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 「paris1895」さんのコメント一覧 登録数(237件)rss
 コメント題投稿者投稿日
[001]ホーリー・モーターズ
 年齢を重ねたカラックスと、老いた映画paris18952013-04-28
 
「汚れた血」や「ボーイ・ミーツ・ガール」のような勢いという波に自分も映画もどんどん乗せていってしまえたカラックスを知っている私たちからすると この「ホーリー・モータ・・・
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「汚れた血」や「ボーイ・ミーツ・ガール」のような勢いという波に自分も映画もどんどん乗せていってしまえたカラックスを知っている私たちからすると この「ホーリー・モーターズ」という映画が与える印象はずいぶんと変わっている。 カラックスも年を取ったのだなと再認識しながらも、不要な老いが彼の映画を見舞ったということに気づかない振りをすることはできない。 だけれど、私たちは映画の中にふと訪れるズームアップに、昔のカラックスの静かで熱い息吹を感じることができる。 そのズームアップがどこで訪れるかは、あえて書かないが 唐突という言葉が持つ唐突さよりも、まだなお、唐突に 私たちのカラックスが帰ってくる。
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[002]DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る
 にごった孤独だけが残るparis1895 (Mail)2013-04-21
 
彼女たちは多くの視線を得たいと思った。 できるだけ多くの人に自分を知ってもらい できるだけ多くの人に自分を見てもらいたいと思った。 そして、それはある部分では叶えられ・・・
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彼女たちは多くの視線を得たいと思った。 できるだけ多くの人に自分を知ってもらい できるだけ多くの人に自分を見てもらいたいと思った。 そして、それはある部分では叶えられさえした。 にもかかわらず、彼女たちは孤独と戦うことになる。 というよりも、無名で誰も彼女たちを知らなかったときよりも、孤独は肥大化さえしている。 それはなぜだろう? 多くの人たちは彼女たちを知り、彼女たちを見て、彼女たちに深く思い入れる。 その結果、彼らの孤独を癒されることになる。 だが、癒された彼らの孤独は消滅したのではなく、彼女たちが引き受けることになった。 彼女たちは有名性との引き換えに、無数の微小な孤独を受け取ることになった。 最初のうちはそれでもよかった。 彼女たちの両手も空いていたし、ある意味ではそれを望んですらいたのだから。 だが、やがて増幅する孤独は彼女たちでは背負いきれないほどになる。 そうやって肥大化した孤独は彼女たちを蝕みはじめるだろう。 彼女たちは多くの人に知られ、認知され、思われることによって 大いなる孤独と戦うことになったのだ。 悲劇なのは、彼女たちの物語が本来の道筋から 物語そのものの力によって、ゆがみ、ふくらみ、暴走をはじめたということだ。 彼女たちの物語が、大きくなりすぎた結果 彼女たち自身を食いつぶそうとしているということだ。 秋元康はこのことに気づいていただろうか? きっと彼は気づいていただろう。 でなければ、彼にこれだけの大きな竜巻は起こせなかっただろうから。 彼はわかったうえで、彼女たちの物語をより大きな彼の物語へと組み込み、慣性の進む力に任せた。 そして、これこそが彼の希有な才能なのだが、この物語も彼本来の物語ではないということだ。 インスタントでタフな物語=夢を彼は自分とは関係のないところにつくりだすことができた。 彼本来の物語=イノセンスは相変わらず封を開けられることもなく ほぼ手つかずのまま、息をひそめて眠っている。 AKB48という物語は彼の白昼夢のように、うすい膜のような夢であり 誰かの夢を餌として活動を続けるという一種の奇形児なのだ。 結果的に、彼女たちの夢は食い荒らされ 最終的に、彼女たちの手の中に残るのは、孤独のみとなるかもしれない。 しかし、その孤独も彼女たち自身の孤独なのか 彼らの孤独なのか見分けのつかない、ひどくにごった孤独だ。 また、1作目の岩井俊二の愚かな作品とは違い 高橋栄樹は覚悟を持って、彼女たちの物語を食いあさる。 秋元康に食い荒らされたあとの、腐敗すらしはじめている彼女たちの夢の死肉を ひとつひとつ丁寧に、骨にこびりついた肉をもこそげとりながら、食いあさる。 そういった覚悟を、われわれは正当に評価しなければならない。
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[003]DOCUMENTARY OF AKB48 NO FLOWER WITHOUT RAIN 少女たちは涙の後に何を見る?
 少女たちの涙が咲かせる花の名前。paris1895 (Mail)2013-03-20
 
どうやら、AKB48というものは日本国内でそれなりに有名らしい。 多くのメンバーがいるようで、私がフルネームを言えるのは恐らく1人か2人ぐらいのものだろう。 とはいえ、街・・・
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どうやら、AKB48というものは日本国内でそれなりに有名らしい。 多くのメンバーがいるようで、私がフルネームを言えるのは恐らく1人か2人ぐらいのものだろう。 とはいえ、街を歩けば彼女たちの歌声らしき流行歌は嫌でも耳にすることになる。 いてもいなくても、どちらでも構わない。 それが私の彼女たちへのスタンスだ。 にもかかわらず、この映画は今年のベスト10に数えても問題のない出来となっている。 AKB48というグループがどうとか、そういうことではない このドキュメンタリー映画が、実によく頑張っている。 製作陣の覚悟すら感じる。 有名性を求めて、無名だった少女たちが多くのものを(汗や、涙などを)流していく。 悲劇なのは、有名性を求めた彼女たちが、まさにその夢の有名性を手に入れたときに 提示するべき自我を喪失している点だ。 無名だった時代にあった自我は 有名になったときには失われている。 あるいは、彼女たちは自分たちの足跡を残したいと考えていたのかもしれない。 そして、現に彼女たちは足跡を残すことすらできた。 しかし、彼女たちの足には、彼女たちではない別の誰かの靴がはかれている。 彼女たちが残した足跡は、別人の足跡なのだ。 この映画はそういった暴力性を描いている。 前半に、彼女たちの自我や自己を確立させようと 丹念に、丁寧に彼女たちを描いていく。 そして、訪れる後半で、彼女たちの自我や自己の喪失をしっかりと逃げずに描いていく。 彼女たちの涙が咲かせる花は、名前のない花なのだ。 文句を付けるとするならば、前田敦子のライブが終わり 彼女のポスターがとある扱いを受けるのだが そこで終わるべきだったように思う。 以降、少しの間映画は続くのだが、蛇足でしかない。 AKB48というグループ云々で、この映画は論じられるべきではない。 シンプルなドキュメンタリー映画として、ご覧になることをお勧めする。
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[004]おおかみこどもの雨と雪
 彼らの残す足跡は彼らの足の形じゃないparis1895 (Mail)2013-02-26
 
シンプルにいいきってしまえば、間口よりも出口が広いというディズニー映画並の愚かな作品の「時をかける少女」や「SUMMER WARS」の監督とは思えない作品だ。 では、僕たちが・・・
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シンプルにいいきってしまえば、間口よりも出口が広いというディズニー映画並の愚かな作品の「時をかける少女」や「SUMMER WARS」の監督とは思えない作品だ。 では、僕たちが感じるこの違和感は何だろう? 原恵一などというアニメ監督はこの世に存在しないので、「カラフル」などというアニメのことを憂う必要などない。 また同じアニメの「時をかける少女」や「SUMMER WARS」のときのような苛立ちもない。 なぜなら、この「おおかみこどもの雨と雪」はアニメーション映画となり得ている部分もあるからだ。 アニメとはただの絵の動画のことをさす。 アニメーションとは絵が動く作品のことをさす。 そこには現実を鋭く見つめる目がなければならない。 フィクションをノンフィクションの土壌によって生み出す気力がある。 さて、この映画への違和感は何だろうか? 僕たちはいびつな違和感をこういうふうに表現できる。 足跡を残す彼らの足に履かれている靴は、他人の靴だ。 彼らの残す足跡は、彼らの足の形じゃない。 足跡を残せるだけすごいと思うこともできるし 不毛と考えることだってできる。 脚本や演出の細部にトトロにならないように配慮した部分が垣間見えることを 悲劇と呼んでいいかもしれない。
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[005]影の列車
 黎明期の映画をドキュメントするparis18952013-02-24
 
映画が始まるとともに、ホセ・ルイス・ゲリンのメッセージが提示される。 そこには黎明期の映画のように美しいフィルムを復元できた喜びが示唆されているのだが そのフィルムと・・・
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映画が始まるとともに、ホセ・ルイス・ゲリンのメッセージが提示される。 そこには黎明期の映画のように美しいフィルムを復元できた喜びが示唆されているのだが そのフィルムとはアマチュア映画監督が撮った家族の何気ない日常だ。 にも関わらず、僕たちは復元されたフィルムのまばゆさに驚いてしまう。 そして、一つのことに気づく。 フリルというアマチュア映画監督が撮った作品ということを知っているにも関わらず 今、目の前に映し出されているモノクロサイレントのフィルムは 紛れもなくホセ・ルイス・ゲリンの作品なのだということを。 僕たちがそう気づかされると同時に、キャメラは現代の街を映しはじめ 徐々に、本当にゆっくりと、フリル邸へと近づいていく。 荒れ果てた庭、人気のない家屋。 割れた窓。 フリルの撮影したフィルムの中にあったまばゆさは現代には残っていない。 ゲリンの視線はそんな記憶の残滓をそっと見つめ続け やがて訪れる夜の中で、記憶と思い出が邂逅する。 チャイコフスキーのセレナーデをこれほどスリリングに使いこなすゲリンに、驚いている間に 映画はドキュメンタリーを演出することのむずかしさを提示しながら 幕を下ろす。
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[006]帽子箱を持った少女
 世界で最も美しいキスシーンの1つparis18952012-11-17
 
世界で最も美しいキスシーンの1つを肩肘張らずに 本当に、ひょいっと撮れてしまえることを、恐ろしく思う。 ゴダールが「グリフィスの血はハリウッドではなくロシアのバルネッ・・・
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世界で最も美しいキスシーンの1つを肩肘張らずに 本当に、ひょいっと撮れてしまえることを、恐ろしく思う。 ゴダールが「グリフィスの血はハリウッドではなくロシアのバルネットへと受け継がれた」みたいなことを言っていたけれど、紛れもない事実なんだと再認識させられる。 もしも、この映画を見ていない人がいるとするならば (もちろん、そんな人はいないでしょうけども) これまでの短くない人生の中で 耳をふさいで、めをつぶり、眠ったままで映画を見てきたことを意味する。 あるいはそれは、なにも口にせずに満腹になろうとしていることと似ているかもしれない。
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[007]果てなき路
 映画へといたる道を喪失した映画paris18952012-11-11
 
モンテ・ヘルマンが数十年ぶりに長編映画を監督するときいて 胸踊らない人はいないだろう。 まして「劇中劇」といううわさを知ってしまったなら 「断絶」やジャック・ニコルソ・・・
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モンテ・ヘルマンが数十年ぶりに長編映画を監督するときいて 胸踊らない人はいないだろう。 まして「劇中劇」といううわさを知ってしまったなら 「断絶」やジャック・ニコルソンと組んだ一連の映画の記憶を それこそ骨をかじるようにして 「果てなき路」を見るまでの滋養としてしまう人しかいないと思う。 冒頭、僕たちはまばたきを忘れることになる。 本当にモンテ・ヘルマンが映画を撮ったんだ という事実を飲み込むのにオープニングの曲が流れるときまで信じられないからだ。 モンテ・ヘルマンが映画へといたる道を喪失した映画を僕たちの前に提出するとき 僕たちは映画へといたる道を見つけることになる。 もちろん、それは一瞬の蜃気楼でしかないけれど ヘルマンの美しい夢は、あまりに鮮烈だ。 21世紀になって、こんなに美しいフィルム・ノワールが生まれたことを 僕たちはとてもすなおに喜ぶしかない。 ところで、この映画を見る前に見ておかないといけない映画が3つほどある。 まず「レディ・イブ」 次に「第七の封印」 そして「ミツバチのささやき」 ジョークではなく、この3つの映画を見ずに 「果てなき路」を見ることは、そもそもの見る権利が与えられていない。 もちろん、「断絶」を見ていないものなんてこの世にいるはずもないだろうから この映画が「断絶」で僕たちの視線を奪いつつけた あの美しい”ザ・ガール”ことローリー・バードに捧げられていることに いまさら、触れる必要はないだろう。
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[008]港々に女あり
 ホークスの提示する矛盾による奇跡paris18952012-09-01
 【ネタバレ注意】
ルイズ・ブルックスが起こす「仲を割く」という行為が 結果的に私たちと映画の「仲をつなぐ」という行為になっている。 ある種の奇跡に近いこの事柄が示すのは、映画の可能性・・・
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ルイズ・ブルックスが起こす「仲を割く」という行為が 結果的に私たちと映画の「仲をつなぐ」という行為になっている。 ある種の奇跡に近いこの事柄が示すのは、映画の可能性ではなく ホークスという男が、ジョン・フォードよろしく映画そのものだという可能性なのだ。 ジョン・フォードが、 ホークスが映画を撮ったんじゃない。 ジョン・フォードが、 ホークスが映画そのものだっだのだ。
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[009]コクリコ坂から
 見える世界、見れない世界を監督する2人。paris1895 (Mail)2012-07-08
 
「ゲド戦記」なんていうアニメ映画はこの世に、存在しないはずなので 吾朗監督のことに思い馳せるのはこれが初めてということになると思います。 結論から言えば、平凡この上・・・
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「ゲド戦記」なんていうアニメ映画はこの世に、存在しないはずなので 吾朗監督のことに思い馳せるのはこれが初めてということになると思います。 結論から言えば、平凡この上ないということです。 この映画を見ていて気づいたのは、吾朗監督は、私たちが見える世界、もしくはまだ見たことない世界を映像化しているということです。 まだ見たことない世界とは、いずれ見ることができる世界ということです。 宮崎駿監督はどうでしょうか? 彼は、私たちが見たいと思っている世界、見ることの出来ない世界を映像化することができる希有な才能を持っていると言えます。 高畑監督は、私たちが見たくない世界、気づかなかった世界を映像化する監督と言えるでしょう。 さて、私たちが見る世界、いずれ見ることになる世界を映像にするという愚かな行為をしている吾朗監督の悲劇はどこにあるでしょうか? 原因は、私にはわかりません。 ですが、この「コクリコ坂から」という映画の決定的で致命的な失敗をいくつか上げることで 悲劇の輪郭が見えるかもしれません。 カルチェ・ラタンに海が初めて訪れたあと、立ち去るシーンで、カルチェ・ラタンにいたキャメラは一気に移動し、坂道を下る海を捉えます。 ここで欠けてはいけないカットが1つありました。 ですが吾朗監督はそれを意図的か意図せずかは不明ながらも そのカットを損ない、それは映画の脈動を決定的に損なうことになりました。 それはこういうカットです。 時間遅くまでカルチェ・ラタンに滞在した海が、慌ててラタンを飛び出した後。 あおり気味にラタンの全景を捉え、海がラタンの扉を開けて出て来て、キャメラの手前で立ち止まり、ラタンを振り返り、あおぎ見るというカット。 このカットでラタンが今後映画の動脈になることが示唆され、また海がラタン(もしくはその内部の者たち)に抱いている感情を明確に観客に伝えることができるカットです。 ですが、吾朗監督はこのカット(もしくはそれに準ずるカット)を映画には持ち込まずに それはボタンの掛け違いを生むことになりました。 次に、米びつから米を計量するカット。 昨今の若者が、振り切りで米を計量する中、海は手ですり切って計量します。 確かに、悪くないカットです。 ですが、これはあざとさしかありません。 吾朗監督がこのカットに精力をだしたのが垣間見え、映画の流れを著しく阻害しています。 必要な演出はなんだったのでしょうか? それはつまりこういうことです。 海が米をすくい、手ですり切り始めた瞬間、手が込めに振れた瞬間に キャメラは海の背中に回るべきでした。 そのことで、まだまだ小さい、幼い少女の背中がどれほどのものを抱えているのかを 私たちに伝えることができました。 ソダーバーグが「アウト・オブ・サイト」で プロデューサーの反対を押し切って、撮影した自信満々のカットを全編通して見たときに そのカットが熱を帯びすぎていて、映画そのものを損なっていることに気づき あえて、凡庸なカットとして撮り直したという話があります。 あの愚かで愚鈍で鈍感極まりないソダーバーグですら その程度の映画的呼吸を感じることはできたのです。 ですが、この吾朗監督は映画の脈動を、呼吸を感じ損ねました。 周囲では評判の悪くない、坂道を自転車で下って行くシーン。 海たちとカメラの間にものがないという、たった1つのミスが 大きな欠陥となっています。 いつまで感情で映画を撮るんでしょうか。 感情で映画を撮ってはいけないのです。
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[010]マックス、モン・アムール
 紛れもない、透明な恋愛映画paris18952011-09-03
 
大島渚作品のなかで、もっとも愛すべき作品です。 ブニュエルのようだ、とは大島への褒め言葉にはならないので、控えておきますが 紛れもなく、透明な恋愛映画です。 公開当時・・・
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大島渚作品のなかで、もっとも愛すべき作品です。 ブニュエルのようだ、とは大島への褒め言葉にはならないので、控えておきますが 紛れもなく、透明な恋愛映画です。 公開当時、そしてこのあとの作品が撮られていないときは 「こんな映画が遺作になるのか・・・」 と周囲に心配されていたそうですが、私としてはそんな心配は不要です。 むしろ「御法度」のほうが上記の心配をしたくなる部分すらあります。 きわもの映画だと思ったり、ATG系の映画だと思って敬遠してる人が、もしいたのなら(そんな愚かな人がいるはずもありませんが) 必見です。
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[011]涼宮ハルヒの消失
 嘘をアニメイトするparis1895 (Mail)2011-01-18
 
 見事だ。  なにが? アニメーションとして、よくできている。  勘違いされがちだが、単純にぬるぬると絵が動けばいいわけではない。動くことは最低条件であって、もちろん・・・
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 見事だ。  なにが? アニメーションとして、よくできている。  勘違いされがちだが、単純にぬるぬると絵が動けばいいわけではない。動くことは最低条件であって、もちろんその最低条件を満たしていない愚かなアニメが世界には多いのだが、それは今回問題ではない。  ではどのように動くことがアニメとアニメーションを分け隔てているのだろうか?  それは、どれだけの嘘をアニメイトできたかということに他ならない。  いくら滑らかに絵をアニメイトしても、それがひとひらの嘘も内包していなければ、しょせん所謂アニメにしかなりえない。  滑らかに動き、そして100mを3歩で完走するという嘘を描いてみせて、はじめてそれはアニメーションと呼ぶことができるようになる。  そして、それはリアルを徹底的に観察することによって培われるフィクション性なのだ。  なんとなくで絵を描いてはならない。絵とは記憶によって描かれるものなのだ。  重い荷物を持つ人がふんばるということをしっかりと観察していなければ、もちろんそれをアニメイトすることはできない。  重い荷物を持ちながら、軽々しく歩く人間を描くことは、それは嘘にすらなっていない、ただの誤摩化しでしかない。  そういう点から見て、どうだろうか?  この作品は、アニメだろうか、アニメーションだろうか?  私は正直にアニメーションだとは言い切れない。  演出技術も高いし、作画能力のポテンシャルも他のスタジオをはるかに凌いでいる。にも関わらず、京都アニメーションという類いまれな会社にいる有能な才能あるスタッフたちのすべてを集めても、宮崎駿たったひとりに敵わないのだ。これはちょっとした悲劇だ。  これだけの見事な作品を撮り上げるスタッフたちを大きく労ってやりたい。  おもしろかったよ、と。原作にある脆弱さをのぞけば、非常によくできていたよ、と。エンドレスエイトだって演出としてはおもしろかったよ、と。  だが、やはりなんとかかろうじてアニメーションになっているという印象を拭えない。  演出も脚本も見事だ。だが、アニメイトという面で見れば、よくできている程度のものでしかない。それだけが残念だ。リアルを見つめる目だけが、フィクションを見つける目になるはずなのだが。
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[012]アンストッパブル
 21世紀の活劇paris1895 (Mail)2011-01-16
 
 もちろんとうぜんと言えばそうなんだけれど、21世紀的な活劇を僕らにはじめて示してくれるトニー・スコットの「アンストッパブル」は今年のトップ10上位にはいること間違・・・
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 もちろんとうぜんと言えばそうなんだけれど、21世紀的な活劇を僕らにはじめて示してくれるトニー・スコットの「アンストッパブル」は今年のトップ10上位にはいること間違いなしだ。  21世紀の活劇とはつまり、無駄なカットや無駄な編集、無駄な空撮などを多用しながらも、なにひとつとして無意味なカットや無意味な編集や、無意味な空撮がないトニー・スコットの映画のことだ。    もっと詳しく説明すると、この映画で言うなら、子どもたちの乗った列車と暴走機関車とがはち合わせになった瞬間の編集のクールさだ。無意味なカットバックなど使わずに、さらりとそのくだりを観客に見せる。そう、そんな前時代的な行為は21世紀の活劇には必要ないのだ。  上映時間が120分を超えるのが当たり前になってきているなかで、なんとか90分台に踏みとどまらせたその根性もタフだ。    2本に1本のペースでここまでのクオリティーの高い作品を発表してくれるトニー・スコットが僕は大好きなんですけれど、世間的には相変わらずリドリーごときの名前がちらほら見えるみたいで、なんだかな、という感じだ。  不謹慎かもしれないけど、機関車を止めようとするこの映画がすばらしいものだから、終わってほしくないと思うせいで「機関車よ、止まらないでくれ」と感じてしまう。  必見。
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[013]ゲスト
 21世紀の映画が到達した19世紀的な傑作paris1895 (Mail)2010-10-27
 
 ホセ・ルイス・ゲリンは、21世紀の映画がはじめて到達した19世紀的な映画だ。  『シルヴィアのいる街で』もそうだったし、この『ゲスト』もやはりそうだと思います。 ・・・
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 ホセ・ルイス・ゲリンは、21世紀の映画がはじめて到達した19世紀的な映画だ。  『シルヴィアのいる街で』もそうだったし、この『ゲスト』もやはりそうだと思います。  フィクションとドキュメンタリーと、神=説話と人=現実という二面構造の描写をこれでもかと各国さまざまな映画祭で訪れた地で、丁寧に撮り上げていくその手法は、やはり、映画と現実の境目がまだあやふやだったシネマトグラフの時代にシンクロしてしまいます。  つまり、1895年にはじめて映画が上映されたとき、観客はスクリーンの汽車を本物と思って、席から逃げ出したという嘘とも本当ともわからない逸話が残っているわけで、それはつまり映画と現実の境目が曖昧だったということを示しているわけです。  そしてこのホセ・ルイス・ゲリンという男は、現代の21世紀にその19世紀的な映画性を復活させてしまったわけです。映画と現実ではなく、フィクションとドキュメンタリー、そして神と人、という構造を用いることによって。  もう一度繰り返します。  ホセ・ルイス・ゲリンの映画は、21世紀の映画が到達した19世紀的な映画体験を約束してくれる希有な映画です。1895年からたかだか数年しかなかった映画の19世紀。  彼はそれを21世紀の生きるわれわれに、20世紀の子どもたちのわれわれに、約束してくれます。
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[014]ブロンド少女は過激に美しく
 20世紀のキスシーンの化石paris1895 (Mail)2010-10-16
 
 『アブラハム渓谷』や『階段通りの人々』の時代のような竜巻みたいに暴力的な美しさを振り回すのではなく、もっとそっとゆったりと映画に寄り添ってもらった、ある種の安穏と・・・
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 『アブラハム渓谷』や『階段通りの人々』の時代のような竜巻みたいに暴力的な美しさを振り回すのではなく、もっとそっとゆったりと映画に寄り添ってもらった、ある種の安穏とした映画を撮ってしまいながらも、やっぱり絶対的な映画性を発揮できるところが、オリヴェイラのすごさなんだと思います。  たとえば映画的な構図や手法を使わなくても、彼が撮ったフィルムこそが映画なんだと、叫んでいるかのようです。  21世紀のいま、化石的になりつつあるあのキスシーンの演出を蘇生できるのも、やはり彼しかいないのだと思います。
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[015]REDLINE
 ある種のディズニー映画paris1895 (Mail)2010-10-08
 
かつてのディズニー映画はまだしも、近代のディズニー映画は、間口が非常に広く作られている。 それは問題じゃない。  誰だってすんなりと入れるというのは、悪いことじゃない・・・
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かつてのディズニー映画はまだしも、近代のディズニー映画は、間口が非常に広く作られている。 それは問題じゃない。  誰だってすんなりと入れるというのは、悪いことじゃない。  けれど、問題は間口と同じ、あるいはそれ以上の広さで出口が作られているということだ。  間口よりかは、ほんの少しでもいいから出口を狭くなければ、入る前と後では何の変化もないじゃないか。  入っても、入らなくても何の変化も影響もないものなんか、価値がないように思える。商業的な面をのぞけば。  このアニメもおなじだ。  見ても見なくても、何の変化も影響もない。  見ることをすすめもしないし、見ることを強く反対するわけではない。  ただ、ある種のディズニー映画として、あるだけです。残念ながら。
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[016]マーターズ
 ある種の駅馬車とおなじ映画paris1895 (Mail)2010-09-20
 
 悪くない。  思わず、そうつぶやきたくなります。  はじまってから、あるていどのところまでは予測できたし、許容範囲だったけれど、途中から思ってもみなかった道筋には・・・
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 悪くない。  思わず、そうつぶやきたくなります。  はじまってから、あるていどのところまでは予測できたし、許容範囲だったけれど、途中から思ってもみなかった道筋にはいるあたりで、思わず『悪くない』とつぶやきたくなります。  ジャン=クロード・ブリソーなんかよりも悪くないキャメラも、演出を持つこの監督が、リュック・ベッソンごときにプロデュースされないことを願うばかりです。
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[017]霧の中の風景
 映画のすべてを孕んだワンカットparis1895 (Mail)2010-09-05
 
 もしも、あなたがこの映画をまだ見ていないなら、それはけっこう損をしていると思う。  なにが損かと言うと、死んでしまった子どもの自分との、共存方法のやりくりに、見た・・・
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 もしも、あなたがこの映画をまだ見ていないなら、それはけっこう損をしていると思う。  なにが損かと言うと、死んでしまった子どもの自分との、共存方法のやりくりに、見た人と見ていない人とだとティースプーン一杯ぶん程度だけど、差がでるだろう。  そしてその差は、決定的で致命的な差となって、いまだ生まれていない老年の自分が背負うものとして発芽するんだと思います。  この映画を形容しようとする言葉や作業が、僕にはちょっと罪に思えるんですけど、どうでしょうか? 誰かこの映画(アンゲロプロスの映画すべて?)に、形容詞をあてがってみようとしてください。すくなくとも(僕にとっては)、それはちょっと無理な話だった。  でも、やっぱり映画を見ている間中ずっと「美しい」と思ってしまう。「美しい」とはなにか、は僕はまだ知らないですけど、この映画が「美しい」ということだけは断言できます。  アンゲロプロスの映画でよく言われる長回し、ワンカットも、長いと思うけれど、冗長だとは思わせない。  ものすごいロングショットだったはずなのに、シーンの終わりにふと気づけば、結構なアップになっているところなんかも、うむむと唸らされてしまう。  ほんとうに、そっとペンですらすらと一筆書きをするかのように映画を形成していける人なんだと思います。  キャメラがあんなにどんどん動いているのに、観客は、キャメラを意識することなく、そのキャメラの動きがまるで自分の渇望した動きかのように、同調させられてしまうあたりも、すごい。ただもうほんとうにすごい。  ぜひ見て欲しいですけど、あんまりに多くの人に見られてしまうのもくやしいかな、と久しぶりに思ってしまえる映画です。
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[018]カラフル
 壊れた拳銃で、弾丸は撃てないparis1895 (Mail)2010-08-22
 
 原恵一という男の特権はなんだったのだろうか?  正直に言えば、この『カラフル』も『河童のクゥと夏休み』も、見ているあいだ、憤りしか感じなかった。それは細田守のアニ・・・
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 原恵一という男の特権はなんだったのだろうか?  正直に言えば、この『カラフル』も『河童のクゥと夏休み』も、見ているあいだ、憤りしか感じなかった。それは細田守のアニメを見ているときもおなじだけれど。  おもしろくないわけじゃない。原恵一の上記2作はおもしろみすらないけれど、細田守のアニメにはおもしろさはある。もちろんこの場合のおもしろさとは、否定語だ。  ではこのおもしろみすらない、最低なアニメの『カラフル』をつくった原恵一の特権とはなんだったのだろうか。  クレヨンしんちゃんシリーズの劇場版において2作もの秀作を撮り上げたにも関わらず、フリーランスになってからの凋落ぶりはいかがなものか?  『大人帝国の逆襲』や『戦国大合戦』にはあったものとはなんだろうか。  それは、現実からの飛躍距離なのだと思う。  そもそもが非現実的な存在の『野原一家』を現実的な手法で描き、現実世界にひきずりおろそうととしたところに、クレヨンしんちゃんシリーズのおもしろさはあったのかもしれない。  それはつまり、アニメーションの特権でもあるわけだ。  100mを3歩で完走できるのが、アニメーションの特権だ。それを丁寧にじょうずな嘘としてつくることに成功すれば、だが。  だから人は誰もクレヨンしんちゃんシリーズの叙情的な劇場版を見ても「実写でやれば?」とは言わない。否、言えないし、言う必要がない。あれはアニメーションだからこそ辿りつける見事な一点なのだ。  だが、『河童〜』や『カラフル』はどうだろう?  アニメーションにとっては軽蔑語にすらなる『実写でやれば?』というフレーズを思わず言いたくなる。  叙情的な展開もまったく、われわれのどこにも突き刺さらない。  なぜなら、その弾丸を発射する装置が不良品だからだ。  それはつまり、動く絵としてのアニメーションのクオリティが、たとえば京都アニメーションの制作するTVアニメにすら及ばないことを意味する。観察眼がないのだ。そうでなければ、職業的モラルがまったくもって低いのだ。人が延々と規則的なリズムで歩くはずがない。大きなボストンバッグを中年の女性がひょいと軽く持ち上げられるだろうか? すこしは足腰で踏ん張ったりしないだろうか? 宮崎駿が失敗作の『魔女の宅急便』のキキに与えた、荷物を持って階段をのぼるときの、見事な描写力を思いだしてほしい。  観察と掘り下げを怠ってはならない。  クレヨンしんちゃんならば、原恵一程度の観察と掘り下げでもよかった。映画に支障をきたすようなことはなかった。  なぜなら、しんちゃんという、弾丸でもあり、リヴォルバーでもある存在があまりにも圧倒的だったからだ。    差別語として定着しつつある『アニメ』にしかなっていないこの2作は、確信を持って言えるが、最低だ。  かつて『アニメーション』を撮り得た男の凋落していくさまを、リアルタイムでつきあっていかなければならないと思うと、やはり哀しい。  こんなアニメ見る必要がない。  こんな最低なアニメを見るぐらいであれば、そのお札を手に渋谷のシアターイメージフォーラムに走って、21世紀の映画が到達したホセ・ルイス・ゲリンの19世紀的な傑作の映画を見てほしい。
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[019]シルビアのいる街で
 フィルムの原液としての映画paris1895 (Mail)2010-08-18
 
 ホセ・ルイス・ゲリンの『シルビアのいる街で』は19世紀的な映画の体験として、われわれをまばたきという束縛から解放してくれる。  21世紀に公開されたこのカラートー・・・
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 ホセ・ルイス・ゲリンの『シルビアのいる街で』は19世紀的な映画の体験として、われわれをまばたきという束縛から解放してくれる。  21世紀に公開されたこのカラートーキー映画が与えてくれる体験は、どこをどう切り取っても、モノクロサイレント映画の体験とすごく似ている。というか、まったく一緒だ。  邦題は『シルビアのいる街で』だが、原題を直訳すると、どちらかといえば「シルビアの街で」となるので、シルビアがいるかいないかは深く問われていない。  それにしてもこの『シルビアの街で』行われる100パーセントの映画としての美しさは傑作という言葉すら役に立たない。  2009年の東京国際映画祭にて上映された彼の『イニスフリー』(’90)という作品のポスターだけでも、その年の多くの映画を天秤にかけても釣り合わないぐらいだろうの、力強さを持っていたのだから、当然と言えば、当然だけれど。  映画を見ている人なら誰でも知っている『静かなる男』にて使われたイニスフリーという場所に、キャメラを携えてそぞろやってくるだけでも十分なのに、この監督はその場所に『J・ FORD』と記されたディレクターチェアーを置く。  感嘆符をいくつつけても足りないほどの、力強いこのショットをみるだけでも、人は映画の美しさを思い出せるだろう。  詩人ジェラール・ド・ネルヴァルの「シルヴィー」にインスパイアされたというこの『シルビアの街で』にも、思わず拳を高く振り上げたくなるほどの衝撃を与えてくれる瞬間が、数多く訪れる。  たとえば、風景を撮るときほどの見事さで人物を撮れていなくても、それはこの映画の欠陥にはならない。それはむしろ原液に近いフィルムを飲み込む作業に似ている。  徹底的に計算された即興演出としてわれわれの記憶に突き刺さっているカサヴェテスの『こわれゆく女』とは対極に位置しているこの映画を見逃すことは、映画そのものに唾をはきかけるようなものなので、注意されよ。
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[020]ひとりで生きる
 映画の蘇生のために、映画を壊すparis1895 (Mail)2010-07-17
 
 雪原のなか、スクリーンの奥から被写体が歩いてくる。思わず、にやりとさせられる展開がこのあと起こるのだけど、それがなんだかは言ってはならないでしょう。  映画の映画・・・
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 雪原のなか、スクリーンの奥から被写体が歩いてくる。思わず、にやりとさせられる展開がこのあと起こるのだけど、それがなんだかは言ってはならないでしょう。  映画の映画性をフィルムに定着させようとした、とだけ言っておきたい。  でもそれはなにも、ファーストシーンだけではなくて、ラストシーンでもおなじことが言えます。  映画を再建するために、映画を壊そうとしなければならなかった、孤高の映画作家の祈りがこの映画の全編にほんのちょっぴりの、暖かさをもたらしている。  そしてなによりも悲劇的喜劇なのが、映画を壊すなどということができるはずがなかった、ということです。でもカネフスキーは主人公の少年が非行の道に進まなければいけなかったのとおなじ意味合いで、その無謀で結果のわかっている行いを、みずからの煉獄としてしなければいけなかった。  だから彼は、50歳を過ぎて、映画に向かって『動くな、死ね、蘇れ!』と叫ばなければならなかったし、壊すこともできずに、また蘇生することもできない映画にたいして孤独にひとりで生きなければいけなかったうえに、(ヴィクトル・エリセが言ったように)人類が生み出した最も若い芸術であり、人類が最も老いてから生み出した芸術でもある映画の子どもたちであるわれわれは、20世紀のなかでしか生きられない、20世紀の子どもたちである、ということを、たった3本の映画として、われわれの前に差し出すことしかできなかったのだ。  世界を変えようとして、映画を蘇生しようとして、或は人類を救おうとして、そのどれもにことごとく失敗し、挫折した男の、行きた証として、カネフスキーの映画はわれわれの前にそっと、じつにひそやかに、つつましく置かれている。  彼の映画のまえを通り過ぎる人とそうでない人では、人生においての、ひとりでいる、ということにたいする姿勢がティースプーン一杯ぶん程度だけど、変わってくるだろう。
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[021]ルイジアナ物語
 自らの記憶をドキュメントするparis1895 (Mail)2010-05-05
 
カンヌで当然の賞を受けながらも、62歳のフラハティーが記録した自らのドキュメントをおいそれと見れないことを嘆くのはよそう。  油井の発掘とリンクするかのように、ワニ・・・
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カンヌで当然の賞を受けながらも、62歳のフラハティーが記録した自らのドキュメントをおいそれと見れないことを嘆くのはよそう。  油井の発掘とリンクするかのように、ワニと主人公の少年を換喩を用いて描いたこのセミドキュメンタリー映画の素晴らしさは、見ていない人間や見れない人間にまで、美しさを実感させる。  62歳という年齢のフラハティーが描く10代の少年の瑞々しさは軽々と時代という壁を通り越し、われわれの視線へと突き刺さってくる。  多くを語ることはやめておくが、あまりにも美しいシーンのひとつだけは言うことを許していただきたい。  少年が油井の穴のなかに、ワニ撃退用の塩をさらさらと流し込むシーン。それはいままでじっくりと撮られてきたワニの口を容易に想像させる。だがそういった、象徴的ななにかをかなぐり捨てて、このシーンの風に流れる塩の白さと、それを飲み込む穴の黒さとのあまりにも対照的な美しさは忘れられないであろう。
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[022]極北の怪異
 サイレント映画の声を見逃すなparis1895 (Mail)2010-05-05
 
 この映画は1922年に完成した。  この年数を覚えておいていただきたい。1927年でも、1930年でもなく、1922年だ。  エスキモーに心惹かれたフラハティーは・・・
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 この映画は1922年に完成した。  この年数を覚えておいていただきたい。1927年でも、1930年でもなく、1922年だ。  エスキモーに心惹かれたフラハティーは、ひとまず撮影に取りかかることになる。脚本、制作、監督という多数の職務をこなし、撮影をつづける。  だが、ひとつの事件がこの映画を襲う。  氷の世界を映した撮影済みフィルムが焼失してしまうという事態に襲われたのだ。  だが、フラハティがそんなことでめげるわけがない。  彼はまたも多くの役をこなして、なんとか映画を完成にこぎつける。  この映画は1927年に公開された世界初のトーキー映画よりも前の映画なので、もちろん、サイレントだ。  俗説はあるものの、1930年に公開されたと言われている世界初のカラー映画よりも、もちろん前の映画だから、やはりモノクロである。  だが、こんなにも雄弁な映画をサイレントという言葉で括ってしまっていいのだろうか。 それは形式の名前であり、形態に与えられる名前ではない。  ではこの映画に映画史が与えた名前とはなにか?  この映画より以前には存在せず、この映画より以後の同じ形態を持つ記録映画が必ずそう呼ばれることとなった名前。  われわれはそれを「ドキュメンタリー映画」と呼ぶことが許されている。  記録映画という殻を突き破り、世界で初めてドキュメンタリー映画と呼ばれたこの「極北の怪異」というモノクロサイレント映画の声を見逃すな。
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[023]天然コケッコー
 映画を劇場に取り戻さなければならならいparis1895 (Mail)2010-03-27
 
 なるほど、全編、才能と野心を静かに煮えたぎらせていることを感じられずにはおれない監督なのかもしれない。 あからさまなミスキャストの主役2人の健闘も褒め讃えるべきな・・・
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 なるほど、全編、才能と野心を静かに煮えたぎらせていることを感じられずにはおれない監督なのかもしれない。 あからさまなミスキャストの主役2人の健闘も褒め讃えるべきなのかもしれない。  だが、この映画はけっして褒められたものではない。  なぜならキャメラはテレビ的なポジションから抜けきっておらず、監督は才能と野心に振り回されて、決定的に映画をつかみそこねている。  ただ冗長につつくロングショットを重ねて、愚かなアン・リーのように静謐さを気取るよりは、『エデンより彼方に』のトッド・ヘインズのように的確なタイミングで見事なクレーンショットを撮ってしまったり、トニー・スコットのように一見無意味に積み重ねられた雑多で断片のようなショットの連鎖が思いも寄らぬ場所へと正確に導いていってくれるような大胆さこそが、映画にふれる僥倖をもたらすきっかけとなるはずだ。  この映画の監督は、才能とクレバーさだけではキャメラを回しても、それは映画にはならないということを証明している監督だ。いくら才能があっても、いくら頭がよくても、そんなもの映画を撮るときにはなんの役にもたちはしない。  映画を撮るときに必要なのは、映画からの呼びかけである。映画に愛されたものだけが、映画を撮ってしまえるのだ。  それはウェルズが、シュトロハイムが、キートンが、ニコラス・レイ、エドワード・ヤンが証明している。  そして、才能に恵まれ、頭脳の明晰さにも恵まれたゆえに、ただの一本も映画を撮れていない、愚かな映画監督、キャロル・リード、リドリー・スコット、ウォン・カーワァイ、岩井俊二などの系譜に連なる胚芽を抱えているのが、この山下敦弘という男なのだ。  この男の撮る画面は、どこをどう切り取ってもテレビなのだ。 映画が劇場で上映されるものではなく、テレビ画面に投影されるものと勘違いしているとしか思えないほどに、この男の映画はテレビ向けだ。  映画の特権のひとつはなにか? それは縦構図ということである。 奥と手前があるということが映画の特権のひとつにほかならない。演劇にはもちろんそんなものはない。テレビで、奥に人物を置いたとしても、あの小さな画面ではなにがなんだかわかるまい。  だが、映画では奥に人物を置いても、それがはっきりと視覚できる。かりに米粒程度にしか映らなくても、それは映画の脈動として波打つことになる。  つまりそういう映画の血が流れていないのが、この男の映画なのだ。  われわれはいまこそ、映画を劇場に、銀幕のうえに取り戻すときなのではないか?
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[024]ピエル・パオロ・パゾリーニ/ソドムの市
 我々は恥じなければならないparis1895 (Mail)2009-11-14
 
パゾリーニごときに、当時の日本は湧いたのだ。 思いだしてほしい。あの愚かなパゾリーニ旋風を。 ヴィスコンティを見ていなくても、話題性に乗せられてパゾリーニに2時間近・・・
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パゾリーニごときに、当時の日本は湧いたのだ。 思いだしてほしい。あの愚かなパゾリーニ旋風を。 ヴィスコンティを見ていなくても、話題性に乗せられてパゾリーニに2時間近くを費やすなどという愚かな行為は、もはややめられなければならない。  もちろん、それは彼の扱った内容やテーマによって断じられることではない。 なるほど、この作品で、パゾリーニの当時の恋人だった少年にイミテーションと思わせて、実のところ自らの糞便と入れ替えたそれを食べさせてしまうという行為はノーマルな行為とは言えないだろう。まして、臨終の場所がゴミ捨て場で、そのいきさつが恋人だった少年とケンカをして撲殺されたとあっては、なるほど、知識的スノッブたちの喜びそうな生き様かもしれない。  だが、我々は断言しなければならない。 ワイルダーがつまならないのと同じように、キャロル・リードが2流以下なのと同じように、パゾリーニもまた映画的に凡庸な監督でしかなかった、と。  それは彼がどんなショッキングな話題を振りまく映画を撮ろうとも、くつがえせる事実ではない。
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[025]ショックプルーフ
 そんなまさか、と呟かずにおれないparis1895 (Mail)2009-11-02
 
そんなまさか、と思わず口にしたくなる欲求をなんとか堪えて、われわれは画面に視線を注ぐ。 脚本のタイトルクレジットにサミュエル・フラーの名前を見つけて、そんなまさかと・・・
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そんなまさか、と思わず口にしたくなる欲求をなんとか堪えて、われわれは画面に視線を注ぐ。 脚本のタイトルクレジットにサミュエル・フラーの名前を見つけて、そんなまさかと叫びたくなる。 そしてそのあとに画面に刻まれている監督の名前を見たときに、席を飛び上がらんばかりに咆哮したくなる。だが、そんな振る舞いは慎まねばならない。 なぜなら映画はそんなショッキングな出来事を平然と、いままで何度もやってのけてきたのだから。たとえば、ウェルズの原案をチャップリンが映画化した作品を忘れた者はいまい。  パトリシア・ナイトのけっして多くはない(というよりもじつに少ない)女優歴のなかに刻み込まれるであろう、輝かしいダグラズ・サークの手によるオープニングのシークエンス。  仮釈放された女が保護観察官のもとに向かいながら、綺麗な靴をショーウインドウで見かけ、思わず立ち止まってしまう。彼女はその靴を購入し、見事に履きこなして、闊歩する。そして、ブルネットの髪をブロンドに染め上げて、精一杯の虚勢と緊張を張った状態でコーネル・ワイルド演ずる保護観察官の前に出頭する。  仮釈放の身と、保護観察官という身でありながら二人は惹かれ合う。  だが、女の元恋人がことあるごとに彼女をそそのかし悪い道に引き戻そうとして…  相変わらずのサークのオープニングの美しさは言うに及ばず、フラーも参加している脚本はただのサスペンスではなく、見事なサミュエル・フラー印のダグラス・サーク映画となっている。  そしてこの映画が日本でまともな形で公開されていないという事実に、われわれは「そんなまさか」と呟かずにはおれないのだが、だが、そんな振る舞いもやはり慎もう。  なぜなら、われわれはこの映画を見ることによってそんな衝撃への耐性を獲得しているはずだからだ。
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[026]3時10分、決断のとき
 すべてのフィルムを焼き直せ!paris1895 (Mail)2009-10-21
 
 映画史に2009年の日本が記憶されるとするならば、それは映画芸術科学アカデミーが滝田洋二郎ごときに与えた愚劣な金メッキの像の贈与ではなく、ジェームズ・マンゴールドが本・・・
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 映画史に2009年の日本が記憶されるとするならば、それは映画芸術科学アカデミーが滝田洋二郎ごときに与えた愚劣な金メッキの像の贈与ではなく、ジェームズ・マンゴールドが本国での公開から2年も経ってから届けてくれた1本の映画を糸口にして記憶されるだろう。  われわれはその映画を観る前から当然のごとく知っている。その映画がエルモア・レナード原作による黒白映画『決断の3時10分』のリメイクだということを。  劇場側の粋な計らいによる3時10分からの上映がはじまるために劇場内が闇に包まれ、視線を征服する至福のときを待ち焦がれる中、われわれはふと頭をもたげる。  なぜなら、J・J・エイブラムスが撮り上げた新作は『スタートレック』のリメイクであったことが頭をかすめたからだ。 そこでわれわれは気づく。  トニー・スコットが何年かぶりに撮った新作は『サブウェイ・パニック』のリメイクであり、タランティーノが単独で久々に監督した新作もまた『地獄のバスターズ』のリメイクであるということに。さらに言えば、キアロスタミが実験的に撮り上げた新作が『それぞれのシネマ』の彼の作品のセルフリメイクのようなものだということを思いだしたとき、われわれは確信せずにはおれなくなる。  2009年という年はリメイクという行為によって映画史に刻まれるのだということを。  だが、リメイクという行為がもたらす意味を、『焼き直し』としてとらえ、安易なハリウッド映画の凋落と思ってはならない。  なぜなら、すべての物語はもはや語り尽くされてしまっているからだ。新構築などはもはや存在せず、再構築のみが物語を延命させるのだということを証明する運動としてのリメイク=焼き直しという行為を、われわれは拍手を持って迎えなければならない。  なぜなら、それこそが老年を迎え衰弱していくだけの映画に触れる唯一の方法の再構築に他ならないからだ。  ラングロワが言った。 「すべてのフィルムを燃やせ。ただし、心の炎で」  われわれはラングロワの言葉を再構築しなければならない決断を迫られている。  すべてのフィルムを焼き直せ。ただし心の炎で。
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[027]ビッグ・パレード
 いまこそ大進軍をもって、映画史に進めparis1895 (Mail)2009-10-11
 
 われわれは嘆かなければいけない。  戦争の悲劇性にでも、戦争の喜劇性にでもない。まして、この『ビッグ・パレード』の善し悪しについてでもない。この映画と同じ年に公・・・
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 われわれは嘆かなければいけない。  戦争の悲劇性にでも、戦争の喜劇性にでもない。まして、この『ビッグ・パレード』の善し悪しについてでもない。この映画と同じ年に公開された『栄光』がおいそれと見れない現代に、嘆かなければならない。  ヴィダーによるこの映画を観たラオール・ウォルシュが、俺も撮ってやる、と意気込んで撮り上げ、後にジョン・フォードの手によってリメイクされることとなるあの『栄光』を観ることができない現代に、嘆かなければいけない。  なぜなら、それは戦争が巻き起こす数多の出来事よりも、十全に悲劇だからだ。なるほど、戦争で誰それが帰らぬ人となり、またある人は恋人と離ればなれになってしまうという事柄や歴史的事実は、たしかに忘れていいことでもないし、軽視してはいけないことだろう。  だが、とそれでもつづけたい。  だが、『ビッグ・パレード』と同じ年に『栄光』が公開されたという歴史的事実を、忘れていいのだろうか? まして『栄光』とわれわれの間に確固として存在するこの剥離はなんなのか。なぜ、『栄光』とわれわれは、かくも離ればなれになってしまっているのか。  公開当時から軽視されつづけた『栄光』を、歴史からも映画史からも忘れさせようとしているこの現代に、やはりわれわれは嘆かなければいけない。  ジョン・フォードがどういう意図で『栄光何するものぞ』を撮り上げたのかは、定かではないが、フォードは『栄光』をリメイクしたのだ。『ビッグ・パレード』ではない。  それだけで、ウォルシュによるその映画を観れない憤りも、容易に伝えられる筈だろう。
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[028]マンディ・レイン 血まみれ金髪女子高生
 懐古主義と憧憬のこどもたちparis1895 (Mail)2009-09-28
 
 前半の退屈さから一転して、劇中で夜明けが訪れるとともに、われわれの瞼にもある程度の光は差した。  ロブ・ゾンビと気が合うのだろうな、と監督に対して思わされる。  ・・・
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 前半の退屈さから一転して、劇中で夜明けが訪れるとともに、われわれの瞼にもある程度の光は差した。  ロブ・ゾンビと気が合うのだろうな、と監督に対して思わされる。  邦題の連想させる敷居の低さとはてんで違う、頑張りが随所に窺える。  インデペンデントな努力は、好感が持てる。 が、ロングショットの弱さはいたしかたないのだろうか。
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[029]サマーウォーズ
 アニミズムにおけるアニメとアニメーションparis1895 (Mail)2009-09-12
 
 いまわれわれは選択を迫られている。  アニミズムという概念を根底にしくアニメーションという手法が、もはや、愚なるものの象徴としての略語のアニメという言葉に浸食され・・・
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 いまわれわれは選択を迫られている。  アニミズムという概念を根底にしくアニメーションという手法が、もはや、愚なるものの象徴としての略語のアニメという言葉に浸食されはじめているのだ。  宮崎駿のみが、唯一、いまなおその侵略に孤高に奮闘しているのだが、その他の者は、自ら敬愛しているであろうものに対する侮蔑行為とも考え及ばずに、平気でアニメを作ってしまっている。  われわれが見たいものは、アニメーションのはずだ。アニメなど、存在する価値はあるかもしれないが、必要はない。  記号しか映写しえないアニメーションという手法で、その記号性を用いて状況を打破するにまで活用できるのも、また宮崎駿しかいない。少なくとも日本では。  100mの距離を3歩で完走できるという描写が、実写から解放されたアニメーションの特権のはずだ。にもかかわらず、思わず『実写でいいではないか』と呟かずにはおれないものが、アニメーションというジャンルの中で、アニメという作品により浸食している。  この『サマーウォーズ』という作品は、なるほど、脚本は緻密で、絵も流麗で、演出も安定しており、鑑賞時間中は完膚無きまでに楽しめるかもしれない。  だが、とわれわれはつづけよう。  だが、ただ、それだけだ。面白いだけだ。それ以外には、なにもない。  実写では成立しないこの話を、アニメーションとして蘇生しえたかと問われれば、思わず否と叫びたくなる。実写では不可能ながら、アニメーションとしても不具なこの作品は、やはりただのアニメであり、われわれの瞼をこじ開ける力は持ち得ていない。  このアニメは面白いだけだ。もちろん、細田守には才能もあるだろうし、それは否定しない。にも関わらず、われわれはこのアニメをアニメーションとは呼べない。  いまいちど、呟こう。  このアニメは面白いだけだ。  いまわれわれは選択を迫られている。  アニメーションを擁護するか、アニメに追走するか。  われわれが出す答えは、選択肢を与えられる前に、決定している。
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[030]チェンジリング
 謙虚な敬意と傲慢な敬意paris1895 (Mail)2009-03-12
 
例えば、ゴダールが『映画史』の中でRKOのロゴの映像を使うのと、あの愚かなデヴィッド・フィンチャーが『ゾディアック』でワーナーのロゴ映像を当時のものを使うのとでは、純・・・
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例えば、ゴダールが『映画史』の中でRKOのロゴの映像を使うのと、あの愚かなデヴィッド・フィンチャーが『ゾディアック』でワーナーのロゴ映像を当時のものを使うのとでは、純然たる違いがある様に思う。  謙虚な敬意と傲慢な敬意の違い、とでも言おうか。  ではこの『チェンジリング』ではどうか。 私としては、前者であると答えたいのだが、それが何故か、と問われたらそれに対する答えは、ない。  暴力的なまでの謙虚な敬意、と言う他ない。  この映画で描かれる警察の暴力的な悪徳や、犯人の非道な暴力性、アンジェリーナ・ジョリーの暴力的なまでの無心の愛よりも、イーストウッドの映画への敬意の方が暴力的だと確信せずにはおれない。 それは劇中のあるシーンにおいても顕著だ。  アンジェリーナ・ジョリーがアカデミー賞の作品賞を予想するそのシーン。 勿論、われわれは1934年のアカデミー賞は『クレオパトラ』や『白い蘭』などにではなく、フランク・キャプラによるあの作品に捧げられたことは知っている。  そして当然、アンジェリーナ・ジョリー演ずる母親もまた、『クレオパトラ』などが作品賞を受賞するなどとは予想しない。  問題なのは、そこではない。この何でもないワンシーンに注意をひきつけられたわれわれは銀幕に視線をおくりつづけ、そして孤独な浮遊感を味わうことになる。映って当然のそれが映らないことによる、その浮遊感はいずれ途方もない孤独感になってわれわれに襲いかかり、映画の終幕までわれわれの瞼をこじ開け続ける。  やがて映画が終わるシーンを迎えたときに、われわれは孤独でなかったことを知る。イーストウッドはわれわれを一人になどはしない。  そのシーンの街並には映画館があり、その映画館には『或る夜の出来事』のポスターがかかっている。  この事柄だけを取っても、フィンチャーの愚かしさなどは言うに及ばず、イーストウッドの暴力的なまでの映画への謙虚な敬意を感じれずにはおれない。
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