allcinema ONLINE オールシネマ 映画&DVDデータベース
検索オプション

投稿されたユーザーコメント
 
 「tusaka」さんのコメント一覧 登録数(14件)rss
 コメント題投稿者投稿日
[001]いつか読書する日
 「いつか」は永遠にやって来ないtusaka2007-10-02
 【ネタバレ注意】
10代の恋には生活感が伴わない。好奇心と憧れと理想しかない。 美奈子と槐多の恋も初めはそうだったかもしれない。しかし、彼らの親同士が不倫の果てに一緒に事故死する。その・・・
続きを読む
10代の恋には生活感が伴わない。好奇心と憧れと理想しかない。 美奈子と槐多の恋も初めはそうだったかもしれない。しかし、彼らの親同士が不倫の果てに一緒に事故死する。そのため2人は10代で生まれた淡い恋をゆがめ、そこにしばられ、意固地な執着の人生を歩み出していく。 美奈子は、一生この街を出ず、結婚もしないと決意する。槐多は容子と結婚しながら、本音をおくびにも出さず、美奈子の存在すら無視する。それなのに、槐多は飲めもしない牛乳を取り、美奈子は長い階段を息を切らしながら毎日届けている。そこに2人の未練とお互いへの執着がハッキリと現れ、毎朝の牛乳配達の音を聞いて、容子は夫と美奈子の想いを悟ってしまうのだ。 10代のころの熱愛も50代ともなれば、子供や友人や病いや老いなど、あらゆる生活感の中で色あせ、変化し、純粋さなど薄れていく。ところが、美奈子と槐多の恋はある意味で10代のまま止まったままだ。30年以上の時や人生の重さも彼らの想いを風化させるどころか、異様な欲望にまで高められている。 そして、美奈子の勤めるスーパーでの万引き事件が2人の意固地な壁に亀裂を入れていく。槐多が万引き少年を警察や児童相談所の所員たちとともに保護する時、布団に寝ていた母親をどなりつけ、涙する場面では、自分と父(彼は父が美奈子の母と不倫したことで、愛されていないと思っている)をダブらせ、さらに美奈子との恋を実らせたかった、その槐多の本音が吐露される。 やがて、槐多の妻が亡くなり、万引き少年事件などが引き金となって、ついに美奈子と槐多は「いつか読書する日」、つまり彼らにとって生きることすべての欲望を満たす日を迎える。 生きるということは欲があるからで、すべての欲がなくなれば、生きる意味がなくなる。そのため槐多は死を迎えることになるのだが、美奈子はその後も無人となった家に牛乳を届け、再び新たな「いつか読書する日」に向かって走り出す。不可解なようでいて、でも、そこに人間のしたたかさというか、欲の深さというか、純粋さというか、醜いように見えて、どこか愛らしくも見えてしまうのだ。 こんな恋物語は映画の中だけ、と思いつつ、現実にあってほしいと願ってしまう。これが大人のファンタジーなのかもしれない。
隠す
  
 
[002]マイアミ・バイス
 あの魅力ふたたびtusaka2007-09-24
 
人気TVシリーズの映画化作品というものはいっぱい見てきたけれど、オリジナルのTVに忠実という点ではベストですね。まあ、TVの製作者本人(=マイケル・マン)が脚本・監・・・
続きを読む
人気TVシリーズの映画化作品というものはいっぱい見てきたけれど、オリジナルのTVに忠実という点ではベストですね。まあ、TVの製作者本人(=マイケル・マン)が脚本・監督を手がけているのだから、当然といえば当然かも。 ところでTVに忠実というのは、ソニー役のコリン・ファレルがドン・ジョンソンとイメージが同じという意味じゃないよ。「マイアミ・バイス」という作品そのもののテーマと魅力、さらに構成や描き方が忠実ということ。5年間放送されたTVシリーズの基本中の基本となる物語を描けと言われれば、それがまさに本作ということになる。 「マイアミ・バイス」の刑事たちは南米からの麻薬密輸の取り締まりが任務で、基本の捜査は囮捜査である。毎週1話づつ放送されるTVでは、毎回の囮捜査なんて不可能だし、そんな基本設定は回を重ねるごとに消えてしまった。その意味で、本作は南米からの麻薬コネクションの囮捜査が物語の基礎にあり、敵側のイザベラとソニーの関係や彼女の生い立ち、そして麻薬組織との衝突に至る展開など、TVシリーズの基本中の基本の構成になっている。 つまり、どこをとってもTV「マイアミ・バイス」そのものなのだ。 リメイクというのはオリジナルの魅力を損なわずに、現在に時代を移し、その魅力を余すところなく再構築するというのがひとつの基本ならば、これはとてもよくできたリメイク作品だと思う。マイケル・マン本人によるリメイクということもあるだろうけれど、それだけマイケル・マンが「マイアミ・バイス」を愛し、知り尽くし、この作品に何を求め、どこに魅力を感じているのか、誰よりもわかっているからに他ならない。 かつての、あの「マイアミ・バイス」の魅力を今再び堪能できるのだろうか、という不安はどこかに吹っ飛びました。
隠す
  
 
[003]わが家の犬は世界一
 出口なしtusaka2007-07-23
 
タイトルから、犬と人間の愛情物語をほのぼのコメディとして描いた作品と想像したのだが、まるで違った。これは現代中国そのものを痛烈に風刺した、きわめてシリアスな映画だっ・・・
続きを読む
タイトルから、犬と人間の愛情物語をほのぼのコメディとして描いた作品と想像したのだが、まるで違った。これは現代中国そのものを痛烈に風刺した、きわめてシリアスな映画だった。心温まるハッピーエンドへ向かうことなく、物語は次々と辛辣に現実を突きつけてくる。 主人公ラオ夫婦の関係は冷めているし、ラオの勤めは夜勤である。ひとり息子と両親との溝も深い。小さなアパート暮らしで、一家は平均的な中国人家庭だが、生活は楽ではない。そして麻雀好きだったラオが、なぜ麻雀を辞めてまで、雑種犬のカーラに愛情と金を注ぐのか。そこにラオ一家のすべてが見てとれる。 深夜に警察の目を盗むようにして未登録の犬たちを散歩させる庶民。これを待ち伏せして取り締まる警察。露店で無造作に売られる犬や猫。形骸化した法律の裏には無数の抜け道があり、そこには警察と庶民の馴れ合いと駆け引きが存在する。そして、なぜ犬の登録料が庶民には手が出ないほど高額なのか。 カツアゲしている不良から級友を助けようとして、不良をケガさせ、反対に逮捕されてしまった息子。ラオは愛犬に会うために警察へ行き、そこで牢の中の息子と対面する。犬と人間が共に檻の中へ、それも無造作とも言える理不尽さで入れられている。 ラオが愛犬を取り戻そうと右往左往する中で、動物と人間の境界線が薄れていき、まるで人も動物も同じように扱われている現実が見えてくる。 それは出口のまるで見えない暗闇で、明快なラストシーンへ行き着けるわけがない。 日本タイトルは、果たしてどこまで意図してつけたのかわからないが、あまりに皮肉過ぎて痛快だと思う。
隠す
  
 
[004]全身小説家
 フィクション!tusaka2007-07-22
 
井上光晴は言う。自分史の中のいくつかの事実を取り上げて語る時、それはフィクションだ、と。自分史で語る所と語らない所をよりわけることで、語ったことが事実であっても、そ・・・
続きを読む
井上光晴は言う。自分史の中のいくつかの事実を取り上げて語る時、それはフィクションだ、と。自分史で語る所と語らない所をよりわけることで、語ったことが事実であっても、その一方で語られない事実もあるからだ。 映画は井上光晴が履歴や原体験を詐称していた事実を暴き出し、まさに彼自身が小説というフィクションを構築する人生を歩んできたことを露わにする。 瀬戸内寂聴が、井上光晴は何か守らなければいけない過去があり、それを隠蔽するために数々の虚構で自分を飾っていたのかもしれないと語っている。 井上光晴の「嘘」の人生は、しかし、単に上辺の言い逃れの「嘘」ではなく、明かな事実である過去の上に積み重ねられ、今を生きる自分を創り上げるフィクションなのだと思う。 小説にしろ、映画にしろ、すべてはフィクションなのだ。でも、自分(作家または映画監督)の立ち位置さえはっきりとしていれば、ひとつの事実、小さな事実を織り込むことで、それは人の心を動かすフィクションであり真実なのだ。 それが小説や映画の目標とする虚構なのだと思うし、まさに井上光晴は「全身小説家」そのものなのだと思う。 ノンフィクションからフィクションを知るとは思わなかった。
隠す
  
 
[005]スタントウーマン/夢の破片(かけら)
 ミシェルの涙tusaka2007-07-14
 【ネタバレ注意】
↑にある解説は少々誤解を招く書き方だと思う。ミシェル・ヨー主演で、彼女がスタントウーマンとして活躍するアクション・ドラマ、と書いてあれば、ここはやはりエンターテイメ・・・
続きを読む
↑にある解説は少々誤解を招く書き方だと思う。ミシェル・ヨー主演で、彼女がスタントウーマンとして活躍するアクション・ドラマ、と書いてあれば、ここはやはりエンターテイメントの活劇を期待してしまうように思う。 アン・ホイ監督作品を見てきた人にとっては、彼女が痛快な娯楽活劇とは最も遠いところに位置する人であることは周知の事実。本作には確かにアクションはあるけれど、アン・ホイ監督はそんな所にまるで興味がないから、アクション監督にチン・シウトンを迎えて、ド派手な立ち回りを振り付けた所で、これをかっこよく見せる気などまるでない。 しかも、映画スタッフの物語だから、アクションの仕掛けをハッキリと見せてしまい、迫力など、どこへやらという有り様である。 アン・ホイは人間にしか関心がないから、主人公のカン、チーフのタン親子、そしてスタント仲間の生き様へ視点が行ってしまう。その上、香港映画界は実際あちこちで暗黒社会とつながっていて、そうした裏社会との関係なしには成立しないという現実がベースとしてきっちりと描かれている。 でも、映画作りに人生を賭け、そこに夢を求める映画人はたくさんいる。彼らは常に生活を背負い、同時に裏社会とうまく渡り合い、その中で映画に生きがいを見出している。 サモ・ハン演じるタンが素晴らしく魅力的だ。本音を表に表すことなく、すでに夢を実現するには年を食い過ぎているにもかかわらず、若手や新人に暖かい手をさしのべる。まるで、自分が果たせなかった夢を彼らに託しているかのようだ。 多くを語らず、汚い仕事もこなし、人の恨みを買い、しかし愚痴もこぼさず徹夜をくり返して映画を撮る。だから、彼を慕う仲間がいて、主人公のカンも次第にタンの本当の姿に気付いていくことになる。 いかにタンが大きな存在であったのか。カンは彼が殺されて初めてそれを全身で感じることになる。アクション女優というレッテルを張られたミシェル・ヨーが、カンの死にひとりで涙する場面は、007映画や多くのアクション映画では決して見ることのできなかった名演技だと思う。 この脚本を他の監督が演出したら、間違いなくアクション・ドラマになると思うが、アン・ホイおばさんのマイペースな演出は、香港映画界の底辺を支えるスタントマンたちの、悲しくも友情熱きドラマとして完成させて、実に痛快である。
隠す
  
 
[006]イン・ハー・シューズ
 私の心を重ねてtusaka2007-07-02
 
アメリカ人監督の中で、カーティス・ハンソンは最も新作が楽しみな監督のひとり。  当初はサスペンス・スリラーの名手として期待していたのだが、今やそんなジャンルを越えて・・・
続きを読む
アメリカ人監督の中で、カーティス・ハンソンは最も新作が楽しみな監督のひとり。  当初はサスペンス・スリラーの名手として期待していたのだが、今やそんなジャンルを越えて、人の生き方そのものに焦点が当てられるようになってきた。  本作は一見すると女性映画であり、姉妹の物語であり、予定調和のさわやかなハッピーエンド物語に見える。しかし、ローズとマギーは兄弟でもよいし、2人の関係は友人同士でも、それ以外でもなんでも可能だ。要は自分が失敗や後悔を重ねて、そこから得ることの出来た自己の反省を、思いやりと希望に換えて人に分かち与えることができるかということなのだと思う。  それが「彼女の靴」なのだ。祖母のエラがローズに貸した靴も、マギーが勝手に使ってヒールを折ってしまった靴も、そこに彼女たちの失敗や後悔が込められ、心が伝えられていく。  原作者が女性だから、姉妹と母と祖母の物語となっていて、靴が象徴として登場するが、そこに人の本質がしっかりととらえられているので、これは女性映画を越えて、男性にも共感できる作品に仕上がっている。  なによりも素晴らしいのは、靴をうまく渡さないと大変なことになるという警告がハッピーエンドにうまく隠され、ひとつのおとぎ話のように作られていることだ。それはここに登場する多くの老人たち誰もが、やさしく思慮深い人物として描かれていることでもわかる。このささやかだが、しかしかなり重たい警告=靴をうまく受け取れるかどうかで、我々も自分の人生をローズとマギー姉妹のように生きられるかどうかが決まるかもしれない。
隠す
  
 
[007]煉獄エロイカ
 Dead Endtusaka2007-06-06
 
 過去、現在、未来と3つの時間を自由に行き来して(というより混在させて)描く左翼革命家たちの自滅の物語。それは1歩下がって見れば、滑稽としか言いようのない道化芝居の・・・
続きを読む
 過去、現在、未来と3つの時間を自由に行き来して(というより混在させて)描く左翼革命家たちの自滅の物語。それは1歩下がって見れば、滑稽としか言いようのない道化芝居のようだ。  全編というか全カットが幾何学模様のような構図と演技で構成されて、自滅へと向かう革命家たちの姿が余計に滑稽で憐れですらある。吉田監督の彼らに対する視点はすこぶる冷ややかだ。  登場する男たちは熱弁をふるい、銃を取り、行動力をアピールするが、その一方で庄田の妻や少女、女性闘士たちは男どもよりもしたたかに力強く(それは論理よりも感情的であったりもするが)、権力を欲する男たちの幼さを感じてしまった。  しかし、ここまでカメラアングルと人物の動きにカッチリとした枠をはめてしまうというのも楽しい。他の映画以上に画面の隅々まで目が離せなくて、あっという間の2時間だった。
隠す
  
 
[008]恋に落ちる確率
 平凡な恋、非凡な演出tusaka2007-06-04
 
 なぜか、デビッド・リーン監督の「逢いびき」を思い出した。そこでは主人公2人は共に結婚していたが、本作では彼女のいる男と人妻との恋物語だ。運命的な出会いならば、それ・・・
続きを読む
 なぜか、デビッド・リーン監督の「逢いびき」を思い出した。そこでは主人公2人は共に結婚していたが、本作では彼女のいる男と人妻との恋物語だ。運命的な出会いならば、それこそ無数の映画で描かれ、こちらが単にその中のひとつとして「逢いびき」を思い出しただけなのだが。  つまり本作の物語はありふれている。恋は予告なしにあらゆる場面で我が身に起こり、時には身も心も引き裂かれるほどの想いに振り回され、その結末は過去にいくらでも求めることができる。その意味で「逢いびき」もまたありふれた恋物語を描いたに過ぎない。  しかし「逢いびき」が傑作となったのは、ノエル・カワードの脚本の斬新さとデビッド・リーン監督の演出力によるものだ。脚本と演出の非凡さで、虚構の映像世界の中のありふれた恋物語は、いつの時代にも我々を酔いしれさせてしまうのだ。映像の嘘を巧みに操り、ひとつの平凡な恋物語を心地よく堪能させてくれたクリストファー・ボー監督の手腕に脱帽。この映像センスはちょっとすごいと思う。
隠す
  
 
[009]ボクと空と麦畑
 この才能に脱帽tusaka2007-05-20
 
 舞台のグラスゴーの街はイギリス第3の都市で、かつて工業都市として大発展したが、その後衰退していった。のどかな田園と立ち並ぶ工場、そして犯罪多発の街というのが、グラ・・・
続きを読む
 舞台のグラスゴーの街はイギリス第3の都市で、かつて工業都市として大発展したが、その後衰退していった。のどかな田園と立ち並ぶ工場、そして犯罪多発の街というのが、グラスゴーを象徴する表現としてよく使われている。  女流のリン・ラムジー監督は兄の子供時代にインスパイアされたと言っているが、彼女も幼い頃、映画で描かれた時代を体験したのだろうと想像する。  それにしても12歳の少年を主人公にしながら、これは決して少年のみずみずしい姿をとらえた作品ではなく、グラスゴーの街と時代と人々を冷静に描き出している。監督の視線は実にクールで、登場人物全員を等距離から見つめる鋭さは恐ろしいぐらいだ。 「女流」という言葉は文字通り「女らしい」とか「やさしい」とか「母性的」といったイメージに結びつきやすいが、ラムジー監督の「女流」は人の心の芯を貫く繊細で鋭利な刃物のようだ。しかし、それは決して冷たいということではなく、むしろ安易なポジティブさをいっさい排除し、現実を真正面から見据えることから、グラスゴーの街と人々、さらに12歳の主人公の姿、そして自分自身を見つめようとしている。  リン・ラムジー監督の才能は凡庸な誉め言葉ではとても言い表せない。
隠す
  
 
[010]三文役者
 どうも、どうもtusaka2007-05-07
 
 自らを「三文役者」と称した名脇役・殿山泰司の伝記映画。いや、伝記映画と呼ぶには少々抵抗がある。伝記映画に厳密な客観性が必ずしも必要だとは思わないけれど、多少なりと・・・
続きを読む
 自らを「三文役者」と称した名脇役・殿山泰司の伝記映画。いや、伝記映画と呼ぶには少々抵抗がある。伝記映画に厳密な客観性が必ずしも必要だとは思わないけれど、多少なりとも客観性が必要ということならば、本作は伝記映画のカテゴリーをはずれた、新藤監督の主観のみで描かれた殿山泰司物語である。  なにしろ殿山泰司は50〜60年代の日本映画黄金期の頃には、数え切れないほどたくさんの映画に出演している。新藤監督作品だけに出ていたわけではない。しかし、本作は当然ながら新藤監督作品のみにまつわるエピソードしか登場しないし、さらに戦後から89年に亡くなるまでの半世紀近い年月を描いていながら、背景の時代考証は少々乱暴だ。  だが、そんなことはどうでもいい。新藤監督の視点が集中するのは、鎌倉の正妻と赤坂の側近の2人の妻とタイちゃんの関係である。そこから、どうしようもなく飲んべえで、どうしようもなくいい加減で、それでも正妻と側近の2人の妻に愛され、「三文役者」の人生を走り続けた「タイちゃん」こと殿山泰司の姿が浮かび上がる。それは新藤監督が多くの自作に起用した、愛すべき三文役者への限りない友情でもある。
隠す
  
 
[011]太陽はひとりぼっち
 愛は必要?tusaka2007-05-06
 【ネタバレ注意】
「あなたをもっと愛したくて……でも愛し方がわからない」「愛し合うのに互いを知る必要ないわ……愛し合う必要もないかも」  自分でもよく理由がわからないままにビットリアは婚・・・
続きを読む
「あなたをもっと愛したくて……でも愛し方がわからない」「愛し合うのに互いを知る必要ないわ……愛し合う必要もないかも」  自分でもよく理由がわからないままにビットリアは婚約者を捨て、そして本当に好きなのかどうかもわからないままピエロとつき合い始める。彼女はいったい何がしたいのか?  恋をしたいのか、結婚がしたいのか、それとも人生の生きる意味を知りたいのか。  ビットリアは刹那的に友人たちに合い、笑い、はしゃぎ、別れた途端に冷めた表情に変わる。ピエロとのつき合いも同じだ。笑顔で抱き合ったかと思うと、反対を向いた途端に表情は仮面のように固まる。  それなりの生活は保障され、むしろ人並み以上の暮らしをしているはずなのに、なぜかビットリアの心は満たされず、何をしたいのかもわからないままだ。  戦争終結から15年以上が過ぎ、生活は豊かになった。次々と近代的な建物が建ち並び、株式投資でひと晩に大金をつかむ者もいれば、失う者もいる。悲惨な戦争時代と違い、裕福であるはずの今、それでもすべてが満たされない。  株の暴落で失われた大金はどこへ行くのか。どこかにあるはずの大金は目に見える形では存在しない。  近代化で得たものは何なのか。失ったものは何なのか。愛することは必要なのか。必要ならばどうすればよいのか。ビットリアは「わからない」とくり返す。  ラスト。愛するピエロとは明日もあさってもこれから毎日会い続けることができる。でも、今夜もまた会おうと約束を交わす。しかし、ピエロと別れた瞬間、ビットリアの表情は仮面のように固まる。うれしさも喜びも期待も何もない。2人の場所に夜が来る。約束の時間が近づく。しかし、再会したところでそこに何があるのだろうか。愛……?  無機質の建物、無表情のビットリア。息苦しいまでの閉塞感と未来への暗闇。凄すぎる演出力だと思う。
隠す
  
 
[012]カミュなんて知らない
 映画のための映画tusaka2007-05-05
 
 映画は長回しのシーンから始まり、そこに登場する学生がアルトマンの「ザ・プレイヤー」の冒頭の解説をする。まるでパロディのような画面作りだ。以後、随所にビスコンティや・・・
続きを読む
 映画は長回しのシーンから始まり、そこに登場する学生がアルトマンの「ザ・プレイヤー」の冒頭の解説をする。まるでパロディのような画面作りだ。以後、随所にビスコンティやらゴダールやらメルビルやらラングやら溝口健二らの作品が学生たちの言葉のあちこちに登場し、登場人物の設定や行動までもが、これらの作品群のパロディのごとく散りばめられていく。  そして、物語はカミュの「異邦人」と数年前に実際に起きた老婆殺人事件をダブらせ、これを映像化しようとする学生たちの映画制作を追っていく。  これは多分、映画そのもの(というか柳町監督の映画に対する姿勢や愛情)を撮ろうとした映画じゃないだろうか。  登場する過去の映画は60〜70年代の、それもフランスやイタリア映画が多く、柳町監督がこれらの作品から多くを学んだことだろうと思える。それは、同時に柳町監督が「異邦人」と出会ったころであったのかもしれない。ビスコンティが「異邦人」を映画化したのは\'67年のことだ。  老婆殺人事件と学生たちの出会い、それは柳町監督と学生たちの出会いでもあり、柳町監督と老婆を殺した若者との出会いでもある。カミュと老婆殺人と学生たちと柳町監督が「映画」制作で繋がり、そこから産み落とされた作品だと思う。
隠す
  
 
[013]REX レックス
 無邪気だった時に戻ろうtusaka2007-05-02
 
「恐竜の遺伝子を受け継ぎ超人的な能力を備えて太古から現代に甦ったミュータントの恐竜族“レックス”たちの善と悪に袂を分けた戦いを描いたSFヒーロー・アクション」 と、↑の・・・
続きを読む
「恐竜の遺伝子を受け継ぎ超人的な能力を備えて太古から現代に甦ったミュータントの恐竜族“レックス”たちの善と悪に袂を分けた戦いを描いたSFヒーロー・アクション」 と、↑の解説に紹介されているけれど、これは観る人をその気にさせるため、いかにも「らしく」書かれた、典型的な「内容に(相当な)偽りあり」の宣伝文。 新聞や雑誌のヨイショ記事じゃないんだから、こんな紹介文書かないで欲しいなあ。 さて、翻訳ミステリに精通している方ならば、エリック・ガルシア作の「鈎爪」シリーズをご存じだと思う。数冊翻訳されているし、ミステリ・ファンの評価もかなり高い。 この小説のTV化(そうなのだ、これは映画ではなくてSF専門のCATV局で製作されたTVムービーなのだ)と書けば、原作を読んでいる人はビックリするかもしれない。 あのチャンドラーも真っ青のハードボイルド調と人類の中に恐竜たちが生き延びて生活しているというトンデモSFが合体し、しかも正統派ミステリが巧みなユーモアの中で語られていく「鈎爪」君を映像化してしまったのだよ、ホント。 物語のテンポは良いし、伏線も巧みだし、ヒネリはいやというほど効いている。脚本がオリジナルならば脚本家をベタボメする所だけど、これすべて原作の良さによると思う。 恐竜たちが、文字通り「人間の皮を被って」人間社会に紛れていて、主人公はしがない探偵業をやっているのだけど、その設定の荒唐無稽さが知的なユーモアとして物語の根底を支え(同時に随所で笑わせてくれる)、しかもハードボイルド・ミステリのドンデン返しもしっかりと堪能させてくれる。 その上、ラストは人間社会への警告として、相当にシリアスで、こちらの胸にグサリと刺さる。 続編は作らんのか。観たいゾ、おい。
隠す
  
 
[014]エミリー・ローズ
 悪魔は本当にいる?tusaka2007-04-30
 【ネタバレ注意】
ひと言で言えば、悪魔は本当に存在するのかどうかを裁判で争う物語。 そして、映画はラストで「神」と「悪魔」が現実に存在するかどうかを明確に示している。 実話を元にしてい・・・
続きを読む
ひと言で言えば、悪魔は本当に存在するのかどうかを裁判で争う物語。 そして、映画はラストで「神」と「悪魔」が現実に存在するかどうかを明確に示している。 実話を元にしているそうだけど、これを実際にあったことだと認めるのは、 神や悪魔の存在を認めるのと同じことだと思う。 キリスト教世界では、確かに素直に信じられるかもしれないけれど、キリスト様と無縁の身にとっては、単なるホラーエンタテイメントでしかない。 エミリーが甘んじて受け入れた死をどう感じるかは、どの神を信じるかでまったく変わってくる。 キリスト様にまるで縁のない私には、おもしろさも感動も(それと怖さも)無縁の作品でした。
隠す
  
 
 
 



【スポンサーリンク】



allcinema SELECTION