドロールに追いつかない。演技、編集もろもろ、言いきれてない不親切な映画ではある。だが微細なリアリティを要求しはじめると作品の意味そのものに波及し、映画が告発できる限界を超えはじめるのではないか。あとは想像の領域でしかないが、どちらにせよ、この作品いやこのテーマはたかだかこの映画の中で昇華される類のものではないだろう。坂本監督がそのスタンスにしか立てなかったのだとしても、私はその事に不満を垂れるほど勇気ある人間でもない。 主要な役者たちの立ち方が辛うじて、目立たないけれど、映画を質の高いものにした。
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[005]接吻
 怨みの果てにgosto de cinemas2009-04-29
 【ネタバレ注意】
最近は映画の監督の「力量」をみるようになりました。それだけ日本映画も進歩したというか、映画そのものが進歩してきたというか、韓国映画の躍進が刺激になってかユニークな素・・・
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最近は映画の監督の「力量」をみるようになりました。それだけ日本映画も進歩したというか、映画そのものが進歩してきたというか、韓国映画の躍進が刺激になってかユニークな素材の供給とそれを映像化する才能の両面で活況を呈している、と、僕は思っています。題材の欠陥(完璧なシナリオなんて完全試合並に希少なわけで)をカバーする才能が、後者に当りますが近年多いのはこの範疇に入る作品で、「接吻」もそれに入ります。これは監督を褒めている事になるのだろうか・・それには触れずにおきます。 小池栄子扮する遠藤京子に感情移入しなければ終盤まで見続ける事は出来ないだろう、その意味で結末で暴露される狂気の予兆は、できるだけ伏せておくのは(見せ方として)正解でした。弁護士の強い言葉(彼は人を殺したんですよ)に背を向ける所で「おや」と、怪しい予感はさせますが。。その事実を省いた所での「共感関係」の幻想にひた走って行く彼女のほうに観客はまだ共鳴している。だが犯人である坂口のほうが「真っ当」に傾き、京子の思いが浮いてしまう。そして辻褄を合わせようとした彼女が「狂気」な行動に出る。その時点で、それまで疎ましかった弁護士の(常識的な)言葉がいかにまともであったかが、分かる。 豊悦の坂口が「人を殺しても何も感じない自分」を、嘆き始めた瞬間をとらえて仲村トオル弁護士が「控訴しますね」と決断を告げて去るシーン、そこに表われた坂口と京子の「違い」は、すなわち「犯してしまった」坂口と「まだ犯していない」京子の違いに他ならない。「フツウの」人間関係を結べない「空白」を抱えた人間は実は相当に屈折しているものを封印したりシンプルに解釈してやり過ごしているがいつかその「空白」と向かい合う時を迎える。その解決のために犯罪に手を染めるという事もあり得るわけだが、小池=京子はまずはそれを殺人犯への親近感を形にすること、互いの共通性を根拠にした特殊な関係の構築に見出そうとした。人生半ばでの一大事業であったが、それは幻想に基づいており彼女の「空白」を埋めるべき相手は人間として変化して行く、彼女は幻想を見た分、その喪失に耐えられず相手を殺す事となった。だが彼女はいつか別の経路で同じ行動をとったかも知れない。映画の結論としては、そこに落ち着いたようであった。 が、この映画の最大のナゾかけは言うまでもなく「接吻」というタイトルだ。どこでどう接吻が出てくるか、相手は豊悦か、仲村か、脳裏を過ったのは(女性の残酷さの表現として)最後に身動きできない坂口の前で弁護士と濃厚な接吻を交わし、坂口の「生への欲求」を残酷に突き放すという(手の込んだ)報復。だが、それは無いな。どっちにせよ、「接吻」の結末を知りたくて最後まで見てしまう。売り手の作戦勝ちのようであるが、どうだろうか。狙いはこうだろうか・・京子は「先へ行ってしまう」坂口に追いつくべく自らも殺人を犯す、かつ坂口を自分に引き戻すべく自らの手で死刑を執行する、だがまだ足りないと思い弁護士に刃先を向ける(ここが僕の理解を超えてしまうのだが)、だが狙い外れて為す手を得ず、何を思ってか接吻の挙に出る。この意味だ。タイトルにもなっている、接吻の意味だ。 彼女にとって、あの状況での行為はまず「攻撃」だった、相手を犯す、愚弄する、という行為であった、と言ってみる。だが、殺人という衝動が「空白を埋める行為」いわば「人との関係を強奪する行為」として過激に現われたのだと解釈すれば、深層心理では「殺す」と「接吻」は同質の行動だったと、監督は見せたかったのではないか。編集はホラーチックであったが、意味合いはそうであったと考えれば、一応ここで筆を置き、漸く眠りにつくことが出来そうだ。
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[006]JSA
 暇つぶしにgosto de cinemas2009-03-17
 【ネタバレ注意】
コメントします。 何年か前にビデオで見て、かなり良い印象だったのですが、先日久々に見てもその印象に違わずでした。重点はあの四人の人間的な「つながり」であって、それが・・・
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コメントします。 何年か前にビデオで見て、かなり良い印象だったのですが、先日久々に見てもその印象に違わずでした。重点はあの四人の人間的な「つながり」であって、それが自然にみえるための細部のリアリティが、吟味されるところです。 演技が気になる箇所も結構ありましたが、うまい映画である事は確かです。普通の人間の「日常」の延長と、軍事対立の最前線の過酷な状況とが、この映画のシチュエーションで隣り合わせに描かれ、矛盾への疑問が浮き彫りにされます。 ご都合主義といえば、北朝鮮側の兵士がたまたま話の分かる男とその部下だった事で、しかもソンガンホ演じる熟練兵士は祖国愛などどこかへ置いてしまったような男で、上司も彼に辛く当たっているけれどもそれだけじゃ済まないだろう。つまり、これはお伽噺なのです。冒頭、ソンガンホ演じる北朝鮮兵士が、敵兵の踏んだ地雷を処理してやったあと、一服すいつけた煙草の口笛に乗せてゆうゆうとはき出す姿は、「お伽噺」の始まりを表現しています。 恐らく北朝鮮軍では「国家」の枠組を超える発想を持つことはあり得ず、この映画のような事にはならない、しかし百%あり得ないかと言えば、人間である以上可能性ゼロという事はなく、例えば近い将来にはあんな事もあるかも知れない。それを予見したいという欲求が「作家」にはある。 南北分断を既成事実であり当然だと感じている向きには、この映画はさほど心を揺さぶるものではないだろう。ホロコーストと同様に悲しい歴史だととらえ、心を痛める人にとっては、この映画は水準の高いエンタテインメントである。なぜなら厳しい現実を昇華しようとする物語だからだ。その意味で昇華しきれない『シンドラーのリスト』などと比べても、上質だと私は思う。
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[007]めがね
 『かもめ食堂』には劣ると思いきやgosto de cinemas2008-10-09
 
前作も楽しく観た。「何も起こらない」と聞いていたから、色々、起こるじゃんと思った。ドラマを起こしている、と思った。『めがね』は、起こしていない、起こっていると感じた・・・
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前作も楽しく観た。「何も起こらない」と聞いていたから、色々、起こるじゃんと思った。ドラマを起こしている、と思った。『めがね』は、起こしていない、起こっていると感じた。まぁ、監督の意図としては、「起こしてる」わけだけれど。 前作で小林聡美が演じた役は、来歴を一切語らないが、現在が意志の途上にある事、そして強烈な意志の始まりがどこかにあるだろう事を、想像させる。頑として譲らない、譲れないものを芯に持つがゆえの強さ、優しさ、しなやかさを体現する役。それは『めがね』に登場する奇妙な面々にも通じるのだが、、彼らの「生き方」の選択を促した「何か」を、想定しない事には、やはりこの映画の世界を「あらまほしきもの」と感じる事はできないだろう。現代社会のしくみが個々の人格に及ぼす様々なマイナスな影響、その結実としての事件に刮目して対峙したとき、恐らく何らかの「生き延びる道」を、具体的な形を、掴まないわけに行かなくなる。その一つのあり方がこの映画に出てくる人々の行動になって来る。「癒し」を感じさせるとすれば、それは人間を疎外する現実への「対抗」は人間の受容という方途をとらざるを得ないという、単純な事実からだろう。そして役者は見事に人物たちを体現してみせた。 繰り返せば、「何もしない」「何も起こらない」ではなく、人物たちは意志を根底にもち「対抗」というアクションを繰り出している。人為をそぎ落として現われる「美」やわびさびとは異なる、活力の一つの形だ。 ・・と説明すればそうなるが、とにかく心地よく、リアルで、わくわくした。
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[008]沙羅双樹(しゃらそうじゅ)
 静かな高揚gosto de cinemas2008-08-30
 
ディテイルでほくそ笑ませる宮崎駿を思い出す。河瀬監督のこの作品は、ディテイルでドキリとさせる。平板なリアルではない、物語に組み込まれた中での、リアルさに驚かされる。・・・
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ディテイルでほくそ笑ませる宮崎駿を思い出す。河瀬監督のこの作品は、ディテイルでドキリとさせる。平板なリアルではない、物語に組み込まれた中での、リアルさに驚かされる。 含意のあるカット挿入、例えば突然のキス、祭りでの演説、出産シーン。静かなカタルシスがある。 実のところストーリーが読めてない所がある。もう一度見直す時間はこれから一生ないに違いない。が、それでも残る「何か」、物語の経過や結末の説明ではない「何か」が伝えてくるものの大きさが、この作品(監督)の特徴という気がする。 ただ、「含み」のあるカットや間合いが、全てに受容されるわけではなく、ある面、排除しているとも言える。ずっと前に「萌の朱雀」を観たとき、長い間合いを満たすだけのこちら側の想像力がなかった。だが、「沙羅双樹」に、堪え難い間はなかった。私が変わったのだ。苦しみ、忍耐、人生の困難を払いのけたり回避するのでなく、十分に咀嚼してにじみ出てくる仄かな甘味、人との関わりを身体ごと受け止めて行く「覚悟」の苦さと甘さが、シーンの間合いに、まるで真空に触れた皮膚から血が浮き出るように、ひたひたと打ち寄せてくる。観る者を選ぶ映画とも言える。 画面の揺れ、家のテレビ画面では気にならなかった。
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[009]クワイエットルームにようこそ
 普通に快作gosto de cinemas2008-07-26
 
下を見ると・・意外に不評。今の日本の予想外な状況をちょっと垣間見た気分。「異質なもの」への許容度という事をつい考えた。 (私は職業柄障害者との付き合いがあり、映画に・・・
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下を見ると・・意外に不評。今の日本の予想外な状況をちょっと垣間見た気分。「異質なもの」への許容度という事をつい考えた。 (私は職業柄障害者との付き合いがあり、映画に登場する様々なキャラクターをよく拵えた(そしてよく演じた)と感心しているのだが・・余談ではあるが「異質」をどう捉えるかを対象化して考えてみたい方には北海道・「浦河べてる」関連の本をお勧めしたい) さて、素晴らしく滑らかで無理のない、娯楽としての筋を一本貫きながら現実の断片を散りばめ、普遍的なテーマを最後に浮かび上がらせる(そしてそれは「希望」の源でもある)シナリオには脱帽した。 二度見た感想としては、矛盾が一つあってそこは興ざめだったが。といっても、完成度の高いシナリオの条件である「ナゾかけ」に対する「ナゾとき」をどれだけやれるか(拾えるか)の率が少し下がった、という話であって、完璧に矛盾のない、娯楽作品を探すのは難しい。映画の中で、前言った事と違う行動をしている、その「ナゾ」を回収して(解いて)いない部分があった、という意味で、演技の問題かも知れないし脚本の問題かも知れない。二十回以上みた『チャイナタウン』だが、回数見ただけあって演技の矛盾はそこここに見えるようになった。(それでも、大好きな映画だ) この作品は、第一義に娯楽作品だ。エンタテインメント作品として全編に垣間見える「飛躍」の奥の真実らしさ、自虐・露悪の小気味よさ、そして何より善悪二元論を超越した「現実」の中で「真に孤独」な「私」との対話が進んで行く道筋の確かさ。サスペンスばりの謎解き過程が、それと意識させずに(ということはリアルに)成立している所が、娯楽としての完成度の高さの所以だろう。 だらだらと書いてしまった。ほめるのは難しい。
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[010]キサラギ
 娯楽度限りなく100%gosto de cinemas2008-07-06
 
レイトショーをよく利用するのですが、「メジャー」の範疇に入らないものを優先して観ます(なぜかそのほうが当たるので)。『キサラギ』は「宝物発見!」とばかり友人に紹介し・・・
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レイトショーをよく利用するのですが、「メジャー」の範疇に入らないものを優先して観ます(なぜかそのほうが当たるので)。『キサラギ』は「宝物発見!」とばかり友人に紹介した映画です。 何がエンタテインメント性を高めているかと言って、「家元」の屈折した如月ミキ信奉と、劣等感。これが「今」的な人生のモンダイをたくみに言い当てていて、「笑える」というのはそこに理由があるのでしょう。自分たちもある種そうであるところの「アイデンティティ不在」「寄る辺なさ」、それを克服するべく如月ミキというアイドルを神と崇め「この道に関しては他に追随を許さない」自負を育てるにいたるのですが、そこで彼は健気にも、その「神性」を裏付けるためにも、再び、如月ミキへの「愛」を証明しようとして行く、そういう行動へと促されます。ところが自分だけが<実物の彼女>と接触していなかった事を知り「家元」のプライドは崩壊します。しかし最後に彼女を最も支えていたのが彼からの手紙だったという、確実ではないけれどそう考えれば何か納得できる「如月ミキ」という人物とみえないファンとの交流が、仄かなメッセージとして余韻を残します。現実には一方的な愛は大半が報われず、自分という存在が他者の中に刻印される実感を欲しつつも孤独に苛まれるわけですが、意地悪な見方をすれば彼らは一人の死者の上に都合のいい「物語」を築こうとしていると言えなくもない。そこが一抹の「寂しさ」につながってるのだけれど、ラストの処理はともかく、ストーリーは納得納得でした。 「如月ミキ」の顔が最後にチラリと解禁さる瞬間は、オチになっていたと思います。「え〜!!、あの子のために、あんな乱闘を、、」普通は見せないで終わるのでしょうが、私は「うまくハメた」と思いました。
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[011]アフタースクール
 娯楽度について考えたgosto de cinemas2008-07-06
 
点数は半分+1.この「1」が娯楽性に対する評価であります。どっちでもいい映画だけど、まぁ少しは楽しませようとした、努力が見えた、という事。 「書く」ってな、なかなか・・・
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点数は半分+1.この「1」が娯楽性に対する評価であります。どっちでもいい映画だけど、まぁ少しは楽しませようとした、努力が見えた、という事。 「書く」ってな、なかなか難業というのは重々慮った上で、やっぱし最後はメッセージで決まる、悲しいかなそれが評価の世界、と、まぁ私の感じ方には過ぎませんが、思いました。残念。警察がうようよと出てきた時点で、「あ〜あ」やっちゃったね〜ですわ。どう言いつくろってみたっちゃ、「警察の犬」は当たってる。いくら大泉があのイノセントな瞳でもって「俺たち巻き込まれただけっちゃ」と、白を切ったところで、権力の犬(=警察)の犬だなんてカッコ悪い役を主人公に据えちゃったわけ? もっと悪いのは、そもそも警察に協力してたかだか「金」を違法に追っかけた程度の犯罪を「楽しく」「いい気味じゃ」と、高笑いしたさの逮捕劇を「演出」する手助けを「ほいほい」やっちゃうって行為なんぞ、本来「カッコ悪い」もんだって事を、つい忘れさせてしまう意味で、むしろ非難すべき映画ですかな。 全然わくわくしないのは、「強い権力」がせこい犯罪人の尻尾を捕まえる、って物語じたいがつまらないからです。単純な話。そんな話のどこに希望がありますか? 大泉洋という役者の印象が焼きついてしまった。。どこかで払拭してほしい。
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[012]L change the WorLd
 やや残念gosto de cinemas2008-02-12
 【ネタバレ注意】
前作(1、2)をレンタルで観て「拾いもの」したナ、と感じてたので、その続編という事と、中田秀夫監督だからヘタなものは作らないだろう、という(根拠のない?)信頼とで劇・・・
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前作(1、2)をレンタルで観て「拾いもの」したナ、と感じてたので、その続編という事と、中田秀夫監督だからヘタなものは作らないだろう、という(根拠のない?)信頼とで劇場に足を運んだのだったが。。 もともとB級映画だった、って事忘れてた。物語のリアリティより発想の面白さ。「名前と顔」で殺せる、という設定から出てくる諸々の現象を「発見」して行く楽しみが、今回は早々に「デスノート」そのものが焼失してしまう時点で消えちゃってます。(だから「デスノート」の題名とっちゃったのね?) しかしB級とは言えその劇世界なりの「リアリティ」をギリギリ保ちながらのエンタテインメントですから、今回のはどうでしょうか、苦しい部分がかなりありました。工藤夕貴演じる工條貴美子なる悪役、演技では貫禄みせてたとはいえ、役そのものが(脚本のせいか)リアリティから遠ざかってる。ホラー映画では職人業を見せる中田監督は性格描写が苦手なのだろうか、はっきり言って無駄な「怖がらせ」シーンのせいでドラマを追う気がそがれるし、その工條って女の位置づけが「正義感は純粋だけど思考の結果が間違ってる悪役」という事で、甘っちょろいわけです。テレビドラマじゃあるまいし。ヒトラーなみの誤謬にまみれた結論を持ってしまった事実のなかにこそ、ミステリーがあるはずなところ、そこは「あり得る」前提になってしまってる。人間誰しも間違いはある、で片付けられちゃうわけで、そうなるともう、そんなアホらしい問題設定に命をかけて対抗してる「L」のドラマ上の切実さも、無くなってしまっているわけなのです。 別に大きな期待はしていないし、「軽く、楽しめればいい」と、構えている一人の私に対してむしろ、映画のほうが何やら壮大な音楽で「A級映画として観よ」と迫ってくるものだから、肩が凝るといったら無かった。 快・不快の別で判定すると、残念ながら後者と言わざるを得ませんでした。 (CGの死神さん?の出番も一回だけだったし)
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[013]フラガール
 蒼井vs松雪?gosto de cinemas2007-12-20
 【ネタバレ注意】
『ブラス!』や、日本で最近わりと流行りの「力を合わせて一つの事を成し遂げる」ドラマの中では、『フラガール』は「炭坑」というリアルな苦い現実を背景画にした分、真実味の・・・
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『ブラス!』や、日本で最近わりと流行りの「力を合わせて一つの事を成し遂げる」ドラマの中では、『フラガール』は「炭坑」というリアルな苦い現実を背景画にした分、真実味のある展開を可能にし、感動的だ。 『ブラス!』のほうも、廃れゆく炭坑町を舞台に、この期に及んでなぜかブラスバンドに熱く入れこんで行き、一位をとって賞金をもらって問題解決、みたいな展開(でしたっけ?)が、やはり「現実」としっかりリンクしていた。 だが現実的という点では『フラガール』のほうだ。ダンサーを目指した彼女たちは炭坑の町を救うために、あるいは自分が町を離れないために、それをやったのであり、展開に必然性がある。いつ廃山になるか知れない炭坑にしがみつくより、第三次産業に転向するほうが現実的なのだから、物語は現実的な方向へ動いているのだが、ドラマは決して啓蒙的にならず、炭坑かハワイアンセンターかという単純な対立図式を見せてはいない。松雪泰子演じるダンサー(平山まどか)の登場の仕方が、まず異質との出会いという所から始まる。プロのアーティストとしてのあり方と、炭坑娘の生っちょろいあり方の対比が提示され、徐々に炭坑の現実から吹き出てくる出来事に遭遇して行くという進み方だ。 一方、蒼井優演じる紀美子たちの目から見た平山先生という視点もあるわけで、どちらが主人公という風にはなっていない。最後に岸部一徳演じる番頭に「いい女になったな」と言われ、先生のほうも「見られる側」だった事に気付く(平山の「変化」も描いている)。都会からやってきた先生と炭坑育ちの娘たち生徒、もう一つの側に村人たちがおり、一部ハワイアン派もいる、という構図。そこで炭坑夫の豊悦だが、私は彼の演技を久々に見て偉いと思った。気の荒い炭坑の男の突出した人物として存在しがちなところ、気の優しい男を演じている。家を出た妹に酒を飲ませるシーンで、厳しい言葉の一つもかけようとしてつい笑顔を見せてしまうあたりなど、臨場感を感じたところだ。 演技で気になったのは、村人たちのコテコテの「頑固じじい」演技(ステレオタイプな)なんかは流すとして、松雪の演技だ。後半に泣きの多い役だが、その中身がなかなか、ピタリとは行かず惜しい。一番は言うまでもなく最後のほう、フラガールたちの初日の舞台を袖から見守る顔。あの「袖から見守る」心情というのは何とも言えないもので、もっとリアルな線に近づけてほしかった。フラのプロであるならもっと冷静に、あそこはこう、あそこは、という具合に、ちゃんと見ているはずで、たとえ心が感動に震えていても喜んでいても悲しんでいても、プロならばその初日の出来に対する冷徹な目は存在する。翌日からも稽古は続くのだから。その目を持ちながら、しかしいま、困難を経てここへたどり着いた事の感動を、噛みしめているはずだ。プロの目は厳しく見ようとするけれども、しかし心の中ではそれとは正反対に手が痛くなるほどの拍手を送っている。。彼女だけが味わえるある種の達成感を、なぜか映画では彼女はダンサーたちに譲り渡してしまったかのようで、そうなると松雪のほうは弱々しい。本当に喜んでいるように見えなかったりする。 そうなると、あたかも主役をめぐって蒼井と松雪が争い、松雪が折れた、といったような具合で、そこだけはちょっと残念だった。 ちなみに私はDVDで観て泣けた。脚本の運びがうまい。その極めつけは、ダンサーへの夢を一番強く持っていた親友がいなくなるとき、友情のつもりか「じゃあ私もやめようかな。明日から洗炭場で働くべ」と言った紀美子に対し「それ本気で言ってんのか」と返す台詞。持って行かれるとはこのことで、彼女の「本気さ」が紀美子を動かし、ドラマを動かす。説明的なシーンがなくとも、観る側はその「思い」を疑わず最後まで大事にもって行く。気付けば、彼女の願いが壊されずに育ってくれるようにと観客はいつしか思いながら行方を見守っており、一喜一憂するのだ。 従ってこの映画は炭坑という「現実」を背景にしながらも、現実の必然ゆえにではなく、やはり利害損得でない何か=形のない「思い」を媒介にしてフラガールの物語が結実したことを表現している。このメッセージに共鳴する者が、この映画にも感動を覚えるという事だろう。
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[014]春香伝
 パンソリにのせてgosto de cinemas2006-02-02
 【ネタバレ注意】
韓国の伝統芸能パンソリの最も有名な演目「春香伝(チュニャンジョン)」を堪能した。全編通して男性のパンソリ語りが鳴り響いている。クライマックス「密使が来た!」のシーン・・・
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韓国の伝統芸能パンソリの最も有名な演目「春香伝(チュニャンジョン)」を堪能した。全編通して男性のパンソリ語りが鳴り響いている。クライマックス「密使が来た!」のシーンの語りは、確か『西便制〜風の丘を越えて』の序盤で主人公の旅芸人が地方巡業先の大家の庭先で披露するシーンだ。あれは春香伝だったんだ。 恨の文化を知るつもりで見た。他の演目「沈清伝」は悲劇と聞いていたから、この話の成行きでどんな悲劇が歌い上げられるのかとドキドキであったが、全く違った。溜飲を下げるフィナーレ。この物語は単純な構造から成るが、情景描写、心理描写、学問の素養を持つ二人が交す言葉の妙、詩情に満ち満ちた一つの文学作品であり、長く語り伝えられた事が納得できる。嗚咽のようなうねりを持った唱者の語りと相まって醸される独特なこの芸能そのものも、監督はこの映画は織りこんでいる。歴史作品という面でも、両班と常民の徹底した断絶、厳しい階級差の中で人がどのような立居振舞をするか、隙なく「時代」が再現されているのも、この映画の質を高めている。 最後、主人公たちの愛の傷害として登場した悪役=横暴な長官を出し抜いてヒロインを処刑寸前に救い出す主人公に、ドラマは残酷な報復をやらせない。未消化な気分も残るが、「烈女」春香を称え、再会を喜ぶ登場人物たちの晴れやかな心情が画面を満たし、ハッピーエンド。そして、パンソリを聴く観客の大きな拍手で終わる。 孤高の監督イム・グォンテクが韓国芸能の優れた紹介者でもある事を考えれば、納得の行く締めくくりではある。
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[015]かあちゃん
 テレビでみたgosto de cinemas2006-01-21
 
昨夜、テレビの深夜放送で流れていた。冒頭は逃したが、結局最後まで観てしまった。そう言えばCMがなかった。白黒だったか、と思えるほど抑えた色調で、この色調に惹かれたの・・・
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昨夜、テレビの深夜放送で流れていた。冒頭は逃したが、結局最後まで観てしまった。そう言えばCMがなかった。白黒だったか、と思えるほど抑えた色調で、この色調に惹かれたのかも知れない。 「かあちゃん」というタイトルもなかなか覚えづらい。おかあちゃん、と言いたくなるところ、「お」が付いていない。かあさん、ならまだしも「ちゃん」とくる。おっかさん、おっかあ、かかあ、おかあさん、多々ある中「かあちゃん」てのはどうも私の頭にしっかりと根付かない。んな事はどうでも良いのだが、つまんない映画だろうと思っていた所、チャンネルが合って画面を見ると、そこから引き込まれてしまい、つい最後まで見てしまった。 多彩な顔ぶれ。亡くなった春風亭柳昇が蘇っていて、笑けた。くさい演技。セリフを丁寧に言う。いい事だ。『雨あがる』と同じ監督かな、とエンドロールを楽しみに見たが、市川崑だった。確かに、老練な感じはあった。 役者の演技より、演出(画面の色調、カットなど)で「これは映画ですよ」と作為的な臭いを微妙に漂わせて、全体をまとめる印象が市川崑にはある。それほど見ていないが、『天河伝説殺人事件』『股旅』にもこれがあった。 つまり、人間の情熱だとか人情だとかをストレートに信頼して(依拠して)ドラマを構成するのを拒む人だ、という印象だ。さて『かあちゃん』は人情劇だ。しかしやはりどこか醒めたところがある。どなたかの投稿にあったように尾藤イサオの泣きがグッと来ない。そこそこで切り上げられている。彼がもっと驚きと感動を滲ませてくれたら、かあちゃんの「人情」は報われ、観客はもっと涙したろう。が、実は監督は敢えて外したのではないか? 現実の社会では、人への情は結果が伴わない事のほうが多い。 かあちゃんの人間像、奇異とさえ映る「信念」が一体どこから来るのか、この「ミステリー」を映画は観る者に投げかけ、それぞれ答を探り出すよう促している、そんな事でもあるように思う。市川崑の真意は、判らない。
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[016]ドッグヴィル
 考えさせる映画だが・・gosto de cinemas2005-01-10
 【ネタバレ注意】
友人に勧められ、ビデオを借りてきた。二度観たのだが、二度目で大体、見切りが付いた。一度観た限りではラストに不満は残ったもののギリギリの線で、「すごい映画を見たぞ」と・・・
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友人に勧められ、ビデオを借りてきた。二度観たのだが、二度目で大体、見切りが付いた。一度観た限りではラストに不満は残ったもののギリギリの線で、「すごい映画を見たぞ」という思いもあったのだが。。 しかし、監督の「意図」によっては、再評価してもいい、というのはある。そこで、この映画についての情報をネットで探っていたら、このサイトを発見。謝謝、ドッグヴィル、である。 それはともかく、意気込みは感じる。凄い作品だ!と思った。セット撮影も、ニコール・キッドマンはじめ演技陣の人物造形も、外部からもたらされる「条件の変化」で村人の態度や行動がどう変わるかといった「実験」の体裁も、いい。それらが貢献した「作品」そのものが、納得の行くものならば・・である。そうあってほしい願望がある。でなければ主人公グレースの苦悩は報われないではないか?と、思わせるだけの、鬼気迫る存在感、リアリティがあった。 が・・演出の問題なのか、演技の問題なのか、字幕の邦訳の問題なのか、いや、脚本の問題なのか、惜しいけれど見切りを付けた。 「意図」によっては、失敗した点を差し引いて、認めてもいい、というのは、・・映画はそのように見せるのに失敗していたが・・ドッグヴィルの村人ではなく、主人公のグレースのほうを告発する意図があったのならば、である。 最後の決断が、いったい復讐(感情からの)なのか、それとも審判(理性からの)なのか、分からないが、どちらにしても彼女を「善人」と位置付けて皆殺しでカタルシスを感じさせたい、という意図があったとしたら、「残念でした」。 彼女に「善」を見る事はできない。元々「市民権」を持たない彼女が、それを得るために労働と「人間性」を売り、それによって築いた信頼と評判は、彼女に自立(市民権)を与えた。が、指名手配のビラで形勢が変化した時点でも、彼女は村人の善意をアテにした。それはつまり善意に「依存」したのだ。対等性を失った。彼女の判断ミス、甘さだった。ただ、もう一人の仕掛人が居る。トムは新しい道徳規範によって村のあり方を再編成する事に「情熱」を傾けていた。人間は外的条件によって行動し、態度を決める、そこには人間性の発露はない、より能動的に、道徳的人間たる事こそが人間の未来、アメリカの未来だ・・と、村の現状に(たとえ平和が保たれていても)飽き足らない青年は若き情熱の向けどころをそこに求めた、というわけだ。グレースもトムも、外的条件を変える(例えば密告しても何の得にもならない事を思い知らせる、など)努力はせず、労働や信頼といった徳目で他者の「善意」を引き出そうとした。彼女の父親によれば、「傲慢」と言うらしいが。 この父親は映画の矛盾を露呈している。娘の傲慢を非難しながら、傲慢が引き起こした事態の決着として「皆殺し」に同意するのだから。 そして娘のグレースも、復讐するならもっとしっかりとやれ、である。自分が「人間」であった事を相手に思い出させ、罪を自覚させた上で(できれば彼女自身が)銃口を向けるのでなければ、本当の復讐にはならない。復讐ではなく審判だと言うなら、泣いたりせず、超然としているはずだ。そのどちらでもない。 「この町は消えてしまえばいい。また誰かがやって来て、彼らの弱さを暴くから」と彼女は虐殺を正当化したが、彼女が正当化したのは、じつは彼女自身が出した結論にではなく、映画製作の都合上ほしいクライマックスシーンの挿入に、だろう。映画は道徳規範に関する興味深い「実験」を行なっていたはずなのに・・最後に自己崩壊し、沈んでしまった。
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