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愛のコリーダ(1976)

L'EMPIRE DES SENS

愛のコリーダ2000(リバイバル)

メディア映画
上映時間104分
製作国日本/フランス
公開情報劇場公開(東宝東和)
初公開年月1976/10/16
リバイバル→ギャガ-2000.12.2
ジャンルドラマ/ロマンス/エロティック
映倫R-18
これほど激しく愛し合った男と女はなかった いま世界の脚光を浴びる日本の愛の賛歌
愛のコリーダ [DVD]
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価格:¥ 4,010
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【クレジット】
監督:大島渚
製作:若松孝二
製作代表:アナトール・ドーマン
脚本:大島渚
撮影:伊東英男
美術:戸田重昌
編集:浦岡敬一
音楽:三木稔
助監督:崔洋一
出演:藤竜也吉蔵
松田暎子
中島葵「吉田屋」のおかみ トク(吉蔵の妻)
芹明香「吉田屋」の女中 松子
阿部マリ子「吉田屋」の女中 キヌ
三星東美「吉田屋」の女中 千恵子
殿山泰司老人
藤ひろ子「吉田屋」の女中頭 お常
白石奈緒美芸者 八重次
青木真知子「みつわ」女中
東祐里子「みつわ」の芸者
安田晴美「みつわ」の芸者
南黎「みつわ」の芸者
堀小美吉「みつわ」の芸者
岡田京子半玉
松廼家喜久平幇問
松井康子「田川」のおかみ
九重京司大宮先生
富山加津江「満左喜」の女中
福原ひとみ蛇の目の娘
野田真吉小料理屋のおやじ
小林加奈枝芸者 菊竜
小山明子「満左喜」の芸者
【解説】
 この映画と「愛の亡霊」が、外国映画であることを、喜ぶべきか悲しむべきか未だ解らないでいる。世界のオーシマとしては海外進出も当然なのだが、この二作以降新作を撮らせない日本映画とはいったい何なのだ? また、このハード・コア作品を「ラストタンゴ・イン・パリ」以上の濃厚なボカシ越しに観たところで、果たして本当に“観た”と言えるのかどうか……。お話は昭和情痴事件史のチャンピオン“阿部貞事件”。ロマンポルノでもおなじみです。ひたすら密室で睦み合う男女のナニを延々と映しながら、たまに兵隊の行進が挿入されるきり。だけど、それがそんな閉塞状況に追い込まれていく二人を端的に表現し、軍国主義に呑まれていく時代と大胆にオーバーラップして、彼らの文字通りの“行為”をあたかも、ささやかな抵抗のように見せるんだな(おっと、口調が大島サンに似てきちゃった)。
<allcinema>
評価
【ユーザー評価】
投票数合計平均点
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【ユーザーコメント】
投稿者:scissors投稿日:2013-01-15 21:48:52
ほとんどがエロシーンなのにそのエロシーンが嘘臭くって。
クチから精液ドロリとかが嘘臭いのは仕方ないけど、勃起具合や腰の振り方はもうちょっとどうにか。
定役がだいこんすぎるし藤竜也もカッコつけてて性欲に溺れてる感じが無くドラマ的にもイマイチ。
脚本からしてチープで結局、話題性で作られた映画だったんだろうなとしか思えず。
投稿者:seisakuiinkai投稿日:2012-10-23 05:03:08
撮るの大変だったんだろうなと思う。色々言われているもののあまりいやらしさは感じなかった。www.seisakuiinkai.com
投稿者:Bill McCreary投稿日:2012-08-01 22:15:54
この映画で個人的に一番エッチに感じたのは、吉蔵と定が結婚式のまねごとをしているシーンで初めてしまし、松田英子(瑛子)の表情がだんだん変化していくところです。これはものすごく感じました。

それにしてもこの映画を撮影した大映京都撮影所もとっくの昔に取り壊されています。スタジオでの映画撮影の醍醐味を感じさせてくれる作品だったんですが、なかなか難しいですね。

なお、拙ブログで藤竜也が2000年に応じたインタビューを採録していますので、興味をお持ちの方はお読みになってください。松田さんのインタビューもあれば採録したいのですが…。

http://blog.goo.ne.jp/mccreary/e/d076f719f2a62504a8509aebd61cbf5ehttp://blog.goo.ne.jp/mccreary
投稿者:こじか投稿日:2010-05-20 02:17:16
肌のような温い匂いが漂う作品。
いま観たら全然違って見えそう(ワクワク)。
ハードコアな話題が一人歩きしているふしはもったいないです。
投稿者:黒津 明二郎投稿日:2009-08-22 16:36:44
大島のハードコアポルノで、公開当時は騒然となったが今見直してみると案外オーソドックスな感じであり、特に大島らしさは感じられない。
馴染みのない伝統的な‘遊び‘の文化を随所に取り入れ、戸田の見事なセットと相まって粋な感じでよろしい。
しかし、いかんせんヒロイン松田嬢が・・・ルックスはよくいえばリアルということになろうがやはり微妙だし、棒読みの演技には閉口させられた。藤の遊び人が素晴らしかっただけに惜しい。確かに‘本番‘をやる女優選びに難儀したのかもしれないが、本作は大部分役者に頼った作品なわけだから、何とかして欲しかったね。脇では、殿山が相変わらずの怪演(笑)
投稿者:uptail投稿日:2009-05-22 14:38:25
藤竜也
投稿者:ファルド投稿日:2008-05-16 22:56:25
濃くてねちこい映画だなーと思った。飽き性の俺には濃過ぎ。人それぞれ性癖があるワケで、ここに描かれる性愛が究極の愛とは言えないと思う。ただ、こういう愛の形もあって然りでしょうね。それと、どちらかと言えば、女性からの視点、情念、怨念に重点を置いて描かれていると思います。単なる個人的な趣味で言えば、松田暎子に魅力を感じないので、絶倫じゃなく、飽き性でもある俺の場合、勃たなくなるか、勃っても中折れ間違いなし。よってあんなに続けてヤるのは絶対無理ですね。あと、68歳のバアサンとヤるのも不可能です。要は、アレは好きだけど、弱いと言える(笑)。
投稿者:ヴォーゲル投稿日:2006-12-02 12:46:27
【ネタバレ注意】


初めて見たのは83年ぐらいだったか、女性二人と劇場で一緒で見た後、色々と話したが性別、文化、言葉の違いでうまく噛みあわなかったようだった。 確かに自分自身30をちょっと越したくらいで、人生経験も少ない若造では感覚のめくるめく世界に幻惑されて、まさに感覚の帝国に占領されていたわけだ。 その時代に日本文化を表象の帝国と読んだ外国人哲学者がいたようにタイトルは「感覚の帝国」がふさわしい。 感覚が我々を導き、その帝国の中で愛が生成する、かどうかを我々に問う。 その挙句が破壊か成就か、篠田の「心中天網島」と合わせて論じると面白いだろう。実際共通点も多いし際立って相違するところも多く、二作とも70年代を代表する大作であるのだが、この大島の映画は性描写か、性器の露出かのつまらない理由から日本では痛ましいほど切り刻まれ、傷を得て、かえってポルノまがいになった、と仄聞する。 

なるほど演者の男根、女陰がさまざまに交錯して我々に性の祭宴をみせることに対する管理者の態度は、映画の中での貴重な、今となっては少数の政治権力者のあいだでしか見られないような待合文化を独占するか何かに怯えるのか、隔離、独占しようとするかにみえて、これは江戸時代の権力者のと同じ穴の狢である。

20年前の記憶を辿ってみて印象的だったのは冒頭の殿山泰治が定を訪ねるシーンと、後半、藤が68歳の老芸者とからみむ場面で、これらからの記憶からの印象は、我々は色(五蘊)からどのように自由になれるか、ということだった。 殿山には定はまさに観音であり、殿山は観音を拝み浄土へ導かれるかどうかはここでは回答されていなく、又、この観音が後に夜叉にかわるのか果たしてそれは夜叉なのか。 それに相対する藤の態度がいきがかりの道行きなのかそれともほかの何なのかそれが一番興味があるところだ。 粋な文化を体現しているのだが倦怠を匂わせてさえもいない藤の、当初より定に拮抗していく上で唯一のかげりは若さへの怯えだと想像した。 帝国を構築する礎である肉体の有限性なのだろう。 何が藤をそこに導いたのかはここには回答が明確には出されていないようだし、この種の帝国の中核には行き合わせる機会も袖も摺りあうことのなかったなかったものにはただ視覚を凝らすだけだ。 

五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)を映像で表現しようとの試みはここでは視覚と聴覚を通して表される。 味覚、臭覚は普通は食文化に現れるがここでは鰻料理屋の主人である藤の料理屋の食材、酒食はあらわれるにしても鰻の焼ける香ばしくも甘いものは示唆されず、それはもっぱらわれわれの存在の根幹に響く性の味覚、嗅覚を刺激するものだけであり、密室では別として普通は煙たがられる存在のものだ。バブルがはじける前、80年代には日本でも繁く謳歌されたこともあると仄聞する、しばしば品がないと眉をひそめられる放埓ぶりでもあったのだが、この主人公たちにはこの帝国に忠実であり上品なまでの姿で、とりわけこの態度が、二人が籠る爛れたまでの部屋に顔を出す女中たちとのやりとりに大島の世間に対する関係が隠喩されれているようだ。

時代性、社会、政治性は大島には切っても切れないものではあるがここではただ一点、1936年、2.26事件の同年の事件を扱ったこの映画で、町屋を行進する軍隊の隊列と反対方向からこちらへ着流しで歩いてくる藤の姿の数秒のカットで現しただけで着流しの粋な姿がカーキ色の軍服に拮抗しようとしているように見えたのだが、そういう見方も安直な穿った卑しい見方であると「感覚の帝国」の番人から詰問されそうで一瞬周りを見回しそうになるのだった。

投稿者:魚篭投稿日:2006-07-09 02:06:15
【ネタバレ注意】

例によってアメリカで観た。この映画が製作過程とその主題についてそれまで
にはない注目を集めたが、その時代を知らない者は、見る前からどれだけ話題
になったことか実感するのはむずかしいだろう。フランスでオリジナルプリン
トを作りそのまま公開し、爆発的人気を呼んだ。日本では「ぼかし」入りしか
見られないから、「愛のコリーダ・フランスツアー」まで出てきた。その当時
の時代感覚で見れば確かにただならぬ映画であったことでしょう。「猥褻がな
ぜ悪い!」と絶叫した大島渚のエネルギーがそのまま感じられたことでしょう。
では、これは猥褻を謳歌した映画なのかといえば、頭に血がのぼりすぎた早と
ちりというものだ。となると、この映画の訴えるものは美的悦楽に類したもの
と考えてもよさそうだが、そうでもない。フランス人が余裕の笑いを見せるほ
ど、下半身の描写は遠慮気味だし、お初の芸子や太鼓もちの芸の方が変に目立
ってしまい、退廃的情緒に包まれた不思議な気分になるが、それまでの大島作
品にあったようなエロティシズムとはどこか違うと感じた。唯一大島らしいの
はその編集で、吉が陸軍兵一隊とすれ違う場面だ。吉の進む方向をあの短いカ
ットでうまく表現したと感じた。それと、下半身をあらわにして土手を疾走す
る吉もいい。今ひとつ違和感を覚えるのは、定の気持ちである。この女の意志
があるのかどうか疑いたくなる透明感はどうしたものか。あるシナリオ作家が
定が吉を締め、局部を切り落としたのは「恨み」である、言っていたが、そん
な様子はサッパリないし、究極の愛の形だと興奮気味の批評も説得力を欠く。
ちょっとわかりにくい愛の表現だ。クラリスをストイックに愛すがあまり、自
分の腕をちょん切るレクターのほうがはっきりしている。首をしめてギリギリ
の線で保っているのは、公開当時「究極の快感」として紹介されたが、これを
秘密クラブあたりで実行している方々にはその真価を正確にとらえておられる
ことと思う。ただ、局部を切り落とされては元も子もない。せいぜいピアスで
穴をあけてもらう程度に抑えるべきであろう。いずれにしても、この映画には
クラブ的要素もないのである。大島自身、これ以後仕切りなおしたようで、そ
れはよく理解できた。

投稿者:さち投稿日:2006-03-06 10:36:14
よかった
投稿者:篭瀬山投稿日:2005-04-24 12:07:47
 この映画の感想を一言で言うなら、嘘がないということに尽きる。

 むろん映画であるから、まったく虚構を用いてないということはないだろうが、一般の映画のレベルと比べ、ないと言っていいくらい少ない。定(さだ)のように、性に関して抵抗感のない女もいただろうな、と思えるし、吉のように精力絶倫な男もいただろう。この二人が、出会い、やがて快楽の虜となり、一方はより快楽に貪欲になり、もう一方は女への支配欲から解放されて、奉仕の奴隷と化していく。その一つ一つの過程が、それぞれ腑に落ちるよう描かれて、ああ、実際こうだったんだろうな、こういうことってあり得るんだな、という想いに至る。私にとってこれは芸術と呼んでいい作品だ。ちょうど、男女が出会い、互いに感情を確かめ合いながら、愛の高みに昇り詰めていくという、恋愛物語と同じ構造を持っている。ラストで悲劇を迎えるところも一緒だ。

 もともと私は、ちょっとした目配せや、会話の端々から物語が進行していく作品が好きなのだ。そういう映画って(何故か知らんが)たいてい映像も綺麗。その意味でもこの作品は私好みの作品だった。大島渚って系統だって見たことないけど、いつの時点でこういう瑞々しい映像表現を獲得したんだろう。他では見たことのない美しさだった。観客の勝手な要望を言わせてもらえば、昭和11年(10年だっけ?)を舞台にもっと作品を撮ってほしかったな。8

 追記)厳密な意味で大島渚の『愛のコリーダ』を見たとは言えない。映倫てのは百害あって一利なしだな。R−18とかに指定しときゃいいだけじゃねえか。今作品ほどボカシの愚かしさを感じさせられたことはない。日本人が撮った名作を、当の日本人が毀損する情けなさ。ボカシは今すぐ廃止せよ。
投稿者:ぶくろう投稿日:2005-04-09 14:04:31
けっこう忠実なエロをやっている。あと美術がいい。
投稿者:tommy-777投稿日:2004-12-16 18:35:43
すごいものが描かれていると思った。

互いの輪郭が消失するまでの、あまりに激しい性愛。

定と吉蔵のふたりの前に広がる寂寞とした地平。

誰かを心から愛したことのある者だけが辿り着くことのできる地平。

愛する人を求めて求めて、しかし最後に見つけるのは、
砂漠のような何も無い地平にただひとり立つ自分なのかも知れない。


そして、そういう全てを象徴するかのような、最後の、
定が死んだ吉蔵の隣で見た夢と、
定が飛び起きて、呆然とするシーンが胸に焼きついている。
投稿者:安静投稿日:2004-07-18 01:32:14
手を変え品を変えよくも飽きずにやってられるもんだなあと物語世界に単純に感心してしまったりするのですが。
それよりも超絶倫の藤竜也…いや、きっつぁんがものすごい優しいというか気弱というか優柔不断というか。ジェンダー的な男性性がまるでないですね。

いわゆる”去勢された”男性なわけですが、なかなかアンビバレントで面白い。最終的に文字通り彼は去勢される形になるわけですが、これはこれで単純なトートロジーが成立するわけでもないと思うんですね。実際に吉蔵の去勢が行われるのは彼の死後ですが、彼の死により”去勢された”さだがそれをすることで性器はさだに転化される、あるいは永遠化されるという形になるので。

あまり映画のジェンダー論は得意ではないので詳しく述べることができませんが、さだのアクションの激しさについ彼女が際立って吉蔵の心情などの印象が薄くなってしまいますが、そういう吉蔵の”去勢”にまつわる部分に注目するべきだったなと思いました。
投稿者:ASH投稿日:2003-05-24 16:37:22
【ネタバレ注意】

 当時隆盛を極めていた日活ロマンポルノに触発されて大島渚監督はこの映画を撮ったのだろうか?日活には本番はなかったが、こちらには性器のドUPも本番もあるところが、さすが大島渚。でも、単純にハードコア映画を期待する向きには向かない映画だ。もっとも、凡百のポルノ映画と一緒に論じるのは大島監督に失礼かも。

 何故なら、大島監督が撮りたかったのは究極の性愛の形なんだろうから。で、この映画は無粋なボカシに彩られた国内版よりも海外版を鑑賞した方がいいわな。

 アソコから卵を取り出すシーンが衝撃(笑撃)的!!

投稿者:ゆきぼー投稿日:2001-10-12 16:20:19
観ながらだんだん飽きて来て眠くなった。
投稿者:ハラ軍曹投稿日:2001-09-11 03:56:06
うーーーん。わからん!というか僕には少しハードすぎたかな。まあこの作品ソフトにしても意味ないが・・・。最後のほうはあまりの生々しさに見ている自分のからだがゾクゾクしてきて、なんか気持ち悪くなった。わかんないなーと言いつつ真剣に見てたからなぁ。ここまで俺を気持ち悪くさせるこの作品の力は、凄いわ。
投稿者:ひゅー投稿日:2001-04-20 23:22:44
どこまでも求める定といつまでも答える吉っつぁん。
愛とはこれ セックスとはこれ。
愛しているから離したくない、そんな恋愛。
投稿者:タケキチ投稿日:2001-01-29 02:10:17
本来「恋愛ドラマ」って、こんなにも激しくて汚くて恐ろしくて、しかも痛々しいもんなんだよなあ。ハリウッド製の口当たりの良い「ラブストーリー」が、如何に
嘘つきで偽善に満ちてるか、この映画を見ると痛感させられます。
いや、ハリウッドだけじゃない。多分これまで作られたどんな映画も、この映画で
示してくれた究極の真実には及んでいない。
そう、愛の真実とは何か。それは藤竜也の果てしない「勃起力」なのだ。
投稿者:うらら投稿日:2000-12-26 11:40:34
もともとの大幅修正版を観たときは、修正が過ぎて何をやってんだかさっぱりわからなかったし、映画自体も何が言いたいのかよくわかんないまま、終わっちゃった感があった。でも、この「愛のコリーダ2000」を観て、はじめて何を言わんとしているのか理解できた。これが究極の男と女の愛の行きつく果てである。
どんな女性も、程度の差こそあれ、定の気持ちが理解できるんじゃないかなぁ。
それにしても、未修正度合いに驚き!日本も変わったもんだ。
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