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 「theoria」さんのコメント一覧 登録数(257件)rss
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[001]ブレイカウェイ
 煌くランタンtheoria2005-03-08
 
国賊だの非国民だのと回り諄く攻撃されても痛くも痒くもない。本作品、デンマークの美しい国旗が作品全篇に鏤められているだけで心が和む。物語が同じであっても、はためく国旗・・・
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国賊だの非国民だのと回り諄く攻撃されても痛くも痒くもない。本作品、デンマークの美しい国旗が作品全篇に鏤められているだけで心が和む。物語が同じであっても、はためく国旗が星条旗やら日の丸であったならば悪寒がして吐き気を催したという公算が大。物語は国土が平坦ということと無縁ではなく起伏に乏しいが、そういう環境下に育つ人間は脳内でのシナプス(神経連鎖)の働きが立体的で密度が濃い。逆に、起伏に富んだ山紫水明の自然環境抜群の日本では自然が余りにも“完璧”なので人間はソレに埋もれて(ソレはソレで幸せかも知れぬが)総じて脳神経の活動が表面的で薄っぺら。コノ作品、四者四様(ヤク中&アル中のピーター、いつも何かを食ってるステファン、ガンマニアのアーニー、そして“住み処”を絶えず求めるトーキッド)の青少年期に奇妙なトラウマ(特に笑えるのはトーキッドの父親の青ペンキ林檎自殺)を持つ破落戸たちが、独り善がりの金貸し巨漢のノルウェー人、通称エスキモーから窃盗やら強盗をさせられ続けていい加減にイヤになって、金庫破りを最後にボス格のトーキッドに従って取り敢えずアーニーが口にしたバルセロナに向けて車を走らせる。しかし、ポンコツ車なので途中でエンジントラブル。ボンネットを開けると火を噴いているエンジン。引火の恐怖も余所にサッサと逃げもせずアーニーが腹を立ててエンジンに銃をしつこく連射(大バカな光景に爆笑)。気が済んで漸く札束の詰まったスーツケースを持ち出して皆で森の中へと逃げて行く。行き付いたボロ小屋は元レストラン。その土地の猟師と医者に触発されて“住み処”を求めるトーキッドの「ここでレストランをやろう!」の意向に従い、他の三人も最初は不服ながら次第に仲間意識が強固になっていくのを、すったもんだの末に皆が実感。メデタシメデタシで「味はトンデモナイが、ただ座っているだけで満足なレストラン」の開店となる・・「友情」と言うよりも、傷を舐め合う獣たちの「結束」という名の最高の調味料が利いていているからこそ満足できるのだろう。四人が皆、名シェフである。「さぁ、俺様たちの特製結束スープを召し上がれ!」。誠に心温まる佳作だ。 ・・・が、コレだけに留まらないのがデンマークの底力。チト足りないステファンの女であるハンナとトーキッドの相性の悪さ、と言うか、ただ好きな女に振られたトーキッドの憂さ晴らしなのか、ハンナをトコトン嫌悪する。トーキッドが医者から教わって地面に掘った「ビール保冷穴」に、呪われたかのように落っこちるハンナ。そして何と言っても「卵吹き」の一件の心理描写は見事。失敗するトーキッドを笑うハンナの顔面にトーキッドの「拳の一撃」・・茫然自失のハンナにも大爆笑だが、ソレを見守る皆の言動はソレ以上!!誰一人としてトーキッドを責めない。ステファンでさえ!結果、当然にもハンナはステファンを連れて二人で夜逃げを試みるが、ステファンはトーキッドと他の仲間たちを選択する。男たちの強〜い絆。現代に於いて星条旗や日の丸を掲げて喜ぶ連中に“ココまで”ドギツクも深く濃く(しかもメスをノックアウトしてまで)人間の性(さが)を描けるのだろうか?それどころか、マトモに理解できるのだろうか?甚だ疑問である。・・・まぁ、アホの坂田みたいな「アホ!」と言われりゃ大喜びして「バカ!」と言われたら激怒するような低脳(芝居とはいえ)のハゲオヤジを見て笑ってる自分などがエラソーなことは言えんがね。実際、「タヌキ!」と言われても腹は立たんが、何故か「キツネ!」と言われると面白くないですもんね(笑)。宮崎駿でさえ『平成狸合戦ぽんぽこ』とやらで狐は極めてエゲツナク扱ってましたしネ。
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[002]アレックス
 失われた時を求めて・・・?theoria2005-03-01
 
破壊(死)を遡れば創造(誕生)に辿り着くのは至極当然。そして破壊の直後に大いなる空虚(無)が存在するかしないかは別として、更なる創造〜破壊へと無常にも時は流れ行く。・・・
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破壊(死)を遡れば創造(誕生)に辿り着くのは至極当然。そして破壊の直後に大いなる空虚(無)が存在するかしないかは別として、更なる創造〜破壊へと無常にも時は流れ行く。ノエの悪趣味ながらも単純なプロットが観る者の身も心も金縛り状態へと陥らせる。但し、『カノン』では独白としてのエクリチュール(単体の愚痴)で終始一貫してボヤいていた近親相姦のオッサンが、出所してきて今度はアナルセックスの堪能者、加害者、被害者たちの談話としてのディスクール(愚痴の集合体)の喧騒を傾聴することとなる。映像処理での物理的なスケールアップ、そして塀の中に居て少しは悟りの境地に近づいたであろうオッサン(笑)と、ノエ監督の、時を経た精神的な成長が本作では割合に看取できる。静脈を流れる汚い血を感じさせる映像は、肛門が引き裂かれて流血している不快感の連続と言うよりは、帝王切開で梃子摺ったのか、子宮内で血液に塗れた羊膜と共に閉じ込められて酸欠でもがいている胎児を想像させるような息苦しい尋常ならぬ閉塞感を催させ続けて殆んどラストまで引き摺り込んでいる。しかし、アレックスが妊娠検査薬を試して陽性と出て母親としての寛容にして和やかな表情を見せ、腹部をそっと摩るシーンから哀愁を帯びて静かに奏される葬送行進曲風の「不滅のアレグレット」がアレックスを不滅の愛と美の象徴へと荘厳に誘っていく。『時計じかけのオレンジ』が「第九」なら、『アレックス』は「第七」だ。「第七」をワーグナーが「舞踊の聖化」と評したのは有名。「最高の形式による舞踊。理想化した音楽による聖なる運動の権化。和声と旋律は人体のそれにも似た活発なリズムの形で流動し、しなやかな四肢は繊細柔軟に優美淫楽な踊りを展開する」。自ら発した火傷しそうな熱いテクストに踊らされて息つく暇も無いノエ。そんなノエが緩徐楽章の無い「第七」の敢えて第二楽章を選曲した鋭さは傑出している。葬送的であっても尚且つリズミカルに躍動している生命力の強靭さ。懐胎したアレックスと『2001年宇宙の旅』のポスターをカメラは半ば興奮して愛撫しているようだし、続く日溜まりの芝生シーンで寛ぐアレックスと、スプリンクラーと共に回転して乱舞する子供たちを追うカメラもグルグル回ってなんとなく嗚咽と歓喜の渦巻く生臭い太陽系を思わせる。そしてあの白いフラッシングは正に忙しない不確定な量子力学の世界だが、途中で「ミルキーウェイ」?を垣間見せる。生命の原点への回帰!・・・が、大いなる空虚(無)が断腸(直腸だな! 笑)の思いで突如訪れる!?(幕) ・・・・・そして再び全ての現象が誕生する衆妙の門が開かれることとなるが、流転輪廻は無窮である。つまり、生命の律動(リズム)は暴力と紙一重だし、常に破壊(死〜葬送)が付き纏うのである。アレックスのしなやかな四肢は繊細柔軟に優美淫楽な踊りを展開しつつも衰退・破壊とは絶対に無関係ではいられず不可避なのである。そもそもホモのプルーストが純然と指摘したように、女が男に身体を許すこと自体(アナルでなく 笑)が「美(女体)を壊される」ことであるのだから。『時計〜』の加害者的アレックス=男も、被害者的な本作のアレックス=女にしても、快感=破壊の構図で一致している。「時は全てを破壊する」ってのは、「生(性)は失われた時に過ぎない」−−と聞こえなくもない。モニカ・ベルッチのアフロディテを喚起する美貌が「不滅のアレグレット」の如く真の芸術性を湛えているであろうという直観に於いては「不滅のアレックス」と呼べないこともない。尤も、映画そのものは御世辞にも「不滅」とは言い難いが・・・。 余談だが、ダフト・パンクとやらの一員による仕業であるだろう「おいおい消火器は正気か?みたいな“騒音”」だが、ソレなりにイケてるし、松本零士とコラボってやがるので、氏に免じて許してやろう!?(でも認知はせん!認知は! 痴呆は痴呆じゃっ! 「認痴」せよ!! 笑)。
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[003]黒坂真美
 春の乳輪theoria2005-02-23
 
「冬の輪舞」とやらの昼メロドラマ。タマラン遠野凪子が出ているとかで時々録画してもらい、暇があればチラチラと目を遣っていたのだが、案の定アリキタリな脳味噌発酵映像の連・・・
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「冬の輪舞」とやらの昼メロドラマ。タマラン遠野凪子が出ているとかで時々録画してもらい、暇があればチラチラと目を遣っていたのだが、案の定アリキタリな脳味噌発酵映像の連写に過ぎず、内容に感興などまるでナシ。遠野凪子のトロトロに冷えた霙状態のウォッカの引き締まったエロ味をタダひたすら堪能していただけである。だがしかし、春一番の吹く頃になって見方に変化が訪れた。神秘的な蒼きエロスを湛えた流氷は後退していき、花の香りを運ぶ南風が五感を否応なしに刺激する。遠野凪子の対抗馬である黒坂真美がソレだ。タダの十把一からげの無個性女優ではあるのだろうが、何度か見ているとヤケにエロく思えて来た。単なる好みの問題だが、よくよく観察すると「LAURA ASHLEY」の花柄ドレスが似合うであろう彼女は逃げていった昔の女とクリソツではないか!? 冬顔の遠野凪子。春顔の黒坂真美。・・・これは完全なる偏見だが、冬を思わせる女の乳輪は蕾のように小さくソレゆえに乳房なる沃野の虜となり、春を感じさせる女の乳輪は小振りな蒲公英の花の如く麗しいので花弁を愛撫し続けたくなるのである・・・?? 各々の乳輪の大きさなどは勿論知らんが、ナントナク頷けませんか?(糞) 黒坂真美、アンタはエロい!エロすぎる!ギンギンに冷えたウォッカではなく、泡盛のお湯割りって感じの円やかな美味しさが充満してるよ〜ん(私、脳梅デスから... 愚々!)。でも、チト化粧が濃すぎやしないかいな?
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[004]蛇イチゴ
 蛇の生殺しtheoria2005-02-21
 
「蛇イチゴ」なんてそんなに珍しいモンなのか?ツチノコじゃあるまいし。どっかの深山幽谷の山脈に続くような過疎地の廃校寸前の小学校の裏山を深く分け入って熊に襲われそうな・・・
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「蛇イチゴ」なんてそんなに珍しいモンなのか?ツチノコじゃあるまいし。どっかの深山幽谷の山脈に続くような過疎地の廃校寸前の小学校の裏山を深く分け入って熊に襲われそうな気配の渓谷に達してまで探し出しているかのような演出を必要とする代物なのか?エーッ、ドーなんだよ!!是枝の犬ドモよ!ンなワケねぇーだろう!?蛇イチゴなんてのは、町中だろうが郊外だろうが田舎だろうが、一昔前までは通勤・通学途上で多かれ少なかれ見かける薮地と野っ原の混生地みたいな宅地造成候補地にイッパイ存在していたハズ(だと思うが?)。生態系がそんなにも激変したのか??しかし、そんな「蛇イチゴ狩り」にしても「香典泥棒」にしても、雨上がりだか病み上がりだか知らんがシュウジ(宮迫博之)ってのは決死の「け」の字も窺わせない。何をするにしてもニタニタと常に笑ってケツカル!10年ぶりに再会した兄のシュウジに強い不信感を持つ妹のトモコ(つみきみほ)だけが兄妹の信頼関係存亡を懸けた試金石として決死の覚悟で兄の「蛇イチゴ狩り」に深夜、付き合わされるダケのこと。中学生時代は妹のトモコの下着を売って金稼ぎ、大学時代は大学へ行ってるフリして学費を親からネコババして父親(平泉成)から勘当されて家出していたドチンピラ丸出しの下衆野郎のシュウジ・・・。真っ赤な宝石を思わせて子供を誘惑する蛇イチゴ、まさに禁断の果実を「毒があるかも?」なんて頭の片隅で僅かに感じつつも、それ以上に童心を擽る深紅の欲望に攫われる無防備な状況下では、犬だか人間だかのヒッカケた小便の臭う実も経験上いくつかあって辟易したものの、手で拭って口に放り込んでいた子供時代。時には異形の実もあり齧るのに躊躇したこともあるが一度口にすればソノ甘味と酸味に子供の幻想世界は無限に広がっていたのである・・・そんな「蛇イチゴ」の身近な想い出を冒涜しているコノ作品!!・・今のガキには想像が困難かもしれないが、放課後は専ら級友と野原で駆け回って遊ぶのが当り前の時代。痴呆で満腹中枢がヤラレて何時までも食っては噎せ続ける前掛けした醜く厄介なゾンビ義父(笑福亭松之助)の面倒をシッカリと見る嫁(大谷直子)が頑張っていた時代(だからこそ、一瞬気を抜いて義父が死んでも許容範囲なんだ 笑)。70年代後半までは暗黙の社会秩序が残存していた。そもそも最近は「痴呆症」を「認知症」などと国民投票(笑)もせずに変更ならぬ「偏向」させて喜ぶ日の丸族。認知症だと?おい、ナンカ足りねぇんじゃないか!ソーだよソースだよッ(愚)!精神分裂白米野郎どもに欠かせない「失調」若しくは「欠損」が足りねぇーんだよ!「認知症」ってのは事象をバリバリに認識しまくってアドレナリン出しまくりの、今風に言えばドザエモンだかホリエモンだか何だか知らんが(まぁ、どっちも水ぶくれしてるがね 笑)、あの類の「どこでもドア」で何処にでも行けると錯覚して悦に入るカフェイン中毒野郎のハイテンション症状であるハズ。痴呆症は「認知を欠いている」症状なんだから統合失調症とやらを真似て「認知失調症」にするか、ズバリ「認知欠損(不全)症」にするのが当然だ。ホント、日本人ってのはネチネチウジウジ、陰湿で曖昧、そして「蛇の生殺し」を好む本質的に邪悪な民族だ。コノ作品、昔のニッポンを回顧している節が多分に見受けられるが、結果的に相違を際立たせて「現代的な」陰湿と曖昧の最大公約数を暴露しているに過ぎない。片端映画しか作れぬ現代日本。「認知症」なんて片端の病名をピョコピョコ付けまくって喜んでるんだから、まっ仕方ないやね(認知! なんか不義の子みてぇだな。やっぱ、痴呆!でしょう 笑)。でも、痴呆ジイサン役の笑福亭松之助の「廃人お食事シーン」、いや〜、アレはほんと抱腹絶倒ものでしたよ。でも自宅で逝けたのは幸せだったろうね。特養施設に入れられたら週末には終末だもんな(合掌)。
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[005]ドッペルゲンガー
 ドッペルシュピールtheoria2005-02-14
 
ドッペルゲンガーとは通常「分身」とか「生霊」、或いは「自己像幻視」と訳される幻覚症状に起因する実体の無い代物。だが、この作品では実体が在り捲くっている(笑)。早崎(・・・
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ドッペルゲンガーとは通常「分身」とか「生霊」、或いは「自己像幻視」と訳される幻覚症状に起因する実体の無い代物。だが、この作品では実体が在り捲くっている(笑)。早崎(役所広司)本体よりも暴れ捲くっていて、ソノ存在感は強烈なもの。従って、ドッペルゲンガーと言うより、人格の表裏を一人二役で演じるドッペルシュピールである。研究に行き詰まる早崎の鬱状態が自己崩壊の臨界に達し、潜在している躁状態の自分を無意識に呼び覚まし顕在化させた。真面目で禁欲的な早崎と横着で享楽的な早崎。「二人」は一時的に「引き裂かれた一人格」であって、やがては何れか片方に、もう片方が吸収されて(片方が片方を自殺させたり殺したり・・によって 笑)、相反する性質が一人格の表裏として均衡を保てる「一人」として復活する。要するに「引き裂かれた状態」はジキルとハイドのような二重人格とは似て非なるもの。人間誰しもが「善であり悪」という対極成分を内包している真実をココでの黒沢はコミカルに表現しているに過ぎない。ところで、「ミルキーはママの味」・・このキャッチフレーズ、さらりと聞いてると耳に優しく、ついついアノ柔らかなミルク玉を口にしたくなってしまい(?)、菓子メーカーの宣伝の上手さを痛感させられるのだが、「ママの味」とは当然に「母乳の味」である。「母乳の味」は赤ん坊の頃に大概は存分に味わっているのだが、大人になってその「味」は全く思い出せないのが普通であろう。つまり、件の宣伝文句を導き出す為には再経験が必要不可欠。赤子の寝入り端を狙って性交目的ではなく(?)妻か愛人の乳首に吸い付いて意図的に乳を啜る男か、己の乳を搾乳して味見する母親の証言が大前提条件となる。・・・永作博美ってのは三十路も半ばの何時も政所(○○ド○ロ)をジュクジュクさせている熟々女。赤ン坊に乳を飲ませる悠然たる母性の姿を匂わせて然るべき年齢。が、ソノ風格を全く欠いている。テメェがまだミルキー顔してミルキーをしゃぶって満足しているガキ。然しながら、男の脈打つ血管が浮き出た肉棒に舌舐めずりして男に自分のミルキーを吸わせて喜ぶようなド破廉恥な女郎蜘蛛でもある。コノふてぶてしい二極に引き裂かれた性分を併せ持つ永作のイメージが本作の永井由佳の役柄と合致している。そしてまた、得体の知れぬチンピラである君島役の盆暗野郎っぽくも金勘定になると矢鱈と鋭敏になる、コレまた人格の明確な二極包含構造を見事に印象付けるユースケなんたらマリア・・・。この二人にはドッペルゲンガーが飛び出してこない。何故か?・・つまり、各々の人格内で対極成分がバランスを維持し共存しているからに他ならない。・・「人間の複雑さをソックリそのまま複雑に再現するロボット」を創作しようとした早崎の苦悩。人間(少なくとも大半の現代人)は思うほどに複雑ではなかろう。色々な「欲望」を肯定するか否定するか、その都度の「0」か「1」の選択の二進法で道を決めている。コンピュータに翻弄されるコトはあってもコンピュータを支配し続けるコトなどは難しいだろう。介護用ロボットだか人工人体だかのチャチな電動車椅子に魂が宿ったかの如く自在な動きを見せるが(移動中のバンの中で走っているかの如くアームを前後させたり、ラストで毅然たる意志があるかの様に崖っぷちから投身自殺?する・・)、あの皮肉を現代人の単純化(水母化)現象への警鐘として解釈するのは無理があるだろうか?? コンピューターゲームのように無造作な撲殺場面と轢殺場面、アレには正直大笑いしたが、笑いっ放しでイイということではなかろう。善と悪との「間」を埋めていく営為がドッペルゲンガーの出没を阻止して(?)、延いては豊かな人間性を回復する・・・とは到底思えないが、まぁ、「人間って何だろう?」という根本命題をコンナ喜劇で仄めかせる黒沢清の才幹は「ソコソコ立派なモノ」と言えない事も無いだろう。なーんか釈然とせぬ胡散臭さを放っているけど、今に始まった事じゃないしなぁ。
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[006]冬の光
 キリスト者の自由theoria2005-02-06
 
中国が原爆実験で成功を収める1964年10月の前年の真冬に「神の沈黙」三部作の第二作目『冬の光』はスウェーデン本国で公開されている。原題は『聖餐式出席者たち』らしいが、英・・・
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中国が原爆実験で成功を収める1964年10月の前年の真冬に「神の沈黙」三部作の第二作目『冬の光』はスウェーデン本国で公開されている。原題は『聖餐式出席者たち』らしいが、英訳「Winter light(冬の光)」は、貴重な太陽光を慈しむ北欧の人々をイメージさせるのには打って付けであるし、本作でベルイマン自身も白黒フィルムでの光線の効果的な捉え方を習得しようと夢中になっていたそうなので、正しく「適訳」であろう。更に言うと、日本は唯一の被爆国意識から神経質になれば「ピカ」の「殺人光線」を示唆するものとして強引に解釈できなくも無いのだ。アリャ「真夏」だったがね。昼下がりの気怠い日の光を教会の大きな窓を通して逆光で撮影。弱々しい日光ながらも憔悴しきった鬱状態の二人(牧師失格と自認せざるを得ないトマスと彼にゾッコン惚れ込んで結婚を迫るが拒絶される小学校教師マルタ)に放射性元素の如くジリジリと降り注いでいる。スカンディナビア諸国はプロテスタント(新教)が国教でもあり、ベルイマンの父親は地位の高い牧師であったから当然にベルイマンはそのような宗教色の比較的濃い環境に育ったのだが、それだからこそ「偽りの神」を見抜く眼力を身に付けることが出来たのも真実だ。然しながらベルイマンは皮肉にも御存知ドイツの宗教改革者ルター(殆んどの教科書に「顔」が載ってるプロテスタンティズム生みの親)にカナリ似ている(笑)し、女誑しのところも似ているし(苦笑)、何よりも結果的に思想が酷似しているとも見なせる。「原罪を背負った人間の身勝手な自由意志に基づく自己愛こそ悪行で“地の国”を形成する一方、自己を遜って神の恩寵(愛)を教会を媒介として享受することこそが絶対善なる“神の国”である」とする教父アウグスティヌスを崇める修道院で神の律法を遵守して生活していたルターは「こんな修道生活は全て自分自身の無事と安静を得る為のことに過ぎないのではなかろうか?」と疑念を抱き、福音信仰の「聖書中心主義」「万人司祭主義」を唱えたワケだ。本作に於ける牧師トマス(グンナール・ビョーンストランド)が、中国の核保有を憂える漁師ヨナス・ペショーン(マックス・フォン・シドー)に「自分だけに恵みを与えてくれる神に祈った」と心中を曝け出す場面はこれに符合する。そして、この不甲斐無い言葉に加え「説明できぬ苦痛は忘れろ!信仰も無く、思想も無い」と毒づき、拠り所を完全に喪失した愛すべき真面目な小市民ヨナスを自殺へと追い遣る。トマスは然しソンナことよりも四年前に亡くしたヤリマン妻との甘き追憶(信仰)から逃れるコトが出来ない。マルタ(イングリッド・テュリーン)のトマスへの一途な愛からの一度に十数枚?のコテコテのラブレターも虚しく、「湿疹女、胃弱女、近眼の世話やき女、ウゼェーんだよ〜!!」と突っぱねる。「信仰によってのみ義とされる(救われる)」というルターの箴言はそのまま「キリスト者(ベルイマン)は信仰(クダラン女に対してであっても)のみで十分であり、義とされる為に何の行いも必要でなく、全ての戒めと掟から解放されて自由なのである」ワケだ。『キリスト者の自由』とは「信仰(己の信念)に貪欲である」主体的な生き方を本位とする人物の奔放な姿を擁護する、これは人間解放のヒトであったマルティン・ルターの生き様でもあり、アーンシュト・イングマール・ベルイマンの生き様でもあろう。「神は死んだ」?・・ああ、死んだだろうよ。が、超人とは獅子のような破壊力と生命力に加えて小児の柔軟な創造力を兼ね備えていなければならない。ソレが現代社会に於いて、果たして現実味を持って息巻いているのだろうか?まさか、ブッシュなるプッシー野郎とは言うまいなっ! 神の創造した最も厄介な人間、その中でも最も傲慢な奴等が「神」に成り済まそうと目論んでいる現代。「ニーチェも死んだ」なぁ(脱糞)。本作で自殺したヨナス・ペショーン?ペショーン?・・・ショーペンハウエル。ショーペンハウエルに回帰して『意志と表象としての世界』でもジックリと読んで厭世の美酒に酔うとするか!!(盲目)。 最後に附言。ベルイマンは能天気な平和主義提唱者ではないし、況して核を云々して私腹を肥やす政治活動屋とは無縁。「核」を断固として否定しない(できない)のは、「愛」の虚妄を捨てきれない人間の弱さと連関し、安っぽいレベルでの相関関係が根本的に支配しているという、ホモサピエンスの悲劇に拠るものであろう。「感情」という土台を成す船体に「理性」という小っぽけな操舵室(ブリッジ)は設置されているダケで、大波に浚われれば司令塔たる船橋の「理性」など「感情」に逆らう事など出来ないのだ。「freedom」だの「liberty」だのと世界に向かって雄叫びを上げるプッシー野郎と、それに追随する全ての奴等の仮面としての「綺麗事」を、ティッシュで「涎」を拭き取るように一瞬にして廃棄し、願わくば本来の(ルネサンス的な)初々しい「感情」を今こそ奪還したい(苦渋)。
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[007]オレンジロード急行
 コエンザイムQ10theoria2005-02-02
 
青春人情モノの活動写真に於いてコマとコマが流れて行く際には風が薫ってこなきゃフレッシュな生気が失われて魅力半減。大森一樹と聞くと『恋する女たち』(86)を真っ先に思い出・・・
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青春人情モノの活動写真に於いてコマとコマが流れて行く際には風が薫ってこなきゃフレッシュな生気が失われて魅力半減。大森一樹と聞くと『恋する女たち』(86)を真っ先に思い出すし、実際『「さよなら」の女たち』(87)と併せてソコいら辺りが彼の“盛り”の作品と呼べるのではなかろうか?しかし、大林宣彦でさえ一齣であったとしても風薫る作品(特に『転校生』)を拵えることが出来たのに、大森の作品は題材が人間情緒を多彩に扱って割と活きがイイものであっても、医学生(医師免許取得者)の運命的嗜好なのか単なる性癖なのか、ソレをそのまま生き血を抜いてホルマリン漬けにしてしまった嫌いが強く、人間の感情中枢の「標本」的な作品となってしまっていて、第3回城戸賞入賞作の『オレンジロード急行』はその本性を既に露呈している。城戸賞といえばなかんずく脚本の優秀性・・・が問われるのだろうから、その意味で大森は期待を裏切らない。情味タップリのアラカンさん(晩年の衰残が顕著で痛々しいが)と岡田嘉子のジジババ自動車泥棒紀行と若者達の非合法海賊放送車最終紀行を絡ませて、南紀白浜まで当時のノリノリのフォークソング(?)をBGMに面白おかしく滞りなくコマを進めているのだ。「オレンジの枝」を巡る洒落もソツが無く上出来と評価できよう。全体的にコメディのタッチが強引でもなく消極的でもなく至って心地良い。偏に脚本の上手さに拠るものだろう。「森」と「林」、苗字に「木」が一本多い分だけ大林の二次元的諸作品よりは立体的で、三次元空間をソコソコ表現できているようだ?(笑)・・・だが、映画作品という全身を形成する細胞(コマ)に如何せん元気がまるで無い。近頃の色ボケ馬鹿どもが飛びつくコエンザイムQ10とやらを作品に投与してやりたくなる(怒→笑)。「アンタ、お肌に張りが無いのよっ!」「若いんだから若々しくしなさーい!」ってな気持ちにさせる作品。流(森本レオ)の聞き取りにくいボソボソ喋りなんかには苛々してくる(Go To Hell!)。・・・でも、ダンプ役の中島ゆたかってのは昔から「幽霊顔」してて私的には嫌いなのだが、ココでは若さゆえなのだろうかコラーゲンをタップリ含んだ餅肌が目の保養?刺激?となっていて「◎」。序でに、刑事役の原田芳雄もブン殴ってやりたいほどの柄の悪さ全開で「◎」。何だかんだ言っても大林よりも「木=喜」が一つ多いので(嬉々)、総じて大森作品の方が素直に楽しめる。 それにしても「林」や「森」には色々な野獣が潜んでいるが、「ネットの森」に棲息するケダモノが最も狡猾でタチが悪いのだと、Fuck-Me!氏のコメントにより今回改めて思い知らされた。文字通り「木を見て森を見ず」の自分などは簡単に狐や狸に化かされる被害妄想の「馬鹿」だな。神経がヤラレテいる証拠だ。視野が狭まり過ぎている。勝手な思い込みとなれば詫びても詫びきれないだろうが、以前から親近感を抱いているFuck-Me!氏が、奥を熟知していない森に時々足を踏み入れては鼻唄交じりで鉄砲を暴発させる“私”の直情性に起因する陰謀無き「勘違い」を許容して頂けるならば誠に幸いだ・・・。でも、タイミングもあってか結構際疾いツッコミに感じたでゴンスよ! テッキリ?・・ですよ。妙な“流れ”ってのもあるんですなぁ。ギター侍やviolaなんて奴の投稿など知らんかったしなぁ(言い訳ご免!)。自分の萎縮した細胞を少しでも活性化させる為にも、満を持して公表したとかいうドイツ発?のコエンザイムQ10とやらを、試しに服用してみるべきだろうかな!?(笑) (2/3追記)熱い人なんだな。勿体ないお言葉に恐縮。以後、早合点せぬよう十分に注意致します。
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[008]温泉へ行こう (第一期)
 「温泉でしよう」theoria2005-01-28
 
ってな噴飯AV企画モノが随分と昔からパワーアップしつつ?出回っているらしいが、貧相な洗濯板女である加藤貴子はコノ手の「そそるビデオ」にはマズ抜擢はされまい。「温泉で・・・
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ってな噴飯AV企画モノが随分と昔からパワーアップしつつ?出回っているらしいが、貧相な洗濯板女である加藤貴子はコノ手の「そそるビデオ」にはマズ抜擢はされまい。「温泉でしよう」という気分にさせないので「温泉で使用」されないってコト(脳梅)。・・でも「温泉へ行こう」ってな連ドラ(然も現在は通算五作目であるらしい)では大いに使用されて結構人気があるらしい。蓼食う虫も好き好きだし、好みは十人十色で、「テメェの目は節穴か!」と言われる筋合いもナイッてのが真実だからね。彼女と「温泉でしよう!」と誘いたくなるオスも数の多少に拘らず存在するのは至極当然のコトだ。・・ただ、私的には今にも喰い付いてきそうなアロワナみたいな顔して、捩り鉢巻きして上半身にはサラシを巻いた半被姿で桴を両手に和太鼓をバカスカ汗だくでタダ“力ずくで”打ち捲くってりゃ「伝統やってマス!」みたいな錯誤を真顔でヤラカスような血迷ったド根性女を髣髴とさせるような彼女は生理的に受け付けないダケのこと。・・それに加えてコノ貴子さん、確かに声優としては「癖」が明確で使い勝手が良さそうだからアニメ界での存在価値は高いと思われるが、何せ平生の声色にあってさえも品格の欠片も無い。第一、一体何処から声が出ているのだろうか?眉間か?頭頂部辺りからか?? 大凡500Hz〜4kHzの周波数帯域に於いては、ヒトをオチョクったような上音が常に執拗に絡み付いており、更に感情の高揚と共に高域が裏返り、男声で言うところの「仮声」紛いの気色悪い身の毛も彌立つ空気振動が我が身に襲いかかり、鳥肌を呼び起こしソノ不快感に苛まれる(?)ダケのこと・・・。要するに自分の「好みでない」というただソレダケのことだが(Fuck You!)。でも、「温泉へ行こう5」って4〜5回チラッと目にしただけだがロクな女優がでてないなー。女中どもは壊滅状態。一作目にも出ていたらしい美晴(矢部美穂)は井上和香モドキの食傷アバズレ女風、広美(田中千代)は一○一○円程度の軽薄ゴロツキ風俗嬢風。伸江(山下裕子)に至っては(最高に個性的なので悪口は言いたくないが)ナマハゲの鬼面がくっ付いて離れないタダのNGバケモノ風。せいぜい女将の板谷由夏だけが「温泉へ行こう!」そして「温泉でしよう!」ってな気にさせてくれる・・かな?風の女。(まぁ、温泉浴場を想定した単なるワタクシ的貧困欲情に過ぎぬがね・・ 脳梅、発狂、そして死!)。「雌犬(女中)は女主人(女将)に似る」(プラトン『国家』より)ってのは現代日本の旅館業関係者にも真実なんだがね。女将の忠犬じゃなけりゃ即刻「クビ」だもんな。脳梅毒に冒された日の丸ドラマ製作者連中は御気楽で羨ましいね。低脳どもの御機嫌取りをしてりゃイイんだから!(昇天)。一作目も数回しか見なかったが、まだ女中達の接客キビキビ感が適度に表現されてマシだったように思われる。今の「5」とやらは浣腸でムリヤリ下したドロドロ感が嫌味タップリで鬱陶しいのみ。「昼メロ」どころか「昼ドロ」。メロ泥棒の泥ドラマ。とにかく気色悪い。昼食後にそのまま見ると消化に悪いだろうなぁ。残りがあと何回か知らないが、まぁ、ラストスパートが掛かればフツーにアッチョンブリケ!・・なんだろう??(お淋&お梅!)。
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[009]千と千尋の神隠し
 宮様の大失態theoria2005-01-23
 
嘗て「工場長の車」と揶揄された労使間交渉に於ける問題車?アウディ(四駆=クワトロ、しかも左ハンドルだったか?)に始まりアウディに終わるコノ作品。宮崎の独善が唸ってい・・・
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嘗て「工場長の車」と揶揄された労使間交渉に於ける問題車?アウディ(四駆=クワトロ、しかも左ハンドルだったか?)に始まりアウディに終わるコノ作品。宮崎の独善が唸っている証拠である。ソレがアウディだろうがメルセデスだろうがBMWだろうがドーデモいいのだが、投げ遣りにインターナショナルを気取る狐憑きだか狸親父だかの宮崎の横柄な態度が垣間見れるので鼻持ちならない。罷り間違えば血みどろの労使間抗争の火種となり兼ねない超巨大スーパー銭湯奮闘記なる題材を扱っていながらも、八百万の神を持ち出して、日本人は「和」を最も重んじるから大丈夫。「後は野となれ山となれ」とパイプを燻らせて安楽椅子に身体を埋める宮崎の度胸には実にアッパレだが、「世界の宮崎」という半虚構の噂を自負し過ぎて手段を選ばず闇雲に“癒しエネルギー”を発信しまくってしまったってのは愚かにも「灯台下暗し」であった。出来損ないのスーパー銭湯?テーマパーク内のぼったくりアロマテラピー?・・というか、通常の臭い「日の丸接待」をデフォルメしただけのこの糞アニメ。イイとかワルイなんて自分のような無知な“坊”?が言及できるハズもないが、敢えて言っておく。テメェに世界制覇の自信があるなら“Lee”じゃなくて、国産トヨタ自動車のロゴマーク・・まったくアリャ牛革に焼印押したように糞野暮ったいからなぁ!!ジーンズの商標には持って来いだろっ!!つまり、糞アメリカンにして日本人好みじゃぁないかっ!中途半端にヨーロピアンな「工場長の車」アウディじゃなくて「汚い風俗業の経営者」あたりが好むトヨタの精髄セルシオとやらでも使っておくべきだったのだ。それともアメ公お墨付きのセルシオの逆輸入版のなんだっけか・・WINDOM?LEXAS?とやらだったか?あんな程度のヤボッタ〜イ「品川 88−88」ナンバーのヤーさん好みの日本車を誇示して宮さま自身を誇示しておけば分相応だったってワケだ。でも、宮様命の皆々様は「アウディ」はドイツ車だから「枢軸国」だった車だからイイじゃないのっ、とでも仰るのだろうか?こんなモノを上映したら上映後、宮崎さん自らが「毎度お粗末様でした」と土下座すべきなんだがなぁ(笑)。バカバカしくてタダでも最後まで見るのに忍耐が要った。ワケの解らん化け物がゲロゲロ吐瀉しまくってエグイ箇所も随分有るけど、画はキレイでしょ?まぁ、いつものコトですわね。ソレだけですね。ソレでいいんでしょう、今の日本って。・・・・「毎度、お粗末様でした。」(涙、涙ですよまったく)・・・。
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[010]17才
 ロンパールームtheoria2005-01-20
 
夜中に自分達の通う女子高の屋上で麦酒グビグビ煙草スパスパ花火パチパチ乱痴気騒ぎで夜を明かし、昼までオネンネ校舎を下って登校するという、登下校のパラダイム転換を図らず・・・
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夜中に自分達の通う女子高の屋上で麦酒グビグビ煙草スパスパ花火パチパチ乱痴気騒ぎで夜を明かし、昼までオネンネ校舎を下って登校するという、登下校のパラダイム転換を図らずも成し遂げたムチムチ健康的エロ顔のアコ(三輪明日美)とゲソゲソ病的ゲロ顔のリョウ(猪俣ユキ)をはじめとして、プチ・セレブ気取りのエロズベ公ヒトミ(菊地百合子)も、変態オヤジ(木下ほうか)も、オカマの生徒も、オナベの看護師?オカマの看護師?・・イヤイヤ“オカマの看護婦”も、コノ作品に出て来る奴等は全員が自体愛のみに固執する自己チュー幼稚園児ばかりで、みーんな『17才』なる作品のスタジオ(=ロンパールーム)に屯って御遊戯に明け暮れているだけだ。コレは恰も詰まった便器に溜まった汚水の表面で過密状態で好き勝手に泳ぎ回る“ぼうふら”で、なんとも下卑に下卑た現代日本人達のシンクロならぬアメリカナイズド・スイミングを存分に見せ付けてくれているようだ。各々てんでバラバラ。だからって主体性の微塵もない。だから連帯も連携もクソもない。人間関係の定立たる家族関係すら遮断・排撃されている。骨抜きにされたジャップどもが、ばら撒かれたガムやチョコレート欲しさへの刹那に戦後60年経っても未だに浮遊している。まぁ、“ぼうふら”は“孑孑”とも書くので、漢字ってのはホント凄いね。感心するよ。ガキ=子(精神年齢の低い大人も含む)が連なりゃ孑孑ってワケだ。子子子子・・子がロンパールームに集まれば周囲(他の子供たちや番組関係者ども)を顧みず己の世界に没入し、アッチでは鼻の穴を穿りながらTVカメラを珍しがって駆け寄るも、コードか何かに蹴躓いて転倒し号泣。コッチでは怒ってるのか笑ってるのか解らん表情で竹中直人の如く首をバカ揺れさせながら飛び跳ね、隣りの女児の髪を引っ張ってイタズラして「チョイーッす!」などとVサインして喜んでいる。時には小便を我慢できず、処構わずしゃがみ込んでお漏らしなんかもする。うつみ宮土理みたいな覇気と狂気に満ちたド派手なカリスマ的キ印先生を以ってしても本質的に一期一会のヨーチ園児達のヒッチャカメッチャカ振りは相当に厄介な存在なのである。・・・詰まるところ、この『17才』とやらには“締まり”がまるで無い。「ただの17才だった」なんて生意気な一言で締め括れる程に含蓄のある作品ではない。3〜5才児そこらの程度の未発達な脳味噌しか持ち合わせていない連中が製作に漕ぎ着けたコノ作品の中身からは幼児性欲しか窺えない。要するに、赤ん坊は大便と同様に直腸を経て肛門(=校門、実際に校内で種付けされるケースも割と多いしな)から出て来る・・などと漠然と“感じている”精神的園児向けの作品なのである。この作品に相応しいタイトルとはせいぜい『5才』だ。嘆かわしくも昨今の日の丸の羞恥をリアリスティックに反映している。しかし、他者を意識する次段階のプレ・エディプス期、エディプス期には2005年になっても移行していく気配は感じられない。アメリカというママ&パパには逆らえないのよね(笑)。「鏡よ鏡よ鏡さーん、皆に会わせてくださいな〜!」だったかな・・・この作品のエピローグとして宮土理ネーサンに登場してもらい、手鏡片手にコレを言ってもらうシーンを挿入すると面白く仕上がったに相違ない。三輪、猪俣、菊地、木下...etcの登場人物のバカ面がぜーんぶ映し出されるだろうからさ。だってみーんな園児だもの。いつまで経っても孑孑踊りしてるんだもの(爆)。おっと、このサイトで御活躍の能天気な幾人かの常連さんも序でに鏡に出てきそーだ(文章だけは陳ねているが孤独には耐え切れない精神的薄弱さ故に自己保身に汲々としている「吾は九割の味方」と安閑とする輩。顔はしらんがね 笑)。ヤバイヤバイ、アルファベットなら頭文字が・・・こ、困った!御想像にお任せしますっ!!(取り敢えず口にチャック!違った意味でヒトのことばかり言ってられんしな! 笑)。 ※「失礼致しました」
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[011]お天気おねえさんR
 気象予報婦theoria2005-01-15
 
ニュースの陰に隠れがちな「お天気コーナー」ねえ。確かに。でも亜米利加さんでは気象予報士ってのは随分と昔から低劣でド派手な即席パフォーマンスを必死に収得して擬似的独自・・・
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ニュースの陰に隠れがちな「お天気コーナー」ねえ。確かに。でも亜米利加さんでは気象予報士ってのは随分と昔から低劣でド派手な即席パフォーマンスを必死に収得して擬似的独自性を確保・披露する無能な俳優みたいなもんで、タダの人気取りの案山子に過ぎないとか。しかも、各TV局間でソノ馬鹿さ加減の鎬を削っていると聞く。予報が当ろうが当るまいがそんなコトは無関係。視聴率が全て。男だろうが女だろうが“予報士”のSEXアピール(?)の放出如何ってなワケだ。まぁしかし「お天気コーナー」に梃入れして視聴率アップを狙う強かなマスかき(マスコミ)野郎ドモってのは現在(イマ)となっちゃぁ米利堅よりも米利堅ドモに飼い馴らされた日の丸に於いて圧倒的多数なコトは一目瞭然だ。既に相当昔からインチキ探検隊を組織し、川口浩とやらを密林へと闊歩させていた段階で「デタラメ番組謹製」を豪語してクソ看板を掲げたテレ朝とやらが逸早く“ド破廉恥”に着目していたワケで、実際に連中が下等動物よろしく『お天気お姉さん』のドラマに触手を伸ばしている。実にクダラン。パンチラ天気予報だと? 馬鹿げた原作漫画もクソもない。採用する局も局だが、そもそも発想が貧困すぎる。戦後、日本の空は殆んどSEX漬けのアメ公に牛耳られちまって“ピンク色”に完全に染められちまったってことか?ピンクい空の下、「お天気お姉さん」がマイク代わりにクネクネと亀頭が天に向かって円を描くバイブを握って「明日の朝の関東地方の気温は氷点下となるでしょう。アイスバーンに注意してくださいねっ!」とアイスバー(アイスキャンデー)の如く、そのバイブをモノ欲しそーな目付きした井上和香(ワカ?否、ただのバカ)の鱈子唇でチュパチュパされたいっ!・・・てか?? 看護士は看護師で一括されちまったんだから、せめて気象予報士は女の場合、気象予報婦で行きましょうや!!(イヤ〜ン!慰安婦 NHK!)看護婦が患者の前でパンチラして死なれちゃマズかろうが、気象予報婦がカメラの前でパンチラしたって男も女も喜ぶバカが星の数(億って単位は私にゃ天文学的数字だからね 笑)ほど居るだろうから許されよう・・・ソレが現在(イマ)の日の丸なんだからさ(脳梅ポン!)。ダメだコリャ・・・。R指定だって?ただのバカ女の手淫シーンだけじゃないか。いまどきの園児は母親が目の前で平気でヤッてんのを度々見てるんだから驚きもしないのになぁ・・・腐っちょるよ、まったくイマの日本ってのは(絶句)。
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[012]同胞(はらから)
 心の故郷theoria2005-01-12
 
『家族』(70)『故郷』(72)『同胞』(75)は山田洋次のシリアス三部作と呼ばれたりもするが、この『同胞』を観て、そんなカテゴリーに区分するのが如何に愚かでナンセンスであった・・・
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『家族』(70)『故郷』(72)『同胞』(75)は山田洋次のシリアス三部作と呼ばれたりもするが、この『同胞』を観て、そんなカテゴリーに区分するのが如何に愚かでナンセンスであったかを思い知らされた。『家族』と『故郷』で気が滅入り、どうせ『同胞』も・・と萎えて敬遠し続けていた自分がバカだった。人間の心臓から吹き出す太陽の赫々たるプロミネンスのような情熱とはなんと美しいのだろう。人間の腹の底から滾々と込み上げる温泉の源泉のような熱愛とはなんと其れほどまでに透明なのだろう。『家族』と『故郷』の悲愴な現実は『同胞』を産み落とすまでの陣痛であったのだろうか。熱情・純愛が直截に、しかし節度を伴って新鮮に眩しく光り輝いていた古き良き時代の日本。根源的な連帯意識が各人の内に喚起され活き活きと保たれていたあの頃。人と人の関係が疑う余地も無く心と心の繋がりであったあの頃。私が愛して止まない『俺たちの交響楽』の原光景がここに在る。山田洋次の良きパートナーでもある浅間義隆がこの『同胞』の脚本を手掛け、大満足して感涙したであろうことは想像に難くない。「もう一度この感動を・・今度は俺が!」と、きっと心に決めたに違いない。『同胞』での青年団の理事会やら総会でのユーモラスだが熱気ある会話の遣り取り。劇団員と青年会員との中学校の体育館でのホノボノとした顔合わせのシーン・・紛れも無く『俺たちの交響楽』の原型である。人間一人一人が真剣な眼差しで相手を見つめて本音を語る。対話(会話)が途切れて場が辛気臭さに包まれても極めて有意義な時間だ・・・。本作では勿論、鄙の百姓たちを蔑視している訳ではない。が、賛美している訳でもない。田舎(故郷)と都会の経済・文化的較差を浮き彫りにするものでもなければ穴埋めするものでもない。恐らく、ストーリー解釈などに気を取られていると落とし穴に嵌まる。本作では各役者(エキストラも含めて)の粒立った存在感を素直に五感で受けとめるべきだろう。すると忽ち視界が開けて、虚偽の無い個性と個性がぶつかり、擦れ違い、融和して、初めて“マトモ”な「共同体(コミュニティではなくてゲマインシャフト)」が、そして何よりも“マトモ”な「個人(パーソナリティ)」が立ち現れるという、自然回帰(自然とは故郷であり同時に日本でもある)の体験を得る事が出来るだろう。『同胞』は少なくとも私的には「心の故郷」と呼んでも差し支えのない作品である。・・・それにしても、高志(寺尾聰)に恋慕の情を寄せる愛ちゃん(岡本茉利)って、いい女だよなぁ。ホント。『俺たちの交響楽』でも魅惑的だったし、『幸福の黄色いハンカチ』では端役も端役、中華料理屋の出前女だったけど突出して惹き付けられるんだよなぁ。美人ではないしソレほど可愛いくも無いけど『いなかっぺ大将』のキクちゃんの声優だけのことはあってエロい声してるし、性格がとーっても良さそうなんだよね。ああいう女を娶ってたらなぁ〜(虚)。今時の日の丸女には求められない大和撫子の絶滅種だったのかしら・・(涙)。とにかく『同胞』は山田洋次の作品群で屈指の名篇であることを実感した。
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[013]ディメンシャ13
 おこぼtheoria2005-01-10
 
13才で痴呆(DEMENTIA)かえ?お気の毒ですなぁ。えっ?この映画に出て来るビリー(バート・パットン)はんのことではないんどすか?----ええ、ビリーはんではないんどすぇ。実・・・
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13才で痴呆(DEMENTIA)かえ?お気の毒ですなぁ。えっ?この映画に出て来るビリー(バート・パットン)はんのことではないんどすか?----ええ、ビリーはんではないんどすぇ。実はココだけの話し、痴呆を患ってますのんはフランシスいう監督はんなんどす。----フランシスはんゆうたらアノ名高い『ゴッドファーザー』の?----ええ、そうどす。でも驚きなはらんかてええ。この未公開映画もフランシス監督のお作品ですし、あん御方、ちゃーんと自覚してはるよってに。----エエーッ?お姐さん、どういうことなんえ?----この映画で妹のキャサリンはんがビリー兄さんに(多分過失致死ではおまっしゃろが)沈められた御池(京都の地下鉄の御池駅と違いますえ!)ありましたやろ。あの御池の底に在ったお地蔵さん・・いや、お地蔵さんやなかったなぁ・・・なんやったろう?お石碑みたいなんが・・・。----ああ、あの“FORGET ME KATHLEEN”いう文字が刻まれた?----そうそう、それ、それどす。アレなぁ、ホンマは“KATHLEEN”やなくて最初は“FRANCIS”やったらしいんやわ。それをなぁ、ロジャー・コーマンはんが傲慢にも意義悪していじくったんやて!----エッ、エーーッ、ギョギョンの祇園!!ホンマですのん??ほな「わたくしフランシス・F・コッポラのことなんて忘れてー!」いうことかえ?----そういうことになりますなぁ。コッポラの旦那はん、ご自分に大した能力が無いゆーこと最初から薄々理解してはったのと違いますやろか。----ははーっ、そうゆうたら『地獄の黙示録』とやらでなんやら「ワルキューレ!ワルキューレ!」って死にもの狂いでもがいてなはったなあ。アレは「僕の痴呆映画なんて割り切れっ!割り切れっ!割り切って観て下さる限りではソコソコ面白いよってに!」ってことでおましたんやなぁ。イヤー、お姐さん、おおきに!この冷奴、舞妓はんになれて良かったわー。もうコッポラはんの映画は堪忍どすぇー!!(...お茶屋へと駈けて行く冷奴) ----コラッ!冷奴!コッポラはん嫌うんやったら、威勢良くコッポラ、コッポラとオコボを鳴らして走るのよしなはれやー!!コッポラはん、日本の好きな食べモノは冷奴ってゆーてはったんどすぇー????(合掌)
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[014]叫びとささやき
 クァルテットtheoria2004-12-30
 
アングネス(ハリエット・アンデション)が死相を浮かべて子宮ガンの末期の苦しさからベッドで仰け反って断末魔の激痛に叫ぶシーンは恐ろしくリアルで、悪魔憑きなる『エクソシ・・・
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アングネス(ハリエット・アンデション)が死相を浮かべて子宮ガンの末期の苦しさからベッドで仰け反って断末魔の激痛に叫ぶシーンは恐ろしくリアルで、悪魔憑きなる『エクソシスト』の第一級オカルト“お叫び”描写よりも遥かに戦慄的。ムンクの「叫び」の恐怖感をベルイマンの思惑通りに確かに具現化している。ところで、赤は“情熱”、白は“清純”をイメージさせるってのは万国共通だが、ベルイマンは激情の向こうにも潔癖の向こうにも“破滅”を用意している。つまり、一知半解のキリスト信仰を仲介にした中庸の美徳(見かけ上の一人前の善女)には目もくれない。死に瀕したアングネスの姉で、貞節に拘らざるを得ない神経質なカーリン(イングリッド・テュリーン)は『沈黙』のエステルであり、アングネスの妹で淫乱なラブジュースで溢れる粘液質なマリーア(リヴ・ウルマン)は『沈黙』のアンナと見なすコトが自然に可能だ。以前、『沈黙』のコメント欄で堕落者(前JOHNNY)氏が言われていたように「二人で一人前」なのであって、「一人前の一女性」なんぞはそもそもベルイマン映画の何処にも存在していない。奇しくも本作でのアングネスの召使の白い衣装を纏ったアンナ(カーリ・シルヴァーン)が、そんなSEXの陽(正)と陰(反)を克服した弁証法的な聖母マリア(合=ジン・テーゼ)であるとも捉えられるが、アングネスからの信頼も厚い彼女ですら最愛の娘を失ったが故に“母”であり続けなくてはならないという強迫観念に縛られて自己を失っている以上、「一人前の女性」ではない。要するに登場人物である皆がブッ壊れている。ベルイマンの得意とする表現手段だ。そもそも残念ながら「兄弟(姉妹)は他人の始まり」だ。お城のような大邸宅は紅白の色彩で統一される。赤は血の色でもある。赤ワインは主イエス・キリストの血である。好色な夫を持つ潔癖なカーリンはソンナ夫を見兼ねて赤ワインが注がれたグラスを割ってしまう。その割れたグラスの破片で・・・ナント、性交を楽しみに待つ夫を懲らしめる為なのか、カーリンは自分の“アソコ”を傷つける。当然、血がドバッと吹き出る。さあベッドインの時。夫フレドリック外交官様は妻がアソコから吹き出す血を口の周りに塗っているのを見て度肝を抜かす(当然)。さて一方、マリーアは旦那がいるにも拘らず真っ赤なドレスを着て挑発的に昔のSEXフレンドである医者のダーヴィッドと乳繰り合って悦楽を貪る。翌朝マリーアの旦那ヨーアキムはソレを察知して自殺を図る(当然?)。「赤」の激しさは「白」の潔さを上回るのは世の常なのだろうか?しかし、そんなレベルでは終わらせないベルイマンの複雑ではあるが透徹した人間観はコノ作品からも充分に窺い知れる。深々とした「赤」の溶暗・溶明もベルイマンの本作への並々ならぬ意欲の表れだろう。そして、カーリン、マリーア、アングネス、アンナの四人の女性。正しくクァルテットそのものだ。弦楽四重奏。テーマは勿論「破滅」。第一ヴァイオリンをカーリンにするか、マリーアにするかで曲想も大分と違ってくるだろうが、第一、第二ヴァイオリンは間違いなくこの二人のどちらか。そしてヴィオラは当然にアングネス。中核を成す中音域。チェロは底支えの低音域だから、メロディを重視しながらも中核を堅実にフォローするアンナだ。おーっと、だからこそ第一、第二が朗々と歌わずにコソコソと“ささやいて”ヴィオラの努力(魂の叫び)を無にすると底支えのチェロも拍子抜けして思うように音が出せない。「“叫び”も“ささやき”もかくして沈黙に帰する」のである。ベルイマン御大の人間の情動に対する洞察力は凄まじい。
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[015]ひなぎく
 フォークロアtheoria2004-12-23
 
若い頃の研ナオコを整形手術して上手くいった様な顔した金髪女と、若い頃の石田えりの脳味噌に些少なりとも知性を移植した様な黒髪女の「飲み放題、食べ放題」という無礼講が殆・・・
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若い頃の研ナオコを整形手術して上手くいった様な顔した金髪女と、若い頃の石田えりの脳味噌に些少なりとも知性を移植した様な黒髪女の「飲み放題、食べ放題」という無礼講が殆んど最後まで全篇に亙って罷り通っている本作。性欲の発現に抑制をしている(時勢的にさせられている)為なのか、その分の拍車が掛かって食欲はより異常に旺盛に描かれている。メスどもが飢えて食い散らかす様は何時でも何処でも異様にエネルギッシュで、男が“がっつく”のとは桁外れで実に醜い。裏を返せば、勿論当時のチェコスロヴァキアに於ける「プラハの春」なる自由化運動の胎動そのものの象徴的映画でもあるのだから、オスの及ばぬメスの本能的超強欲を前面に押し出すのは手段として至って健全ではある。そして金髪女がいつも頭に被っている「雛菊」の花輪。ヒナギクは多年生植物であり、春から秋までは地上で花を咲かせ、冬は枯れてもまた春には芽を出す・・という、まさに当時の民衆の自由への執念のシンボルであったワケだ。映像ではコラージュを駆使して観る者の好奇心を煽る。金髪のマリエも黒髪のマリエも男からのラブコールを受けながらチョッキンチョッキンとハサミで焼きウインナーやらバナナを切っちょるが、アレは男の“ナニ”を切っちょるつもりなのか(?)遂には金髪も黒髪も互いの首を切り落とし、互いの身体を切り刻んで画面はツギハギ状態。ブラックジャックもビックリ。ヒョータンツギがどっかに隠れていそうだ(まー違いないっ! 糞)。カレイドスコープを眼に当てる寸前のワクワク感と、その未知なる世界を覗いた瞬間にワケの解らぬ幾何学模様が眼前に広がっていることへの戸惑いと感激。そんな生気に満ち満ちた実験的な試みは時にゴダールをも凌駕している。なんともスリリングでありながら安堵感も与えてくれる不思議な逸品だ。要するに、ケタケタと高笑いするタダの馬鹿女二人の快楽三昧が見ていて気持ちイイ!・・ってなダケの安直作品に終わらせず、そうかといって「存在論」云々の域にエラソーに説教臭く踏み込んでいないので、ヒティロヴァ監督ってセンスのいい女性なのね。ラストで“現実社会の本当の醜状”を知らずして自分達の今までの“行状”を“悪行”だったと呆気なくも反省し、喰い捲くって乱痴気騒ぎで無茶苦茶にしたテーブルを“お片付け”した後、「本当に私達って幸せ」「全て問題なし!」と清々しい気分に浸る二人(余りにも素直なので泣けちゃうよ。トホホ。この意味でヒナギクの花言葉の“貞淑”とやらが少なからず当っている)。すると二人にドデカいシャンデリア(爆弾)が落ちてくる・・「ウワッ、戦場だ!」・・・続く場面は「アーメン!」か?「オギャー!」か?・・・いずれにしても彼女等の存在意義は認識主観に委ねられるコトとなったのである。それにしてもこの作品に特有な安堵感は一体何処から来るのかと考えるのだが、土臭さからではなかろうか?チェコはチェコでも西側の、より西欧的な洗練されたボヘミアとは違い、東側の東方文化の影響が強いモラヴィアの田舎の素朴な生活感が漂っている気がしてならない。奇抜な映像であっても“気取り”が皆無。音楽の使い方も台詞も総体的には詠唱的なスメタナよりは方言に密着した朗唱的なヤナーチェクに近い。民族色が濃ければ濃いほど異邦人であっても落ち着くってコトも多々あるのだ。監督がオストラヴァ出身であることとも決して無縁ではない気がする。時代は違うが、同じ“マリエ”が出てきても如何にも「ボヘミア(プラハ)」なフジェベイク監督の『この素晴らしき世界』は息の長い旋律を奏でるドヴォルザーク的な作品だもんな。勿論、モラヴィア>ボヘミアなんてコトを言っているのではない。自明の理だが、等しくどんな国・地域であっても「真に民族的であるから普遍性を獲得する」のであるから。とにかくこの作品、ヌーヴェルヴァーグであってフォークロアの土臭さが馨しくてタマラン。所謂「女の子映画」とやらの中ではダントツ。バカ女どもよ!剥けきっとらん悶々バカ教師に股座の盗撮なんぞされたくなかったらコレを観て学ぶがよい。バカ女だから盗撮されるってコトも事実だ。ちょいと学びなはれや!外見だけでなく内面も(こそ)磨けよ!いくらコンナ腐った日の丸でもさぁ。「サァー」? さぁ、愛ちゃんとやらも動き回ってばかりでなく落ち着いて“お勉強”しましょッ!!ドーでもいいけど如何にも“危なげ”に見えるからサァー。(爆(肥溜(臭ァー。
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[016]ManaKana
 HanaKana?theoria2004-12-11
 
最近ヤケに御出座しになる双生児「マナ・カナ」。一卵性に見えて仕方ないが二卵性らしい(..?)。でも外観は瓜二つで第一印象はドッチも「鼻」がデカイ。そして何パーセント程・・・
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最近ヤケに御出座しになる双生児「マナ・カナ」。一卵性に見えて仕方ないが二卵性らしい(..?)。でも外観は瓜二つで第一印象はドッチも「鼻」がデカイ。そして何パーセント程が意図的なのか判らないが、シンクロ言動を売りにしてダブルでボーイッシュなエロ風を吹かせまくっている。双子であって、身心的特徴が類似しているのは納得できるのだが、なんとなく姉の茉奈よりは妹の佳奈の方が気性が激しそうだし、左目頭の下のエッチ黒子が存在する分、私的には一層に淫猥に感じられてソソラレル。が、そんなことは二の次。問題は「ナニの大きさは、ハナの大きさに比例する。」という俗説の信憑性の度合いだ。私個人はコノ説に極めて懐疑的だが、一方で当該データの科学的分析を望む自分も存在する。マナのナニとカナのナニの大きさがほぼ同じなのは推量できても、マナのハナとカナのハナの同じ位の大きさと、それぞれの“ナニ”の大きさは比例しているのだろうカナ??・・つまり、マナ・カナのナニの大きさの基準はやっぱりハナカナ??(こんな投稿がマタカナ!・・。まともなコメントはマダカナ!・・・。残念! ワタシ根っからのバカですから!! 馬鹿丸出し斬りーッ! 悲哀)。。
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[017]小野真弓
 ピッチピッチtheoria2004-09-11
 
チャップチャップランランラン♪・・・と、御当人お気に入りの(?)ピンク地に白の水玉模様の長靴をはいて清々しい笑顔でスキップしている姿が目に浮かぶなぁ〜!!なにやらず・・・
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チャップチャップランランラン♪・・・と、御当人お気に入りの(?)ピンク地に白の水玉模様の長靴をはいて清々しい笑顔でスキップしている姿が目に浮かぶなぁ〜!!なにやらずっと前からクダラン会社のOL役でCMに出てた頃から「在り来たりじゃけ、味はある良かオナゴねー!」とは全身で実感していたんだが、“あいかわももこ”とやらのツマラ〜ン漫画たる「コスメの魔法」をTVドラマ化したらしい、TBS昼ドラ35周年記念番組『コスメの魔法』にカリスマ美容部員の萬田久子の弟子として颯爽と登場して以降は生得的な爽快さに加えて大人の男達を純粋に“癒す”資質をも発揮させてしまった。決して私だけではないと思うが、彼女は何が何でも奪取してやりたい「性的対象」というよりは「保護対象下」に無理矢理でも置いておきたい、大事な大事な「マスコット」って感じを強烈に催させる。そもそも、彼女は、犬や猫等との共存のように精神的打撃に極めて重く作用してしまう「ペット」ではない、“やや軽い”「フェレットとかモルモットとかオウム」って雰囲気が充満している(勿論、私的にフェレットやモルモットやオウムを軽視している訳ではないコトは承知して貰いたい)。結局のところ、彼女は最良の「マスコット・ガール」である。支持年齢層の広い本物の「マスコット」。拠って奇妙な性癖も無く、驕りも昂ぶりもない「素人以上の素朴」を芸能界の汚れたヘドロの中で真珠の如く無垢に輝く「小野真弓」を存続できるうちに可能なだけ表現しておき、妙なレッテルを貼られる前に引退して貰いたいものだ。私的一言。私が彼女の親愛なる絶対的人物であったならば、南大東島で一緒にサトウキビを作って一生を平穏無事に過ごしたかった。来世も、そしてまたその来世も。。でもホント、アナタって無条件でカワユイね!! 性格は・・分かり様も無いケドね。手が届きそうなんだけど届かないみたいな・・・アナタ。 このフザケた現代だからこそ、「女が強い」などと低俗なコトを言ってはならない。女とは「狡猾」であるダケだ。アテネ2004のメダリストなどに股間をときめかすのではなく、民主政治の根幹を説く聡明なる2400年近くも前のアリストテレス哲学を今こそ紐解け!!理解せよ!! 女とは思い遣るべき動物ではあっても、間違ってもソレに振り回されるコトがあってはならぬのだ!!「小野真弓」は大半の“男達”をソノ試練に引き込んでいるように思えてならない。彼女のような“普通の女(..?)”に寛容な愛を示し、それでもコケにされるならば・・・男達よ、今こそ決起せよ!!ヤリタイ放題の女達に「無視」を決め込むのだ。「封建時代の反動だから仕方ない」などといつまでヘラヘラ笑っているのか?「男性受難」?ふざけるんじゃないヨ。「オンナの奴隷なんてカッコ悪いゼヨ!」って思わせる、蛙みたいだけどホントにカワイイ真弓ちゃん!←(自分で自分が解らん、アホ!)。男女の本当の平等を目指して達成に近づける社会を共に構築していきましょうよ!(歿)
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[018]新竹取物語1000年女王
 口承伝説theoria2004-08-21
 
女性キャラの描かれ方が素晴らしい。松本零士の女性美ってのは長身細身且つグラマーで卵形の典型的な顔立ちプラス切れ長の大きい目と相場は大体決まっている。が、しかしこのア・・・
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女性キャラの描かれ方が素晴らしい。松本零士の女性美ってのは長身細身且つグラマーで卵形の典型的な顔立ちプラス切れ長の大きい目と相場は大体決まっている。が、しかしこのアニメ番組ではそれを敢えて覆している。弥生さん!丸顔にしてクルクルの真ん丸目。ボーイッシュなんだから、も〜っ!僕ちゃん(馬鹿男)にとってはヤヤもすれば『999』のメーテル以上にエロチックな存在なんだから!もう、骨抜きだ!コノ〜!!頭髪こそは松本零士氏御用達の(?)超ロングであるが、雪野弥生コト1000年女王の肉感的“ソソリ度”はコノ年代(80年代)では随一。布巾を頭に被ったラーメン屋の看板娘を装った庶民的なエロ味と、黒服に身を包んだ真っ赤な冠を被ったラーメタル星の聖なる女王ラーレラの遣いとしての1000年女王としての高貴さとが化学反応を起こしたならばエロ味は極上のトロ味にまで深まるばかりであって留まるところを知らない。脂が乗りまくってタマラナイ魅力!「弥生さん!弥生さん!」と三食ラーメン堂に駆けつけ、「ラーメンは食いたし!」「弥生さんはも〜っと、もっと食いたし!!」。でも二進も三進もいかない!!コレゾ動物的純粋青少年達の素直な姿。「なんとかコノ欲望をどうにかしてよー!」・・・と、“始”の通う中学の“番長”や“キザ”も“私(?)”も皆が皆、“千擦りで間に合わせ”て「腎虚の悲劇」に見舞われる(??)。と..とにかく見たい、見たい、アンタの“ナニモカモ”が見たい!潘恵子の自信過剰のクソ舌足らずなエロい声で挑発されるボーイッシュな御姫様の肉体の内の全てが!!・・・「コンナ如何わしいアニメ、あってイイの?」・・って・・・ウーン、当時の青少年の気持ち、痛いほど良く分かるよな。今、観返したって「イイ!イイ!」ってのよ〜ん。でも、現代アニメ界ってのは「少年よ、大志を抱け!」(←胡散臭いのは先刻承知だが)ってな「簡潔」であって単純で飾り気が無くとも青少年に精神的“膨らみ”なり“ゆとり”を感じさせる方向性を見誤らせる、単に商業的な手法でバカな観客を“操り人形”にするような『「動」と「静」のメリハリを利かせれば快感なのよ。それでOK!』みたいな、主題としては紛れも無くダラシナイ“空洞”の「宮崎大仏」を崇め奉り、それに続く、拮抗する(?)「押井如来」だか、「大友菩薩」だかを、担いだ方が日の丸として「儲かる」「勢いづく」と信じてなのか、ブースター全開で、夢(本来は長閑で素直な退廃的感情)を犠牲にしてまでも“バリバリ前向き・バリバリプラス志向(まぁ、オリンピックのメダル・ラッシュの如く猪突猛進ってコトか、第二次高度成長期気取りかね?)”の「突っ込み大和魂(?)」なら何でもイッちゃえってのが今時のバカな制作者と視聴者の大半。「過去を食い物にはするが、過去をまるで労わるような殊勝な心は持ち合わせていない。」アニメ界などに憂えているような個人的な時間も無いので正にドーデモいいが、一つだけ言っておきたい。「アニメの本分は映像のアクロバット(それが仮令タイム・スリップでも)に堪能することなどではあり得ない」。アニメとは子供にとっても大人にとっても「自己に於ける類似体験の延長」としてどれだけ個的人生に率直に“食い込んでくるか”が最も大切なのである。実写版映画からは掬い取るコトができない、確固たる強靭な想像力が齎す「幻影」みたいなものと、どのように対峙出来うるか?・・・とは、まだまだ浅い見解だろうが、アニメとは、心情(無意識・前意識)吐露の具体的な“超現実”だからこそ、扱うには奥が深すぎるのだろう。どのような作品であれ、アニメ作品には常に特に神経質でありたい。アニメが映像の魔術であることを皆がしっかりと認識しなければならないのではなかろうか。  蛇足だが、珠玉のアニメ作品(ヤナーチェクの歌劇「利口な牝狐の物語」による)を一つ、是非とも推奨しておきたいい。名ディレクターのジェフ・ダンバーの偽らぬ「夢」が花開いている。「輪廻生死」という不可避の根本的命題を等閑にして、綺麗事礼賛・商業主義だけではモノホンのアニメは成立しない真実を篤と教えてくれるだろう。
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[019]石原慎太郎
 与太郎theoria2004-08-09
 
おいおい、ワシャあんたが毛嫌い(?)する支那(中国)人じゃあないが、日本人(弥生人かや? 笑)が支那人よりも民度(アンタにとっちゃ平たく言えば“精神文化的成熟度”って・・・
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おいおい、ワシャあんたが毛嫌い(?)する支那(中国)人じゃあないが、日本人(弥生人かや? 笑)が支那人よりも民度(アンタにとっちゃ平たく言えば“精神文化的成熟度”ってコトだろ)が高いとでも言うんかいな。エーッ!!そりゃ「石原家=日本人の鑑」なる驕りでっしゃろが。フザケルんじゃないよチミ! 「今の日本、良くも悪くも中国の御陰」ってコトくらい解らんもんかねェ。まぁ、小国日本で喩えれば大阪府民よりは東京都民の方が“運転マナー”に関しては民度(?)は高いカモね(笑)。『太陽の季節』だぁ?なるほどね、アンタは“日出づる処(東京)の首領”だもんなー。北京は「日陰で黙っちょれ!」って言いたいワケなのね。・・・・コレ、慎太郎ならぬ、与太郎と呼ばれる所以(爆)。
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[020]宇宙海賊キャプテンハーロック
 「淪落」のススメtheoria2004-06-30
 
「太宰治は地球の無頼漢である。そしてハーロックは宇宙の無頼漢である」・・・などと戯けた事を言ってると、「あんた、精神分裂病なのね」と一笑に付されるのであろうが、それ・・・
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「太宰治は地球の無頼漢である。そしてハーロックは宇宙の無頼漢である」・・・などと戯けた事を言ってると、「あんた、精神分裂病なのね」と一笑に付されるのであろうが、それならそれで一向に構わない。ただ、「アカルサハ、ホロビノ姿でアラウカ。人モ家モ暗イウチハ、マダ滅亡セヌ」との源実朝の独白が、たかがガキンチョ向けのTVアニメ『キャプテン・ハーロック』の最終話「さらば宇宙の無法者」のエンディングで唐突にも浮かび上がってくると、松本零士の、と言うか、演出(チーフ・ディレクター)の、りん・たろうの趣向ではあろうが、当シリーズのアニメ製作(当時のアニメの多くに共通していようが)への並々ならぬ真摯な意欲が痛切に感じられるし、実際に全42話を通して横山菁兒の平易ながらも抜きん出て抒情的で熱のこもった音楽の効果も手伝って見応えは充分すぎるほど。確かに“当時”の小学生程度の子供達への情操教育促進アニメの側面は否定できないが、少なくとも御上品ぶった小林秀雄の『実朝』とやらの貧弱なメランコリーよりは、単純だが直向きなこのアニメの方がずっとマシだと思う(!?)。太平洋戦争の直中に書かれた『右大臣実朝』から、上記の最も知られてはいるが極めて意味深長な一節を、侵略者(マゾーン)放逐後の混乱しつつも希望に満ちた地球人の前途に準えている。そして、第二次大戦が民主主義(ハーロック/地球人/米国)vs 全体主義(ラフレシア/マゾーン/日本)の戦争と解釈(名目であっても)せざるを得ない以上、ココに真実が見えてくる。虐げられた者達が徹底抗戦を挑む際の昂揚した姿が太宰の説く「アカルサ」であるという通説は敢えて斥けたい。そうではなく、「アカルサ」を気取るアメリカが自他共に「ホロビ」を齎すのだが、未だ「クライ」イラクは滅亡せぬ。テロも含めて反撃は続くってことが現実だ。詰まる所、地球の無頼漢たる太宰は「常しえに争いは止まない」真実を達観してしまっていた。そして宇宙の無頼漢ハーロックもまた「己の信ずるもの」の為に闘い続けるのである(笑)。人間ほど戦闘好きな動物など存在しないだろう。そもそも、こんな投稿欄でさえ競い合い(融和を装う悪質な奴もいるが)が実態ではないか。「酒ハ酔フタメノモノデス。ホカニ功徳はアリマセヌ」・・・アルカディア号のクルーは酒好きな奴が多い。酒に酔って歌って踊ってりゃ少なくとも“本当に”平和だもんなぁ。「淪落」こそ人間のアルカディア(理想郷)ですね。
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[021]大谷昭宏
 ビビビの・・・theoria2004-06-26
 
ネズミ男だな。コイツ。外観(前歯の様子一つとっても)は勿論然ることながら、水木しげる氏には失敬だが「大衆的偽善」を笠に着て稼ごうとする根性の嫌らしさも「漫画」での(・・・
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ネズミ男だな。コイツ。外観(前歯の様子一つとっても)は勿論然ることながら、水木しげる氏には失敬だが「大衆的偽善」を笠に着て稼ごうとする根性の嫌らしさも「漫画」での(アニメではソコのところが薄められていると思うのだが)ネズミ男の腐敗振りによく似ている。しかし、何と言っても現在の偽善者の筆頭はワケの判らん国民の守護神とやらを気取った“ナンタライズミ”さんでっさかいになぁ〜(嘔吐 ォォオエ〜ッ!)。ネズミ男ならぬテングザル男だわい。あ〜あ、猫娘とニャンニャンしていられたら平和なのになぁ〜(阿呆クサ)。
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[022]週末婚スペシャル
 対等の立場theoria2004-03-12
 
大人の男達(?)にとって、松下由樹ってのは確かに彼女が30才を過ぎて肉付きがヤケに良くなってからが“食べ頃”、いやいや“食べられ頃”なんだろうな。TV連ドラ版の『週末婚』・・・
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大人の男達(?)にとって、松下由樹ってのは確かに彼女が30才を過ぎて肉付きがヤケに良くなってからが“食べ頃”、いやいや“食べられ頃”なんだろうな。TV連ドラ版の『週末婚』を以前、無理矢理にバカ女から強要されて見た時に完全にソノ威圧感で不覚にもノックアウトされてしまったのだ(結局は収穫だったってコトなんだろうか? 笑)。杉本彩をも唸らせたという彼女の爆弾ボディには畏敬の念すら覚えたし、右頬のヒッカキ傷のような跡がコレまた野性的でソソられたのである。「乗りたい!」というよりも「乗られたい!」と情けなくもチョー実感。そもそも、ホストクラブ御指名“皀錺鵝匹任碚ける長身美男の阿部寛(純)なんてのは、松下由樹(陽子)とベッドで乳繰り合っていても、彼女のドデカくて淫猥で美味しそうな霜降り牛の如くの“肉塊”の隣に在っては最早、癸吋曠好箸皀乾椒Δモヤシ程度の貧弱な“付け合せ”みたいで異様に影が薄く、彼女に完全に“食べられて”しまっているのである。・・・それにしても、このスペシャル版は見ちょらんものの、配役は基本的に同じ様なので、連ドラのダイジェスト版みたいなモノだろうと大方の察しはつくのだが、「週末婚」だなんてなぁ・・・。『BU・SU』な内館牧子だけのことはあって、発想が貧困にして粗悪。内館牧子の外見なんぞは知らないが、性格が相当にブスなんだろう。“いにしへ”の「通い婚」からヒントを得たのか何だか解らんがフザケタことに、手弱女(たおやめ)は勿論のこと、益荒男(ますらお)も根絶しているチョー糞アメリカンな現代日本にあって、時代錯誤に「万葉集」やら「古今集」なんて代物の、男女平等(風)の恋愛関係に於ける質実と優雅の“余韻”をアレンジして“利用してやろう”などという小賢しい女狐根性が丸見え。内館牧子ってのは秋田小町のつもりで自己陶酔してやがんのだろうか? ま、そんなこたぁ、どーでもいいんだが。でも、キャスティングには笑えるなぁ。松下由樹と永作博美(月子)が姉妹なんだもんな。何処からドー見たって血の繋がった姉妹には見えないもん。性格はともかく、体格がゲルマンとピグミー。まるで異質。まさしく“氷炭相容れず”って感じなのよね。設定が凄まじい骨肉の争いであるんだから、どうせ似てないならデカ女同士で松下由樹と川原亜矢子を姉妹にした方が映像的にはシっくりすると思えるんだがなぁ。太陽と月なんでしょ。松下由樹=太陽(陽子)、川原亜矢子=月(月子)、という方がイメージ的にもピッタリ!・・・そこをチンケーな“宇宙塵”の如くの永作博美に“月”を演じさせる面白さ。コレだけはイイ。低俗ドラマ作品ではトコトン配役を歪ませるコト位でしか所詮は面白味が出ないんだからさ。でも、連ドラ版(スペシャル版も同じだろうか?)の最終回のラストシーン。アレには参った。月子か航一のどちらかがトラックに轢かれ、幸福感に酔い痴れる絶頂にあって青天の霹靂的に終止符を打たれ、スイカをイカス。・・・コノ位のトラジェディはバブル崩壊後なら当然のこと。現実の厳しさを盛り込め!!足りない連ドラ愛好家の文句などにイチイチ懇切丁寧にTV局は説明する必要など無い。「アレが“流行”のドラマなんデス。」との一言でバカな視聴者は「あ〜らまぁ、そうでゴザイマスの!」と納得するのだから。日本のTVドラマが何時までもクダラン理由の「一つ」にコノ過剰な“低脳観衆への媚”が存在する。「金、金、金」と何時までも低脳達に媚び諂って文化を貶めている限り、制作側にも観衆側にも「未来」は無い。・・・しかし、「日出づる処の天子」の治める国の民などと遺伝子に刷り込まれているのか、無意識にエラソーにしてる大半の日本人(※ 但し日本国内に限る)。近頃の餓鬼どもですら(さすがに朝鮮人の悪口は公然とはしないようであるが)、下手な日本史の教員による悪影響なのか、不思議なコトに「毛唐!」と電車の中で白人を指差してダチとホザイている。対等の立場(国家間であろうが男女間であろうが)を主張したければ、何よりも「両者の見解の相違」を認識せねばコトは進まない。「靖国問題」一つ取っても日本の浅はかさは歴然としている。アメリカには絶対服従、他国は全て「日没する国」で“日の丸”よりも遅れてるってコトなのね。こんな国じゃーあらゆる意味に於いて「対等の立場」なんて築けやしない。日本猿・・・やっぱ、ダメだコリャ〜(脱腸)。
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[023]イディオッツ
 パッサカリアtheoria2004-03-05
 
トリアーが導き出す“笑い”ってのは構図として「間接的」なので、いつも惚れ惚れさせられる。特にこの作品は「本狂言」に匹敵しよう。“笑いの魔術師?”トリアー監督のシニカル・・・・
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トリアーが導き出す“笑い”ってのは構図として「間接的」なので、いつも惚れ惚れさせられる。特にこの作品は「本狂言」に匹敵しよう。“笑いの魔術師?”トリアー監督のシニカル・パワーが炸裂している。登場人物に安直な台詞と仕種でギャグを飛ばせて爆笑を誘おうとか、作為見え見えの手間隙掛けた凝った演出でナントカ観衆からストレートな“笑い”を引き出そうと躍起になる何処ぞの国の凡人監督どもとは正反対で、そんな痕跡は欠片も無い。トリアーの“笑い”は作品全体の主題としては現実社会への“冷笑”が根底に在ろう。しかし“冷笑”の主題は、或る一場面として立ち現れる際“眉間に皺を寄せる笑い”(苦笑ではない)へと変奏される。誤解を臆せずに表現するならば、昔懐かしの「ドッキリカメラ」(素人騙し篇)を観てる時の“笑い”とでも言えようか。被害者だけはヤラセである事を知らず、オチョクられたり怖い目にあったりする・・・アノ、被害者の真剣なリアクションを見て笑う時の感覚に近いのだ。つまり“笑い”の構図が「直接的」でない。被害者(単独者)が介在することによって「笑うに笑えないが笑わずにはいられない」という唖然とした“笑い”をトリアーは提供してくれる。単純なシック・ユーモアとは無論異質である。「ドッキリカメラ」的な労しい被害者が出てくるワケは当然に無いが、真剣に現実(乃至は「絶対者」)と対峙する「単独者」が常に配置されている。第一、ドキュメンタリー風の本作が単純な“お笑い作品”だったら、知的障害者を装って悪事を働くハレンチ集団を笑って看過するコトなど出来るハズなかろう。「単独者」が現実の酷さを認識して「絶対者(まぁ、神ってことね)」と向き合って、「普遍者」としてのトリアーが関与しているからこそ、本当の知的障害者たちに対して「毒ガスで殺しちまえっ!」なんて不謹慎な言葉が罷り通るのだ。この文言、オ○ンコよりも口にしちゃイケナ〜イ!でしょうにね。序でだが、この作品での「乱痴気騒ぎ」「エロ描写」ってのは“性行為”を前提にした単純にして濃厚な卑猥を求めるものとは異なる。男女の赤ん坊が素っ裸で肉弾戦に興じて“ナニの部分”の相違を朧気に確認し合って喜んでいるのに毛が生えた程度の遊興的余裕に基づく。「性」に対しては本真剣に厳しくて寛容な北欧の一国ダンスク(デンマーク)の先進的優越を、アメリカ的偏執民主主義に中途半端に毒された劣等保守民族“日の丸”ドモが容易に理解できるハズもないのだ。何れにせよ、「現実社会への“冷笑”」がトリアーの(特に本作での)主題=「固執低音」である。映像上(比喩的には上声部に於ける)の変奏は時として原型を逸脱しているかのように思えるが、主題は根底で一貫し続ける。これこそパッサカリアの醍醐味であろう。流石はラース・フォン・トリアーである。ドグマ(独断)はドグマ(教義)。流石はキルケゴールのデンマーク! 因みに、未完ではあっても一連の『キングダム』が私的には一番好み。トリアーの魅力の宝庫だ。「人間社会など全て道化である」真実は、魅力的な映画作品に等しく共通する。
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[024]豚小屋
 箝口令theoria2004-02-29
 
荒涼とした火山地形と典雅なルネサンス様式の宮殿との対比が箆棒に美しい。「豚小屋=汚い」と直結させぬパゾリーニの機智、「ナチス=ユダヤ人多量虐殺」と速断せぬ慧眼。何よ・・・
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荒涼とした火山地形と典雅なルネサンス様式の宮殿との対比が箆棒に美しい。「豚小屋=汚い」と直結させぬパゾリーニの機智、「ナチス=ユダヤ人多量虐殺」と速断せぬ慧眼。何よりも先ず「ナチス=国家社会主義ドイツ労働者党」である。第一次世界大戦敗退後のヴェルサイユ体制下でドイツは屈辱的な扱いを受け、ワイマール共和国なる去勢されたブルジョワ民主主義の軟弱な液状化した政体が、世界恐慌によってドイツ共産党と軍部・資本家との間で揉みくちゃにされる中で、失業に喘ぐ庶民はアカを支持するも、軍部・資本家の勢力も侮れない為に、反共主義にして大資本家攻撃をするといった、民意に対して“従順でも不順でもない”当初のナチス(ヒトラー)の狡獪な折衷的党略が国民の歓心を買って台頭し、ホロコーストなる悪夢へと盲進していった事実を忘れてはなるまい。「ナチス=大量虐殺の悪魔」と直ちに見なすのは短絡的過ぎる。「ナチス=大衆煽動の魔手」とパースペクティブに解釈するのが順当だとパゾリーニは本作で冷静沈着に説いている。“従順でも不順でもない”という人間社会のあらゆる「相」に於ける不誠実な実態が人類史を常に汚して(ある意味では面白くして)いるという真実を・・・。それが人間の「業」であるということを・・・。二つの寓話の内で“ささやかな反抗”を試みる二人の青年が貪欲なブタとして描かれ、それ以上に汚染された産業廃棄物の如くの卑俗な権力者ども〜〜ココでは実業家でヒトラーを連想させるチョビ髭面のクロッツ(A・リオネッロ)と今や彼の宿敵である元ナチス党員の成金ヘルトヒッツェ(U・トニャッツィ)〜〜を含めた全ての人間の贖罪として“パゾリーニ的に”アイロニカルに殉教するが、遺憾にも(というか当然)報われず、ラストでヘルトヒッツェの「誰にも言うな!」の一言によって封印される。批判(不順・反抗)する者達が常に虐げられる人間社会。人間は皆ブタであるが、最も醜いブタとは“従順と不順を手玉に取る”権勢に溺れた支配階級である。従順な民衆は怠慢であって、権力に屈服せぬ不順な者、つまり批判的精神を貫く、生得的にして純粋な「権力への意志(Wille zur Macht)」で既成価値を転換しようとする人間こそがパゾリーニの「同志」なのであろう。そして、パゾリーニにとっての「神」とは、勿論キリスト教のソレとは異なり、アプリオリ(先天的)な生命力とアポステリオリ(後天的)な希望を携えたパゾリーニ自身の「魂」そのものではなかったのだろうか。それにしても、従順なブタどもはブヒブヒと愛嬌を振りまいてりゃ周辺の連中からいつも御褒美の“人肉=生贄”をタンマリと与えて貰えるが、批判的精神旺盛なブタには骨一本、頭髪の一本、衣服のボタンさえも与えられないんだからな。まったく。与えられるどころか口封じ(箝口令)だもんな。どんなブタ、いやそれ以下の害虫の仕業だか知らんが(笑)。
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[025]シュラム 死の快楽
 ルージュを息子にtheoria2004-02-20
 
身長186兮僚90圓妊織丱海盖曚錣此兵鬚皸まず?)車の免許もないらしいブットゲライトの、観てブッ飛ばないとバチが当りそうな麻薬的絶品。「上映禁止には不感症なのよ!」と・・・
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身長186兮僚90圓妊織丱海盖曚錣此兵鬚皸まず?)車の免許もないらしいブットゲライトの、観てブッ飛ばないとバチが当りそうな麻薬的絶品。「上映禁止には不感症なのよ!」と笑い飛ばし、不退転の意志で独自の死美学を展開する死武者にして正しく「死の王」たるブットゲライトによる“自虐・残虐”映像の濃縮決定版。デブ腹ハゲ頭にして正常に女と性交渉できぬ短小包茎で劣等感のカタマリ男である主役のロター(F・ユエルナー)の苦悶と欲求不満は、緊張性の幻覚・奇行という現実逃避でハイテンションな究極の捌け口を得る。詰まる所、ダッチワイフ使用後に便器に腰掛けてバスタブに於いてシャワーでその局部を洗浄する哀れなロターの姿が「現実」の初期設定であり、彼が己の陰茎を徐に卓上に置いて包皮を前方に引き伸ばしてソノ先端に口紅を塗って目印とし、其処に釘を宛がいトンカチでコンコンとやり激痛に至るシーンが本作でのエントロピー増大の極限として出現するワケだ。現実社会の無秩序の較差を忠実に描写しようとするブットゲライトの生真面目さが在るからこそ無残画も時に滑稽な映像として目に映り、当惑しながらもカタルシス(死と浄化)を体感できるのであろう。併録の「メイキング」は月並な製作過程の団欒的紹介の域を出ないものの、笑顔を絶やさないブットゲライトの“はしゃぐ”姿がヤケに神妙なので本編の補遺として認識される。必見だ。「勃起したペニスを撮っていたら?」・・・「R指定になってたよ!」と最後に子供の様な笑みを浮かべて言い放つブットゲライト。ブッタマゲまいと努力しても、彼の純粋さにはどーしてもブッタマゲてしまう。男は幾つになっても子供心を忘れちゃイケナイんだよなぁ。
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[026]堀越のり
 愛のフェロモンtheoria2004-02-15
 
人気があるのか無いのか知らないが、「愛のエプロン」とかいう御利口さんとは程遠そうな毎回入れ代わり立ち代りするエロタレント(杉田かおるも含む!?)達に極彩色の乳バンド・・・
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人気があるのか無いのか知らないが、「愛のエプロン」とかいう御利口さんとは程遠そうな毎回入れ代わり立ち代りするエロタレント(杉田かおるも含む!?)達に極彩色の乳バンド形エロハートエプロンを装着させて男ドモを悩殺し、彼女達にソノ都度の特選食材を使って料理させ、鬱陶しい城島茂を司会に、つまらんゲストを迎えた四人?でエロタレント三人衆の拵えた“料理”とやらを各々が試食し、その感想を述べさせて評価を下すコノ番組。私的にはチョクチョク御出座しになるホ○プロのバカ代表格の堀越のりが強烈に「フェロモンむんむん、エプロンも常連では一番似合っててエロイモン!」ってなことで股間も「もっこりモコモコ」にしてくれるのでタマラン(愚々うーっ!)。料理が下手糞でもイイ。君という肉体レンジの中でボクは“チン”して欲しいなぁー!(阿呆)。それに君の臭〜い(らしい)ウンコ料理でも鼻を摘めば何とか食える!下エプでも君の身体は上エロなのさ!だから“愛のバケツ行き”は我慢するので、腹が下って便所に駆け込まざるを得なくなる前に、ア・ア・貴女をデザートとして食わせてくれ〜っ!! 50万、いや、69万払うから〜。御願いよ、30分でいいいからさぁー!安過ぎる?じゃぁ思い切って背中あわせの96万円でどうだーっ!!通販を望んでいるんだけどエプロンダイヤル(?)863−863[ヤルゾ、ヤルゾ]にTELすればイイの??(痴呆)&(自爆エロ)。・・・でも冗談抜きに僕ぁー“堀越のり”って好きだなー。喋りもイイしね。近頃のバカ女のマイナー派の方の極み。でも極めればソコに何故だか「美」が宿ってしまうんだモノね(驚嘆)。
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[027]シェ・チン
 立役者theoria2004-02-12
 
自発的だか他発的(?)だか知らんが、コメント容量の削減をジワジワと遂行ってな陰湿至極の如何にも日本人的な措置には笑えるが、そういった場当たり的発想は却ってコノような・・・
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自発的だか他発的(?)だか知らんが、コメント容量の削減をジワジワと遂行ってな陰湿至極の如何にも日本人的な措置には笑えるが、そういった場当たり的発想は却ってコノような細胞分裂を招くというコトを知っておいて頂きたい(今後ヤる気はアンマリないが)。さて、謝晋の『乳泉村の子』は日中国交正常化二十周年記念として上映された超感動作であるが、今だからこそ日本側が日中共同声明に於ける「日中両国は一衣帯水の間にある隣国であり〜(中略)〜不正常な状態に終止符を打つことを切望している」との真意に立ち返って実行する姿勢を貫かねばならぬ。私は越山会とは全く関係ないが(笑)。世界地図を広げてみよう。日本海など小さな湖に過ぎぬ。湖の向こう側は朝鮮半島、ロシア、そこに控えるは中国だ。九州にあっては東シナ海を挟んで西側は中国が「腹」を曝け出している。まるで身重の女性が母性愛を日本に示しているようではないか?なのに何故そんなにまで太平洋のずぅーっと向こうの歴史無きアメリカにいつまでも魂を奪われ続けるのか?中国という御師匠様から破門宣告を叩き付けられる前に、もう少し賢くなっておく必要があるのではなかろうか??・・『清涼寺鐘聲(乳泉村の子)』は日本人たちが“自発的”に過去(現在を含め)の行状を反省するように優しく諭した超逸品である。現在進行形で中国残留邦人の生活支援等の問題は解決などしていない。その事実を日本政府は改めて思い知る必要がある。発端は「連れ去り」以前の「置き去り」にあるということ。日本ザルは其処を解ろうともしていない。薄情な人種だ。謝晋は日中両国民(延いては全人類)の友好の精神的立役者であるのに・・・。
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[028]乳泉村の子
 一衣帯水theoria2004-02-10
 
中国映画となれば「なんてったって張芸謀がイーモン!陳凱歌がサイコー!」なんて声がこのサイトでは主流みたい(現にコノ大傑作にコメントがない)だが、いくら何でもソレは些・・・
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中国映画となれば「なんてったって張芸謀がイーモン!陳凱歌がサイコー!」なんて声がこのサイトでは主流みたい(現にコノ大傑作にコメントがない)だが、いくら何でもソレは些か横暴というもの。確かに世情の縮図としての御意見広場である訳で、投稿者の九割方(?)が「アメリカ万歳!」と気張ってハリウッド路線を過剰に許容した中国映画を嗜好するのは極めて納得の行く現象ではある。しかし、多数決安直意見を鵜呑みにしていると本物の味を一生味わえまい。第五世代の張芸謀も陳凱歌(『覇王別姫』以前)も大好きだが、私的には中国映画ならダントツで第三世代の大御所たる謝晋の作品が頭に浮かぶ。文革モノの頂点的作品『芙蓉鎮』などは雷に打たれて失神するほどの感銘を受ける。中国映画の最高峰といっても過言ではあるまい。そしてこの『清涼寺鐘聲』。日中戦争後の中国残留孤児の生き様を凄まじい集中力で切々と描いた飛び切り上質な人情映画である。情味を扱わせたら謝晋以上の監督は現在では洋の東西を問わず、マズ存在していないのではなかろうか?お涙頂戴もココまでの究竟に達すると崇高ですらある。大島和子(栗原小巻)が息子を置き去りにせざるを得なかった悔恨の情など問題ではない。大陸の民にして太古の昔から小国日本の常に偉大な師匠であった中国人の度量の大きさが日の丸の身勝手で卑劣な振舞いを包み込んでいる。誇張もクソもない。中国の人々の愛情に溢れかえっている。クライマックスはズバリ、和子の息子を引き取った羊角(丁一)の聾唖の息子である葫蘆(尤勇)が出稼ぎに行く際の、和子の息子(“犬坊”と呼ばれていた)との別れのシーンであろう。葫蘆と犬坊は本当の父子(それ以上か)の愛情が通い合っている。耳の聞こえぬ葫蘆が耳を犬坊の顔に近づける。「パパー!パパー!」と、行って欲しく無い犬坊は叫ぶ。・・・ココで涙せぬ観客がいるだろうか?・・それほどに胸に迫り来る超名場面だ。謝晋こそ中国映画の核心を成す真の師匠だ。日本映画はただ見習うしかなかろう。
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[029]デヴィッド・ボウイ
 狼ボーイtheoria2004-02-08
 
70年代後半、如何にも胡散臭い、嘘ばっか吐いていそうな狼少年面の顔写真がデカデカとLPジャケットの表に堂々と載っていたのでコツコツと貯めた小遣いでの購入を一瞬ためらっ・・・
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70年代後半、如何にも胡散臭い、嘘ばっか吐いていそうな狼少年面の顔写真がデカデカとLPジャケットの表に堂々と載っていたのでコツコツと貯めた小遣いでの購入を一瞬ためらったのだが、当時の新譜でオーマンディの“フィラデルフィア・サウンド”による「ピーターと狼」が聴きたかったので、嘗てのRVCが「ロック界のスーパースターが“ナレーター”」であるというような宣伝文句で釣って国内向けに供給していたことは購入前に知らされていたが、ジャケが気に入らずとも買った記憶がある。・・・「ピーターと狼」は小学校で誰しもが音楽の授業で聴かされているハズだ。この作品で“語り”は重要である。最近ではJ・P・バンテュスの「狼のたどる道」と併せて、ソフィア・ローレン、ゴルバチョフ、クリントンといった大物が“語り”を慈善事業として担当したりなんかしている様だが、ボウイと同時期には坂本九やら黒柳徹子、大空真弓なんていう今では「へぇ〜」ってな人達も一流の演奏のナレーターとして既に収録していた。ところで、ボウイのナレーションだが、20数年以上も前に初めて耳にした時は正直なところ「美声だな〜」と感じた。・・・しかし、所々で軽々しい「ワインをロックで頂戴!」みたいな邪道で異常にロックなロクでもない、狼の遠吠えをも撥ね付ける奇声を発していたような気もする(LPを後に売り払って以降はこの録音を聴いてないので定かではないが 笑)。とにかく馴染み易い声だったとは思うが“深み”の微塵も無かった。要するに、バカってことか?“語り”に限定して言えば、指揮を兼ねたバーンスタインやプレヴィンの妻であったミア・ファーローの堅実さもいいが、矢張り日本人としては、柔軟で温もりのある坂本九の声に魅せられる。でも、ボウイの「狼」、決して悪くはなかった。“狼ボーイ”の“語り”をもう一度聴き直してみようかな。
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[030]行きずりの二人
 カルヴァドスtheoria2004-02-01
 
あまり知性的とは思えぬC・ルルーシュの作品群。右脳人間の直感のみで辛うじて『男と女』以降の爆発的人気(F・レイとのコラボもあって)を維持しているのだろうか? でも、・・・
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あまり知性的とは思えぬC・ルルーシュの作品群。右脳人間の直感のみで辛うじて『男と女』以降の爆発的人気(F・レイとのコラボもあって)を維持しているのだろうか? でも、この作品では「人生はパッチワークみたいなもん!」なんてチャランポランな“ちゃんこ鍋ルルーシュ”の十八番発想が、若き日の如何様ヴェリテ風(?)の手法によって破竹の勢いを見せ付けている上に、「諸法無我(全ての現象には実体などない)」とする仏教に於ける「法印(真実の規範)」をスピード感溢れるコメディタッチで解り易く描いた西洋版説教映画であるかの如くの妙な説得力がある。冤罪を被る者と有罪を擦り抜ける者が「単なる人違い」で済まされていく現実。“ある者”が狂気へと追い遣られ“ある者”が狂喜するコトに合点が行かなくても不条理という日常茶飯事であって避け難い真実。今まさにコノ瞬間、過去のアノ瞬間、次の来るべき瞬間、あらゆる瞬間での方向性は常に不確定で、自己は兎も角として関わる相手にまでも「幸・不幸」「善・悪」という偶然の産物を押し付けてしまう。人間が一般に実体の確立に固執するのとは裏腹に、現実ってのは酷いもので、実体を一瞬にして虚妄と化するとも解釈できる。ルルーシュは頭脳派ではなかろうが、初期の本作に於いては、ある意味で東洋的で右脳的な(淡白ではあるが)瞑想に関与する第六感に恵まれているようだし、且つ矢張りフランス的叡智がDNAに刻み込まれているからなのか、短時間なことも手伝って本作での密度の高さ(それでもパッチワーク的だが)は特筆すべきものであり、そのヤンチャ小僧振りは、当然のことながら後の作品よりも鮮度が高くて弛みが微塵もない。カメラを手にして無邪気にズーミングして喜ぶ御遊びといい、「ノルマンディー地方と言えばカルヴァドス(リンゴ焼酎)!」ってなことで種々の酒を密造するコトに生き甲斐を感じてるビストロの店主キャラの設定といい、“枕探し「女」”を乗っけている「男」の運転するカッコイイ黒のシトロエンのカーラジオから流れるニュースで「婦女暴行犯は犯罪者ですか?それとも病人ですか?」とクソ真面目な口調で市民に街頭でマイクを向けるインタビューアーの遣り取りの滑稽さといい、まさしくカルヴァドスのようなアペリティフ(食前酒)か、ディジェスティフ(食後酒)的な美味しい映画と仕上がっている。他の長編映画を食する前か後に味わうには最適ではないでしょうか。でも、個人的にはメインディッシュがハリウッド産(?)のBSE感染牛のステーキ(ハリウッド製クソ長編映画)だったら(潔癖な大半の日本人とは違って危険部位じゃねーんだから私的には喰らうが)、アペリティフではなくてディジェスティフとして、つまり“口直し”にして“毒消し”として、カルヴァドス(『行きずりの二人』)を頂きます(笑)。
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